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古代史の資料集です。
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①この地域の過去の指名考察が老姑城を現地調査して,こちら指名で古くなった私たちの過去の記録上の指名と似ていたのを発見した。 三国史記百済温祖王36年8月組に“円山,クムヒョン(錦〓)の二省を修理して古沙夫里城を積んだ。”という記録がある。

ここに登場する円山城を龍宮地方(脂肪)のタビソンすなわち龍飛山城で見てクムヒョン性を醴泉郡(イェチョングン),龍門面(ヨンムンミョン),金谷洞(クムゴットン)にある金堂室星すなわち上乙谷城で仮定すれば古沙夫里城はサブレイにある労苦性ではないかという疑問がおこる。

この労苦性がある村名前がサブレイラしながら内省(耐性)がある頭を沙夫嶺,師父令(領)向こう側の醴泉(イェチョン)側同名が沙夫里であり,サクチバシと接した上里面(サンリミョン)の同名が沙谷里だ。 遠い昔からこの地域の指名がサブレイ,師父令(領),サクチバシと呼ばれた由来がこちらの成果関連になったことで推測をしてみるならば想像の飛躍なのかは分からないけれど多くの疑問が残す指名といえる。

そして百済は草稿王25年(178)に新羅の西側円山郷を攻撃して,それから20年後の210年に“チョクヒョン(赤〓),沙道の二城を築いて東部の民を移して生きるようにした。 10月に靺鞨がきて沙道城を攻撃して勝てないと声紋(城門)を燃やして逃亡した。

”したし,“口受王3年(216) 8月に靺鞨がきて,チョクヒョン性を包囲するので城主(星州)が堅く防ぐと多少退くや王がすばしこい軍事8百人を率いて後を追って沙道城の下で戦って破って敵兵を非常にたくさん殺した。”したし“翌年の4年2月に二冊をSadosungのそばに設置するものの同,での通り(距離)が10里位なるようにしてチョクヒョン性の兵力を分けて守るようにした。”としたのが見える。

私たちはここでチョクヒョン性とSadosungの正確な位置がどこなのかが分からない。 私たちの東魯面(トンノミョン)ポルチェジェがチョクヒョン性がアニゲンヌがする。 ポルチェジェをチョクヒョン性で見るならばSadosungが労苦性だと見ることができる。 固辞(考査,告辞,枯死)クチバシ性とSadosungを同じ性で仮定するならばチョクヒョン性とSadosungの距離(通り)は20里に過ぎないので軍事を分けて,駐留させやすくてお互い間の連係が容易だ。

凍露の適性で丹陽(タニャン)の適性に行くことができるヒョン(〓)がポルチェジェイミョ労苦性がある地域の凍露側名前が‘サブレイ’,醴泉(イェチョン)側名前がサクチバシ,商利側名前が沙谷里(サゴンニ),性がある頭が師父令(領)であるからそちら指名と似ているので(に)このように疑問を持つようになった。

上の疑問を解決大切にしては百済がその建国初期にこちらまで進出しただろうと信じることができる記録を探すことができなくて,3世紀初葉まで百済がここを占有したとも推定しにくい。 百済は2世紀後半に新羅の西側橋渡し役円山郷を襲撃するのにこの原産香りを醴泉郡(イェチョングン)龍宮で見るといえば3世紀始めにはチョクヒョン性,Sadosungまでの通り(距離)が30里から40里に過ぎないから現在の龍宮と凍露一員が百済の東側警戒(境界)になりうる。

百済が新羅脱解王7年(63)に娘子谷城を現在の忠州(チュンジュ)地方(大東輿地図によること)で見るといえば忠州(チュンジュ),丹陽(タニャン),清風(チョンプン)と直接連結しているこの凍露地域もまた百済の土ではなかったと断定することもできない。

新羅鳥糞尼師今4年(233) 7月初めに“イチャン于老が倭兵と沙道で戦って,風について火をつけて,時の腹(船,梨)を(焼く)乗せると多少水に落ちて逃げて死んだ。”という記録があることを見るのにこの新羅の使徒は東海岸にあったと見られてこれは百済Sadosungとは違うことが分かる。

そして有利尼師今9年(292)にも倭兵とSadosungで戦った記録がある。 これもまた東海岸が確実だ。 しかし翌年2月初めに見れば“Sadosungを建て直してサ罰酒(沙伐州;現常駐)の裕福な知識人80余号を引越しさせた。”といったがサ罰酒(常駐)の住民を東海岸まで移住させたことか,近いSadosung(凍露)に移住させたことかはよく分からない。

百済陳謝王7年(辰斯王7年:391) 4月に“靺鞨がチョクヒョン性を打って,陥落した”という後ではチョクヒョン性とSadosungに対する記録を探してみることはできない。 翌年392年に高句麗広開土王は百済を攻撃して,10余省を陥落させて,長寿王63年(長寿王63年:475) 9月に百済の漢城(ハンソン)を陥落させて百済の蓋鹵王を捉えて,ア単性(阿旦城:現丹陽(タニャン)迎春)下で殺した。

(凍死(同社,動詞)綱目で)この時に丹陽(タニャン),迎春など竹嶺(チュンニョン)北側は高句麗の土地になったし,長寿王69年(481)には美質部(弥秩夫:今の栄えて)まで進出した。
このような情勢変化でチョクヒョン性とSadosungは歴史記録から消えたことではないかという。

それなら新羅ではいつ頃にこの地域まで進出してきただろうか? 新羅は初め弛緩砂金(沾解尼師今:247~262)時に現常駐地方(脂肪)の沙伐国を合わせる。 新羅がケリムニョンノを開通させて80年後となる。 そして信証東国輿地勝覧霊泉(ヨンチョン)軍(郡)(栄川郡:現永住軍(郡))健歯沿革組に本来高句麗捺已郡なのに新羅派沙王が取ったといったが現永住地方は2世紀初葉にすでに新羅で合わせたと見られる。

新羅素地(所持)麻立干(昭知麻立干:479~500) 22年(500) 9月に王が直接日がクンにお出ました事実があることを参考にするならば永住地方は5世紀末6世紀初めには新羅の領土が確実になる。

法興王12年(525) 2月サ罰酒に軍主を置いたのでこの時期には新羅で現東魯面(トンノミョン),小白(ソペク)山脈以南地域は新羅の領土だったと推測することが無理がないものと見えてために新羅の次の王の真興王(真興王:540~576) 12年には小白(ソペク)山脈を越えて,漢江(ハンガン)に進出,10村を占領できたと推測になる。

以上の提起録を総合してみる時,竹嶺(チュンニョン)付近は5世紀中葉に高句麗の長寿王によって,征服されて新羅素地(所持)王台に新羅の土地で回復したものとみられられて龍宮地方(脂肪)で凍露までがひょっとして4世紀末葉まで百済の土地であったか疑問が残る。 しかし東魯面(トンノミョン)過去の安仁県一員の指名「ポルチェジェ」「サブレイ」「師父令(領)」「サクチバシ」等をもう一度考察してみて研究してみる課題と考えられる。


(10)作成(鵲城)作成は東魯面(トンノミョン)ミョン電離荒荘産(山)麓谷間にあって私たちの故障に伝えられる話では考慮恭愍王10年(1361)にホンゴン敵の侵入を避けてきた時に恭愍王は主屹山(チュフルサン)魚類洞で起居して恭愍王費露国公州(王女)がこの作成で避難したし,恭愍王が鵲将軍に命じて,この城を築くようにしたと伝えられている。

この作成が高麗末期の築城だったと見るにはその築城方法が三国時代新羅築城方法と違ったところがなくて,またこの誠意位置がチョクソンノの北端にあって見方によっては労苦性の前進性であり,漢江(ハンガン)進出の最前方基地(機知)の新羅性と見られる。

増補文献備考クォン17醴泉郡(イェチョングン)官房組には“鵲城は周りが6百10隻で,高さが11隻であり,広さが10両チョック”としたし,東国輿地勝覧では“荒荘産(山)を鵲城山”と醴泉郡(イェチョングン)山川組に記録している。

そして“作成は周りが6百10隻であり,西の方に石文があると高さが11隻,広さが12隻であり,三面が皆岩石だ。”と記録して,過去の醴泉郡(イェチョングン)紙には“作成産(山)はクンで北側75里にあって黄腸禁林で封日が沈んだので周りが40里だ。”した。

東国輿地勝覧でも醴泉郡(イェチョングン)紙では皆荒荘産(山)で呼ばないで作成産(山)だと記録している。
東国輿地勝覧の丹陽(タニャン)現健歯沿革に“本来高句麗の赤山県であり,また赤城だと呼ぶ。

また丹陽(タニャン)現山川組に南川はクンの西側30譜にあるとその根源は慶尚道(キョンサンド),醴泉郡(イェチョングン)作成産(山)から出て,二楽楼前で下津に入る。”とした。 作成という(のは)指名を調べれば現在の東魯面(トンノミョン)所在地を赤城里と呼んで二敵性理から丹陽(タニャン)に渡る嶺を赤城だと呼んでいることを見る時,適性令(領)北側地域一員は三国時代には丹陽(タニャン)(積算ヒョン)に属したのがでない街推定される。 現在の小白(ソペク)山脈ノモにある東魯面(トンノミョン)鳴田里一員は丹陽(タニャン)現地駅だと春が妥当だろう。

鵲城で南側適性(凍露)との距離や北側丹陽(タニャン)適性(ハ方里)との距離が似ているだけでなく,丹陽(タニャン)北側の温達(オンダル)性などと関連させてみる時,作成は赤城嶺を防御して新羅での進入をするための高句麗性である可能性も排除できないと見る。

高句麗は長寿王(長寿王;413~476)対に竹嶺(チュンニョン)を越えて,霊泉(ヨンチョン)(栄川:今の永住),のろし,青松,例中(案)地域までを占めたことはもちろん丹陽(タニャン),提川(チェチョン),清風(チョンプン),忠州(チュンジュ),槐山(クェサン)地域も占めた。 丹陽(タニャン)の過去の名前赤山,赤城は高句麗の指名だ。

それなら鵲城もまた高句麗性である可能性があることができると見られる。 作成はその西の方に湖港令(領)(狐項嶺:女巫モク頭)の関隘と遠くなくて労苦性との距離も20里を越えない。
高句麗勢力がここで南進をするといっても労苦性の要衝を切り開いて行くことは難しかったことであり,作成が新羅の漢江(ハンガン)進出の前衛基地(機知)であった漢江(ハンガン)上流に到達することはなかなかやさしい道に違いない。

これと共に重要な位置にある作成に対しはその築城年代と新羅,高句麗のどちらの築城なのかを明確に,区別するための調査が必要だと考えられる。 作成は荒荘産(山)(1,077.4m)首脳(頂上,正常)までどこに街道水が流れて,数量が豊富で,丹陽(タニャン)の三仙九曲との距離(通り)はもちろん丹陽(タニャン)大岡面一員を見下ろして監製することができる。


①適性リ戦闘と6.25戦闘という(のは)以前や現代にもその武器体系は変わったが包囲して攻撃して撤収してする戦略や戦術は星に変わらなかったと見られる。 特に地形地物などが条件を最大限で利用することは古代前や現代戦において大差ない。 6.25韓国動乱(朝鮮戦争)中中国共産軍の介入で鴨緑江(アムノッカン)まで進出して,全国土の統一が目前に迫る時,中国共産軍が50万の大兵力で介入して,わが国軍と国連軍は撤収作戦をせざるを得なかった。

書いた1951年1月10日頃に忠北(チュンブク)の提川(チェチョン),丹陽(タニャン)地域を占領して竹嶺(チュンニョン)を越えることはできなくなるや赤城路について1951年1月13日美名に東魯面(トンノミョン)適性リに侵入してきた。

この時に我が方は国軍1個大隊と米帝10軍団配下の特殊攻撃対1中隊の兵力で敵軍1師団の兵力と戦うことを満4日間1951年1月16日敵軍が退く時まで激しい攻防戦と国連軍の航空支援を書き取る完全に打撃せん滅すると残り書いた丹陽(タニャン)側で敗走した。

この戦闘で東魯面(トンノミョン)ある青黛院と国民間防衛隊が参戦して,24人が戦死した。 適性リ戦闘での戦果(前科)は敵射殺1,057人(確認),敵浮上(負傷)900人,武器捕獲2,000点余りの大田(テジョン)課であった。 この戦闘で敵はチョクソンノが狭くて,軍需支援が不可能だったし適性リで労苦成果間訟理を通過できないことを知ることになるや後退しなければならなかった。

6.25韓国動乱(朝鮮戦争)中中国共産軍がもしここを突破して,山北面(サンブックミョン)まで進出したと仮定するならば本当にきわどい瞬間だった。 適性リで中国共産軍の南進を最後で阻止できたことは適性リ盆地を囲んでいる険しい小白(ソペク)山脈の地形にあったと見られる。

もし逆らって,1,500年前に高句麗がこの道で侵攻してきたといっても結果は同じだったと推測される。 凍露川について耐火リまでこようとするなら深山峡路を40里以上過ぎるべきなのに果たして可能だったか。 私たちはチョクソンノサンの作成と労苦性の戦略的価値をもう一度考えさせる.


②作成にからまった伝説作成には次のような伝説が私たちの故障に伝えられている。 “1361年紅巾賊が考慮に侵入して,恭愍王はソウルの開京を離れて,伏奏(福州:今の安東(アンドン))で避難して帰っていく道に私たちの故障御留城で相当期間留まったという。

その時にこちら荒荘産(山)に鵲将軍に命じて城を築くようにして露国公州(王女)(魯国公主:恭愍王費)と妃嬪,女官らをこの作成に待避させて留まるようにしては何日に一回ずつこの作成に往来して,避難の道の苦労を慰めて開京が修復されることを待ったという。

伝える俗説には鵲将軍が城を築いたといって作成という。”と伝えられているが果たして当時に鵲氏性を持った将軍がいたのか分からない。 そして鵲城という(のは)名前を持った性が遠くない清風(チョンプン)にもある。

三国史記雑誌地理誌に見れば未詳地にチョクヒョン性(赤〓城)がある。 韓国語ではポルチェソンだ. 犬牙性(犬牙城:個我性)を李丙燾は朝鮮歴史地図書に聞慶(ムンギョン)の西の方に見ているがチョクヒョン性が三国史記地理誌にまさに犬牙城の下に記載したことから見て今日の聞慶(ムンギョン)地方で推定するならばチョクヒョン性(赤〓城:ポルチェソン)を鵲城で見られないだろうか? さらに多い研究と分析が必要だと見る。


(11)災い場性(花庄城)化粧性は山北面(サンブックミョン)耐火リ後方の山砥石ボン(460m)稜線約2.5kmにまたがる土城であり,その中央支店の砥石ボン頂上にいる壮大(将台:指揮所)周囲にだけ東・西・南・北の門を置いて石で積んだ。 石で積んだ高さは同棲が約3m,南北が約2.5mで面積は200坪程度なる。 この中央壮大(指揮所)から東西に約2.5kmの土星が積もっている。

化粧性と労苦性との距離(通り)は約4kmになって誠意築造方法や築造形態は労苦性内省(耐性)と同一だ。 この誠意頂上でまさに見れば作成川について東魯面(トンノミョン)磨光で山北のNolumok頭を回って,耐火リに陥るところと東魯面(トンノミョン)水平でむなしい頭を越えて,終曲リ谷間についてイモンニまで出てくれば直ちに1,2里に陥ることができる。

チョクソンノの昔通った道はむなしい頭終曲-耳目-大河につながるところと水平-インゴク-マ狂-化粧-大河に連結する二道がある。
化粧性でこの二長いだけでなくケリムニョンで鳥項嶺を越えて石鳳里を経て,イモンニに出てくることができるところも監製して防御が容易な地点であり,虎渓面(ホゲミョン)支流で月頭(月〓)で出て来て梨木を通じて,1,2里に出て行くところも一目瞭然に監製,防御が可能な位置にある。

この化粧性で西南側約1km上巨漢甑峰(シルボン)(380m)の上に周り約100mの小さい石聖があったことから見て甑峰(シルボン)の性は化粧本性の外姓で前哨基地としての役割とイモンニに通じるすべての通路を防御したと見られる。

化粧性のイェシルムがなんと呼ばれたのかは今に分からなくて文献にも探すことはできない。 この地域が新羅電気には蘭山県と呼ばれて景徳王の時に安仁県だと改称したという記録を見る時に新羅電気から新羅の領域内にあったと見られるが誠意の名前は探すことはできない。

古山子キム・ジョンホは大東輿地図に今日の東魯面(トンノミョン)水平リ(葛ら)を安仁古県だったと表わしており,それなら旧醴泉郡(イェチョングン)に属した東魯面(トンノミョン)と化粧面一員が安人古県(コヒョン)に属した地域と推定される。

化粧性の築造方式と形態が労苦性の安城(アンソン)と同一なことから見て同じ時代に同じ目的で築造されたことを分かることができる。 私たちはここで上を哭声,労苦性,化粧性の任務と役割をもう一度考察して,見る必要がある。 化粧性もやはりケリムニョンノとチョクソンノを防御するのに最も重要な場所という事実には異論がない。

化粧性だけ抜け出すことになればすぐ買った北平野の広い開放地に進出することになってその南側では防御が可能な関隘や了解紙がなくて,洛東江(ナクトンガン)につくことができるからこの化粧性は最後の阻止線になると見なければならない。 化粧性南側10里地点の過去の近品城があった山陽面(サンヤンミョン)懸里後方の山(240m)に近巌城があるが三面が広い開放地なので防御には問題がある。

化粧性が労苦性の子城だと見る時,労苦性や上を哭声が新羅の漢江(ハンガン)進出の前進基地としての役割をしたとすれば化粧性また同じ役割をしたと見なければならない。 洛東江(ナクトンガン)舟運を利用した軍需物資の調達が最もやさしいところが化粧性だ。

洛東江(ナクトンガン)の舟がつく永順面(ヨンスンミョン)三綱まで通り(距離)がわずか20里で化粧性周囲の耐火,終曲,耳目,大河に数十万坪の農地があって,屯田をするといえば兵糧の自給で何万人の兵力があるにしても兵糧や軍需品の問題はないと見る時,新羅の漢江(ハンガン)進出の前進基地としての役割が可能でする。

化粧性が労苦性の自省だったと見る漸移ここにある。 新羅が真興王11年に漢江(ハンガン)上流の10余省を奪う時にその進撃路がチュンニョンノ,チョクソンノ,ケリムニョンノなどで見るならば化粧性の任務も自明だと見る。 (註)山北面(サンブックミョン)耐火リ素材酸性は過去の文献上酸性名のなくて,筆者が便宜上‘化粧性’とした。


(11)其他城地虎渓面(ホゲミョン)腺癌リ・サンソンの村で浮き雲令(領)(浮雲嶺:庭菲才)周囲が皆昔の城ではないのか住民たちは推測している。 商船の村で浮き雲令(領)を上がろうと過去の寺の跡地をすぎれば今でも山神堂がある。

この山神堂で東側稜線,すなわち山北面(サンブックミョン)ソク鳳梨側で城辺だと今でも呼ばれており,この浮き雲令(領)向こう側には麻城面(マソンミョン)ウェオリでに通じるところと浮き雲令(領)下東には山北面(サンブックミョン)ソク鳳梨石タンゴルに通じる道がある。

浮き雲令(領)で男とソを眺めれば先祖の墓の金烏山(クモサン),プンヤンの飛鳳山(ビボン山)までも明るく眺められる展望するのに良い位置にあって,この浮き雲令(領)ではホ・ケリ方面,ウェオリ方面,ソク鳳梨方面,釜谷里(プゴンニ)と腺癌リなどどこでも行くことができる。

また東には凍露の天主愚か者手で捕えられるよう近く見えて功徳産(山),運がつく酸度近い。 ここに性があったといえば東・西・南・北の遠いだろうまでを観察して防御しなかったかという気がする。 彼ら菲才は別名ペノモサニラ呼んで過去の烽燧行っていた席がある。



私たちの故障の酸性らとその誠意位置および戦略的な価値らを調べた。 私たちの故障は小白(ソペク)山脈が同・北・ソを囲んでいて三国初期には天然の国境になっていた。 そして南北交通の最も重要な要衝地として役割をすることになる。

このような交通上の最も重要な要衝地としての役割は新羅アダルライサグム3年(156) 4月から1900年代初め京釜(キョンブ)線鉄道が開通するまで長々1,800年間を続いてきた。 ケリムニョンノを通した北方先進文化の流入と交流は私たちの故障をムヌァジョンダルロロソ役割を一番最初にするようにしたし,合わせて三国初期にはこのような交通要衝を争奪するための戦闘が続いた故障だったのでその要素毎に酸性が築造されたし,この酸性らは外敵侵入に防御役割をしたと見る。

私たちの故障には比較的平野地帯の永順面(ヨンスンミョン)を除いた全地域に酸性があってこの酸性らは必ず南北交通路の要衝地に包まれている。 ケリムニョンノビョンの魚類性,マ・コソン,叔母性,姑と嫁性は北方勢力の南進阻止のためであることはもちろん新羅の漢江(ハンガン)上流進出に橋頭堡的役割をしたと見て,チョクソンノチョクの作成,労苦性,耐火性,クン癌性もまた同じ役割をしたと見る。

そしてカウン方面のヒヤン酸性,カウン性,天馬山(チョンマサン)性などすべての酸性が新羅,高句麗,百済の国境とかみ合わさって,数多くの戦いが払われたが三国史記の記録中その時の指名を詳しく分からないのが遺憾に思う。

南へ流れる洛東江(ナクトンガン)と北で流れる漢江(ハンガン)の根源が小白(ソペク)山脈を分岐点でするから洛東江(ナクトンガン)で漢江(ハンガン),漢江(ハンガン)で洛東江(ナクトンガン)の最も近い通り(距離)を持ったところが私たちの故障だ。 洛東江(ナクトンガン)のハ風疹船着場で系リップリョンをすぎて,漢江(ハンガン)の漢江(ハンガン)船着場までが歩いてハルッキル,洛東江(ナクトンガン)の三綱船着場でチョクソンノを越えて,丹陽(タニャン)の下津までがまたハルッキルだ.

