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古代史の資料集です。
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公州(王女)公山城(コンサンソン)

指定:史跡 第12号


種類:性(酸性)

住所:忠清南道(チュンチョンナムド),公州市(コンジュシ),金城洞(クムソンドン),山城洞(サンソンドン)

時代:三国時代(百済)酸性寺跡碑,英恩師,硯池,イム類各地,軍窓(ウィンドウ)紙,同西門跡地,推定王宮紙,マナルジ,暗門紙などが残っている。

遺跡内容

公山城(コンサンソン)は金城洞(クムソンドン),山城洞(サンソンドン)にまたがる共産(公算)に築造された古代城郭で買った全体が城郭および関連施設で形成されている。 熊津(ウンジン)性,双手酸性,共産(公算)酸性,公州(王女)酸性などと呼ばれる公山城(コンサンソン)は1936年に史的(私的)に指定されて,保護されてきて1985年にこれをまた史跡(私的)提供院で指定して,開発が進行中だ。
特に1980年から1993年まで続いた性内の遺跡発掘調査と浄化・整備は公山城(コンサンソン)の歴史的チェ面目(容貌)を一新していたりもする。 百済時代には熊津(ウンジン)性で公州(王女)を守るための百済の代表的な古代城郭だった。 文週王元年(475)閑散性でここで首都を移して,サムグン王,東城(トンソン)王,武寧王を経て,聖王16年(538)に付与に移す時まで64年間王道を守った。 北で金剛が流れる海抜110mの稜線に位置する天然のこの頃として東西に約800m,南北で約400m程度の長方形を成し遂げている。 稜線と渓谷について積んだポゴキョンイミョ,本来は土星だったが朝鮮先祖,人造時代に大部分現在のような石聖で改築された。 城郭の全長は2.660mで外姓を除けば2.193mとなる。 誠意面積は約21万平方メートルで,現在の城壁は高さ約2.5m,幅約3mで大部分が保守された。 癇癪を起こして,遺跡ではチン乱れ,コンブンヌ,双樹亭,名局三章費,双手酸性寺跡碑,英恩師,硯池,イム類各地,軍窓(ウィンドウ)紙,同西門跡地,推定王宮紙,マナルジ,暗門紙などが残っている。


公州(王女)松山里(ソンサンニ)6号電蓄分

指定:史跡 第13号


種類:古墳(三国時代古墳)

住所:忠清南道(チュンチョンナムド),公州市(コンジュシ),熊津洞(ウンジンドン)

時代:三国時代(百済)

遺跡内容

公州市(コンジュシ),熊津洞(ウンジンドン),松山里(ソンサンニ)古墳群内に位置して,熊津(ウンジン)首都期(475~538)百済時代に作られたこの古墳は現実と現実に入るところの沿道を皆レンガで積んで,現実4壁に防衛を示す新人サ信徒を描いたトンネル型の壁画電蓄分だ。
現実は南北が長い長方形平面で同棲幅224㎝,長さ370㎝の規模になるようにして,底で天井の中央地点までの高さは313㎝だ。
沿道は南壁の中に走った。 全長230㎝,幅は80㎝~110㎝,高さは132㎝~149㎝だ。
現実底には同壁の側に一つの木棺受け台が設置されたし,現実入口で南側では長さ(道が)約20mの排水路が施設されている。
現実と沿道を築造したレンガらはそれぞれ彼使われた位置につりあうように大きさや形が多様にさせられたことなのに,内側とあらわれる面には汚水前形,菱形などの色々な先紋を入れた。 そして同書癖の各々三ヶ所と北壁1ヶ所には灯皿を置いたトン感が用意されていて,トン感上(胃)には創痍設置された。 壁面に絵を描く部門だけ泥を塗って,彩色で描いた壁画は同壁に青龍,書癖に白虎,. 北壁に玄武,南壁に朱雀と朱雀左右に太陽と月を描いたことでも今は色あせて,よく見られない。 沿道部は現実とは違って彩色が形成されていない。
また電蓄分発見当時すでに全壁の内側,すなわち沿道の天井がすでに破壊,盗掘された状態だったので古墳内で出土した遺物はない。




