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古代史の資料集です。
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②チョリョンノと鳥嶺酸性にからまった民間説話

行って。 シルリプチャングンと鳥嶺女鬼壬辰倭乱の時に天険の要衝の鳥嶺(セジェ)を放置して忠州(チュンジュ),弾琴台(タングムデ)で背水の陣を敷いて敗れたシルリプチャングンが鳥嶺を守ることが出来ない原因が鳥嶺女貴意いたずらからきたと伝えられる民間伝説が私たちの故障に今日まで伝えられている。

シルリプチャングンがまだチョンガー時代に草笠を頭にかぶって下駄を履いて,今の光州(クァンジュ),昆池岩(コンジアム),南漢山城(ナムハンサンソン)近所を散策しているのに突然海東青タカ一匹が飛んできてシルリプチャングンの草笠を頭髪でチェをもって南側に向かって飛んで行かないか。 びっくりしたシルリプチャングンが南へ飛んで行く鷹を眺めて“微物の獣があえて立派な男の医官を奪い取って行くことができるという話か。

私のどこまでも追いかけて行って,草笠を探してしまうだろう。”といいながら下駄を履いたふりで鷹の飛んで行く所に従っていった。 このように鷹を追って見たら日が沈んで四方が暗くなるのに地勢を調べると幾重にも重なった山中鳥嶺(セジェ)谷間であった。

鷹はその山の中にある鯨の背中のように広くてりっぱな大きい瓦の家醜女案の中二階に飛び込んで行くのと違っているか。 シルリプチャングンはその家の門で主人を探したがしばらくの間や人の気配がないので門を押し退けて入ると十七八才なるとみられる美しい娘が出てきてする言葉が“この家では人を留まるようにすることができないからはやく他で行ってみなさい。”とする。

シルリプチャングンはお宅の売家私の草笠をまだ持って飛んできて,お宅の醜女案中二階に入ったので私の草笠を訪ねて下さいます。 そしてこの夜中に深山幽谷でどこへ行くという話です。 “家も大きくてハニ一夜を過ごして行けるようにして下さいます。”ハニ娘がやむをえず“入ってきなさい”としながら広間で案内する。

そして娘は夕食を整えてくれた後に言うことを“今日は私が死ぬ日なのに道令様も誤って今夜に私とともに非業の死を遂げるでしょう。 今でもさらに遅くなる前に他の所に行ってみて下さい。”ハニ娘は台所に行って箸とスプーン束をアナルム抱いて置いて“我が家家族が昨年までしてもこの箸とスプーンが足りなかったが今年に入ってから夜深夜12時になれば頭が二,三ずつ走ったおばけらが現れて,毎日夜一人ずつ捕まえて行きます。

今日が私が捕えられて死ぬ日です。”といいながら涙を流した。 シルリプチャングンが見るのに娘の事情が痛ましくてまた不思議な話と好奇心も起きてして“何の心配しないで待ってみましょう”して屏風を開いて娘は屏風の中にありなさい(早い)達して大きい文案に正座をして座って,怪物が現れることを待った。

正確に深夜12時になるや千兵万馬街ら切る音がすると家の前庭で雄壮で大きい声が話すのにはやく残り女を捉えて命令を待てと号令をする。 睡眠時候に果たして頭が二走った者がドアをあけて現れるのではないか。 シルリプチャングンが叱り飛ばして言うことを“邪不犯正なのでまして要望した妖鬼らとして人をイ多智も害することがあるという話か?”ハニ2頭(二頭)の妖鬼が言うことを“将軍様がおられたことを知りませんでした。

私たちは以前考慮の時恭愍王が異執にいらっしゃる時に埋めておいた金銀財宝が長い間の歳月が流れて,妖鬼で発動することになりました。 これからは絶対にいたずらをしないですので許して下さい。”といいながら許しを乞うているのに外では3頭(三頭)の妖鬼が大きい声で“はやく小娘一つ捉えられないできて何をクムルドェヌニャ”と文を足でけって抱く報告は“マア将軍様がおられること分からなかったです。”とうつ伏せになる。