それなら二強の舟運を連結するところは必然的に聞慶(ムンギョン)を経なければならない。 そして必ず聞慶(ムンギョン)を経てこそ洛東江(ナクトンガン)の東・西方面で分かれて行くことができるので新羅以後にも交通上,戦略上の価値は続いている。

朝鮮朝成宗の時の私たちの故障出身の名臣ホン・グィダル(洪貴達:1438~1504)先生は幽谷駅遷喬亭重修記文でヨンウイ南側60州余りが地域が広くて人が多いが皆が幽谷の道をすぎてこそソウルに行くことができてソウルから南側へ行く人もまたここをすぎて,ようやく散って,自分の行く所を行くことができる。

人に比喩するならばこの駅は嶺南(ヨンナム)ののどといえる。 のどにピョンイナミョン食べ物を食べることができなく食べ物を食べられなければ命を持ちこたえることを願うことができるだろうか。”としたと見るがまた壬辰倭乱が起きた8ヶ月の後の壬辰年(1592) 12月に慶尚道(キョンサンド)巡察使ハン・ヒョスン(韓孝純:1543~1612)が先祖賃金にあげた状啓に言うことを“道内にユ鈍漢多少忍冬,大邱(テグ),青島,密陽(ミリャン),記帳(記章,機長),東莱(トンネ)および咸昌(ハムチャン)から唐橋などに至るまで相変らずユー鈍くなっているのに,当校の書いた左右道義咽喉(咽喉:のど)になる所にあってその勢力がはなはだ致誠するとたとえハルロク道義力をつくしても必ず先にこの敵を稚気で目標をみなします。

病死(兵士)朴晉と虞侯権応銖と密陽(ミリャン)副詞李守一および副将鄭大任などすべての長寿が皆安東(アンドン),醴泉(イェチョン)などの地に集まって経営してのぞいたのがすでに数ヶ月が近かったが多少便利な地点に占拠していてしかも中間に大きい私が遮られて,長寿らが皆難しく思ってまだ一度も攻撃できないので憤慨してきまり悪さに勝つことができなくて精鋭な軍事2千人を選抜して応銖に任せて,機会を見て,夜に襲撃するようにしたし…”と報告しているのを見る時,私たちの故障一代(一帯)がどれくらい重要な交通上,戦略上の要衝であったかを証明している。

過去の人々は全部私たちの故障を人ののど一緒に重要なところで認識して,その重要性をいっている。 だから私たちの地方(脂肪)は多くの戦乱に苦しめられなければならなかったと見る。

古代には新羅と百済,新羅と高句麗,後三国時代には新羅と後百済,考慮との争奪戦が激しかった所であり,高麗中期にはモンゴルとの戦闘,朝鮮朝には壬辰倭乱,そして現代にきて,6.25韓国動乱(朝鮮戦争)に至るまでその多くの戦いらが一度も私たちの地方(脂肪)をかすめて行かないのがなかったので真に重要な戦略上の要旨に間違いない。

過去の聞慶県誌には壬辰倭乱後数年間に県内に住民がなかったといったことから見てその時の被害がどれくらい激しかったのかをいっている。 たとえば三国時代にケリムニョンノ,朝鮮時代にチョリョンノが私たちの地域になかったと仮定するならばその多くの戦乱の直接的な被害をこうむれないこともあるだろうと見るためだ。

筆者は2年の間にかけて,私たちの地域内の酸性らを直接現地調査してその資料らを収合するのに自らの努力をしたが資料の不足はもちろん筆者自身の能力不足で不十分な点が多さを惜しんで終わりにすることになることが恥ずかしい。








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①叔母酸性とクァンガプチョンゴリョテジョ10年(927) 9月(新羅敬愛王4年9月)にキョン・フォンがクン品性(近品城:今の山羊)を打って奪って,新羅のソウルに肉迫すると新羅王は高麗太祖に救援(旧怨)を求めた。 高麗太祖はイ・チョンを受けて,時間を計算してみると歩兵では追いつくことができないと思い精騎5千で追いつくための進軍を始めたが叔母酸性に達して,進軍しようと思うと進む道がない。

秋雨はどしゃ降りのようにおりて道はなくて止む得なく叔母酸性で一夜を過ごした。 夜明けに起きて外を出てみると川の水は洪水が負けて,ごうごうと流れて前には切り立った絶壁だと進退両難の境遇で前を眺めるとウサギ一匹が現れて,岩絶壁を横切っていくのが見えた。 それを見ると同時に即軍卒を命じて“ウサギが行くのに言葉が行けない。

道をつけろ。”した。 軍卒らがウサギが過ぎ去った道に従って道をつけて,この険しい道を通過したといって今でもウサギ不正(兎遷)だと呼ぶ。 昔にソウルを行き来する道手らはこの道をクァンガプチャンも(串岬桟道:クァン甲衣はしご長さという意味)として,一番上険しい道に選んだ。
史家ソ・ゴジョン(四佳徐居正)は串岬桟道という詩で

②叔母酸性の収縮と戦闘叔母酸性の最初築城年代は今は確実でないが三国時代初期の酸性であることに間違いない。 酸性周辺で出土する土器を見る時に三国時代初期の築城と断定することができる。 しかし長い間の歳月が流れる間新羅と考慮を通じて,叔母酸性収縮期録は探してみることができなく朝鮮朝英祖35年己卯年(1759)に叔母酸性収縮のためにムン・ギョンヒョンで対米(大米:米) 8百29席12頭9合3社を与えたという記録が聞慶(ムンギョン)現地(影照本)に記載されている。

この己卯年は李麟佐の反乱があって21年後となる。 イ寅坐は聞慶(ムンギョン)松面に隠居して老論政権を打倒するために鄭希亮などと1728年に反乱を起こして敗れて,処刑された。
最も最近の収縮は高宗(コジョン)30年戒師年(1893)に県監金禎根が関隘重地といって,石で性を収縮して鎮南楼を声紋(城門)にたてた。

(ファニョスンナム鼓笛(古跡)叔母酸性組)こちら一員が警官(景観)が秀麗で今まではジンナム撹はんといって「慶北(キョンブク)八景」の第1に選んでいるが,この鎮南だと呼ぶ名称は1893年キム・ジョングン県監が叔母酸性門楼をチン乱れといったところで由来したし,うんざりすることは二省から南側を鎮圧することができるという意だ。

当時叔母酸性保守の背景にはそれから22年前の1871年李弼あるいは李弼済という東学教徒が聞慶(ムンギョン)地方で蜂起した事実があって,官軍が討伐するのに大変な苦労をした事実があったし,この時には同学教導らのタラが尋常でない時であった。 1894年甲午年同学抗争の時にこちらで戦闘があったとするがまだその記録を探すことはできない。

壬辰倭乱の時には倭兵がこちらの防備ないことを見て踊って越えたというと壬辰倭乱当時にはこちらで戦闘がなかったと認められて,1728年イ寅坐の反乱時には申思日義兵長が義兵を率いてこちらで反乱軍を防御したという。(戊申倡義録)1894年同学抗争の時もこちらで戦いがあったと伝えると記録を探すことができなくて,1896年正月に抗日義兵泣いた川イガン年代長がこちらで日本軍と一日中戦ったが不利で,退却したし,義兵捕手沈巨擘がここで戦死した。(泣いたカン・チャンウイ日録)

(5)と副ソン(姑夫城)姑夫城は叔母性の南側便でまっすぐに渡って見える魚龍山首脳(頂上,正常)付近にある。 魚龍(オリョン)産(山)は麻城面(マソンミョン),九浪里(クランニ)と仏井洞(プルチョンドン)の警戒地点だ。 「聞慶(ムンギョン)現地」に“姑と嫁性はトチョンの南側高い山の上にあって叔母性と一緒に互いに向かい合っている。”したことから見て叔母性とは姉妹性であり,同時代に築造されたと推測される。

姑と嫁性で南側谷間は算数ゴールといって,九浪里(クランニ)とカウン行く全(前)から中(案)プルチョンと他プルチョンのトドッコルロ通じる地点に位置して,カウン方面と聞慶(ムンギョン)方面2ヶ所を監製することができる。

特にカウン方面は軟風と槐山(クェサン),青天で越えてくることができるところが鳳岩(ボンアム)寺方面のオ・ポンジョン道と青天方面のクァンピョン道があってケリムニョンノを経なくて新羅の内地で侵攻が可能だから姑と嫁性の必要性はより一層固まる。 このような事実は6.25韓国動乱(朝鮮戦争)が証明している。

①6.25韓国動乱(朝鮮戦争)と姑夫城・姑母城一代(一帯)の攻防戦昔に積んだ性がある地点らが現代戦にも昔でも同じ役割をして,現代戦にも重要な要衝地として十分な価値があることを6.25韓国動乱(朝鮮戦争)中で叔母性と姑と嫁聖地駅の戦闘状況を“朝鮮戦争社”で調べてみる。

1950年7月19日梨花嶺で奉命産(山)(鳳鳴山:692m),ナム狐狸(南湖里:聞慶市(ムンギョンシ),麻城面(マソンミョン))まで撤収した国軍第6師団19連隊(連隊長民兵権)は3号国道を警戒(境界)でして,その東側のシニョルリ(新〓里:叔母性所在地)に指揮所を置いて2個大隊として五情産(山)(烏井山:810m),シニョン(叔母性北側500m)間の真摯(陣地)を占領した。

この地域は英カン東北側のウサギ不正犬灘里と梧泉里を遮る所として時の集結地のナム狐狸(南湖里:聞慶(ムンギョン)南方3km)をひと目で監製できる地帯だ。 特にこの地域を貫く3号国道が確保されてこそ幽谷,店村(チョムチョン),咸昌(ハムチャン)を連結する線(船)を確保可能なためだ。 国軍は五情産(山)を選んで,2個大隊として4kmの防御正面に真摯(陣地)を構築した。

この日07:00を期して,北朝鮮1師団3連隊が五情産(山)で侵攻してきた。 ここに対抗して,2大隊がホ・ケリ西側赦免の500等高線に達する2,500mの防御正面を守っていたがナム狐狸で五千里渓谷で急襲した2個大隊規模の多少俗称“カソプ”という山間の村で峠を越えて,侵攻してきたし他の1個大隊はシニョルリ渓谷に押し寄せた。

このようになって,激しい攻防戦が展開したが3時間にかけたすさまじい戦闘の末に敵は私たちの大隊の火網の中で前進でなくて敗走してしまったし,加湿付近の赤道兵力をおさめて,撤収すると私たちの1小隊が五情産(山)北側稜線に一撃を加えるや敵は壊滅して味方は多くの戦利品を捕獲した。

翌日書いた04:00から(浴びせる)降り注ぐ卑俗で大大規模に奇襲を敢行してきた。 敵はシニョルリ渓谷から固持(告知,高地)の西側赦免に潜入して,私たちの6中隊正面を集中攻撃してきた。 この地域はキョン弾リへ渡る近道だからこれを重視して私たちもその付近に兵力を待ち伏せさせたところで重大はこれを捕らえて総和力を集中させたが30分後には真摯(陣地)で肉弾で対抗する混戦上になった。

30人余りの敵を射殺または他殺したが私たちも中隊長をはじめとして,6人が戦士(戦史)と10人余りが浮上(負傷)した。 2時間半の間の血戦でついにキョン弾リ側で撤収した。 同じ日09:00に反撃を加えて,4時間の間の激戦の末に13:00に東進紙を奪還して,五情産(山)とシニョルリ間の真摯(陣地)をまた連係させた。 しかし翌日19:00に連帯は師団の命令によって新機里で撤収した。

翌日反撃を開始した味方第1師団第11,12両連帯は永順面(ヨンスンミョン)キム・リョンリと虎渓面(ホゲミョン)膜曲リで06:00を期して,反撃を開始,五情産(山)と浮き雲令(領)(浮雲嶺:五情産(山)東北側4km)を占領して,6師団正面であがくことの退路を遮断して包囲攻撃することにした。 膜曲リを出発した12連隊は08:00に五情産(山)を占領した。 連帯は第1,第2両大隊で五千里底部室の敵を攻撃させたが電車で増強されたことと14:00時から17:00時まで激戦をして命令で五情産(山)に復帰した。

7月21日02:00時を期して,敵は私たちの第2連隊(連隊長ハム・ビョンソン大佐)が担当している師団中央地対の魚龍(オリョン)産(山)(魚龍山:姑と嫁性615m)と新しいボン(鳥峰:683m)を攻撃してきた。 しかしこの時魚龍(オリョン)産(山)で新しいボンを侵攻することを予測したので私たちの歩砲の集中化力の前に敵は退いてしまった。

07:00時からは第3大隊によって,魚龍(オリョン)産(山)奪還作戦が展開したが時の抵抗が頑強で,5時間の間の逆攻勢にも意図を成し遂げられない中12:00時を前後して,国連戦闘爆撃機1両編成大義公衆(空中)支援でその目標を奪取するとこの時が13:00時であった。

17:00時には互いに一歩ずつ退いて,1kmの間隔を置いて南と北で対立するようになった。 翌日06:00時頃書いた増強された連帯規模の兵力で電車を前面に出して叔母酸性の下のジンナム教ドーハ作戦を敢行してきた。 時の野砲と電車胞衣援護の下威勢堂々と白昼のドーハを試みてきた。 この時に私たちの両大隊では電話力をジンナム撹はんに集中したが敵一部兵力が聞慶(ムンギョン)炭鉱付近まで浸透した。

ちょうどこの時に国連空軍1両編成代価チン南郊付近と聞慶(ムンギョン)炭鉱付近の敵を騎銃でさらうと書いた四分五裂されて支離滅裂になるのに米帝90砲兵隊A砲台が155m重砲を店村(チョムチョン)茅田里(モジョンニ)で推進して,この一帯に集中砲火を(浴びせる)降り注いで,敵は正常な感覚でないのに米軍電車対1ヶ所代価5代の電車を追い立てて,支援すると開戦以来初めて歩,戦,砲,空の協同作戦が成り立った。

このようになって,3度道路の軸線(船)を確保するようになったが魚龍(オリョン)産(山)と新しいボンでは翌日05:00時頃に2個大隊規模の多少また攻撃してきた。 前日同固持(告知,高地)北赦免で攻撃を受けたことは大大規模に増強して中(案)プルチョンに通じる渓谷(算数ゴール)をあがいてきたし,また他の大大規模の書いた低音リ(トルマレミ)渓谷で攻撃してきた。

2,000m夫婦の防御陣紙全面が砲煙弾雨で覆って手榴弾の暴飲は大騒ぎを加えた。 このような血戦が2時間が過ぎるや私たちの11中隊真摯(陣地)が崩れて,数的に劣勢な私たちの大隊は悪戦苦闘の末に分散状態に陥った。

連帯の前真摯(陣地)を監製できる新しいボンを時の手中に譲り渡すことになると中(案)プルチョン一帯が時のキ・ドンノに変わる危機を迎えることになった。 この時に国連空軍の公衆(空中)支援で第2中隊は651△ウンジョムジェを占領するようになった。

翌日第7連隊は新しいボンを奪還するのにために05:00時を期して,攻撃を開始したが適宜頑強な抵抗で14:00時まで射撃前だけ続いた。 一方第2連隊は第7連隊が幽谷リで反転した後翌日06:00を期して,新しいボン奪還作戦を開始した。

7時間にかけた連続血戦の末に13:00時に新しいボンを奪還した。 同固持(告知,高地)を奪還して見ると射殺されたこと死体が300余区(具),機関銃18丁,小銃128丁,実弾3,500発を捕獲して捕虜1人をひきつけた。 以上で私たちは6.25韓国動乱(朝鮮戦争)中叔母性,姑と嫁性がある五情産(山),魚龍(オリョン)産(山),新しいボンの10日余りにかけた戦闘状況を見渡してみた。 そしてこの一帯が戦略上どれくらい重要な位置かを分かったと見る。

この地域だけ突破されればまさに洛東江(ナクトンガン)だ。 6.25ヶ前以来真に戦闘として敵を制圧した地形はこちらがあるだけだ。 この一帯で10日以上敵を縛っておいたので洛東江(ナクトンガン)橋頭堡の構築が可能だったと見るならば昔や現代や戦略上の要衝地の価値は変わりないことが証明されている。 すなわち新羅と考慮の時はケリムニョンノ,朝鮮時代はチョリョンノ,今日にはまた内陸を貫く3号国道は最も重要だと言えよう。

②姑と嫁性の伝説が姑と嫁性には築城当時の切ない伝説が私たちの故障に伝えられている。 昔に空から降りた女二人と男三人がカラシナ村(冠県)にきた。 1人の女性は麻姑仙女で,また1人の女性は姑母仙女であり,男は姑夫三兄弟だったという。 これらがこの村に降りてきてみると山川は美しいが遠くなくて兵乱が起きるようだ。