大田(テジョン)キョンも酸性(犬頭山城)

住所:大田(テジョン)広域市,東欧,孝平洞(ヒョピョンドン)買った83(犬頭産(山))


指定:記念物20号

時代:三国時代(百済)

種類:性(酸性)

遺跡内容

鶏足山城で東南方向で1.3kmぐらい離れている標高363mの(犬頭産(山))の首脳(頂上,正常)部にテムェシクでだまされた石垣酸性だ。
この酸性の周囲は280m程度で自然岩石を利用して,雑石で構築したが南壁の一部を除いては城壁の大部分が崩れ落ちて,現在はその輪郭線だけを確認することができる。 城内(ソンネ)東側の部分には将台址と推定される所があって文席が跡だけ残っていて楼址などは探せない。
軟質と更迭の平行線文(門)と格子門の土器便が発見されている。 1991年7月10日指定.



大田(テジョン)桂族酸性(鶏足山城)

住所:大田(テジョン)広域市,大徳区(テドック),長洞(チャンドン)洞買った85他10必至(鷄足山(ケジョクサン)紙ボン)



指定:史跡(私的)355号

時代:三国時代(百済)

種類:性(酸性)

遺跡内容

標高423.6mの鷄足山(ケジョクサン)で伸びた420mの支峯の算定にあるテムェシクで性周囲は約1,000mで城体は内托工法によって,自然な釈義外面を合わせて,築造したが,この酸性の東側山すそを横切って,築造された同壁の200m程度は内外夾築一部門が残っているのに現在内壁とは3.4m,外壁とは7mであり,城壁の上部幅3.7mだ。
現在原形をよく保存している北壁の高さは10.5mに達してこの北壁に隆起した石塁の上部幅は4.2mだ。
原形に近く残っている所は高さが8m,階数は70段であり,城壁の石垣幅は約3.9mだ。 西南壁の城壁とは6.8mに達した。
この酸性の聖体を構築する公法(工法)において小さい某積むことを基本としているが横積むことと縦積むことを交差路築造する公法(工法)を併行しており平たい自然なソクを使っている点などが報恩三年山城の構築公法(工法)と軌を共にしているといえると,百済酸性として特異な面を見せていてする。 この酸性で確認できる門址は同壁線上に水口址があったと判断されるがその構造物は確認されなかった。
首脳(頂上,正常)部で同壁に降りて行く傾斜面に上で流れておりる水を塀誰何で使うように施設された井址があって直径1.9mの原形で4段-5段の石材で構築していた。 また将台址と推測される所と平地に百済時代の土器便,ワピョンをよく見られる点から推測して,建物紙があったことと推測される。 城内(ソンネ)では高麗時代の魚骨文(門)ワピョン(魚骨紋瓦片)と朝鮮時代の磁器片もたまに見ることができて築城以後高麗時代を経て,朝鮮時代までもこの酸性がずっと主要視されたものとみられる。 鷄足(ケジョク)山城は百済ポクングン(百済復興軍)の主要拠点中の一つで当時の戦争現況が文献記録で生き生きと残っている重要な遺跡といえる。 1991年10月30日指定.