シルリプチャングンは妖鬼らをはね除けて屏風後の娘を見ると娘が気絶しているので台所に行って水を沸かして,娘の口に入れて四肢をもんでくれると娘が目覚めて日も明け方になった。 その娘から朝接待を受けて草笠を探して離れようとすると娘も一緒に連れていってくれと哀願して“この山中に全く一人で生きていくことができないから私の境遇を可愛らしく感じておさめて下さい。”とする。

シルリプチャングンは“私が両班(ヤンバン)官吏の出身でご両親の承諾なしにどうして女子供を連れていくことができます。”といいながら後も見て回らなくて旅立って,前尾根に上がると後から呼ぶ声が出るので(に)見て回ると娘がその家に火を付けて屋根屋根の棟に座って呼ぶのではないか。 その首脳(頂上,正常)はすさまじくて可憐だったが仕方ないので道を急いで,家に帰ってきた。

シルリプチャングンはその後の武科に及第して官職の道に上がって満州の野人を征伐して,大きい功績を立てて,北兵使になって昇進を繰り返して,漢城(ハンソン)判尹(漢城判尹:現ソウル特別市長)になって壬辰倭乱が起きるや8ドドスンビョンサ(八道都巡辺使:野戦軍総司令官)に弟嫁なって,8千人の軍事を率いて出場して,4月26日鳥嶺で寝るのに夢の中に鳥嶺のその娘が現れて挨拶をして“将軍様は8千の軍事を率いたというけれどその軍事らはソウル荘案で急に募集して,訓練ならない烏合之卒なのにもしこの鳥嶺に陣を打って倭軍の先鋒と激突することになれば皆が生きる道を探して逃げることなのにその時に将軍は誰を率いて戦いますか? しかも将軍様の軍事はその半分が馬に乗った軍事なのにこの険しい山中で馬に乗った軍事がどのように戦いますか? 少女が将軍様のためにセンガッコンデ将軍様はこの道で軍事を率いて忠州(チュンジュ)に行ってタルレガン(達川)を背負って背水の陣を敷けば軍事らが退くこともできないから皆が死で戦うでしょう。”とする。

シルリプチャングンが夢を目覚めて,夢に娘がした言葉が一理があって考えて,忠州(チュンジュ),弾琴台(タングムデ)で背水の陣を敷いて戦って大敗をしてシルリプチャングン自身も戦死した。 今でも私たちの故障では鳥嶺(セジェ)の怨恨を抱いて死んだ娘が寃鬼になってシルリプチャングンを死地に追い詰めたと思っている。

私. 鳥嶺(セジェ)城隍神と崔鳴吉チェ・ミョンキル(崔鳴吉:1586~1647)のホは遅川であり,朝鮮朝中期の学者で,政治家だ。 チェ・ミョンキルが官職の道がナ可期前の20代始めに安東府使である外叔に参ろうとソウルから降りるところに鳥嶺(セジェ)をすぎることになった。 九折羊腸同じ険しい鳥嶺(セジェ)道を一人で降りてくるのに自分の前10歩ほどを置いて何の若い女が簡素な服を着て行っていた。

チェ・ミョンキルが考えるので(に)この険しい山道を女が一人で行くことも変でもその歩みが真っ最中のチェ・ミョンキルにも追いつくことはできなかった。 そして道を行くのに女子供が高尚な人に道をよけなくて一定の距離をおいて先んじることが奇怪だった。 無礼だと考えたチェ・ミョンキルが歩みをはやく催促して歩くのにも距離(通り)は少しも狭まらなかった。

しばらくそのようについて行くのに女が急斜面に滑って凍って出てこれなくてくよくよしているのでチェ・ミョンキルが男女が類別して起こしてあげるか迷うのに女が痛いふり(そぶり)をしながら起こしてくれと手を差し出すのではないか。 止む得なくチェ・ミョンキルが女を起こしてあげて痛いところがないか尋ねると女が有難いと歩ける場合があるので心配されないでくれとして,歩みを移す。