それで重要な町角に城を築くことにして,五人が性を先に積む出すことをすることにしたという。 姑と嫁三兄弟は下駄を履いて魚龍(オリョン)産(山)床に城を築いて,マゴソンニョは正鵠リ後方の山,叔母天女はトチョンタンボンに城を築くことにして,女たちはエプロンで石を運んで積んで,男たちは下駄を履いて,算数ゴールで石を持って積むのに1夜昼に終了にして男が先に積めば女天女は男たち中でひとりを差し引いて嫁に行くことにして,女が勝てば男たち三は積んだ星位に石に変わって,いつまでも性を守ることに約束をした。

姑と嫁三兄弟は仕事をして弟(妹)がする言葉が“お兄さんらお二人様は天女と結婚して天上に行って幸せに暮らして下さい。

私はこの地上(紙上)に残ります。”とする。 一番上の兄が言うことを“私が残ることとか君たち二人で妻をめとれ”といいながらお互いが遠慮する言葉をいったのが何時間を消費して,翌朝までも城を築くことを締めくくることができなかったが二人の天女は性をみな積んだ。 それで三兄弟は石になったという。 今でも叔母性で眺めれば魚龍(オリョン)山の頂上には三兄弟岩といって,大きい石が三が立っている。

(6)ヒさん買った性(曦陽山城)ヒヤン酸性は加恩邑(カウンウプ),ウォンブクリ鳳岩寺後方の山のヒヤン山の頂上に積んだ石聖だ。 東国輿地勝覧には“カウン現北側15里に昔の城があると三面が皆石壁であり,過去の軍倉があった。”したし,増補文献備考官房組には“曦陽古城はヨラム(東国輿地勝覧)に行って銀牌県の北側15里にあるのに三面が皆石壁だ。”とした。 聞慶(ムンギョン)現地にも同じだ。

三国末期に敬順王が二省でキョン・フォンと戦ったといって三国史記キョン・フォン王朝には“3年10月キョン・フォンがカウニョンを包囲して勝つことができなくて帰った。”としたので戦ったとすればこの時ではなかったか推測される。

また「聞慶(ムンギョン)現地影照本」には鳳岩(ボンアム)寺には新羅敬順王が創建した極楽殿があって本組(朝鮮朝)傾向(税)粗大王の御帖がその中である。”としたので敬順王がこちらまできていたと推測はなっても果たして後三国末期の混乱が深刻な時期に賃金がここまで行動しろといっては考えられない。

ヒヤン産(山)(996m)は三面が足を付けることができない層岩絶壁であり,ウォンブクリ・ハンベ米側で上がることができて,忠北(チュンブク)軟風側で上がることができるところが1ヶ所ある。
ヒヤン酸性は小白(ソペク)山脈の主令中最も岩石壁が雄壮な山だ。

この山の性は槐山(クェサン),軟風方面で南へ侵入することを防御しやすくて男からくることも越えることはできない。 築城方法は南側と西側の石壁首脳(頂上,正常)と北側,東側の稜線委に石で積んだし,周囲は広くない。 忠北(チュンブク)側オ・ポンジョンで越えてくるただ一つの道があるだけだ。 その首脳(頂上,正常)では槐山(クェサン)青天方面も監製することができて位置上では重要なところだ。

6.25韓国動乱(朝鮮戦争)の時7月21日傀儡軍は3号国道での進撃が難しくて,このオ・ポンジョン抜け道に越えてきて,カウン玉女峯を攻撃した事実でボア,ヒヤン酸性の重要性が証明されている。 イ・ヒヤン山の麓は新羅九山禅門の一つの鳳岩(ボンアム)寺が位置しておりその周囲の秀麗な警官(景観)は小金剛(ソグムガン)だと称してきた。 夜遊岩,妓淵,白雲台は天下の絶景だ。


(7)が銀性(加恩城)カウン性だと指定される性はカウン王陵でノンアムを向かって,時々見ればソン低利(城底里:性下)とソン・ユリ(城踰里:性君縮約して)がある。 二省私と聖油をつなぐ山がまいており,二省が私たちの故障では一番最初に築造された土城だ。

今はカウン~ノンアムガン道路が開通して,絶壁の下を通過しているけれど昔には層癌の下は川の水が絶壁とあわせて流れた。 この山などソンは聖油で性私につながって,周囲が1km程度なる。 内側稜線は蓮花峯(ヨンファボン)だと呼んで外側便は英カンだ。 過去の新羅の時の加害(加えて)ヒョン,加線ヒョンイあった位置がまさにこちらだ。 付近の山と畑では新羅の時の土器が出土している。

この性は常駐,報恩(ポウン)方面に通じる町角を遮断している。 ケリムニョンイナ華北(ファブク),報恩(ポウン)方面で侵入を遮断できる所であり,小白(ソペク)山脈北側の槐山(クェサン),青天などの地での侵入も防御できる所だ。 新羅敬順王3年10月に“キョン・フォンがカウニョンを包囲攻撃したので勝つことができなくて帰った。

”としたのでこの地域はまさにキョン・フォンの出生地だ。 私たちの故障に伝えてくる伝説にはキョン・フォンがこちらで英カンの向い側の行く電離ア開冬で出生したといってア開冬は牙子犬(阿慈介:キョン・フォンのお父さん)が生きたといって今までア開冬だと呼んで,このア開冬にはキョン・フォンが読書したトクソグルがあったといって,その岩窟の名前を金霞窟だと呼んだがその洞窟の中で騒々しい声が聞こえて,カキ入口を封じていたと伝えられる。 またソン低利買った麓には茅山窟別名蝎生窟という洞窟がある。

(8)抑えがたいフォン買った性(甄萱山城)キョン・フォン酸性は加恩邑(カウンウプ)ミン地理と篭岩面(ノンアムミョン)ノンアムニの間にある天馬山にある。 別名天馬山(チョンマサン)性といって,百済性だと呼んだりもする。 聞慶(ムンギョン)現地(影照本)鼓笛(古跡)組には“キョン・フォン酸性はカウン現西南5里にある。

山委に石で積んだが周りが565隻だ。”といったし,ファニョスンナムには“百済性,別名キョン・フォン酸性という。 青化産(山)東側10里にある。 キョン・フォンがその中でウンガーしたという。 石泉が一つある。”とした。 以上の記録を総合してみる時にキョン・フォンと関連があることだけは明らかな事実だ。

築城方法は近いところにある石を集めて積んだが誠意高さはわずか2m程度で高いところが3mを越えない。 近い姑と嫁性や叔母性の築城方法必ず性下を通過してこそ行くことができる。 同・男・西からは川の水が流れて北側は加西項の単一に行っているだけだ。

キョン・フォン酸性の戦略的価値は報恩(ポウン),沃川(オクチョン)方面で華北(ファブク)を経て,双龍渓谷を通過するまもなく俗離川について侵入する西側からの敵を防御することはもちろん系リップ峰を越えて,常駐など内陸に入ってくることを防御するのにも重要な地点になる。 そして青天松面で叔母峰を越えて,窮気,漣川(ヨンチョン)側からくることもこちらで遮断になる。

このように見る時,異性(理性)で10里通り(距離)にある「カウン性」30里通り(距離)にある叔母性と姑と嫁性,常駐華北(ファブク)にあるキョン・フォン酸性などが一つのように北・西側を防備するように築城されている。 ソ・北の勢力がたとえ小白(ソペク)山脈を越えてきたといっても要衝地になる町角にこれら性があったので新羅内地での進入が常時私たちの地域で阻止されたと推測される。

こちらキョン・フォン酸性で新羅の敬順王とキョン・フォンとの戦いがあったと伝えられているが歴史記録では探すことができなく,百済武寧王12年9月に仮払い性を打って奪った高句麗軍が原産性(現龍宮)まで進撃したという三国史記の記録がある。 この加弗城があった所が不明で断定することはできないがこちらではないかという疑問が残る。

①天馬山にからまった伝説私たち故障で天馬山(チョンマサン)にからまった伝説は次のようだ。 私たちは前の記録で酸性の中には石泉が1ヶ所あるといったのを見た。 このわき水は今でも出てきていて天馬泉だと呼んでいる。 “キョン・フォンが若い時にこの天馬山(チョンマサン)で軍事を集めておいて戦争練習をしていて喉が渇いて水を飲もうとこの泉に行ったところ自分より先に野生馬一匹が水を飲んでいた。

キョン・フォンが野生馬を調べるとすばしこくてがんじょうによくできたのでこの話を自らのスン竜馬としようと試験をしてみることにした。 話と矢中どれがはやいかを試験するのにもし言葉が矢より遅れれば話の首をはねることに決心して,天馬山(チョンマサン)で馬に乗るのと同時に篭岩面(ノンアムミョン)ヨン千里側崖を見て矢を引いた。

”彼と同時に話を鞭打ちして,漣川(ヨンチョン)の崖に来てみると矢が見られないので矢より遅くきたといって,話の首をはねるとさあ矢が飛んできてささった。 キョン・フォンがしまった後悔しなかっい話はすでに死んでいた。 当時話の首をはねる時,流した血が流れて,今日まで岩が赤いといってそれからその崖の名前を話岩と呼んだと伝えられている。

これとは他の一つ伝説は“天上の玉皇上帝は男兄弟がない一人娘の公州(王女)があったが公州(王女)は‘スローガン’という未婚の男性と他人の目を避けて,愛をささやいてきて終わらせる玉皇上帝に発覚した。 スローガンは人間世の中で島流しされて離れてくる時,公州(王女)から宝物箱二と白馬一頭を受けたという。

天上で島流しされたスローガンはまさにこの天馬山(チョンマサン)に降りてきて過ごしているのに一日はどんな娘が悲しげに泣くのを見てその理由を尋ねたところ自分は阿鼻という娘に行った夜にお父さんが虎患にあったが女のからだだとどうすることはできないので泣いていると答えた。

この話しを聞いたスローガンはその虎を捉えて怨みを晴らしてくれるから安心しなさい(早い)達して天馬山(チョンマサン)一帯を歩き回って手ぶらで虎を捉えて,娘の怨みを晴らしてくれた。 そうした後に互いに愛することになって一緒に住んだ中に親父娘が子供を内包してマンサギドェオ解散する日が近づいた。

親父を連れて空に上がろうとすれば公州(王女)に面目がなくて,置いて行こうとすればかわいそうな気がして,親父を連れて天上に上がるやこれを見た玉皇上帝と公州(王女)は思わず大老して,また追い出すとスローガンが(受ける)乗った白馬が落ちて,天馬山(チョンマサン)になってスローガンと親父は天馬山(チョンマサン)東側に落ちて,二つの岩になったという。 その岩が今日のノンバウィ(篭岩)という。


(9)ノー故ソン(老姑城)老姑城は東魯面(トンノミョン)間訟理天柱山東側にある。 増補文献備考クォン27余地高には姑城だと記載したし,ファニョスンナムでは麻姑城といって“チョン・ジュボン東側にあるのに水磨石で築城した。”とした。

労苦性は外城と内城があると天主側で赤城川向い側山委に石で積んだ性が外城であり,醴泉郡(イェチョングン),龍門面(ヨンムンミョン)師父洞との橋渡し役沙夫嶺で買った稜線について将台峰まで積もっている性が内城であり,外姓と内省(耐性)の間には内城谷という比較的広い谷間がある。

外姓は山の9部稜線に水磨石と雑石で精巧で丈夫に垂直で高さ5mで10mを積んだのが比較的よく保存されており,石垣の広さは1mで3mで排水が容易に凹凸の形式を取った部分もあって長さは800mとなる。

他の性らと比較して特異なのは尾根を中心に丸く積まなくて山の稜線について-者で西側面だけ積んだのだ。 これは安城(アンソン)ゴール チャン・テボンに内省(耐性)があるから適性川に従っているチョクソンノを防御するためのものだと見られて,一方では内省(耐性)の前哨防御線と推測されたりもする。

内省(耐性)は東魯面(トンノミョン)サブレイロブト醴泉郡(イェチョングン),龍門面(ヨンムンミョン)師父洞へ渡る沙夫嶺で毎峰(メボン)(鷹峰:865.3m)近所まで稜線について3kmにかけて,築造された性が内省(耐性)だ。 師父令(領)で毎峰(メボン)側で稜線について100m程度上がれば誠意入口があって凍露側では削ってたてるような尾根について積んだ石らが今は崩れて散在していて龍門面(ヨンムンミョン)側で石垣が完全なところがあって誠意周りは約8kmを越えると見る。

稜線について約2kmが過去の守城軍の兵馬を訓練した訓練長がまだそのまま残っている。 この訓練長は山稜線首脳(頂上,正常)について幅4m程度を人力で波高磨いてして中間中間には岩など障害物を設置していることを見る時,軍事らの訓練がここで成り立ったことが分かる。

そして将台峰首脳(頂上,正常)には昔指揮所行っていた将台の遺跡があったが今は新羅電気の瓦便だけ散らばっていて軍用ヘリコプーター着陸地が設置されている。 この指揮所はチャン・テボン(780m)と約100m上巨漢峰にもあったと見える所(760m)固持(告知,高地)の上にも瓦破片が散らばっている所にやはりヘリコプーター着陸地が設置されている。

チャン・テボン将台行っている所で東魯面(トンノミョン)敵性理側を眺めれば丹陽(タニャン)方面で越えてくる赤城路と鶏立嶺で越えてくる女牛目(狐項)の長さひと目で届く。
チョクソンノとケリムニョンノで敵軍が侵入して,醴泉(イェチョン)方面でも山羊,龍宮方面に進もうとするなら必ず二省をすぎてこそ行けるために北からくることを防御するには最もつりあう町角で,要衝地対ということができる。

そしてこの成案に病魔の訓練長があることを見る時,この老姑城の私の・他成案には多くの病魔が駐留して,戦闘訓練をしてチョクソンノをよって漢江(ハンガン)上流に進出する前進基地で利用されたことを推察させる。 なぜならこの労苦性で漢江(ハンガン)上流の丹陽面(タニャンミョン)までの通り(距離)がわずか16km未満だ。 これは小白(ソペク)山脈南で漢江(ハンガン)上流に進出するのに最も近い地点といえるためだ。

またチョクソンノは小白(ソペク)山脈の南北を越える頭中で竹嶺(チュンニョン)やケリムニョン,鳥嶺と比較して,最も標高が低い頭で比較的長さ(道が)平坦さを分からなければならない。 それならこの労苦性をもう一度注目しなければならないと見る。

新羅は真興王12年(551)に経る富(居〓夫),仇珍など8将軍に命じて,漢江(ハンガン)上流地域で進攻(真空)させて,竹嶺(チュンニョン),ケリムニョン北側の高句麗の土10郡を球取り下げであった。 それなら漢江(ハンガン)上流に進出する8将軍が必ず同じ道だけを利用したと見ることはできない。

チュンニョンノ,チョクソンノ,ケリムニョンノなど漢江(ハンガン)上流に進出できるところは皆利用が可能で漢江(ハンガン)進出を大切にしては小白(ソペク)山脈南の峠と近いところに兵力と軍需物資の備蓄基地(機知)がなければならないということは常識的な問題と見るならば漢江(ハンガン)上流と最短距離に位置した労苦性の役割は自明になる。

新羅はこの時に丹陽(タニャン)地方を占領してその地方(脂肪)の国民らを宣撫しながらその全勝を記念するために記念碑をたてたので丹陽赤城碑だ。 この丹陽(タニャン)適性費は1978年1月に旧丹陽面(タニャンミョン)下坊里にある赤城山城で発見されて,国宝第198号と指定されている。

この労苦性内省(耐性)の東側の醴泉郡(イェチョングン),龍門面(ヨンムンミョン),金谷洞(クムゴットン)には上乙谷城がある。 イさんを哭声は御臨城または御凛城,氷城ともする。 信証東国輿地勝覧豊基郡古跡組に“上を哭声は殷豊県南側34里にあって周りが980譜,高さが5隻,中に10千1系(十泉一渓)がある。”と記録している。

イさんを哭声もまた東・西の両ソンがいて労苦性と同じ目的で築造されてチュンニョンノを通した漢江(ハンガン)進出の前進基地ではないか推測される。 労苦性や上を哭声が皆内外陽性(養成)で築造されており,内外性間には大きい谷間があって数万坪の電池があるという点を見る時,これら成案と城主(星州)委には屯田をして,兵糧の自給を試みたと考えられる。

しかし労苦性の外姓と内省(耐性)の築造年代が違うと見る。 内省(耐性)は土石を混合築城したし,外姓は土は一切使用しなくて石でだけとても精巧に築造されたのを見る時,外姓は内省(耐性)が築造された時期で少なくとも1,2世紀の後に築造されたと推測される。

これは本来の主星の内省(耐性)の防御を補強するためにはるかに後に積んだと見られる。
この地域現東魯面(トンノミョン)一円の昔の地名を詳考してみれば三国史記雑誌第3冊地理1には醴泉郡(イェチョングン)続絃に“安仁県があるのに本来蘭山県であり景徳王が改名した。

今は未詳だ。”と記録している。 しかし現東魯面(トンノミョン)仁谷里と水平リ(俗称葛ら)がアン・インヒョンの過去の席と伝えられており,古山子キム・ジョンホの大東輿地図にも安仁古県だと明示しており,醴泉郡(イェチョングン),龍門面(ヨンムンミョン)一円はウン風ヒョンだったと見る。

信証東国輿地勝覧クォン25豊基県組に“本新羅赤牙県なのに景徳王が殷正県といって醴泉郡(イェチョングン)の領県になって考慮初に今の名前で直して顕宗が安東府に所属させたし恭譲王時に本郡に夷俗させた。 別号を殷山だとしクンの西南37里にある。”としたし,東君鼓笛(古跡)組に“上を哭声はウン風現南側34里にある。”としたことから見て現龍門(ヨンムン),商利一員がウン風ヒョンに属した事実を知ることができる。

そしてこのウン風現果隣接した順興が“高句麗の及伐山郡であったのに新羅景徳王が及山郡だと改名した。”としたと見る時,上を哭声と労苦性はその築城目的が高句麗の侵入を防御するところにあったことが分かって北にケリムニョンノとチョクソンノを防備することはもちろん東には高句麗に占領されたチュンニョンノブトの侵入も防御する役割も兼ねたことを推測させて合わせて高句麗勢力を追い出して漢江(ハンガン)に進出する前進基地としての任務も持ったと見なければならないだろう。





②チョリョンノと鳥嶺酸性にからまった民間説話

行って。 シルリプチャングンと鳥嶺女鬼壬辰倭乱の時に天険の要衝の鳥嶺(セジェ)を放置して忠州(チュンジュ),弾琴台(タングムデ)で背水の陣を敷いて敗れたシルリプチャングンが鳥嶺を守ることが出来ない原因が鳥嶺女貴意いたずらからきたと伝えられる民間伝説が私たちの故障に今日まで伝えられている。

シルリプチャングンがまだチョンガー時代に草笠を頭にかぶって下駄を履いて,今の光州(クァンジュ),昆池岩(コンジアム),南漢山城(ナムハンサンソン)近所を散策しているのに突然海東青タカ一匹が飛んできてシルリプチャングンの草笠を頭髪でチェをもって南側に向かって飛んで行かないか。 びっくりしたシルリプチャングンが南へ飛んで行く鷹を眺めて“微物の獣があえて立派な男の医官を奪い取って行くことができるという話か。

