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古代史の資料集です。
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http://blog.naver.com/serra30/150005330653


新羅国王の皇帝的地位




新羅国王の皇帝的位相キム・チャンギョム(新羅史学(私学)会会長,韓国精神文化研究院)高句麗歴史の中国編入問題が深刻な問題で登場した。 しかし私たちは高句麗問題だけでなく近い将来新羅までも確信できない立場だ。 渤海と新羅は唐に朝貢を捧げた事実があるためだ。 これに新羅が諸侯国でない中国天子と対等な皇帝国で堂々とした自主国家であることを明らかにして,これから予想される我が国歴史わい曲問題に対応しようと思う。

伝統時代王朝国家は皇帝国なのか諸侯国かにより権力構造の枠組みと形式が違って最高統治者の対外的地位と国家の威力も違う。 伝統時代の東アジアから中国に近接した国々は中国に向かっては蕃国で国内からは独立の二重体制を取った。

これは中国に対して対面上譲歩しなければ討伐にあう危険があって,国内からは絶対尊厳でなければ君主として地位を保存できないためだ。 天子概念は称帝建元?神聖族観念と一緒に祖?宗’と共に私?性状?聖王?太王?大王?殿下(電荷)(帝?聖上?聖王?太王?大王?陛下)および太后?後?太子?節日?提訴(太后?后?太子?節日?制詔)の用語を使った。

??三国遺事??エ ヒョク去勢の誕生を“今天子已降”(金天子規律)で,第2代南海王朝では南海・ノレ・口実にして(南海・弩礼・脱解) 3王を“三皇”(三皇)で表現した。 ヒョク去勢はまさに天子とかその息子は皇帝が当然だったためだ。 21大王素地(所持)麻立干も国民らは万乗の地位の天子で認識したことが確認される。

素地(所持)麻立干が今の慶北(キョンブク)奉化(ホンファ)地域に出て行った時,ある土豪勢力家がシルクに食べ物を包んで与えた。 そのシルク風呂敷の中には食べ物代わりに年齢に充ちた美しい少女が入っていて,これを異常に,ここは王は断った。 宮に戻った王は考えるほどその少女が思い出されて,何回平服に着替えてこっそりと行ってきて少女は妊娠になった。

ある日コ・タで(安東(アンドン))である老婆に会った王は自身の評を調べてみるために暗にこの頃,国の王はある(どんな)人かと尋ねた。 その老婆は“世の中の人々は成人であがめているけれど私が分かることでは成人でない。 成人ならばどうして平民の服を着てひっそりとひとの家を出入りするのか? 賃金は慢性の地位にある方法,今の王はあたかもヨンイ魚服を着ているようなものだ。”といった。 慢性の地位という(のは)皇帝を言って万歳(万世)を受ける地位だ。 諸侯国の王は千歳しか受けることができないためだ。

??三国遺事?? クォン1,奇異2編(便)に智哲老王の夫人を‘皇后’(皇后)で封じたという記録がある。 皇后はまもなく皇帝の夫人だ。 皇帝の情実妻を后といってその他は妃といって諸侯の情実妻は妃,その以外は嬪といった。 紙症(証)王の配偶者が皇后称号を受けることは紙症(証)王が皇帝であることを意味する。

同じ??三国遺事?? ト化女雨型ラン組では真平王を“?雍(群雄すなわち天子)”で表記して黄龍寺(ファンニョンサ)9階塔組には文殊菩薩が中国に留学来た新羅の慈蔵律師に新羅は‘不同東夷共工(野蛮共工)之族’(不同東夷公共(野蛮公共)知足)と話をしたという記録がある。 ここで共工は本来尭舜時代の胸幅ある野蛮族で新羅人は‘東夷野蛮族’とは同じでないという意味として新羅の読者世界観を見せる。