チェ・ミョンキルは一人で歩くので(に)寂しかったところに女と同行になってどこへ行くのかと尋ねると女の返事が安東(アンドン)まで行くと答える。 チェ・ミョンキルが私も安東(アンドン)に通おうと行くのにうまくいったといって,安東(アンドン)は何の用事に行くのかと尋ねると女の返事が“私は鳥嶺(セジェ)城隍神なのに以前に中国と商売をする大きい商人が私を(受ける)着ろと中国ただチマチョゴリ一揃いを持って置いたが安東(アンドン)生きる裵座首が持って行って,自らの娘を負わせたので城隍神を見くびる船座睡家を訪ねて行って,チマチョゴリを探してその娘を殺す予定に旅立った。”とする。

チェ・ミョンキルが“忘れた物だけ探せば良いことであって人まで殺していいのか”として一緒に道を歩いた。 しかし他の人の目には城隍神が見えないためにチェ・ミョンキルが一人で歩くことと見えた。 安東(アンドン)附中に達するや城隍神は影も形もなく紗羅であった。

チェ・ミョンキルが安東(アンドン)官衙に聞こえて,外叔に要人と安否を差し上げて船座睡の家を尋ねると官衙で別に遠くないところにあるというのでまもなく船座睡家を訪ねて行くと船座睡家ではお昼までもよく食べた娘が痛いところもないのに死んだと大騒ぎになっている。

チェ・ミョンキルが船座睡を探してみて“私がソウルで医書をたくさんボア急肉当たりひとりが蘇生させる方法を知っているとはやく私を娘いる部屋に案内しなさい。”としたこと主人はいぶかしいと考えながらも差し迫っていた境遇とチェ・ミョンキルを娘いる部屋に案内をするので(に)吏房には私以外の人は誰も現われてはいけないといって,娘ある部屋に入ると城隍神が娘の喉首を押していてチェ・ミョンキルを見て起きる。

チェ・ミョンキルが“チマチョゴリは探してくれるから人は害するな”と(早い)達すると城隍神が“名工を見て助ける”としては離れた。 チェ・ミョンキルが座睡を呼んで“私が薬を飲ませたので睡眠時候ならば生き返るだろう”と愛に出てきた。 少しあろうとすれば座睡がきてどこからこられた神医この時期に死んだ人を助けますか。 本当に有難いと家族皆がみな出てきてうつ伏せになって挨拶をする。

チェ・ミョンキルが座睡を見て“数日前にひょっとして鳥嶺(セジェ)盛況当たりで中国ただスカートチョゴリを持って行って,娘に負わせたのではないか”とハニ座睡がびっくりして“それをどのように分かるかしながら貴公は果たして神人でいらっしゃいます。”とする。

チェ・ミョンキルはその服をはやく広場に出して燃やしてしまえと(早い)達して,このように送れないと捕まえることを取り払って実家に戻った。 チェ・ミョンキルが実家で半年を過ごしてソウルに帰るのに新しいジェギルに入るとその城隍神がまた道離れる準備をしてまたどこへ行くのかと尋ねると“今天子が満州の土で起きて天下の神らに満州にきて,天子を護衛しろとの上帝の命を受けて満州で行く道です。

これから20年後ならばその天子が軍事を率いて我が国をあげてくるでしょう。 これは天運とか人材ではどうしようもありません。 貴公はその時にあちこちで和議を主張して,国と種苗辞職を守って民を塗炭で救済(駆除)するようにしなさい。”とする。 チェ・ミョンキルが“私は見るように白面書生なのにどのように廟堂で和議を主張することができるという話です。”ハニ城隍神は“あなたは情事功臣府院君領議政になることとか私の話を肝に銘じなさい”とは消えた。