私のどこまでも追いかけて行って,草笠を探してしまうだろう。”といいながら下駄を履いたふりで鷹の飛んで行く所に従っていった。 このように鷹を追って見たら日が沈んで四方が暗くなるのに地勢を調べると幾重にも重なった山中鳥嶺(セジェ)谷間であった。

鷹はその山の中にある鯨の背中のように広くてりっぱな大きい瓦の家醜女案の中二階に飛び込んで行くのと違っているか。 シルリプチャングンはその家の門で主人を探したがしばらくの間や人の気配がないので門を押し退けて入ると十七八才なるとみられる美しい娘が出てきてする言葉が“この家では人を留まるようにすることができないからはやく他で行ってみなさい。”とする。

シルリプチャングンはお宅の売家私の草笠をまだ持って飛んできて,お宅の醜女案中二階に入ったので私の草笠を訪ねて下さいます。 そしてこの夜中に深山幽谷でどこへ行くという話です。 “家も大きくてハニ一夜を過ごして行けるようにして下さいます。”ハニ娘がやむをえず“入ってきなさい”としながら広間で案内する。

そして娘は夕食を整えてくれた後に言うことを“今日は私が死ぬ日なのに道令様も誤って今夜に私とともに非業の死を遂げるでしょう。 今でもさらに遅くなる前に他の所に行ってみて下さい。”ハニ娘は台所に行って箸とスプーン束をアナルム抱いて置いて“我が家家族が昨年までしてもこの箸とスプーンが足りなかったが今年に入ってから夜深夜12時になれば頭が二,三ずつ走ったおばけらが現れて,毎日夜一人ずつ捕まえて行きます。

今日が私が捕えられて死ぬ日です。”といいながら涙を流した。 シルリプチャングンが見るのに娘の事情が痛ましくてまた不思議な話と好奇心も起きてして“何の心配しないで待ってみましょう”して屏風を開いて娘は屏風の中にありなさい(早い)達して大きい文案に正座をして座って,怪物が現れることを待った。

正確に深夜12時になるや千兵万馬街ら切る音がすると家の前庭で雄壮で大きい声が話すのにはやく残り女を捉えて命令を待てと号令をする。 睡眠時候に果たして頭が二走った者がドアをあけて現れるのではないか。 シルリプチャングンが叱り飛ばして言うことを“邪不犯正なのでまして要望した妖鬼らとして人をイ多智も害することがあるという話か?”ハニ2頭(二頭)の妖鬼が言うことを“将軍様がおられたことを知りませんでした。

私たちは以前考慮の時恭愍王が異執にいらっしゃる時に埋めておいた金銀財宝が長い間の歳月が流れて,妖鬼で発動することになりました。 これからは絶対にいたずらをしないですので許して下さい。”といいながら許しを乞うているのに外では3頭(三頭)の妖鬼が大きい声で“はやく小娘一つ捉えられないできて何をクムルドェヌニャ”と文を足でけって抱く報告は“マア将軍様がおられること分からなかったです。”とうつ伏せになる。

シルリプチャングンは妖鬼らをはね除けて屏風後の娘を見ると娘が気絶しているので台所に行って水を沸かして,娘の口に入れて四肢をもんでくれると娘が目覚めて日も明け方になった。 その娘から朝接待を受けて草笠を探して離れようとすると娘も一緒に連れていってくれと哀願して“この山中に全く一人で生きていくことができないから私の境遇を可愛らしく感じておさめて下さい。”とする。

シルリプチャングンは“私が両班(ヤンバン)官吏の出身でご両親の承諾なしにどうして女子供を連れていくことができます。”といいながら後も見て回らなくて旅立って,前尾根に上がると後から呼ぶ声が出るので(に)見て回ると娘がその家に火を付けて屋根屋根の棟に座って呼ぶのではないか。 その首脳(頂上,正常)はすさまじくて可憐だったが仕方ないので道を急いで,家に帰ってきた。

シルリプチャングンはその後の武科に及第して官職の道に上がって満州の野人を征伐して,大きい功績を立てて,北兵使になって昇進を繰り返して,漢城(ハンソン)判尹(漢城判尹:現ソウル特別市長)になって壬辰倭乱が起きるや8ドドスンビョンサ(八道都巡辺使:野戦軍総司令官)に弟嫁なって,8千人の軍事を率いて出場して,4月26日鳥嶺で寝るのに夢の中に鳥嶺のその娘が現れて挨拶をして“将軍様は8千の軍事を率いたというけれどその軍事らはソウル荘案で急に募集して,訓練ならない烏合之卒なのにもしこの鳥嶺に陣を打って倭軍の先鋒と激突することになれば皆が生きる道を探して逃げることなのにその時に将軍は誰を率いて戦いますか? しかも将軍様の軍事はその半分が馬に乗った軍事なのにこの険しい山中で馬に乗った軍事がどのように戦いますか? 少女が将軍様のためにセンガッコンデ将軍様はこの道で軍事を率いて忠州(チュンジュ)に行ってタルレガン(達川)を背負って背水の陣を敷けば軍事らが退くこともできないから皆が死で戦うでしょう。”とする。

シルリプチャングンが夢を目覚めて,夢に娘がした言葉が一理があって考えて,忠州(チュンジュ),弾琴台(タングムデ)で背水の陣を敷いて戦って大敗をしてシルリプチャングン自身も戦死した。 今でも私たちの故障では鳥嶺(セジェ)の怨恨を抱いて死んだ娘が寃鬼になってシルリプチャングンを死地に追い詰めたと思っている。

私. 鳥嶺(セジェ)城隍神と崔鳴吉チェ・ミョンキル(崔鳴吉:1586~1647)のホは遅川であり,朝鮮朝中期の学者で,政治家だ。 チェ・ミョンキルが官職の道がナ可期前の20代始めに安東府使である外叔に参ろうとソウルから降りるところに鳥嶺(セジェ)をすぎることになった。 九折羊腸同じ険しい鳥嶺(セジェ)道を一人で降りてくるのに自分の前10歩ほどを置いて何の若い女が簡素な服を着て行っていた。

チェ・ミョンキルが考えるので(に)この険しい山道を女が一人で行くことも変でもその歩みが真っ最中のチェ・ミョンキルにも追いつくことはできなかった。 そして道を行くのに女子供が高尚な人に道をよけなくて一定の距離をおいて先んじることが奇怪だった。 無礼だと考えたチェ・ミョンキルが歩みをはやく催促して歩くのにも距離(通り)は少しも狭まらなかった。

しばらくそのようについて行くのに女が急斜面に滑って凍って出てこれなくてくよくよしているのでチェ・ミョンキルが男女が類別して起こしてあげるか迷うのに女が痛いふり(そぶり)をしながら起こしてくれと手を差し出すのではないか。 止む得なくチェ・ミョンキルが女を起こしてあげて痛いところがないか尋ねると女が有難いと歩ける場合があるので心配されないでくれとして,歩みを移す。

チェ・ミョンキルは一人で歩くので(に)寂しかったところに女と同行になってどこへ行くのかと尋ねると女の返事が安東(アンドン)まで行くと答える。 チェ・ミョンキルが私も安東(アンドン)に通おうと行くのにうまくいったといって,安東(アンドン)は何の用事に行くのかと尋ねると女の返事が“私は鳥嶺(セジェ)城隍神なのに以前に中国と商売をする大きい商人が私を(受ける)着ろと中国ただチマチョゴリ一揃いを持って置いたが安東(アンドン)生きる裵座首が持って行って,自らの娘を負わせたので城隍神を見くびる船座睡家を訪ねて行って,チマチョゴリを探してその娘を殺す予定に旅立った。”とする。

チェ・ミョンキルが“忘れた物だけ探せば良いことであって人まで殺していいのか”として一緒に道を歩いた。 しかし他の人の目には城隍神が見えないためにチェ・ミョンキルが一人で歩くことと見えた。 安東(アンドン)附中に達するや城隍神は影も形もなく紗羅であった。

チェ・ミョンキルが安東(アンドン)官衙に聞こえて,外叔に要人と安否を差し上げて船座睡の家を尋ねると官衙で別に遠くないところにあるというのでまもなく船座睡家を訪ねて行くと船座睡家ではお昼までもよく食べた娘が痛いところもないのに死んだと大騒ぎになっている。

チェ・ミョンキルが船座睡を探してみて“私がソウルで医書をたくさんボア急肉当たりひとりが蘇生させる方法を知っているとはやく私を娘いる部屋に案内しなさい。”としたこと主人はいぶかしいと考えながらも差し迫っていた境遇とチェ・ミョンキルを娘いる部屋に案内をするので(に)吏房には私以外の人は誰も現われてはいけないといって,娘ある部屋に入ると城隍神が娘の喉首を押していてチェ・ミョンキルを見て起きる。

チェ・ミョンキルが“チマチョゴリは探してくれるから人は害するな”と(早い)達すると城隍神が“名工を見て助ける”としては離れた。 チェ・ミョンキルが座睡を呼んで“私が薬を飲ませたので睡眠時候ならば生き返るだろう”と愛に出てきた。 少しあろうとすれば座睡がきてどこからこられた神医この時期に死んだ人を助けますか。 本当に有難いと家族皆がみな出てきてうつ伏せになって挨拶をする。

チェ・ミョンキルが座睡を見て“数日前にひょっとして鳥嶺(セジェ)盛況当たりで中国ただスカートチョゴリを持って行って,娘に負わせたのではないか”とハニ座睡がびっくりして“それをどのように分かるかしながら貴公は果たして神人でいらっしゃいます。”とする。

チェ・ミョンキルはその服をはやく広場に出して燃やしてしまえと(早い)達して,このように送れないと捕まえることを取り払って実家に戻った。 チェ・ミョンキルが実家で半年を過ごしてソウルに帰るのに新しいジェギルに入るとその城隍神がまた道離れる準備をしてまたどこへ行くのかと尋ねると“今天子が満州の土で起きて天下の神らに満州にきて,天子を護衛しろとの上帝の命を受けて満州で行く道です。

これから20年後ならばその天子が軍事を率いて我が国をあげてくるでしょう。 これは天運とか人材ではどうしようもありません。 貴公はその時にあちこちで和議を主張して,国と種苗辞職を守って民を塗炭で救済(駆除)するようにしなさい。”とする。 チェ・ミョンキルが“私は見るように白面書生なのにどのように廟堂で和議を主張することができるという話です。”ハニ城隍神は“あなたは情事功臣府院君領議政になることとか私の話を肝に銘じなさい”とは消えた。

チェ・ミョンキルはその後に大科に及第して人造癸亥反正(仁祖癸亥反正)には靖社一等功臣になって完城府院君になった。 人造病人(仁祖丙子:1635)年に満州で起きた「ヌルハチ」が清をたてて我が国を侵略してきた。 人造王は南漢山城に座り込み寒地一ヶ月ぶりにサム前渡でチョンに降参をするようになる。 この時に調整重臣ら皆が和議を反対して斥和を主に主張するのにただチェ・ミョンキルひとりが和議を積極的に主に主張して,青果の休戦を成立させて撤収させて,民を塗炭で救済(駆除)した。

みな。 御命に死んだ虎太宗14年(1414)にチョリョンノを開通させた後に嶺南(ヨンナム)と記号(嗜好)をつなぐとおりになったが当時までも鳥嶺(セジェ)には猛獣らがうようよしていたのだ。 鳥嶺(セジェ)の長さ開通した翌年の乙未年にムン・ギョンヒョンで調整を経て,王に上げる長計(状啓:報告書)があって,擺撥を出して,軟風ヒョンに前月するようにした。

それから数ヶ月が過ぎた後調整では聞慶(ムンギョン)の長計がこないといって督促する官員が降りてきて県監を問責しなければならないという空論(公論)が調整で起きていた。 聞慶(ムンギョン)県監はまちがいなく長計を軟風で伝達したことにだけ知っていて軟風ヒョンでも受けた事実がないといって多くの人を動員して,鳥嶺(セジェ)一円を捜索させたこと鳥嶺(セジェ)道端で擺撥のウッチョガクと(受ける)乗って行った話の安定を発見して調べるとまちがいなく虎に損害をこうむったのが確実になった。

それでムン・ギョンヒョンでは虎に損害をこうむった事実を王に奏達した。 太宗王が長計を受けてみて大怒して,言うことを“獣があえて私の赤子を害するという話か! 直ちに捉えて命令を待ちなさい”といいながら捕盗大将に鳥嶺(セジェ)虎を捉えてこいとの厳命をおろした。

捕盗大将は捕盗庁軍卒100人余りを率いてきて,鳥嶺(セジェ)を捜索したが虎を捉えるどころか虎を発見もできなかった。 10日余りを捜索しても虎を捉えられなくなったので捕盗大将はそのまま帰ることもできなくて毎日捜索を継続してみても虎を探すこともできなくて悩んで日取りを決めて,タンを集めて積んで入浴斎戒した後に祭文を作って,鳥嶺山の神に告げて,御名をただ上(胃)に付けておいた。

その日の夜深夜12時になるやアーふんする声が鳥嶺(セジェ)谷間を揺るがしてすると静かになるので山の神団御名付けておいたところに行ってみるとやめるほどの大きい虎が死んでいた。
捕盗大将はその虎の革をはがして,太宗王に真相と鳥嶺(セジェ)虎捉えた転末を事実通り報告した。 太宗はその虎皮を自分が座るジャークに敷いておいて照会をしたという。

彼からは新しいジェギルで虎に損害をこうむることがなくなったと伝えられており長い間の歳月が流れた後に聞慶邑(ムンギョンウプ)に住む銭氏性を持った老人の夢にある老人が現れて“私は鳥嶺(セジェ)で御名を受けて死んだ虎だが罪を犯して死んだのでまだ九千(クチョン)でさまよっていると今は国に上疏を上げて,私の罪を下賜するようにしてくれ”と要請をするので(に)国に常駐して鳥嶺(セジェ)に山神堂を作って,毎年祭事を差し上げるようにしたのが今まで続く。

(2)オ,リュ性(御留城)過去の聞慶(ムンギョン)現地官房組(聞慶県誌関防條)に“御留洞は中門(中門:組み曲観)以外の東麓深い谷間中にある。 中(案)は広くて外は狭くて,十分に数万人を受け入れる場合があるので真に天険の土地だ。”したし,嶺誌要選にも同じ記録だ。 増補文献備考には御留城と記載されている。

イギョンで(李敬輿:1585~1657)が丙子胡乱が起きる前に調整に言うことを“聞慶(ムンギョン)の北側鳥嶺の東側にある山城があるのに名前を御留という。 いつの時のことなのかは分からないがひょっとして(早い)達することを高麗太祖が留まったところという。

その中(案)の広くて狭いのは南漢山城(ナムハンサンソン)と比較して,10分の9になって形勢のホムゴハムはまもなく南漢山城(ナムハンサンソン)は比較にならない。 東南側は絶壁がマンギルにもなって,鳥と獣も越えることができなくて,北側は東南の側に比べて,少し低いがまた人材ではとうてい通じることができなくて性妾(城〓)を少しだけ設置すれば十分に安心するに値する。 その西側にも通じるほどの道はあるが南漢山城(ナムハンサンソン)の最も険しいところと比較してみてもいくつかの二倍にもなる。

城を築く所はわずか5~6百派(把:足)であり大小の買った石が土砂のように積まれているとこれを持って積むならば共訳もやさしいだろう。 必ず高くすることもなくて自ら犯しにくい形勢を成し遂げることになることであり,城中には泉と小川がいろいろな所で流れ出て樹木(樹木:木)が無尽蔵で持って使うとしてもつくすことがないことであり,千間の広い家を建てることができて数年を使うマキも備蓄することができる場合があるので自然的なホムゴハムは真に東南地方(脂肪)の第一といえる。

その中に十分に4,5万の軍事を受け入れてまた1,2万戸を置いて,収縮を少しずつ加えて家をさらに作って,ロウソク(糧草:食糧と和睦)を備えつけることになれば永遠に奪われない基地になって,たとえ百万の軍事で打ってくるといってもソンアニの人々は楽に過ごすことができて自ら万全の土地になることとかここを捨てれば他の所にはありません。 こちらは東から大小白と連結して北側は月嶽と通じて西側では華山に接して俗離につながり接して,直ちに徳裕智理山と連結して,海に達する。

また北側には4ヶ郡があって,そのまま通じて江原(カンウォン),忠清(チュンチョン)がその右側にウンガーと安東(アンドン),風紀,永住がその左側にあって洛東江(ナクトンガン)がその南側についていて,漢江(ハンガン)の上流がその後で流れて出る。 高い山と丘,長い頭は日光を切って分けて抜け道がソにつながって,どこでも通じないがないから控制する形勢は首をウンキョジャプコ背中をたたくことと同じで買った谷間が遠く淡くなっていて切れた谷間が後・で白狐の中には別に足送れないこととかまた天下の軍事でも包囲する理由がない。

北側の月嶽その東側の鵲城,順興,その西側の鳥嶺,曦陽城,その南側の姑母,兎遷があるいは絶険酸性で,あるいははしごの末度重なった関門とか留まって,駐留する軍事若干を布陣させておけば声で応じて互いに号令が通じられる場合があるので号令(湖嶺:湖西と嶺南(ヨンナム)) 3度と東北畿甸をやはり連絡できることなので西北にことが起これば巴串して留まる所になることで,南方に危急があれば防御する所になるだろう”とした。(参照:増補文献備考余地で15官房組およびヨン如実技術ピョン御前高官房組)その後の人造16年(1638)に魚類性を収縮したという記録が出てくる。

(大東野乗中雑録クォン4人組16年4月11日照)そしてその週に“この性は三国時代に賃金が駐駕した所という”とした。
旧聞慶(ムンギョン)現地には“魚類洞(性)は鳥嶺東側深い谷間にあると周りが30里余りだ。

高麗太祖がキョン・フォンを打つ時にここに留まって城を築いて御留といって寺を作って普済といったし,後に恭愍王が端的(丹賊:紅巾賊)を避けて,ここに留して,宮廷維持がある。”したし嶺誌選要にも“魚類洞は鳥嶺の東側にあって考慮恭愍王が丹賊を避けて留まった。 だから名付けた。 宮廷の場所がある。”したことから見て高麗太祖および恭愍王がここに留まったことだけは事実と認定される。

以上のすべての記録を総合してみれば魚類性は鳥嶺の中門のチェ2冠文(門)から東に主屹山(チュフルサン)首脳(頂上,正常)までとの確実な根拠が出てくる。 それならこの性は三国末期考慮初に高麗太祖によって積まれたかということが疑問視される。 過去の聞慶(ムンギョン)現地官房組には“俗伝に達することをわんぱくな時に興達という(のは)人がいて,こちらに城を築いて自ら固まるようにしたというからいわゆる高思葛伊城だ。 中門の外東側麓深い谷間中に魚類洞があると十分に数万人を受け入れることができる。”した。

以上の提起録を検討してみる時に魚類性は築城された状態でない地形のホムゴハムを利用してケリムニョンノ(鶏立嶺路:チルプチェギル)と新しいジェギルを防御するためにあったことと推測される。 チルプチェを防御すること大切にしては多くの軍事を収容(受容)できる大きい性がなければならない。

新羅としては北方勢力防御に最も重要なところがケリムニョンと竹嶺(チュンニョン)というならばケリムニョン防御は新羅の存廃がかかった町角に違いないと言えよう。 この魚類性ではケリムニョンウロブトの道を監製してとても重要なところを防御するのに最も理想的であるところに違いない。 魚類性では葛坪,犬音,評千,龍淵(ヨンヨン),唐布,妖星,聞慶(ムンギョン)等のどこを問わず出撃・防御が容易なところといえる。 だから高句麗が竹嶺(チュンニョン)を越えたがただ一度も越えることができないのが魚類性にあったと思う。