真興王巡幸碑で真興王,太王は皇帝的地位を持った三国の太王だ。 王を称している新羅の行く文王の存在も王中王の太王体制だ。 特に太王の存在を明示した新羅のマ・ウン令(領)真興王巡幸碑には‘帝王’という称号が見えて朕でも巡狩のような皇帝的用語が使われた。 真平王も新羅三宝の一つの天賜玉帯を聖帝帯といったことは真平王地位を帝王で見たことだ。 したがって太王と皇帝は地位が互いに連結する呼称であることが確認される。

君主は『三国史記』によれば新羅法興王対から真徳女王対まで建元? 開国?泰昌? 弘済? 建福?仁平?太和(ゴンウォン?開局?Techang?弘済(ホンジェ)?乾しアワビ?インピョン,泰化)という固有の独自的連呼を使った。 独自の連呼使用は新羅が独自の天下観を持っている国を意味する。 王位を繋ぐ息子の称号も皇帝国では太子といって諸侯国では世子というのに新羅は王位継承者を概して‘(王)太子’といった。 真興王が556年3月王子動輪(銅輪)を継承者で太子に冊封した。 たとえ皇太子といいはしなかったが天子国の新羅王太子は同じ意味だ。

道教での最高神,天皇大帝は紫宮で四方を制御するという。 真興王が皇龍寺席にたてようとした新宮名前を子宮といったし真興王巡幸碑および昌寧(チャンニョン)費に真興王が四方軍主を同行したり四海を統治する帝と設定されていることも真興太王が空で地上(紙上)で降臨した独自の天下観であったのを意味する。 また北漢山(プッカンサン)秘封とマ・ウン令(領),黄草嶺(ファンチョリョン)など高い山頂に雨をたてた。

これを今までは領土を確認した巡幸碑や拓境碑で理解したがそれよりは真興王が頂上を上がって,空に法事を行って自身が天子的存在であることを表わした封禅の記念物だと見ることがより明確なようだ。 また善徳女王を“聖祖皇姑(成鳥ファン高)”と尊崇したことまた道教的な意味を持ったことで新羅中古期太王の地位は帝王に該当する中国皇帝に対応する呼称だった。 ??三国遺事?? 王暦でも脱解王をはじめとして,未鄒王,真摯(陣地)王,善徳女王の死を崩といった(諸侯は‘薨’)

新羅は三国末期に入り込んで,独自の連呼使用をあきらめて党の連呼と服色を受け入れた。 かと言って新羅が固有の伝統的な皇帝観をあきらめたことではなかった。 重大の新羅国王は聖徳大王神鐘銘の“尋之帝郷始制鼓延”芯祭事市(詩)向上研)と高仙寺誓幢和尚塔碑銘(高仙寺(コソンサ)傾動画像塔碑名)の“長辞帝闕”(チャンサジェグォル)と同じ句の‘帝’寝る新羅の王者を意味すると見ることもできるように天下を治める皇帝であり支配層の自主的世界観の跡だ。

蘇定方に対する海苔降神(金〓信)の独立的で自主的な態度やはり新羅本位の天下観と関係がなくはない。 ??三国史記?? キム・ユシン列伝(熱戦)中にはソ・ジョンバンが新羅で追われて行って王の前で(早い)達することを“新羅は人君が善良で民を愛して,その臣下は忠誠で国を仕えて下の人々が上の人を仕えることを父兄と一緒にすると,たとえ国は小さいけれど企てることはできない”とした。 ??三国遺事?? 太宗春秋共助で当代人が新羅を“聖代”といったことは新羅を理想国家で称したことを意味する。

そして太宗武烈王の太宗という諡号は皇帝の諡号であった。 この時党でこの諡号を廃止しろとの圧力を加えたが,新羅はこれに屈しなかった。 ファン複写金銅舎利箱明文(名門)で酵素王のお母さんを‘神穆太后’と表現した。 そして自ら朕といったし死を崩といった。 太宗武烈王,キム春秋とキム・ユシンを三韓一統の英雄で描写して,ナ党戦争で自主性を強化して土着社会の天神思想の限界を克服して留学の天子観念や天命思想で王権の前提化に成功した。