チェ・ミョンキルはその後に大科に及第して人造癸亥反正(仁祖癸亥反正)には靖社一等功臣になって完城府院君になった。 人造病人(仁祖丙子:1635)年に満州で起きた「ヌルハチ」が清をたてて我が国を侵略してきた。 人造王は南漢山城に座り込み寒地一ヶ月ぶりにサム前渡でチョンに降参をするようになる。 この時に調整重臣ら皆が和議を反対して斥和を主に主張するのにただチェ・ミョンキルひとりが和議を積極的に主に主張して,青果の休戦を成立させて撤収させて,民を塗炭で救済(駆除)した。

みな。 御命に死んだ虎太宗14年(1414)にチョリョンノを開通させた後に嶺南(ヨンナム)と記号(嗜好)をつなぐとおりになったが当時までも鳥嶺(セジェ)には猛獣らがうようよしていたのだ。 鳥嶺(セジェ)の長さ開通した翌年の乙未年にムン・ギョンヒョンで調整を経て,王に上げる長計(状啓:報告書)があって,擺撥を出して,軟風ヒョンに前月するようにした。

それから数ヶ月が過ぎた後調整では聞慶(ムンギョン)の長計がこないといって督促する官員が降りてきて県監を問責しなければならないという空論(公論)が調整で起きていた。 聞慶(ムンギョン)県監はまちがいなく長計を軟風で伝達したことにだけ知っていて軟風ヒョンでも受けた事実がないといって多くの人を動員して,鳥嶺(セジェ)一円を捜索させたこと鳥嶺(セジェ)道端で擺撥のウッチョガクと(受ける)乗って行った話の安定を発見して調べるとまちがいなく虎に損害をこうむったのが確実になった。

それでムン・ギョンヒョンでは虎に損害をこうむった事実を王に奏達した。 太宗王が長計を受けてみて大怒して,言うことを“獣があえて私の赤子を害するという話か! 直ちに捉えて命令を待ちなさい”といいながら捕盗大将に鳥嶺(セジェ)虎を捉えてこいとの厳命をおろした。

捕盗大将は捕盗庁軍卒100人余りを率いてきて,鳥嶺(セジェ)を捜索したが虎を捉えるどころか虎を発見もできなかった。 10日余りを捜索しても虎を捉えられなくなったので捕盗大将はそのまま帰ることもできなくて毎日捜索を継続してみても虎を探すこともできなくて悩んで日取りを決めて,タンを集めて積んで入浴斎戒した後に祭文を作って,鳥嶺山の神に告げて,御名をただ上(胃)に付けておいた。

その日の夜深夜12時になるやアーふんする声が鳥嶺(セジェ)谷間を揺るがしてすると静かになるので山の神団御名付けておいたところに行ってみるとやめるほどの大きい虎が死んでいた。
捕盗大将はその虎の革をはがして,太宗王に真相と鳥嶺(セジェ)虎捉えた転末を事実通り報告した。 太宗はその虎皮を自分が座るジャークに敷いておいて照会をしたという。

彼からは新しいジェギルで虎に損害をこうむることがなくなったと伝えられており長い間の歳月が流れた後に聞慶邑(ムンギョンウプ)に住む銭氏性を持った老人の夢にある老人が現れて“私は鳥嶺(セジェ)で御名を受けて死んだ虎だが罪を犯して死んだのでまだ九千(クチョン)でさまよっていると今は国に上疏を上げて,私の罪を下賜するようにしてくれ”と要請をするので(に)国に常駐して鳥嶺(セジェ)に山神堂を作って,毎年祭事を差し上げるようにしたのが今まで続く。

(2)オ,リュ性(御留城)過去の聞慶(ムンギョン)現地官房組(聞慶県誌関防條)に“御留洞は中門(中門:組み曲観)以外の東麓深い谷間中にある。 中(案)は広くて外は狭くて,十分に数万人を受け入れる場合があるので真に天険の土地だ。”したし,嶺誌要選にも同じ記録だ。 増補文献備考には御留城と記載されている。