そして新羅の北方進出にもこちらに前進基地があったといえば難なく漢江(ハンガン)に達することができる。 この魚類性で至近な通り(距離)がチルプチェヨ,また北に同化(動画,童話)院で鳥嶺(セジェ)を越える事もでき東北で点語峠を越えればケリムニョンと合わされる。 一部学者らは新羅北進の道を竹嶺(チュンニョン)だけを考えるのに漢江(ハンガン)に達するところは竹嶺(チュンニョン)とケリムニョンが似ていて,特に高句麗の南進基地(機知)の局員性(国原城:忠州(チュンジュ))を掌握するには系リップリョン道でなければならない。

このように見るならば魚類性をもう一度注意深く見なければならないと考える。
考慮末葉に紅巾賊の侵入を受けた恭愍王がこちらで留まったという記録が聞慶(ムンギョン)現地とヨンジソンニョエも見える。 紅巾賊は中国で起きた韓山東を親分にした盗賊の無理やり1361年(恭愍王10年)に二番目我が国に侵攻してきた。 その年11月に紅巾賊が開京に肉迫するので恭愍王は開京を離れて,12月伏奏(福州:今の安東(アンドン))に(早い)達した。

安東(アンドン)で幸在所をそろえて開京の修復を待って翌年(1362) 2月に尚州に移した。 恭愍王が常駐に滞留することを半年,その年8月に清州に移るまで(1362年2月から8月まで)のこちら魚類性に留まったと推測される。 今まで魚類性中(案)には当時の宮殿維持が残っていて,主屹山(チュフルサン)首脳(頂上,正常)の評千ページ低いところを殿坐門といって,恭愍王が毎日そちらでチルプチェギルを眺めてうれしい便り来ることを待ったという。 聞慶(ムンギョン)現地健歯沿革組に見れば“恭愍王が勝ったという便りを見た村で聞いて因って,村の名前を聞慶だと直した。”と記録していることを見る時に恭愍王がこちらに留まっていたことが事実といえる。

①魚類性の地形魚類性は百強イギョンで(白江李敬輿)が説明した通り東南は切り立った絶壁だから上がることはできない。 聞慶(ムンギョン),妖星,紙曲,八リョン,評千方面では上がったり攻撃するのが不可能だ。 鶏立嶺路はこの東南側で過ぎなければならない。

切り立った絶壁で自然の天険の主屹山(チュフルサン)(標高1,107m)ではケリムニョンノを一つももれなく監製して調べて攻撃が可能だが山の麓で上がって攻撃することはとうてい不可能でする。 鳥嶺(セジェ)側でも二省を攻撃することは容易ではない。 鷹岩(ウンアム)がある中性で首脳(頂上,正常)までが7kmになってその中間には突き抜けるのが難しい谷間の連続だ。 魚類性の地形はイギョン余暇話した通り難功不落の要塞地と話せる。

これと共にハム告げたところであったため恭愍王が開京に帰る途中こちら魚類性に留まったという事実が証明される。 しかし前でも記録したが高麗史と高麗史概要では安東(アンドン),常駐,清州(チョンジュ)に滞留した記録があるだけだ。 私たちの故障も当時常駐の属県であったため別に聞慶(ムンギョン)といわないことか分からない。

(3)マ故買った性(麻姑山城)増補文献備考官房組には麻姑山城がなくて妖星(要城要=耳+卯)として周りが565隻なのに県の東側4里にあるといったし,また井谷城が倭城備局に登載されていると記録している。 またファニョスンナムでは“クンの東南側4里なる山委に石で積もったので周囲が556隻だ。 妖星は本来性妾がなくて正鵠リ後方の山の性がそれだ。”としている。 前の記録を総合してみる時,妖星,正鵠性は皆がマ・コソンの別称と推測される。

マ・コサン聖恩三国時代にケリムニョンノを防御した性であり,当時のムン・ギョンヒョンの治所行っていた所ではないかといえる。 一部学者らはこのマ・コサン性を高思葛伊城で見る見解もある。
マ・コサン聖恩鳳鳴山北側麓に石で築造されている。 山の8部稜線について築造されたし,材料は奉命産(山)に散在された硬石だ。

この誠意位置は北側でケリムニョンノをよって南へ来る町角を遮断している。 ケリムニョンギリナあるいは新しいジェギルそしてしなび道を行こうとするなら必ずマ・コソン下を通過しなければならない。
この誠意西北面は広い開放地で,性下は鳥嶺川と葛坪川が合流地点であり,東南面は高い山で囲まれている。 マ・コソンで南へ約6km地点に姑母城があって,叔母性の向い側魚龍(オリョン)山の上に姑夫城がある。 これら3ヶの性はその築造年代が同じである時と推測される。

誠意築造方法でも使われた材料が同一でその築城目的が新羅のとおりのケリムニョンノを防御するのにために築造されるといえよう。

(4)と某買った性(姑母山城)「聞慶(ムンギョン)現地」に“姑母城は兎遷の西側龍淵の上(胃)にあって一筋が互いに会う所にウンガーして,両側の谷間を縛ったようで,中間に大川が流れる。 壬辰倭乱の時に倭人の酋長がここを守る軍事があるだろうか恐ろしくて,3度や斥候を送ってのぞいて,防備がないことを分かってはこれに歌って踊って過ぎた。”至っている。

「増補文献備考」には“叔母性は南に20里兎遷の西側断峯の上にある。 二つの谷間を縛ったようで,中間に大川が流れる。 左・右の長さ(道が)会う所だ。 戒師年(1893)に県監金禎根がクァン愛重紙(関隘重地:カンを設置して打ち込む重要な土地)として,トルゴゲ城を築いて鎮南楼をたてた。”した。

叔母酸性は現聞慶市(ムンギョンシ),麻城面(マソンミョン),シニョルリにあって慶北(キョンブク)八景の一つのジンナム撹はんにある。 同・南・北では小白(ソペク)山脈の険しい峻嶺すなわちクァンニョサン(広廬山:今の五情産(山)),檀山,浮雲嶺が繋がっていて,で・男では加恩川,蘇耶川が流れて魚龍(オリョン)産(山)が前を防いでいる。

叔母酸性の下にあるところを通じなくては南北で往来することはできない。 昔の大きい道のケリムニョンノを行き来しようとするなら必ず叔母山の麓を通過してこそ行き来することができる。 このような交通上の地形と相場を十分利用して城を築いたという事実は今日の戦略でも絶対必要な地点といえる。

このような町角に性を築造して北方の百済と高句麗の南進を阻止した新羅の人々の叡智が光らせている。 特に三国初期には百済の侵攻が多かった。 今の槐山(クェサン),忠州(チュンジュ)を掌握した百済は188年(百済肖古王23年,新羅伐休王5年)に新羅の母山城を攻撃した。

そして2年後の190年(百済肖古王25年,新羅伐休王7年)に百済は新羅の原産香り(円山郷:今の龍宮)を攻撃してまた進撃して,富谷(プゴク)性(缶谷城:今の軍威地方(脂肪))を攻撃すると新羅の仇道が百済軍(郡)を追って瓦斯は(蛙山:今の報恩(ポウン)方面)で敗れたと三国史記は記録している。

ここで話す母山城を一部学者らが忠北(チュンブク),鎮川(ジンチョン)の大母山城だと推定しているが,大母酸性(大母山城:する鷹性,する美声)は188年当時には新羅の土が成ることが出来ない。 188年当時ならば,新羅はまだケリムニョンノを開通させてわずか36年になって,小白(ソペク)山脈南にも多くの不足勢力らが残存している時なのに忠北(チュンブク)の鎮川(ジンチョン)まで進出したとのことは理論が成立しない。

そしてまた罹病賭博士は全羅道(チョルラド)雲峰で推定(国訳三国期および朝鮮歴史地理)しているがこの時は洛東江(ナクトンガン)西側,智異山(チリサン)東側は6ガヤの地図なのにどのように新羅で智異山(チリサン)を越えて,雲峰(ウンボン)を占めたかという疑問が残る。

イ・某酸性(母山城:ハルムェソン)を私たちの故障の放言により姑母城で仮定するならば原産香り(円山郷:龍宮)と近い通り(距離)で,缶渓また隣だから推定が可能になる。 叔母酸性周囲には古墳が多い。 ここでは三国初期の土器の孔列土器と土器号,土器杯などが出土している。 このような事実は叔母酸性を守った人々や叔母酸性を築造した人々の遺物だと見る時にこの酸性は2世紀頃新羅でケリムニョンノを開通させることと同じ連帯に築造されたことで推定することができる。

そしてこの叔母酸性の位置は誰も避けることはできない首だ。 叔母酸性で北側を眺めれば主屹山(チュフルサン)南の広い開放地がひと目で見えて,蟻一匹ものがさないように展望,監製が可能で南側では安徽モリ(プルチョン駅:北側地域)が他の所の道を開くことはできない地形だ。

特にウサギ不正(兎遷)の崖道は南北交通路の険しい道中で最も険しい道で,あい路で有名なところだ。 たとえばケリムニョンで男での新羅を攻撃するならば先に魚類性とマ・コサン性を通過しなければならない。 この二性を通過したといっても必ず叔母酸性を押し倒さなくては新羅内陸に進出することはできなくて槐山(クェサン)方面でヒヤン酸性,カウン性をすぎてきたといっても叔母酸性をすぎなくては内陸進出が不可能だ。

もし叔母酸性全部陥落するならばキョン弾リから増えた平野地帯が展開すると新羅としては北側勢力の南進を阻止させる最後の砦といえる。
叔母酸性はその築城目的が北からの侵入を防御するためのものだと見られて,北に進出するための基地(機知)としての役割は少なかったと見られる。

これら酸性(マ・コソン,叔母性,姑と嫁性)は新羅の国境地域が危険だった時を備えるための築城で見るべきで,真興王以後新羅の漢江(ハンガン)流域占領が確かになるとその任務を遂行する機会は事実上終わったことと考えられる。 しかしその後にも後三国時代高麗太祖王健にからまった説話と朝鮮朝の壬辰倭乱,英祖組のイ寅坐の私は,同学抗争,韓末義兵抗争などでも叔母酸性は重要な役割をしたという記録がある。

③カウン性戦闘キョン・フォンは敬順王3年(敬順王3年:929) 10月に加恩県を包囲して勝つことができなくて帰った。 (三国史記新羅王の伝記敬順王2年10月組)上から見れば929年10月にキョン・フォンは自身の出生地のカウン性を攻撃したが失敗する。 キョン・フォンが初めて奇病(騎兵)時には常駐,聞慶(ムンギョン)地方が皆キョン・フォンの管轄権だったと見られる。 なぜならキョン・フォンのお父さん阿慈介が沙伐城主がよかったことから見る時,キョン・フォンの勢力圏の中ではなくては不可能だ。

キョン・フォンのお父さん牙子犬はキョン・フォンが自身の出生地カウニョンを攻撃する13年前の(新羅傾命王2年:918)にすでに高麗太祖に降参している。 「7月に尚州賊帥牙子凱歌使節を送って,太祖に降参した。」(三国史記新羅王の伝記傾命王2年7月組)それならキョン・フォンのお父さん牙子犬は自らの息子が後百済の王として常勝疾走している時になぜ常駐地方(脂肪)を持って,王健に行ったかするのに疑問を持たざるをえない。

この事件も確かには分からないがキョン・フォンとの父子の間不和で起因したことではないかという。 キョン・フォンは自らの親父が持って考慮に降参した出身地を起筆高探すべきだとの心でカウニョンを攻撃したが失敗する。 一説には新羅の敬順王が直接カウンまできて,鳳岩(ボンアム)寺にユスク下面でキョン・フォンと戦ったという。

現在鳳岩(ボンアム)寺祖師堂が敬順王の行在所で使われたという伝説が伝えられている。 私たちの故障が産んだ偉大な英雄キョン・フォンは家を間違って治めて,彼のお父さん牙子犬と息子身体検査に裏切られてその大きい意向を繰り広げられないまま死んだ。


(7)高思葛伊城信証東国輿地勝覧(新増東国輿地勝覧)ムン・ギョンヒョン建置沿革組に見れば本来新羅の冠文県だ。 また高思葛伊城だと(早い)達してまた冠県といった。 しかし固辞(考査,告辞,枯死)耕作性が現在のどこなのかは確かに断定することはできない。 延世(ヨンセ)大利刀学は彼の執筆した「新羅北進侵略の拠点醴泉(イェチョン)の上を哭声」で“聞慶(ムンギョン)の麻姑城は固辞(考査,告辞,枯死)耕作性がほとんど明らかだ”としているがどこに基づいているのかも確実な説明がない。

一説には鳥嶺産(山)チェ2冠文(門)東側谷間で主屹山(チュフルサン)首脳(頂上,正常)までを固辞(考査,告辞,枯死)耕作性ではないのか推測する。 その推定する根拠は次のようだ。
高麗史節要太祖10年(927) 8月組に“8月に王が康州を巡行する時,固辞(考査,告辞,枯死)耕作性をすぎると城主興達がその息子を先に送って帰順した。

これに後百済で置いた性守る役人たちもまたみな降参すると王がこれを感心して感じて興達には青州のサビを下ろしてその長男俊達には珍州の溶ける,次男雄達には寒水の溶ける,三番目の息子玉達には長浅のサビを下して,また田宅をおろしてくれた。

”したし,増補文献備考余地で官房組(増補文献備考輿地考関防條)には高麗太祖の主筆紙が魚類性といったので,果たしてその山中にヒョンを治める性があったのかは分からない。 現在聖地がある井谷里の麻姑城と上草里の魚類性,この二城中どれが「固辞(考査,告辞,枯死)耕作性」なのかはもう少し研究が必要だと見る。

しかし過去の聞慶県誌によれば次の通り記録している。 “鳥嶺はケリムニョンでのびて達項に達して,二つの幹に分かれられる東から聳えて主屹山になって西の方に相次いで鳥嶺になった。 岩が切り立ったような勢いで広く覆ってマッチャバ対し抑制すると自然に,城郭を作った。

ヨンウイ首脳(頂上,正常)から北側は忠州(チュンジュ)のNolumok(〓項)についてこそはじめて平たく広い道に出て行って,男では本ヒョンウィ犬灘に達してはじめて平たく広い野原に出て行ける場合があるのでその間100里余りが高くて険しくて,石長さ(道が)数奇だ。 俗伝に三韓時興達がこちらに城を築いて自ら堅く守ったのでいわゆる「固辞(考査,告辞,枯死)耕作性」であったか疑問が残る。

高思葛伊城主ふん月は考慮に亡命した2年後の929年9月に“キョン・フォンが将来固辞(考査,告辞,枯死)耕作性を打とうとすると城主(星州)ふん月がこれを聞いて出て行って戦おうとする時,入浴をして突然上がった八位に滅者があることを見て10余日ぶりに病気にかかって死んだ。” (高麗史節要太祖12年巳丑條)したし,“キョン・フォンが自身の出生地の加恩県を包囲したが勝つことができなくて帰った。

” (高麗史節要太祖12年9月條)でしたと見る時,キョン・フォンは自身の出生地とその近隣の性を攻撃しても勝つことができないことが明白で,同じ年10月にキョン・フォンは高敞郡(コチャングン)(古昌郡:現安東)を包囲攻撃したが考慮軍(郡)に敗退する。


(8)杯(倍)買った性(拝山城)拝山城は虎渓県の過去の名前だ。 東国輿地勝覧ムン・ギョンヒョン古跡組に見れば“虎渓廃県はヒョンで東南40里にある。 根本は新羅虎則県であり,また拝山城だと(早い)達する。”とした。 そして高麗史チョリョ太祖10年8月組には“船酸性を収縮して政調(正朝本当に7中武散階)チェソンに命じて,軍事2代を率いてこちらを守るようにした”とした。

この船酸性があった席がどこなのかは確実でない。 過去のホ・ケヒョンという(のは)現店村(チョムチョン)市と虎渓面(ホゲミョン)のウ・ローリー西北地域であり,その警戒(境界)は虎渓面(ホゲミョン)キョン弾リと麻城面(マソンミョン),シニョルリの警戒(境界)までに見なければならない。 その北側はムン・ギョンヒョンであるためだ。

そのように見る時に船酸性の位置は現店村(チョムチョン)と虎渓面(ホゲミョン)地域で探さなければならないのに,この地域内には過去の聖地がある所がない。 しかしこの地域中で船酸性があった所で推測が行く所が枠組み某産(山)だ。

枠組み某産(山)は当時ケリムニョンギルが幽谷リと火整理を経なければならなくて東には天涯の絶壁を成し遂げた下に英カンが流れている。 この枠組み某産(山)では幽谷リと火整理の道路を監製してさらにはキョン弾リ・キルド監製できる天然の要塞地といえる。

船酸性(拝山城:チョルムェソンあるいはチョルムェサン,ペムェサン)を枠組み某産(山)で見る理由は当時のとおりのケリムニョンを行くなら必ず幽谷リと向い側のキョン弾リを経てこそ行けるし北進する兵力も南侵する兵力もここをすぎてこそ常駐,醴泉(イェチョン)方面に通じることができるためだ。

そして枠組み某産(山)という(のは)指名だ。 枠組み某産(山)は村の名前であって山の名前ではないのに今までその村を枠組み某産(山)だと呼んでいる。 船酸性が韓国語ではチョルムェサンがなる。 二チョルムェサンが変音なってトゥルムェサン,枠組み某産(山)になったことではないか推測される。 また枠組み某産(山)で少し出てくればペットゥルだ. 拝山城この船縮約して性というといってもペットゥル近くの買った谷間では枠組み某産(山)があるだけだ。

以上で私たちは三国時代の私たちの故障にあった城とその性にあった歴史的事実を考察してみた。 ここで調べた三国時代の性がクン癌性(近巌城:別名クン品性)だけがその位置を確かに知ることが出来てその他の性らはその位置を正確に分からないのに惜しいと言えよう。

しかし以上で調べた歴史記録を通じて,私たちの故障が三国時代当時どれくらい重要な役割をしたのかが分かる。 新羅北進の戦略的要衝地として高句麗と百済の南進を阻止するには私たちの故障が地理的特殊性があったためだ。

それは南漢江(ナムハンガン)上流と洛東江(ナクトンガン)上流をつなぐ2代内陸水露を結びつける最短距離地域と同時に嶺南(ヨンナム)の関門として北方の先進文物が伝来する町角だというところで三国の欲がこの地域に集中することで,三国勢力の戦場になったりした。しかしこの酸性らは三国時代にだけ限定されたのではなくその後にも永い歳月にかけて,国防に多くの役割をしたので現存する私たちの故障の酸性と歴史的事実および戦略的価値に対し記述しようとする。



前でも見た通り私たちの故障は三国時代戦略的要衝地であったため酸性が多いといった。 ここでは増補文献備考余地で官房組に登載された私たちの故障の酸性鳥嶺性,姑夫城,姑母城,妖星(要城要=耳+尭),甄萱山城,曦陽山城,御留城,井谷城,鵲城,古城(大声)(姑城:別名老区城九=女+区))および加恩城,花庄城を順に見回してみようと思う。