新羅の統一を”六合の併呑“これとある句が見えるのに,ここで六という(のは)天地と四方,すなわち天下を意味して天下を合わせたという意味だ。 新羅中心の防衛は唐とインドの天竺を互いに,渤海を北で,日本を南へ見た。
新羅中心思想は統一後685年(神文王5)中国禹国皇帝が作った天子国の地方(脂肪)制度を真似して,三国の過去の土地に各々3週ずつ設置して,全国を九州で分けた。

そして吐含山(トハムサン)をドンアク,智異山(チリサン)を男楽,鶏龍山(ケリョンサン)を西楽,太白山(テベクサン)を北岳(プガク),八公山(パルゴンサン)を中悪といって,五岳を象徴した。 五小京は新羅領土を小天下で見たものであり東京と共に中原京?西原京?南原京?北原京で新羅の王が中央で地域的?種族的に天下を支配すると上程(想定)した天下思想だ。

こういう中央の皇帝,新羅国王は周辺国を諸侯国に封じた。 耽羅国を属国で朝貢を受けたし高句麗の貴族出身安勝を高句麗王(後に報徳国王)で冊封して表文を受けたし大祚栄が渤海を建国するや彼を大牙差は(大阿?)エ冊封することによって耽羅と報徳国と渤海を蕃国で設定してその親分を諸侯に任命した。

そして黄龍寺(ファンニョンサ)9階塔の建設は1階を日本に2階を中華,3階呉越,4階托羅,5階鷹遊,6階靺鞨,7階丹国,8階女狄,9階芸脈(〓貊)等周辺国家と勢力に対応させて,これら九韓を新羅の朝貢国で認識したことが分かって“九韓来朝”(旧ハン・レジョ)の表現は周辺国らよりは優れた立場での新羅中心思想を持とうと思った意識の表出だった。

新羅人らの世界認識もまた686年にたてた清州(チョンジュ),雲泉洞(ウンチョンドン),新羅寺跡碑で‘四海’と‘万邦’として,賃金のおかげを称賛したところで確認される。 735年(成徳王34)に日本に行ったキム・サンジョン( )は新羅を‘王城国’(旺盛国)で宗主国の使節であることを自任したように6?7世紀新羅の人々は新羅を天下の中心になる仏国土ながらも君子国として勇猛果敢な忠臣の国家観?世界観を持った。

冷遇新羅の初めての王の元聖王も皇帝称号を使うようだ。 ‘元聖王’という諡号は聖王中でも一番上になる始祖聖王を意味したことで新羅冷遇の新しい五廟制で彼を始祖(詩)太祖大王と共に別に迎えたことでも知ることが出来る。 そして?スンボクサビ?エソ‘優れた賃金’を意味する“聖祖”と手柄が大きい先に祖,特に開国の基業を磨いた帝王’を意味する‘烈祖’と表現されて尊崇されたためだ。

??三国史記??エは新羅時代君主の諡号を直接皇帝と指し示した記録はない。 特に??三国史記??エは儒教的慕華思想に重点を置いて,党の制度と文化を模倣して,私たちの固有の制度?習俗?言語を廃棄埋没させた。 統一新羅以後すべての政治制度が中国式模倣の漢化主義を取って,より一層そうである。 それにもかかわらず,新羅に皇帝で指摘された君主がいたことを察することができるような項目がいろいろな所にある。
当代に作成された金石文は後代に編纂された文献記録の表記より一層事実に近い。

758年(天歩景徳王17)建設された?葛項寺(カランサ)石塔期?エは怨念の声王を“敬信大王”(更新大王),彼のお母さんを“照文皇太后”(弔問王太后)で表記して元聖大王?憲徳大王?興徳大王?敏哀大王?文聖大王?警句大王(慶膺大王ムンソン王)?景文大王?定康大王?献康大王?真聖大王?孝恭大王だと表記することは当時金石文には当代の様相と事故(思考)がそのまま反映された表記なので怨念の声王材委市(詩)皇帝地位の有無は信憑性が強い。