イギョンで(李敬輿:1585~1657)が丙子胡乱が起きる前に調整に言うことを“聞慶(ムンギョン)の北側鳥嶺の東側にある山城があるのに名前を御留という。 いつの時のことなのかは分からないがひょっとして(早い)達することを高麗太祖が留まったところという。

その中(案)の広くて狭いのは南漢山城(ナムハンサンソン)と比較して,10分の9になって形勢のホムゴハムはまもなく南漢山城(ナムハンサンソン)は比較にならない。 東南側は絶壁がマンギルにもなって,鳥と獣も越えることができなくて,北側は東南の側に比べて,少し低いがまた人材ではとうてい通じることができなくて性妾(城〓)を少しだけ設置すれば十分に安心するに値する。 その西側にも通じるほどの道はあるが南漢山城(ナムハンサンソン)の最も険しいところと比較してみてもいくつかの二倍にもなる。

城を築く所はわずか5~6百派(把:足)であり大小の買った石が土砂のように積まれているとこれを持って積むならば共訳もやさしいだろう。 必ず高くすることもなくて自ら犯しにくい形勢を成し遂げることになることであり,城中には泉と小川がいろいろな所で流れ出て樹木(樹木:木)が無尽蔵で持って使うとしてもつくすことがないことであり,千間の広い家を建てることができて数年を使うマキも備蓄することができる場合があるので自然的なホムゴハムは真に東南地方(脂肪)の第一といえる。

その中に十分に4,5万の軍事を受け入れてまた1,2万戸を置いて,収縮を少しずつ加えて家をさらに作って,ロウソク(糧草:食糧と和睦)を備えつけることになれば永遠に奪われない基地になって,たとえ百万の軍事で打ってくるといってもソンアニの人々は楽に過ごすことができて自ら万全の土地になることとかここを捨てれば他の所にはありません。 こちらは東から大小白と連結して北側は月嶽と通じて西側では華山に接して俗離につながり接して,直ちに徳裕智理山と連結して,海に達する。

また北側には4ヶ郡があって,そのまま通じて江原(カンウォン),忠清(チュンチョン)がその右側にウンガーと安東(アンドン),風紀,永住がその左側にあって洛東江(ナクトンガン)がその南側についていて,漢江(ハンガン)の上流がその後で流れて出る。 高い山と丘,長い頭は日光を切って分けて抜け道がソにつながって,どこでも通じないがないから控制する形勢は首をウンキョジャプコ背中をたたくことと同じで買った谷間が遠く淡くなっていて切れた谷間が後・で白狐の中には別に足送れないこととかまた天下の軍事でも包囲する理由がない。

北側の月嶽その東側の鵲城,順興,その西側の鳥嶺,曦陽城,その南側の姑母,兎遷があるいは絶険酸性で,あるいははしごの末度重なった関門とか留まって,駐留する軍事若干を布陣させておけば声で応じて互いに号令が通じられる場合があるので号令(湖嶺:湖西と嶺南(ヨンナム)) 3度と東北畿甸をやはり連絡できることなので西北にことが起これば巴串して留まる所になることで,南方に危急があれば防御する所になるだろう”とした。(参照:増補文献備考余地で15官房組およびヨン如実技術ピョン御前高官房組)その後の人造16年(1638)に魚類性を収縮したという記録が出てくる。

(大東野乗中雑録クォン4人組16年4月11日照)そしてその週に“この性は三国時代に賃金が駐駕した所という”とした。
旧聞慶(ムンギョン)現地には“魚類洞(性)は鳥嶺東側深い谷間にあると周りが30里余りだ。

高麗太祖がキョン・フォンを打つ時にここに留まって城を築いて御留といって寺を作って普済といったし,後に恭愍王が端的(丹賊:紅巾賊)を避けて,ここに留して,宮廷維持がある。”したし嶺誌選要にも“魚類洞は鳥嶺の東側にあって考慮恭愍王が丹賊を避けて留まった。 だから名付けた。 宮廷の場所がある。”したことから見て高麗太祖および恭愍王がここに留まったことだけは事実と認定される。