私たちの故障の性らは概略道に従って,その道を防御してその道を通じて,前進する基地(機知)としての役割をしたようだ。 魚類性と妖星,マ・コソン(正鵠性),叔母性,姑と嫁性がケリムニョンノを,そして作成,労苦性,化粧性がチョクソンノ(ポルチェギル)を,ヒヤン酸性が五峯(オボン)正路を,天馬山(チョンマサン)性(キョン・フォン酸性)がコモリョンノと災い北路を防御して直ちに進出するために築造されたと推測される。 ここでは各誠意位置とその戦略的価値およびその性であった歴史的事実を調べることにする。

(1)組リョン買った性(鳥嶺山城)増補文献備考余地で官房組に“聞慶(ムンギョン)鳥嶺性は粛宗34年(粛宗34年:1708)に石で積んだ。 南北が18里で,周りが1万8千5百9より。 性が三ヶ所にあると一つは経営湖西と嶺南(ヨンナム)の警戒(境界)にあって,一つは鷹岩北側に忠元の旧城を因って築き直したし,一つは草谷にあると軍餉倉がある。

三省がみな紅霞文(門)があって,大通りが通じる。 英危疑性を鳥嶺関だと呼んで中性を鳥東門といって草谷城を主屹関という。 また水口に紅霞文(門)3間を置いて,ソンアニすべての小川がみなこちらに流れ出る。”したし,過去の聞慶(ムンギョン)現地にはわんぱくな時に興達がこちらに城を築いて自ら固まるようにするといわゆる高思葛伊城がこちらだ。 コした。

英祖妊娠(英祖壬申:1752)に独鎮を設置して県監で守城将を兼ねるようにした。 (英祖実録妊娠組,聞慶(ムンギョン)現地官職組)そして鳥嶺鎮に別将1人(武科4品官)を置いて軍官2人,軍器監官1人,手帳軍官(守〓軍官) 3百人,鎮吏4人,知印4人,使令7人,奴8区(具)を置いた。 (聞慶(ムンギョン)現地官職組)また鳥嶺陣には5村(聞慶(ムンギョン)・常駐・咸昌(ハムチャン)・龍宮・醴泉(イェチョン))の軍餉倉庫と軍器等庫があった。

私たちのムン・ギョンヒョンには鳥嶺酸性の軍餉米で毎年米5百47席1頭2合9社と豆1百91席7頭8勝8合8社を出して,鳥嶺性中にある東・西・南・北4ヶ倉庫に納付した。 (聞慶(ムンギョン)現地田賦條)鳥嶺路すなわち新しいジェギルを朝鮮太宗14年(1414)に開通させて,嶺南(ヨンナム)とソウルをつなぐ大通りで利用するようにした。

その時まで利用したケリムニョンノ(チルプチェギル)をやめて鳥嶺(セジェ)に新しい道を開通させて,この道だけを利用するようにした。 新しいジェギルは前で言及したが新しいジェギル30里は切り立った岩の間を人馬だけが越えることができる険しい道であり,天険の要塞地だ。

嶺南(ヨンナム)の高尚な人らが過去見に漢陽を行くなら必ずこの峠を越えるべきなのに鳥嶺(セジェ)を無事に越して反過去はしたというところだ。 ケリムニョンノが新羅・考慮の道だったら鳥嶺(セジェ)は朝鮮朝の道だ. また嶺南(ヨンナム)のすべての租税と供物(貢物)が洛東江(ナクトンガン)で水運なって,ハ風疹で陸路で人材と牛馬を利用して,忠州(チュンジュ)可興倉まで運送になれば嘉興窓(ウィンドウ)では寒江津から舟運に漢江(ハンガン)を利用して,ソウルの麻浦まで行ったというと新しいジェギルはその細工を運ぶ人馬に如何に多い漢菓苦難を体験しなければならなかった長さだけか。

このような重要なところにジングァンが設置されなかったために壬辰倭乱(壬辰倭乱:1592)時にこちらを守ることができなくてソウルがあっという間に陥落する恥辱的受難にあった。 壬辰倭乱の時明国支援軍総指揮観にきた都督李如松がこちらをすぎて,開戦初期にこちらを守れなかったシルリプ(申〓)を恨んで,作った市価あると次のようだ。

“鳥嶺の高くて険しさが白狐や長いな。 明らかに空は韓国をポホッケ作ったんだな”してなげいて話をすることを十分に無謀して(早い)達するな。”した。
先祖25年(宣祖25年:1592) 4月13日に倭軍は釜山(プサン)に上陸して,破竹の勢いで北進を継続する。

4月26日に常駐が陥落して4月27日には聞慶(ムンギョン)に侵入して,県監申吉元が孤軍奮闘して外敵に捕えられて,四肢が切断される苦痛にあいながらも,最後まで外敵を叱って殉節をした。 (慶尚道(キョンサンド)純栄禄)その以前に調整では当代の名匠(名将)のシルリプ(申〓)に8ドドスンビョンサ(八道都巡辺使:野戦軍総司令官)を任命して,外敵を防御させた。

ト巡辺使シルリプは従事観(参謀長)金汝勿と漢陽で募集した8千人の軍事を率いて忠州(チュンジュ)に達した。 その日が4月25日であり,巡辺使李鎰が常駐で敗れて逃走したことで前日だ。 従事観キムマグサが言うことを“天下の要衝の鳥嶺(セジェ)を守らなければなりません。”してシルリプは偵察隊を導いて鳥嶺(セジェ)の地形を偵察した。

しかしここでシルリプは千慮一失の誤った判断をする。 “書いた鳥銃で武装した20万の大軍なのに私が率いた8千人を漢陽で急募した訓練されなかった烏合の衆だ。 もしこちらに陣を敷いて,退路を置いたら一度争うこともできなくて皆が逃亡するだろう。 残って世の中に出て一度死があるだけだ。

退いても死んで戦っても死ぬ絶対絶命の土地で戦わなければならない。”といいながら忠州(チュンジュ),弾琴台(タングムデ)で達川(タルチョン)を後に置いた裵水陣を打って4月28日に外敵と大回転を展開して,8千人全員が戦死した。 もしこの時鳥嶺に城壁があって関門が設置されていたとすればこのようなことがあったのか物足りなさが残る事実だ。

この壬辰倭乱から5年後の先祖バカ(丙申:1596)年に釜山(プサン)・蔚山(ウルサン)まで退却した倭軍が本土での派遣軍と同じように再度侵攻をしようとする時に忠州(チュンジュ)守門将申忠元が“忠州(チュンジュ)を守るところはただ鳥嶺(セジェ)を守るのに走った。”と“鳥嶺(セジェ)中間地点の最もハムと狭い鷹岩に城を築かなければならない。

”といいながら総力を傾けて,現在の第2省の鷹岩(ウンアム)性を築造した。 翌年精油年(丁酉年:1597)に再侵入を敢行した倭軍は鳥嶺を越えるのを断念してその唾(針)功労(空路)を湖南(ホナム)方面に変更した。
このような経験がある国では壬辰倭乱と丙子胡乱など叫びを体験して,鳥嶺の重要性を悟って鳥嶺に対する防備を考えることになる。

大東野乗クォン4人組16年無人4月11日照に見れば“嶺南(ヨンナム)では魚類酸性(鳥嶺(セジェ)中性)を収縮させた。 この性は三国時代に賃金が駐駕した所という。”として,はじめて鳥嶺の酸性を収縮させたが今日と同じ性は収縮でなかった。 それから40年が過ぎた粛宗34年(1708)にきて,鳥嶺に3ヶの性を収縮して44年後の英祖妊娠(1752)年にジンを設置して守城軍を配置した。

鳥嶺性は第1省の主屹(チュフル)観は出ることからくることを防いで第3省の鳥嶺観は北にくることを防御するのにために築城されたとするがその城壁構造を見る時,3省皆が南側を防御するように築城されている。 3ヶの性が全部南面(ナムミョン)は削ってたてたし北面は上がって下せるように階段で築造された。

鳥嶺性が築造された以後の戦いは1896年2月13日日帝の侵略を阻止させて国権を回復するために起きた泣いた川イガン年(雲崗李康〓)ウイジンが鳥嶺(セジェ)動員村に駐留して,一群と中性で戦ったが不利だった。 (ウン鋼鉄船生創意日録) 1907年8月にイガン年部隊が中性に駐留したが鳥嶺観を守ったウイジンが敗れたという報告を受けて上草曲第1館を守った。

泣いた川イガン年は第1関門に駐留した兵力を引率して8月3日葛坪で進撃して,日本軍1中隊をせん滅した。(ウン鋼鉄船生創意日録)葛坪戦闘があった後に日本軍は鳥嶺の3省門楼を燃やして誠意一部を崩して,荒廃化させた。


①鳥嶺酸性の築城史壬辰倭乱勃発初期にシルリプ(申〓)将軍が鳥嶺を守らなくて忠州(チュンジュ),達川(タルチョン)(達川:タルレ)で背水陣で倭軍と戦って敗戦することになるや調整でもチョリョンノを守らないのを後悔して防備がないことを心配することになる。

先祖26年(1593)先祖王は義州(イジュ)行在所を離れて,ソウルでの帰還のために安州に滞留している時に安住(おつまみ)百祥楼で明国使節院外と有情(員外郎劉挺)が先祖王に鳥嶺官房設備の必要性を力説した。 しかし戦乱による物資の欠乏で実行を躊躇した。 遊園外が言うことを“帰国がソウルを守ろうとするなら先に不可不鳥嶺を守らなければならないことです。

もし敵中できめ出荷は自家あって,その要害になることを知って先に嶺にウンガーして,防備することになれば千兵(明国軍事)に会うといっても制圧するのがきわめて難しいこととか速くたけていた宰臣を送って要害1ヶ所を見回して関を設置して防備するようにして下さい。”したが朝鮮朝情では中国の山海関のようにしようとか,鳥嶺だけが天険ではないが他の所はソルグァンしなくてなるかなど議論だけ繰り返すことになった。

この時平安監査李元翼,病死(兵士)シンジャプ(申ヂャプジョブ=石+集),優勝紙柳夢鼎,朱書金尚窩,コムニョル趙維韓などの議論で鳥嶺と竹嶺(チュンニョン)のソルグァンをするための資料収集のため画工12人を中国に派遣しろとの先祖の指示があったが成し遂げることができなくて設関をするとしても書いた兵力で守りにくかったとかソルグァンをしようとかその時の弊害の東・西当たりのワルカワルブに挫折した。

先祖26年(1598) 12月に領相柳成龍が“今回の戦争で性に頼って,承前した例が多いです。”とその経験を聞いて,鳥嶺ソルグァンをまた常駐して,先祖王も鳥嶺説観の必要性を感じることになった。 ユ・ソンニョンは忠州(チュンジュ)守門将申忠元の鳥嶺の地勢とソルグァンおよびソルグァン厚意破水計画を持って先祖27年(1594) 2月に再度上奏をした。

“鳥嶺は国の文科同じで,忠州(チュンジュ)を守ろうとするなら鳥嶺で防がなければならなくて忠州(チュンジュ)が陥落すればある強硬姿勢白狐を自然に失うことになります。 忠州(チュンジュ)守門将臣忠院は鳥嶺地勢をよく知っているのに鳥嶺の嶺山には雑路が多くて防ぐのが難しくてヨンで東に10里位降りて行けば切り立った絶壁が両側に聳えていてその中心に水が流れて,

道行く人らが木をかけて渡らなければならない所が何と24ヶ所もなる地点を鷹岩というとこちらにソルグァンをして,多少こちらに達する時,橋(脚)を撤去して上側に水を防いでトゥノウミョンあえて踏み込めないことであり弓努と菱鉄火砲などを撃つといえば100人余りでも守ることができる。

聞慶(ムンギョン)東側には過去の道があって,鳥嶺の西側に達することになるが百余年間使ったことがなくて,山林がうっそうとして空が見られなくて通いにくくて,聞慶(ムンギョン)西側にも小路が延豊県の東側につくがあまりにも険しくて,ここも(しなびる理財) 数十人ならば守ることができる。

軟風邑と水回村の土地が肥沃だから僧軍と山尺ペク女性を得て屯田耕種して,兵糧に充当して火薬銃砲を得て,夜昼で訓練すれば精軍を得ることができると農資を与えて,派遣して下さい。”と建議して,先祖王の允許を受けた。

臣忠院は直ちに人を集めて,築城を始めた。 先祖27年忠清巡察使尹承勳は築城のチンチョプ状況を見渡してみて勇将に数百人を与えて守るならば大兵があげてくるといっても前日のようにじゅうりんされないだろう。”して,竹嶺(チュンニョン)も鳥嶺と同じようにソルグァンをすれば良いですが,臣忠院が城を築いて出た後にそれ(彼)にとって竹嶺(チュンニョン)にも築城させれば良い成果を得そうだという長計(状啓:報告書)があったが物力が不足して,開始できなかった。

備辺司では微賎人が築城の大きい歴史を終えたと褒賞することを建議して,先祖の允許を受けた。 議論だけ繰り返した鳥嶺説観が守門将によって完工するや要塞(このごろ)防御のための勇壮配置件のがあったし,備辺司では軽傷(経常,慶尚)左道で防御を引き受けろとの議論が継続された。

丁酉災乱(慶長の乱)の時の先祖30年(1597) 2月臣忠院は把守官になって,鷹岩(ウンアム)の一字城で遮断破水とあったし嶺上は賛劃使李時発が引き受けて治めてチュンジュ牧師金命胤のカムドカに城基を置き始めて一ヶ月がまだできなくて,3月15日にはすでに非常に威厳があってかたい2中性(2重城)を積んで中で文をたてて,頭の下を見下ろすようにする築城が終わった。

(趙靖文集丁酉年條)臣忠院は訓錬元主簿で昇進になって鳥嶺は重要な関防で防御策であることが分担されたが壬辰倭乱が終わるや鳥嶺守禦も大きい関心がなくなって人造16年(1638)倭寇の動向が心象でないことを見て備局堂上で南関要衝の防御計画が議論されたことがある。

玄宗組に北伐論が台頭して,官房に関心を持った守禦使李浣が鳥嶺に鎮を置いて酸性を積もうという建議をしたことがあって,玄宗14年6月にも建議をしたが後日に先送りすることになる。 粛宗10年(1684)に無人金南斗が“鳥嶺と八良峙”に酸性を積もうと進言して,粛宗11年には護軍金信重が鳥嶺,竹嶺(チュンニョン),チョルリョン,青石などに官房設置を上訴して,粛宗20年には宣伝官成楚衍も彼と似た進言をしていた。

粛宗33年12月に知中枢府事李寅燁は兵曹判書を歴任した重臣で鳥嶺,竹嶺(チュンニョン)の防御策を建議したし一部では江華島(カンファド)築城がさらに至急だという議論が出てきたが粛宗34年11月異人ヨプは翌年春に鳥嶺,秋風嶺(チュプンニョン),八歯磨き,雲峰(ウンボン)に順に築城すると見てと粛宗の允許を受ける。

粛宗34年(1708)に築城承認を受けて実際築城は翌年の粛宗35年(1709)に成り立ったのに聞慶(ムンギョン)現地や信証東国輿地勝覧には粛宗34年に積んだと記載されている。
築城工事は聞慶(ムンギョン)県監李重昌と営裨孫命大によって水磨石と雑石小片で積んで,その功労で加資になったが粛宗38年5月に築城状態が不良で,過半が崩れたという徐宗泰の報告によって,県監二重唱と営婢ソン・ミョンデの行こうという削奪されて罪を受けた。

ここに醜談ソンマンチン(秋潭成晩徴:粛宗祖の王子師傅)の鳥嶺山城記を調べれば,“鳥嶺は天険だ。 湖西と嶺南(ヨンナム)南北ののどにウン昨夏であったから真に要害の所であり,必ず守らなければならない土地といえる。 壬辰年大騒ぎにシン将軍口(申将軍〓)が何のために守らなくて敵にとって歌って踊って西の方に上がるようにしたことは今でも相談するこれらの大きく恨するところになった。

しかしもしその時性があって兵糧があれといって支えることができたとすれば将軍がたとえ良い悪知恵に短かったといっても必ずここを捨てて他で行くことが好きでなかったこととか多少十分に運んで越えることができなかっただろう。 前車が後車の警戒(境界)をなるようにすることとか形勢を見回して時務を分かる方なら誰もここに城を築こうと思わないだろうか。

世の中ことをむさぼって,十分に果敢にする人がなかったためだ。”無子年(戊子年:1708)に以上でイン・ヨプ(李尚書寅燁)が李相国某とともにヒョムモ(協謨:悪知恵を集めて)して,調整に進言して勇気あるように設置することを決めるとことを主管する人を探すのが難しかったが皆が言うことを武臣李重昌がかつてこの山を主管して,民力(民力:民の力)をポンゴロピジしなくて,昔の城を収縮して百世の大計になるようにしたのでこれは真にその人ですするのでこれに聞慶守をチェ・スハとか道(ド)臨むと同時に即民を愛して公務に奉仕する余暇で昼夜なしに計画して推し量って,

食糧と経費(警備)を減らして民に賦課しなくても財力が引っ張って集まって,地形の得することを見回して,石を整えて嶺の北・南・中間に横積むと過去の城地に頼ることであり,また子城三城を積んで,大きい谷間を横切ったので鉄器天狗は(鉄騎千君:鎧着て馬に乗った軍事天意無理)でもあえて誰がどうしようもないことであり,その制勝する方法キュ画したのを見れば人々でとって敬服させる。

東と西は度重なった丘があまねく会って高くて険しい鉄壁になったので城積む仕事をしなくても良かった。 声紋(城門)の上には大きいチョル(望楼)を設置して,南側の表札板は鎮南といって北側の表札板を拱北というとその形勢のりりしさと忠義の気象(機上,起床,奇想)を隠然に命名した。 これに大きい倉庫をたてて,兵糧を満たして僧舎を創建して守るようにするとその長らく行く準備とまっすぐに守る形勢を整えたので愚かな民でも十分に知ることが出来るだろう。

球(公:二重唱を指摘)の練達ある才能と激励の誠意で一生懸命勤勉に努力することが民の先に立つと色々な人が楽しくこの役割をして,数ヶ月が行かなくて,大きい球が終わったのでどうして周易に伝えるいわゆる十分にことを決断して,正しいものを失わないで優しさがあるこれといえる。 ア…南北が強化すると国家が仕事がないが男分からない準備はからめておくこととかこれはまた一関を曲がって折ったことであり,李相両公の開始とか孔子がおっしゃった道(ド)を分かるこれといえる。

これからこれからは肝っ玉がない長寿でも少しは信じるところがあることになって恐れがないだろう。 ましてすばしこい軍事が成案にまいていて安らかなことによって疲れることを待って,敵をかたいソンの下で打ち破って奇兵を出して,帰り道につかみ取れば十分にいくつかの軍事が帰ってこられないとしても十分に敵に捕えられることを免じて君父に罪を及ぼさないこととかどうして偉大でないか。

ここに一説があると礼に言うことを“国に9年の備蓄がなければ不足すると,6年の備蓄がなければ急でしたのでかつて五穀の米が3年が(埋まる)けらなくて皆虫が押し倒すことを見るならば,いわゆる9年・6年の備蓄という(のは)ウイシムコンデそのツンミ(蒸米:太った米)を指す言葉といえる。”で(書:書伝)に(早い)達することを“私が徐戎を打つ時に兵糧を準備した。