890年(真聖女王4)建設された?月光寺円朗禅師塔碑?(ウォルグァンサウォンナンソンサタッピ)にも経文王を‘皇王’(ファン王)で表現している。 ファン王という(のは)皇帝や天帝でここは皇帝と王の複合語で見る。
古い元気満々時の?宝林寺補助船会社(善事,プレゼント)塔碑?きて,政治綱領王時の?士林社紅殻船会社(善事,プレゼント)費?,崔致遠の?上宰国戚大臣等奉為献康大王結華厳経社願文?(上帝国威大臣等ボン違憲強大王きめ華厳経社員文(門))と同じように古い元気満々を聖上で表現した。

性状は聖王と同じ話として至徳を具備した立派な天子と帝王に対する敬称だ。 彼らの配偶者もまた皇后と表記したのも多い。 ?開仙寺石燈記?(改善私席登記)には‘文懿皇后’(ムンヒ皇后)と,??三国遺事?? 王暦に第44代ミン子王妃を‘无容皇后’善用皇后)と第48代経文王妃を‘文資皇后’(文字皇后)といった。 これは新羅の王侯が王妃より格が高い地位で皇后の夫は皇帝で指摘されたことを確認することができる。

王の長子はもちろん次子,はなはだしくは同母弟と姪までも太子で冊封した。 太子制度を調べる時,新羅冷遇は制度的に皇帝国であり,王位の適正者?金持ち継承を理想とする副継親継承で王統を維持した。 当時国際関係上日本でも認めていた。

??新撰姓氏録??(新鮮姓氏録)によれば宇努連の姓氏はその先祖が新羅皇子金庭興だと記録されていてキム・チョンフンに対してはこれ以上関連記録が見られないが,8世紀後半以後渡来系氏族らが自身の先祖を王族でする派閥を作る時,当時日本人たちは新羅の王族を皇族で認識していた。

そうして新羅から渡ってきた新羅王族の成人キム氏を使った金庭興を皇族の息子を意味する‘皇子’で表記したのがつくす方王の死と葬儀を崩と因山,命令を詔?勅で表現して,皇帝を象徴する特殊用語が使われたし,種苗制ですら実際は天子7墓祭だったことを確認した。

一方新羅冷遇にも封爵制による諸侯制度を施行した。 その例で怨念の声王2年に自身の即位時競争者であった金周元を溟州郡王に冊封したのを上げられる。 キム・ジュウォンは絹織物(銘酒)に性を築造して‘長安’という自らの治所を整えて絹織物(銘酒)(郡)国という(のは)国号を使った。

新羅冷遇王たちが直接独自の連呼を使ったという記録は探すことはできない。 当時新羅人らが独自的連呼に対する認識はあったが,中国との外交で礼儀上使用を避けたり,または高句麗に独自の連呼があったのに??三国史記??エソ見られないように編纂者らによって,記録の脱落が成り立ったかも知れない。

王位を占めた王系は王統の独占的維持のためで同一家系内で近親婚を行って,王統の血族範囲を狭小化させたし,王家の孤立化を招いた。 王位継承で骨品制が生命力を持ったことは真聖女王が最後であるようだ。 以後三国争覇期に後百済の甄萱と考慮の王建が互いにやりとりした書信でも新羅王室を中心体系で認識する尊王意識が現れている。

当時新羅が制度的には皇帝国体制であり外形的に最高統治者が皇帝地位を持ったとは言うけれど,実際は冷遇初めを除いては頻繁な王位争奪戦で中央と地方の勢力争いが激しくて,経済と文化が破綻して,王朝の滅亡を持ってきた。 そして統一新羅に存在した皇帝?皇族的地位と独自の国際秩序を上程(想定)した天下観は考慮王朝につながった。



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