以上のすべての記録を総合してみれば魚類性は鳥嶺の中門のチェ2冠文(門)から東に主屹山(チュフルサン)首脳(頂上,正常)までとの確実な根拠が出てくる。 それならこの性は三国末期考慮初に高麗太祖によって積まれたかということが疑問視される。 過去の聞慶(ムンギョン)現地官房組には“俗伝に達することをわんぱくな時に興達という(のは)人がいて,こちらに城を築いて自ら固まるようにしたというからいわゆる高思葛伊城だ。 中門の外東側麓深い谷間中に魚類洞があると十分に数万人を受け入れることができる。”した。

以上の提起録を検討してみる時に魚類性は築城された状態でない地形のホムゴハムを利用してケリムニョンノ(鶏立嶺路:チルプチェギル)と新しいジェギルを防御するためにあったことと推測される。 チルプチェを防御すること大切にしては多くの軍事を収容(受容)できる大きい性がなければならない。

新羅としては北方勢力防御に最も重要なところがケリムニョンと竹嶺(チュンニョン)というならばケリムニョン防御は新羅の存廃がかかった町角に違いないと言えよう。 この魚類性ではケリムニョンウロブトの道を監製してとても重要なところを防御するのに最も理想的であるところに違いない。 魚類性では葛坪,犬音,評千,龍淵(ヨンヨン),唐布,妖星,聞慶(ムンギョン)等のどこを問わず出撃・防御が容易なところといえる。 だから高句麗が竹嶺(チュンニョン)を越えたがただ一度も越えることができないのが魚類性にあったと思う。

そして新羅の北方進出にもこちらに前進基地があったといえば難なく漢江(ハンガン)に達することができる。 この魚類性で至近な通り(距離)がチルプチェヨ,また北に同化(動画,童話)院で鳥嶺(セジェ)を越える事もでき東北で点語峠を越えればケリムニョンと合わされる。 一部学者らは新羅北進の道を竹嶺(チュンニョン)だけを考えるのに漢江(ハンガン)に達するところは竹嶺(チュンニョン)とケリムニョンが似ていて,特に高句麗の南進基地(機知)の局員性(国原城:忠州(チュンジュ))を掌握するには系リップリョン道でなければならない。

このように見るならば魚類性をもう一度注意深く見なければならないと考える。
考慮末葉に紅巾賊の侵入を受けた恭愍王がこちらで留まったという記録が聞慶(ムンギョン)現地とヨンジソンニョエも見える。 紅巾賊は中国で起きた韓山東を親分にした盗賊の無理やり1361年(恭愍王10年)に二番目我が国に侵攻してきた。 その年11月に紅巾賊が開京に肉迫するので恭愍王は開京を離れて,12月伏奏(福州:今の安東(アンドン))に(早い)達した。

安東(アンドン)で幸在所をそろえて開京の修復を待って翌年(1362) 2月に尚州に移した。 恭愍王が常駐に滞留することを半年,その年8月に清州に移るまで(1362年2月から8月まで)のこちら魚類性に留まったと推測される。 今まで魚類性中(案)には当時の宮殿維持が残っていて,主屹山(チュフルサン)首脳(頂上,正常)の評千ページ低いところを殿坐門といって,恭愍王が毎日そちらでチルプチェギルを眺めてうれしい便り来ることを待ったという。 聞慶(ムンギョン)現地健歯沿革組に見れば“恭愍王が勝ったという便りを見た村で聞いて因って,村の名前を聞慶だと直した。”と記録していることを見る時に恭愍王がこちらに留まっていたことが事実といえる。

①魚類性の地形魚類性は百強イギョンで(白江李敬輿)が説明した通り東南は切り立った絶壁だから上がることはできない。 聞慶(ムンギョン),妖星,紙曲,八リョン,評千方面では上がったり攻撃するのが不可能だ。 鶏立嶺路はこの東南側で過ぎなければならない。