”としたし,市(詩)(詩:詩伝)に言うことを“これに倉庫に兵糧を積む。”としたのでこれは皆止めた食糧(乾食)を話すという。
色々な兵書を考察してみればまた止めたご飯(乾飯)の文が多くて兵糧を蒸米ですることはそのいきさつが詳しい。 我が国はどうして単独でないことなのか。 球(公:二重唱)がもしこれで方伯に求めて朝廷に知らせて太った米を酸性に積んで満たすといえば過去の人の遠いだろうを経営する考えに合致してまた毎年おさめて入れる弊害を減らすはずだ。

今まさに公は十分に仕事を終えたが考えればソンアニ仕事がまだ完成されることができないのが多いが任期が終わって遠くへ行くことになると真に実に惜しい。 私がことがあって,鳥嶺をすぎるのに球が私を村舎に訪ねてきて,文を求めて,家禄鼻寝るというから私がたとえ文をよく負けられないがその忠誠された努力に感動して,そのことを簡略に記述してまた無駄で浅い所見を終わりに(早い)達します。

京仁(キョンイン)(庚寅:1710)醜談ソンマンチン(秋潭成晩徴)委の奇聞を参考にしてみれば鳥嶺酸性は戊子(戊子:1708)年に李重昌が聞慶(ムンギョン)県監で赴任して,築城を始めたし,不随月がテゴンスフル(不数月而大功垂訖)としたことから見て築城期間は1年以内と見なければならない。 そうであることにも鳥嶺山城記は2年後の京仁(キョンイン)(庚寅:1710)に作成されたので築城工事を始めた2年後となる。

推測してみるならば二重唱が聞慶(ムンギョン)県監の煮込んで(瓜満:任期)になって離れることになることでソン醜談にお願いして,奇聞を作ったと見ることができる。 それなら鳥嶺酸性の築城年度は無子年(1708)~機軸年(1709)まで続いたと推測されて築城功労が認められて加資になって拙速築城で築城状態が不良だといって問責にあった。

この鳥嶺酸性期が記述されて11年後の警鐘元年伸縮(新築)(景宗元年辛丑:1721)に別将李寅成と都石手宋成元・李永右・姜斗丁などが建て直したという刻記が城壁に残っている。 それから何回も重修したが主屹(チュフル)観重修記を調べれば次のようだ。

英祖28年妊娠(英祖28年壬申:1752)に鳥嶺陣を舌診する時に中央捜査をしてその20年後の英祖48年壬辰(英祖48年壬辰:1772)にまた中央捜査をしたし,憲宗6年庚子(憲宗6年庚子:1840)に中誰何だったとの記録がある。 その他にも主屹(チュフル)観城壁を調べれば中央捜査,建て直した刻記を色々な所で発見することになる。

主屹(チュフル)観の右側盛況社付近の城壁脚気には英祖24年限りなく(英祖24年戊辰:1748)に中央捜査をして順調8年限りなく(純祖8年戊辰:1808) 3月に別荘呉海琳が建て直したと刻んでおいたし,主屹(チュフル)観の左側城壁には高宗(コジョン)17年軽震(高宗17年庚辰:1880)に別荘申永植が建て直したと脚気があって,右側城壁には高宗(コジョン)23年瓶酒(高宗23年丙戌:1886)に別荘金順基の脚気がある。

しかしこの城壁に刻んでおいた何文字ずつを報告はその中央捜査と改築の規模などを分からない。 しかし上の高宗(コジョン)軽震年と丙戌年の2次にかけた改築時には繕工監の9品官だった朴聖浩が設計と監役を担当したことと見て,国家の予算で建て直したと見られる。

その後日帝治下でも1923~1926年間に主屹(チュフル)観を収縮したし,1940年にまた主屹(チュフル)観を中央捜査と当時の聞慶郡(ムンギョングン)数李采郁が中央捜査奇聞を作って,表札板しておいたのが今まで残っている。

しかし日帝時の中央捜査は第1省の主屹(チュフル)観だけ中央捜査と,第2省・第3省は崩れた状態で放置されたことを1977年と1978年にかけて,門楼と城壁を補修して今日に至っている。 鳥嶺別荘は鳥嶺陣が設置される以前からすでに鳥嶺には別将があったことを分かることができる。 粛宗は鳥嶺酸性を築城して,別荘を配置させて,ここを守るようにしたと見なければならない。

なぜなら鳥嶺酸性第1関門城壁に彫られている粛宗年代の改築に別荘の名前が補足任命を見る時に築城と同時に別荘を配置したと推定することができる。
しかし聞慶(ムンギョン)現地英祖本には金賞妊娠(今上壬申:1752)に独鎮を設置して県監が守城将を兼ねるようにしたし,その所属で座首1人,別監2人,千摠1人,把摠2人,知殻官2人,哨官7人,軍官50人,旗牌官27人,衙前32人,知印14人,使令15人,クルロ(軍で) 30人,官奴19区(具),官婢18区(具)が付いたと記録しており,

信証東国輿地勝覧聖地組に別将を置いたが,聞慶(ムンギョン)・咸昌(ハムチャン)二つの村の軍事を専属させたとスソン荘,みた県監兼別荘1人だ. ラで記録していると城壁保守時刻んでおいた粛宗祖の別荘はどのように解釈してこそ良いか分からない。

この時の別荘は恐らく常駐陣で派遣されたと見られる。 歴代(英祖以後)の「聞慶(ムンギョン)現地」には別荘武4品官が1人があると記録しており5村(聞慶(ムンギョン)・咸昌(ハムチャン)・常駐・龍宮・醴泉(イェチョン))のクン香り倉庫と軍器庫があるといった。 このように見るならば聞慶(ムンギョン)県監が兼職する鳥嶺スソン荘の下には性病を統率する無関係出身の別荘があったことを分かることができる。

しかし鳥嶺鎮がなくなった沿道は確実な記録がない。 高宗(コジョン)23年(1886)までも別荘があったという記録が高宗(コジョン)組の聞慶(ムンギョン)現地に見えるがその後では見られない。
韓末1896年から1908年まで日帝の侵略を阻止させて国権を回復しようとする聞慶(ムンギョン)出身義兵部隊の泣いた川イガン年ウイジンとの戦闘が1906年2月6日から同年2月20日までと1907年7月から8月中旬まで鳥嶺酸性内で何回もの戦闘があった。

この時に日本軍は誠意門楼を燃やして城壁を一部破壊した。 この時に消失した門楼中主屹関は1940年に中央捜査復元されたし残りチェ2冠文(門)の鳥谷関とチェ3冠文(門)鳥嶺関は1977年から1978年まで門楼と城壁が保守された。 現在のような性はこの時に補修した姿だ。



③壬辰倭乱と唐橋当校の位置は昔でも今も重要な位置を占めている。 昔にはキョン大佐牛島(ウド)とソウルへ向かう分岐点にあったし現在もその重要性は同じだと言えよう。 この当校を基点にすれば金泉(キムチョン)・安東(アンドン)・忠州(チュンジュ)・義城(ウソン)が60km内外にあって3号国道と34号国道の分岐点がある。 このような位置にある当校を壬辰倭乱(1592)時倭軍が放置するはずがない。

壬辰年(1592) 4月27日常駐から進撃してきた倭軍は聞慶(ムンギョン)を占領して28日には忠州(チュンジュ)に進出してシルリプ(申〓)君と戦いを広げる。 同じ日外敵の一代(一帯)の毛利輝元軍(郡)が多仁で河豊津を渡って咸昌土地で前進して,当校に陣を敷く。

(大東野乗クォン26乱中雑録1)倭軍の先鋒隊はソウルに向かっていって占領地対の治安を引き受けた毛利軍がその主力を常駐と当校に駐留させて,嶺南(ヨンナム)左右陶瓦畿湖間の往来を遮断して周辺の村を略奪する。 我が方でもここを奪還するために数回攻撃をしたが良い結果を得ることができなかった。

倭軍はモリ・フィ原義部長の長曽我部元親の部下3千人を当校と聞慶(ムンギョン)地域に駐留させて鳥嶺を通じる後方補給線と洛東江(ナクトンガン)を利用する水路線を確保するのに力をつくしていた。 我が方で何回もの攻撃で敗れたという事実を大東野乗乱中雑録で調べてみれば次のようだ。

“慶尚道(キョンサンド),咸昌(ハムチャン)当校の多少集まって,大きいジンイなって,龍宮などの地に横行して,将来二番目内地を犯そうとするのに,チュァ監査韓孝純が安東(アンドン)にあって,長期県監李守一で隊長をみなして万戸閔廷鴻などと各村の軍事を率いて龍宮を守るようにして,また安東府使禹伏龍で都指揮大将をみなして醴泉土地に陣を敷くようにして栄川の郷兵と春陽の義兵らが結集して,進んで打って大きく崩れて帰ってくる。

(慶尚道(キョンサンド)純栄禄から出ること)”上の事実を見る時,当校で戦闘が継続されたし結果は奪還をできなかったものとみられる。 そしてこの当校の多少どれくらい目(雪)に可視同じだったかということが同じ年12月にキョン大佐病死(兵士)ハン・ヒョスンが宣祖にあげた状啓によく現れている。

“道内にユ鈍漢多少忍冬・大邱(テグ)・青島・密陽(ミリャン)・記帳(記章,機長)・東莱(トンネ)および咸昌(ハムチャン)から当校などの地に至るまで相変らずユー鈍くなっているのに,当校の書いた左右道義咽喉(咽喉:のど)になる所にあってその勢力がはなはだ致誠すると,たとえ1度の力をつくしても必ず先にこの敵を稚気で目標をみなします。

兵使朴晋と虞候権応銖と密陽(ミリャン)副詞李守一および部長鄭大任などすべての長寿が安東(アンドン)・醴泉(イェチョン)などの地に集まって経営してのぞいたのがすでに数ヶ月が近かったが,多少便利な地点に占拠していてしかも中間に大きい私が遮られて,長寿らが皆難しく思ってまだ一度も攻撃できないので,憤慨してきまり悪さに勝つことができなくて精鋭な軍事2千人を選抜して,

応酬に任せて,機会を見て,夜に襲撃するようにしたし,神は将来10余村の軍事と話を徴発して,義城(ウソン)・安徳(アンドク)トン処に駐留して,忍冬の賊勢をのぞいて,もし機会だけくれば大きく一度攻撃することであり,もし不便(不快)ならばすばしこい軍事を持って夜に襲撃しようとしてまた病死(兵士)でとって大邱(テグ)の敵を夜に攻撃するようにしてすでに約束を定めました。

ただしセンガカオプコンデ兵糧が極難ハニ軍事でとって自ら包んで行かれるくるようにしようとすれば民間に一升した話の貯蓄がなくて飢えて死んだ屍が道に相次いだし,官糧を与えるとハニ各村の倉庫が行ったところごとに空いたのでどうしてするところを知りません。” (慶尚道(キョンサンド)純栄禄に出てくること)と常駐している。 この長計でボア当校の戦略上重要性と当時の実情を分かることができる。

常駐に駐留したことは同月23日に開寧県で退却したが当校には1千人の兵力が駐留していたがこちらは地形が険しくて,彼らに有利だったし,兵力も精強して,堅く守っていたので北では鳥嶺の険要を堅く守って男では軽傷(経常,慶尚)左右譲渡の要地を制圧していた。 軽傷(経常,慶尚)左道巡察使ハン・ヒョスンは左兵使朴晋と同じように軍事を安東(アンドン)部に集結した後時の隙間を見て,撃破しようと試みたが数ヶ月が過ぎるように良い機会を得られなかったのでついに左道の色々な義兵らに命じて,敵とぶつかるようにした。

しかし出て行く義兵ごとに皆敵に大敗されるばかりだった。 ここで咸昌義兵将李逢などが尚州義兵将鄭経世などと互いに連絡した後兵力を集めて,一時に打ったが勝つことができなくていよいよ尚州判官の鄭起龍に援兵を求めることになった。 チョン・キリョンは常駐龍華洞戦闘で敵を大きく終わった後尚州城を火力の攻撃法で修復したことがある。 そしてチョン・キリョンは時の頭4百級を巡営に捧げて常駐性を修復したただで尚州判官になったのだ。

チョン・キリョンは救援(旧怨)要請に応じて,軍事を導いてまもなく常駐で出動して,当校に向かって,急進した後単に先日で敵を大きく避けると敵は壊滅して大乗山に逃げて入ったがチョン・キリョンはまた進撃を加えることに少ないことの全滅してしまった。 彼は引き続き部下軍事中でゴンヨンある長寿数十人を選んで,イン邑了解紙に分散した後敵を見さえすれば撃破すると書いたお互い警戒することになって常駐付近にはあえて接近しないようにした。(宣朝中興誌クォン3,梅軒実記で)上から見るように当校の敵を壬辰年12月末に崩れた。

当校が交通上戦略上どれくらい重要な地点なのかを分かることができることになった。 ここで話す唐橋は今の聞慶市(ムンギョンシ),茅田洞(モジョンドン)と尚州市(サンジュシ),咸昌邑(ハムチャンウプ)輪直リ一代(一帯)を総称する指名であり,当校は店村(チョムチョン)と咸昌邑(ハムチャンウプ)の警戒(境界)にあって,当校寺跡碑は聞慶市(ムンギョンシ)庁広場にたてている。


(6)近品城戦闘および加恩城戦闘

①クン品性戦闘927年(新羅敬愛王4年)秋9月に甄萱が近品城を打って奪って燃やして軍事を気が向いて,高欝府を襲撃して奪って新羅,ソウルの近郊を肉迫すると新羅王は高麗太祖に救援(旧怨)を求めた。 (三国史記列伝(熱戦)キョン・フォン組)これより先立って同じ年正月に高麗太祖王健は龍宮地方(脂肪)を打って,降参させた。

この時キョン・フォンが盟約を破ってしばしば変更を侵略したので王(高麗太祖)が永らく我慢して耐えて,キョン・フォンがとても病気(受ける)乗ること(併(受ける)乗ること)しようとする心を抱いたので王がキョン・フォンを打つと新羅王が軍事を出して,考慮を援助した。 3月に王(高麗太祖)がいよいよクン品性を打って,これを陥落させた。

高麗太祖王健は927年春に現在の龍宮一員と山陽面(サンヤンミョン)一帯を打って,この地域を確保する。 三国史記雑誌第3地理誌に嘉猷県みたクン品ヒョン(本近品県)だと近は巾でもする。 現在の山羊ヒョンだといったので今の山羊地方(脂肪)が確実で尚州郡邑誌続絃組にも一緒に記録されていることを見る時,今の山陽面(サンヤンミョン)懸里後方の山近巌山性でボア間違いないと見る。

927年春に考慮が占領したクン品性を同じ年秋にキョン・フォンが奪還してきれいな富(現霊泉(ヨンチョン)地方)を占領してまさに新羅のソウルを攻撃して鮑石亭で宴会をしていた新羅の景哀王をひきつけて殺して敬愛王の族弟のキム部(金傅:敬順王)をたてて思う存分略奪をして帰った。 それでここでキョン・フォンに対する三国史記列伝(熱戦)キョン・フォン組を移して記載する。


②三国史記のキョン・フォン前“キョン・フォンは新羅尚州加恩県人だ。 本性は李氏だったが後に甄で姓を変えた。 お父さん阿慈介は農作業で生活して後に家を起こして,将軍になった。 初めてフォンが出て,産着中にある時,お父さんが畑を分かれて行ったのでお母さんがご飯を持ってきて,キョン・フォンを森の中に置いたが虎がきて,乳を与えた。

村ではこの話しを聞いて異常に感じると成長するや体毛が雄壮で志気が非凡だった。 従軍して,ワン卿(王京:ソウル)に入ってきて,戍兵になって,南海に行って防御するのに窓(ウィンドウ)を切って敵を待ってその勇気はいつも兵卒のために先頭に立ったので功労(空路)で裨将になった。 真聖王6年に小人らが王のそばにあって政権をもてあそぶと規律はみだれて凶年まで重なって,民は遊離して泥棒群れは蜂起した。

これにキョン・フォンが国を道(ド)きつい意向を抱いて徒党を募集して連れて歩いて,ソウル西南の週・ヒョンを攻撃すると行く所ごとにさらって,わずか一月の間に軍事が5千人余りに達した。

いよいよ無尽主(州,株)(武珍州:現全羅南道(チョルラナムド))を襲撃して自称王といったがあえて公然と王だとできなくて官職を「新羅西南都統指揮病気馬蹄致知節度(窃盗)督戦武功など主君私行前週自社謙語四仲丞相酒国ハン・ナムグン開局工業(新羅西南都統指揮兵馬制置持節都督全武公等州軍事行全州刺使兼御史中丞上柱国漢南郡開国公」として式邑2千戸を持っていた。

この時北原賊梁吉がウン降下とか弓裔自身が行ってその部下になった。 フォンは聞いて遠くはヤンギルに悲壮の敵をチェ・スハであった。 フォンがソ順(西巡:西側を巡行)して完山州に達するや住民が合って慰めるとフォンは好評を得たのを喜んで,左右に(早い)達するものの「私は三国の根源を推察したところ馬韓が先に起きて後に赫居世が勃興した。

したがって辰・弁がしたがって起きた。 それで百済は金馬山で開局して,6百年余りを降りてくるのに唐高宗が新羅のチョンで将軍ソ・ジョンバンを送って,海軍13万で海を渡ってきて新羅キム・ユシンが巻土して,硫酸を経て,使者(ライオン)(泗者)に(早い)達して,党病と結集して,百済を打ってなくした。

今私が果敢に完山(ワンサン)に首都をたてて義慈王の宿憤を解いていないこともあるか」といよいよ後百済王だと自称して官職を用意して,分配した。 時はヒョ球王(孝恭王:900) 4年だった。
使節を呉・越に送って問い合わせると五・月王が答礼することと同時に検校太保ウイ職を追加弟嫁と残りは前職と一緒にした。

5年(ヒョ球王5年)にフォンが大耶城を攻撃して勝つことができなかった。 14年にフォンは金星(錦城:現羅州(ナジュ))が宮例に降参したのを怒って歩・騎病3千で包囲攻撃して,10日を越えるように解けなかった。
信徳王元年(神徳王元年:912)に宮例の諸将が私たちの太祖(太祖:王健)を推戴して,即位させるとキョン・フォンはこの話しを聞いてその年秋8月に日キル・チャン(一吉蹴った)ミン劇(閔劇)を派遣してファレを差し上げて,孔雀扇と智異山(チリサン)の竹箭を捧げた。

また五・月に使節を送って良馬を捧げると五・月王道使節を送って,これに答えて中大夫の位をより多くやって,その他に位は前と同じだった。
4年(920)にキョン・フォンは軍事を起こして歩騎1万人を率いて新羅の大耶城を打って,陥落させて軍事をジンレ性(進礼城:現忠南(チュンナム),錦山(クムサン))に移した。

新羅王はしまったは金律を派遣して,太祖(王健)に救援(旧怨)を求めるので太祖はまもなく軍事を送ると,キョン・フォンはこの話しを聞いて軍事を導いて後退した。 これにキョン・フォンは私たちの太祖と表面ではやわらかくするふりをしながらも,中では相克になった。

敬愛王元年(景哀王元年:924)秋7月にキョン・フォンは息子須弥強を派遣して大耶城・ムンソ性(聞所城)の軍事を発動して,曹物城を攻撃したが性病らは太祖(王健)を大切にして,堅く守備して,また戦うのでスミガンは勝つことができなかった。 その年8月にキョン・フォンは使者(ライオン)を派遣して,太祖(王健)に聡馬を捧げた。