切り立った絶壁で自然の天険の主屹山(チュフルサン)(標高1,107m)ではケリムニョンノを一つももれなく監製して調べて攻撃が可能だが山の麓で上がって攻撃することはとうてい不可能でする。 鳥嶺(セジェ)側でも二省を攻撃することは容易ではない。 鷹岩(ウンアム)がある中性で首脳(頂上,正常)までが7kmになってその中間には突き抜けるのが難しい谷間の連続だ。 魚類性の地形はイギョン余暇話した通り難功不落の要塞地と話せる。

これと共にハム告げたところであったため恭愍王が開京に帰る途中こちら魚類性に留まったという事実が証明される。 しかし前でも記録したが高麗史と高麗史概要では安東(アンドン),常駐,清州(チョンジュ)に滞留した記録があるだけだ。 私たちの故障も当時常駐の属県であったため別に聞慶(ムンギョン)といわないことか分からない。

(3)マ故買った性(麻姑山城)増補文献備考官房組には麻姑山城がなくて妖星(要城要=耳+卯)として周りが565隻なのに県の東側4里にあるといったし,また井谷城が倭城備局に登載されていると記録している。 またファニョスンナムでは“クンの東南側4里なる山委に石で積もったので周囲が556隻だ。 妖星は本来性妾がなくて正鵠リ後方の山の性がそれだ。”としている。 前の記録を総合してみる時,妖星,正鵠性は皆がマ・コソンの別称と推測される。

マ・コサン聖恩三国時代にケリムニョンノを防御した性であり,当時のムン・ギョンヒョンの治所行っていた所ではないかといえる。 一部学者らはこのマ・コサン性を高思葛伊城で見る見解もある。
マ・コサン聖恩鳳鳴山北側麓に石で築造されている。 山の8部稜線について築造されたし,材料は奉命産(山)に散在された硬石だ。

この誠意位置は北側でケリムニョンノをよって南へ来る町角を遮断している。 ケリムニョンギリナあるいは新しいジェギルそしてしなび道を行こうとするなら必ずマ・コソン下を通過しなければならない。
この誠意西北面は広い開放地で,性下は鳥嶺川と葛坪川が合流地点であり,東南面は高い山で囲まれている。 マ・コソンで南へ約6km地点に姑母城があって,叔母性の向い側魚龍(オリョン)山の上に姑夫城がある。 これら3ヶの性はその築造年代が同じである時と推測される。

誠意築造方法でも使われた材料が同一でその築城目的が新羅のとおりのケリムニョンノを防御するのにために築造されるといえよう。

(4)と某買った性(姑母山城)「聞慶(ムンギョン)現地」に“姑母城は兎遷の西側龍淵の上(胃)にあって一筋が互いに会う所にウンガーして,両側の谷間を縛ったようで,中間に大川が流れる。 壬辰倭乱の時に倭人の酋長がここを守る軍事があるだろうか恐ろしくて,3度や斥候を送ってのぞいて,防備がないことを分かってはこれに歌って踊って過ぎた。”至っている。

「増補文献備考」には“叔母性は南に20里兎遷の西側断峯の上にある。 二つの谷間を縛ったようで,中間に大川が流れる。 左・右の長さ(道が)会う所だ。 戒師年(1893)に県監金禎根がクァン愛重紙(関隘重地:カンを設置して打ち込む重要な土地)として,トルゴゲ城を築いて鎮南楼をたてた。”した。

叔母酸性は現聞慶市(ムンギョンシ),麻城面(マソンミョン),シニョルリにあって慶北(キョンブク)八景の一つのジンナム撹はんにある。 同・南・北では小白(ソペク)山脈の険しい峻嶺すなわちクァンニョサン(広廬山:今の五情産(山)),檀山,浮雲嶺が繋がっていて,で・男では加恩川,蘇耶川が流れて魚龍(オリョン)産(山)が前を防いでいる。

叔母酸性の下にあるところを通じなくては南北で往来することはできない。 昔の大きい道のケリムニョンノを行き来しようとするなら必ず叔母山の麓を通過してこそ行き来することができる。 このような交通上の地形と相場を十分利用して城を築いたという事実は今日の戦略でも絶対必要な地点といえる。

このような町角に性を築造して北方の百済と高句麗の南進を阻止した新羅の人々の叡智が光らせている。 特に三国初期には百済の侵攻が多かった。 今の槐山(クェサン),忠州(チュンジュ)を掌握した百済は188年(百済肖古王23年,新羅伐休王5年)に新羅の母山城を攻撃した。

そして2年後の190年(百済肖古王25年,新羅伐休王7年)に百済は新羅の原産香り(円山郷:今の龍宮)を攻撃してまた進撃して,富谷(プゴク)性(缶谷城:今の軍威地方(脂肪))を攻撃すると新羅の仇道が百済軍(郡)を追って瓦斯は(蛙山:今の報恩(ポウン)方面)で敗れたと三国史記は記録している。

ここで話す母山城を一部学者らが忠北(チュンブク),鎮川(ジンチョン)の大母山城だと推定しているが,大母酸性(大母山城:する鷹性,する美声)は188年当時には新羅の土が成ることが出来ない。 188年当時ならば,新羅はまだケリムニョンノを開通させてわずか36年になって,小白(ソペク)山脈南にも多くの不足勢力らが残存している時なのに忠北(チュンブク)の鎮川(ジンチョン)まで進出したとのことは理論が成立しない。

そしてまた罹病賭博士は全羅道(チョルラド)雲峰で推定(国訳三国期および朝鮮歴史地理)しているがこの時は洛東江(ナクトンガン)西側,智異山(チリサン)東側は6ガヤの地図なのにどのように新羅で智異山(チリサン)を越えて,雲峰(ウンボン)を占めたかという疑問が残る。

イ・某酸性(母山城:ハルムェソン)を私たちの故障の放言により姑母城で仮定するならば原産香り(円山郷:龍宮)と近い通り(距離)で,缶渓また隣だから推定が可能になる。 叔母酸性周囲には古墳が多い。 ここでは三国初期の土器の孔列土器と土器号,土器杯などが出土している。 このような事実は叔母酸性を守った人々や叔母酸性を築造した人々の遺物だと見る時にこの酸性は2世紀頃新羅でケリムニョンノを開通させることと同じ連帯に築造されたことで推定することができる。

そしてこの叔母酸性の位置は誰も避けることはできない首だ。 叔母酸性で北側を眺めれば主屹山(チュフルサン)南の広い開放地がひと目で見えて,蟻一匹ものがさないように展望,監製が可能で南側では安徽モリ(プルチョン駅:北側地域)が他の所の道を開くことはできない地形だ。

特にウサギ不正(兎遷)の崖道は南北交通路の険しい道中で最も険しい道で,あい路で有名なところだ。 たとえばケリムニョンで男での新羅を攻撃するならば先に魚類性とマ・コサン性を通過しなければならない。 この二性を通過したといっても必ず叔母酸性を押し倒さなくては新羅内陸に進出することはできなくて槐山(クェサン)方面でヒヤン酸性,カウン性をすぎてきたといっても叔母酸性をすぎなくては内陸進出が不可能だ。

もし叔母酸性全部陥落するならばキョン弾リから増えた平野地帯が展開すると新羅としては北側勢力の南進を阻止させる最後の砦といえる。
叔母酸性はその築城目的が北からの侵入を防御するためのものだと見られて,北に進出するための基地(機知)としての役割は少なかったと見られる。

これら酸性(マ・コソン,叔母性,姑と嫁性)は新羅の国境地域が危険だった時を備えるための築城で見るべきで,真興王以後新羅の漢江(ハンガン)流域占領が確かになるとその任務を遂行する機会は事実上終わったことと考えられる。 しかしその後にも後三国時代高麗太祖王健にからまった説話と朝鮮朝の壬辰倭乱,英祖組のイ寅坐の私は,同学抗争,韓末義兵抗争などでも叔母酸性は重要な役割をしたという記録がある。
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