2年(925)冬10月にフォンは歩騎3千人を率いて造物性に踏み込むと太祖もまた正兵を率いて出てきて互いに激戦をしたが,フォンの軍事がはなはだすばしこくて勝負を欠くことができなかった。 太祖は一時和平をして,その軍事らを疲れるようにさせようと文を送って,和親することを求めて,堂弟王信を人質に送るとフォンもこれを承諾して外甥真虎を交質でした。 12月にフォンは軍事を起こして,新羅の居昌など20余省を球取り下げであった。

そしてフォンは使節を後唐で派遣して藩屏になることを志願すると,後堂荘宗は彼に「コムギョテウィ兼市中時百済軍事(検校太尉兼侍中判百済軍事)」の位を与えて,前例によって「チジョルドドク専務工業トンジュ軍事行前週自社解凍西南都統指揮病気馬蹄分謄写百済王(持節都督全武公等州軍事行全州刺史海東西南都統指揮兵馬制置等事百済王」を冊数と式邑2千5百号を与えた。

4年(927)に真虎が突然死んだがフォンはこの話しを聞いて太祖がわざと殺したことで疑ってまもなく考慮の姪子王信を獄中に閉じ込めてまた人をさせて,連戦に送った総マを回してくれと言うと太祖は笑って回してくれた。

4年秋9月にフォンが近品城を打って奪って燃やして軍事を気が向いて,新羅きれいな富(高欝府:霊泉(ヨンチョン)地方)を襲撃して奪って新羅,ソウルの近郊を肉迫すると新羅王は太祖に救援(旧怨)を求めた。 冬10月に太祖は将来軍事を出して,援助しようとした車(茶)にフォンが突然新羅王道に入ってきた。

その時王は婦人と嬪御を連れて鮑石亭(ポソクチョン)に遊び出て行って,酒を置いて楽しんで多少突然入ってくると慌ててどうするところを分からない婦人と一緒に城南の別宮に帰って色々な終始と臣下および女官約款らはみな大騒ぎ筒に陥没した。

フォンは軍事を置いて,大きく略奪して人をさせて,王を捉えて自分の前で殺すようにして直ちに宮中に入って居住して強制的に王妃を引っ張って姦淫して王の族弟金傅で上(胃)を継承させた後王の弟孝廉・宰相英景をひきつけてまた国庫にある貴重な宝物を取得して子供と各種工人らを奪取して帰ると太祖は正兵5千でフォンを公山下で首受けて,大きく戦って,太祖の長寿金楽,申崇謙は死んで色々な軍事は敗れて太祖はやっとからだだけ抜け出た。

フォンは勝利を乗って大きな課題軍(郡)(大木郡:現若木(ヤンモク))を取得した。 契丹の使節娑姑・魔道を(麻石)等35人がきて,予防するとフォンは将軍崔堅をさせて,マ石の一行を搬送させて船に乗って北に行って風に会って,党の登州に押されて,皆捕えられて死んだ。 この時新羅の君臣が国運が衰残して,また興起しにくいといって私たちの太祖を引き込んで,和親を結んで応援になってくれるように望むとキョン・フォンが自ら国を奪う心があって,太祖が先手を打つか心配した。

この理由に軍事を引っ張って王道に入ってあがいたのだ。 敬順王元年(景順王元年:927) 12月に太祖に書信を伝達するものの,「昨日聞くと国相金雄廉などが将来足下を呼び入れて,ソウルにくるようにする形とか国境警備兵の声に癌スッポンが応じるようで毎翼にダルマエナガが裂けようと思うようなものだ。

必ず民はドン底に落ちて従事は空地になることであるから私は先に鳥迹(祖敵)のムチをプディッコ単独で韓信の斧を振り回して明るい年を聞いて,百官に誓って義風で肉部をヒョ柔らかかったです。

思いのほか奸臣は逃げて国君はむごたらしい事態にあったでいよいよ景明王の表弟で古い元気満々の外孫なるこれを敬って,尊位に進むようにして危ない国をまた起こしたので賃金を失って賃金を置いたのがこれにあるというので足下(足下:高麗太祖王健を指摘)は忠告を見回すことができなくてハンガッ流言だけを聞いて,百種類悪知恵で狙って多方面で侵略しました。

しかしまだ私の話頭を見ることができなくて私の牛毛一つも選ぶことができなかったし,初めての冬に都頭索湘が星山の陣営下で手を縛られて1ヶ月中に挫傷キムナクが米理寺前で骸骨だけ残ることになって死亡者も多くても捕われた者も少なくないから強弱がこの同じなので勝敗も十分に分かるでしょう,所期の目的は平壌(ピョンヤン)の楼に弓をかけておいてペガン(〓江:大同江(テドンガン))の水に話を飲ませることです,

ところで前月7日に五月菊使節班尚書行って伝達する王の調書に(そのまま考慮で一緒に永らく互いに楽しみを通じて共に隣の誓いを結ぶとこの頃二ヶ所の質子がみななくなるので因って,いよいよ和親の旧好を喪失して互いに領土を侵して,戦いを終わらないというので今使節を発送して,敬意本土を送ってまた考慮で文院を送ったのでそれぞれお互い親しくて,長さ(道が)美しくして。) しました。」

私は尊王の義は義に篤くて事大思想が深いので詔諭を聞くことになるやまもなくコンギョンヒ敬おうとすると常に足りること止めないでむしろ戦おうとすることを心配して,今調書を記録して送るがチョンコンデ心を寄せて,詳しく見回しなさい。 またウサギと犬が共に疲れればついに嘲弄(冷やかし)の種だけ残して貝とコウノトリが互いに持ちこたえればそれはやはり笑い話だけなることであるから当然本キルロ帰るとは思わないことを警戒(境界)と自ら後悔を及ぼさないで下さい。

明年正月に太祖(王健)は答えるものの,“五月菊通和使反上書が伝えた調書一通を敬ってかたがた足下から伝えた長書を受けました。 草花(華初)の美しい使節が勅書を伝えられかたがた尺素の良い言い方が教誨を与えました。 芝検を敬うとたとえ感激は加えるが華川(ファチョン)(華川)を咲いてみると疑惑を捨てにくい。 今帰る車を依託して,ふと危険な話を宣言します。

私は仰ぎ空が(祈る)借りてくれたことを敬って下へ民の推戴に耐えれないで,長寿の権力を一人占めして経綸の際会に参加することになったことです。 先立って三韓の厄運と九洲の凶年として民はほとんどみな黄巾に所属して農地は皆が赤地でした。 ほとんど大騒ぎの警報(競歩)を防いで国の災難を(求める)救うことができるようなことでいよいよ隣どうし好んで,和親を結んだところ果たして数千里に農業が安らかで七八年を士卒がのんびりと寝ました。

年は酉年で,時は10月にそこまで突然ことが起こって,戦いをプディンヌン状況に達しました。 足下が初めに敵を軽く感じて,直ちに出ることを螳螂が車輪を抵抗するようにするとついに困難を知ってさっさと退くものの蚊が泰山を負けたことのように考えました。 手を集めて頼んで空を置いて誓うものの今日以後では長い世の中を平和に過ごすことであり,もしも誓いを変わるならばシニ罰を与えるつもりだといいました。 私やはり止戈の武を崇めたてて不殺の仁を約束していよいよ何重の包囲を解除して疲れる軍事を休息させて子供を不毛捕えられることも辞退しなくてただし民を安らかにしようとしました。

これこそ私は南側の人に大きいおかげを見せたことです。 ところでどこの早かったです。 三穴(三血)が乾く前に凶悪がまた発作して,山の峰(蜂だけ)のドクが民生に侵害して狼虎の狂が近郊にまであがいて,金星が揺れて御駕が驚くことになりました。 義を守って周を尊重することを五敗(五敗)の斉桓公・晋文公と一緒にする者がどこのあります。 合間を利用して漢を企てるずるがしこい王莽・董卓を見るだけです。

そうして王の王様にとって逆に足下に子供の称号まで出てきたので高くて低さが次序を失うことになるので上下が心配を共にして,皆元甫の忠純があるんじゃなければどうして辞職をまた安定させることができようと考えて私に私慝することがなくて意は王室を高めるのに切実だとし調整に引き込んで危ない国を捕まえるようにしようとするということでした。

足りる毛の先同じ小さい利益だけ見て天地同じ厚い恩恵を忘れて,君主を殺して宮廷を燃やして宰相で乳を漬けて士民を切ってなくして美女を火傷をしようとしたが同じ車に乗せて珍宝を剥奪していっぱいのせて行ったので大悪は桀紂よりもっと行って不仁はギョンヒョより激しかったです。

私は空が崩れたように願望が極に達して年を帰ってくるようにした誠意が売家スズメを追う力をつくすことに誓って犬馬の勤労を咲いてみることにしました。 二番目戦いをぶつける間二年が過ぎました。 陸地では雷であるもよう稲光がするように海上では虎が走るようにヨンイ出るよう動けば成功して始めれば無駄になったのがなかったです。

尹妃は(尹ウィーン)を海岸にチョッコナニ武器が山のように積もったし鄒造を星変でひきつける時には時の死体街らを覆いました。 燕山君(ヨンサングン)では軍営の前で吉奐を切ったし馬利城では旗竿下で随晤を殺しました。 任存城を奪う日に形跡(〓積)等数百人がなくなって清川を壊した時には直心など四五人が首を捧げました。

桐薮は旗竿だけ眺めても崩れて京山は玉を口で噛んできて,降参しました。 康州は男で降参してきて羅府はソで移属なりました。 攻撃がこれと同じだから収復がどうして遠くてぼけています。 必ず指数で張耳は千種類一を洗うことであり烏江で漢王は一捷の球を成し遂げるつもりですよ。
ついに波風が沈んで長さ(道が)国が清平(チョンピョン)するつもりですよ。

空が助けるのに運命がどこにトラガゲソ. まして五月王伝えることが満足で,遠方まで包容して仁が深くて,小さい国を愛して,特に丹禁の調書をおろして青丘の大騒ぎを明らかにするようにヒョ柔らかかったです。 すでに教えを敬った以上あえて従わないです。

もし足下(キョン・フォンを指摘)が勅命を敬って,戦いを中止するならば上国の御真恩恵に恩返しだけでなく海東の切れた系統をつなぐようにすることができることであり,十分に過ちを直すことができないならば後悔しても達し得ないはずであります。”夏5月にキョン・フォンが軍事をこっそりと送って,強酒を襲撃して,3百人余りを殺して将軍有文を降参受けた。

冬11月にフォンが強兵を選抜して缶谷城を打って奪って守城軍1千人余りを殺すと将軍楊志・明式などが降参した。 3年秋7月にフォンが武装した軍事5千人で考慮義城府を攻撃して,ソンジュ将軍洪術が戦死した。 12月にフォンが大軍を起こして,高敞郡(コチャングン)(古昌郡:現安東(アンドン))瓶山の下駐留した。 翌日にフォンは残兵を集めて順州城を襲撃して破って将軍元逢が防ぐことができなくて性を捨てて夜に逃亡してフォンは民を略奪して,全州に移した。

6年にキョン・フォンの臣下公職(球直)がすばしこくて知略があったが太祖を訪ねてきて,降参するとフォンは公職の息子二,娘一人を捉えて不老煮て,橋(脚)筋を切った。 秋9月にフォンが日キチャン相貴を送って,海軍を率いて考慮礼成江に入って,三日を泊まって塩,白,貞3週の腹(船,梨)1百隻を奪って燃やして猪山島の木馬3百匹を捕まえて行かれて行った。

8年春正月にフォンが太祖が渾州に駐留することを聞いていよいよ武装軍(郡)5千を選んで持ってきたが将軍金ピルが彼らが陣を敷く前に強兵数千で突撃して,3千人余りを切って殺すと熊津北側の30余省が噂を聞いて自ずから降参した。 フォンの部下術士宗訓,医者訓謙,勇将尚達,崔弼などが太祖に降参した。

キョン・フォンが妻が多くて,息子10人余りがあった。 四番目息子金剛が背が高くて知恵が多いのでフォンが特別に愛して,自分の席を譲ろうとするとその兄神劒・良劒・龍劒などが察して悩んだ。

おりしも量黒い康州やや厚くなって行ってヨンゴムは武州やや厚くなって行って唯一身体検査だけがフォンのそばにあるのでイチャン能奐は人を強酒・茂朱(ムジュ)2週に送ってヤンゴムなどと一緒に陰謀して,9年春3月にパジンチャン新徳・英順などと一緒に身体検査を薦めてフォンを金山寺に幼稚で人をさせて,金剛を殺して身体検査が大王で自称することと同時に境内に大使令(領)をおろした。 その教書はこのようだ。

“如意が寵愛を特別に(受ける)着たが恵帝が賃金になったし建成が猥濫に,太子席に処することに太宗イ作紅霞で即位した。 千人は変わらないで神器は行く所が決めている。 謹んで思うに大王フォンは神武が無理に優れて英謀が古今に一番上や末世に生まれて,豊富な経験と知性で自任して三韓の土地を瞬時と百済の国を光復(解放)して塗炭を澄まして,民が安らかで風雷とともに鼓舞して,四方でついてきた。

功業が中興に近かったが知慮が一失に軽率だった。 幼い息子が愛を一人占めして奸臣が権力をもてあそんで,大軍を晋恵公の昏暗に引き渡して慈父を晋献公の疑惑で抜かした。 そうして大宝を頑童に与えようとした。 幸運なのは上帝が法則をおろして君子が過ちを直して,私元子でとって一つの国の君長になるようにしたが振り返ってみる時,帝王資格ではないがどうして君臨の知恵があるだろうか。

用心深くて震えて,氷を踏むようにモッカに臨むようだ。 不次の恩恵を広げて維新の政策を見せることが当然なので境内に大使令(領)をおろすことが加える。 10月17日明け方以前を恨んで,すでに発覚したことでもならないことでもすでに決定されたことでもならないことでも皆許すが所属官員はまもなく施行するようにしなさい。

”フォンが金山寺(クムサンサ)で3ケ月の間あとで6月に末っ子息子能乂,娘衰福と愛妾姑比などを連れて錦城で逃げて,人を送って,太祖にお目にかかることを求めると太祖は喜んで,将軍ユ・グムピル,万歳などを送って水路で行って慰めてくるようにしてたどり着くや厚い例で待遇してフォンの年齢自分より10年上(胃)といって高めて尚父を三考南宮に居住するようにすると地位が百官の上(胃)にあることになった。 そして楊州を与えて,式邑をみなすようにしてかたがた金帛蕃縟,男奴,女婢各々40人と内規マ(内キュ馬) 10匹を与えた。

キョン・フォンの婿将軍英規が秘密に,その妻に言うことを“大王が40年を勤労して,成功することになって一日で身内の喧嘩の災いで土地を失ってしまい考慮に降参したのでおよそ貞女は二人の夫を仕えなくて忠臣は二つの賃金を仕えないのでもし自分の賃金を捨てて逆子を仕えるならば何か顔を上げて天下の意志(医師)を見ます。

まして考慮王公は咽喉勤倹で,民心を得たというから恐らく空が世の中のために出した方として必ず三韓の主人になることとか私たちの賃金に文を載せて,慰安してかたがた王公によく見えて,将来の福を企てられないことがあって。」ハニその妻も“あなたお言葉がまさに私の意です。”した。
翌年2月に人を送って,意を伝達していよいよ太祖に申し上げるものの,“もし意気を召し上がるならばチョンコンデ内応になって王師を引き受けます。

”ハニ太祖は大きく喜んで,その使節に手厚く主語送ってかたがた令閨に汚らしいが“もし恩恵を力づけられて1ヶ所にかたまって途中障害さえないならば先に将軍に会った後に内実に入って,夫人にお辞儀をして兄で仕えてお姉様と敬うことであり,ついに厚い恩返しがあることとか天地神明がみなこの誓いを聞きました。”した。

夏6月フォンが申し上げるものの,“所信が殿下(電荷)にからだを依託しているのは殿下(電荷)の威力を力づけられて逆子を切ろうということですので望んでみたら大王は神兵を貸してくださって,その乱賊(難敵)を殺すことになればシニ死んでも残念がないです。”ハニ太祖は快く応諾して先に太子武,将軍述希を送って,見ること病1万を率いて天安府に走るようにした。

秋9月太祖が3軍を率いて天安(チョナン)にたどり着いて,一善に進駐すると身体検査が軍事で断って甲午日本に一利川を間に置いて互いに対抗して,陣勢を広げた。 太祖は上部フォンと共にクンを視察した後大相堅権,述懐,金山,将軍龍吉,奇彦などにとって見ること病3万を率いて左翼になるようにして,対象金鉄,洪儒,守郷,将軍王順,俊良などにとってボギー3万を率いて右翼になるようにして,大匡順式,対象競俊王謙,王乂,ユ・グムピル,将軍貞順,宗煕などにとって鉄器2万,歩兵3千および黒穂哲理(黒水鉄利)制度の強兵9千を率いて中軍になるようにして,隊長軍(郡)公萱,将軍王含允にとって軍事1万5千を率いて先鋒になるようにして北をたたいて行軍した。

百済将軍孝奉・徳述・明吉などがクンの勢力が大きくて秩序が整然さを眺めて軍服を脱ぎ捨てて陣営の前にきて,降参するので太祖は慰めて百済隊長がいる所を尋ねるとヒョ方などは“元帥(敵)身体検査が中軍にあります。”と答えた。 太祖は将軍コンフォンをさせて,直ちに中軍をぶつけるようにしてハン軍団が共に出て行って,左右で打つと百済軍(郡)が崩れた。

身体検査が二人の弟および将軍富達・小達・能奐など40人余りを連れて生きたまま降参すると太祖は降参を受けてヌンファンを除いたあげくはみな慰労することと同時に妻子を連れてソウルにきて生きることを許諾してヌンファンに尋ねることを“一番最初にヤンゴムなどと密謀して,大王を閉じ込めてその息子を聞いてたてたことは貴様の誘う。

臣下なった道理がこのようでこそ当然か。”ハニ,ヌンファンは頭を下げて言えないのでいよいよ切って殺すようにして身体検査の僭位は他人の脅迫でなったことで,彼の本心でなくまた降参して生かしてくれというので特別に許して殺さなかった。 (三兄弟がみな処刑されたともハム)キョン・フォンは心配に抑えがたくて,など穴があいた数日の間に黄山仏舎で死んだ。

身体検査のつかむ前に話したことと同じになるのをいよいよ官位を与えてその二人の弟はヌンファンと一緒に罪が同じであることでいよいよ進駐で追い出してまもなく殺して令閨に(早い)達することを“前王(フォン)が国を失ってしまった後,ひとりも慰労する者がなかったが唯一あなた内外が千里外で便りを伝えて,誠意を見せたしかたがた私に賛意を表わしたのでその義理は忘れることはできない。”としたがって左丞ウイ職を虚弱で畑1千頃を与えて役馬35匹を貸して,家族をむかえて差し上げるようにしてその二人の息子にも官職を与えた。

以上がキョン・フォンの出生から死ぬ時までの三国史記の記録だ。 キョン・フォンは私たちの故障カウンで出生して,後百済をたてて東から新羅を打って北で考慮と天下を争った。 しかし斉家を間違って,その最後はみじめだったと言えよう。 私たちの故障にはキョン・フォンに対する伝説がたくさん伝えられている。 キョン・フォンはカウン行くチョン開冬(別名しまった)で出生したと伝える。 キョン・フォンの出生説話とか話岩,王宮の跡地,キョン・フォン酸性などに対する伝説は拙著「聞慶(ムンギョン)戴冠」伝説方を参考にすることを望む。



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