付与副牛酸性指定:史跡 第5号









扶余(プヨ)定林寺(チョンニムサ)跡五層石塔扶余定林寺址五層石塔

概要

忠清南道(チュンチョンナムド),扶余郡(プヨグン),扶余邑(プヨウプ)東南里扶余(プヨ)定林寺(チョンニムサ)跡にある百済末期の花崗岩石塔.
指定番号:国宝第9号指定年度:1962年12月20日所在地:忠南(チュンナム)扶余郡(プヨグン),扶余邑(プヨウプ)東南リ時代:百済末期大きさ:高さ8.33m種類:石塔




内容


1962年12月20日国宝第9号と指定された。 よく百済五層石塔ともする。 花崗岩になったし,高さは8.33mだ。 益山(イクサン)の弥勒寺(ミルクサ)跡石塔(国宝第11号)と共に2機だけ残っている百済時代の石塔だ。

狭くて浅い断層基壇,四角形隅柱に見えるエンタシスの手法,薄くて広い各層屋蓋石の形態,屋蓋石各転角に現れた反転などが木造塔婆の構造と似ていて,またこのような点が特徴だ。

第1塔身4面には唐の将軍蘇定方が百済を平定した後に刻んだ紀功文があって,俗称'平済塔'と呼ばれたりもした。

各部で見せてくれる特異な養殖は韓国石塔養殖の派閥を確立させるのに大変重要なのだ。 細部手法は盲目的な木造様式の模倣で脱皮した整頓された形態の洗練されて創意的な造形であり,全体が荘重で明快で,格調高い気品を漂って,後世に模倣品がたくさん出た。


瑞山(ソサン)磨崖三尊仏像瑞山磨崖三尊仏像

概要

忠清南道(チュンチョンナムド),瑞山市(ソサンシ),雲山面(ウンサンミョン)ヨン・ヒョンリにいる百済末期の花崗岩仏像.
指定番号:国宝第84号指定年度:1962年12月20日所在地:忠南(チュンナム),瑞山市(ソサンシ),雲山面(ウンサンミョン)ヨン・ヒョンリ時代:百済大きさ:高さ本尊如来上2.8m,菩薩立像1.7m,半跏像1.66m種類:仏像




内容


1962年12月20日国宝第84号と指定された。 高さは本尊如来上2.8m,菩薩立像1.7m. 半跏像1.66mだ。 忠清南道(チュンチョンナムド),瑞山市(ソサンシ),雲山面(ウンサンミョン),カヤ山渓谷の層岩絶壁に巨大な如来立像を中心に右側には菩薩立像,左側には半跏思惟像が彫刻されている。

如来立像は素髪ある頭上,豊満な面相を特徴として厚い法衣が足の甲まで覆われていて足の下には簡略な単弁蓮華が陰刻されたし,光背は補注型トグァン(宝珠形頭光)の単弁軟化が陽刻されている。 右側の菩薩立像は頭に三山冠を使ったし面相は若干長い方であり,上半身は裸形に下裳は長く増えている。 足の下には二重の単弁複蓮が陽刻されていて,光背は補注型トグァンだ。 左側の半跏像は三山(サムサン)観を使ったし上半身はナ型であり,両腕は損傷した。 川上は非常に薄くて,広く横に広がって,足の甲まで覆ったし,光背は補注型トグァンだ。

この仏像は三尊形式としては異例的なこととして,中国の南北朝時代末期の斉周様式をのぞくことができる。 あたたかく穏やかな組閣(彫刻)手法,半跏像の配置など当代信仰の一面をのぞくことができるだけでなく,石仏の最も優美な例だ


弥勒寺(ミルクサ)跡石塔弥勒寺址石塔

概要

全羅北道(チョルラブクト),益山市(イクサンシ)金馬面箕陽里弥勒寺(ミルクサ)にある百済末期の花崗岩石塔.
指定番号:国宝第11号指定研も:1962年12月20日所長(訴状,小腸):弥勒寺(ミルクサ)所在地:全北(チョンブク),益山市(イクサンシ)金馬面箕陽里時代:600~640年推定(百済末期)大きさ:高さ14.24m種類:石塔




内容

1962年12月20日国宝第11号と指定された。 高さ14.24m. 四角形の多層石塔だったが,西南の部分は崩れて北東側6階まで残っている。 初め層塔身は赦免が3間ずつであり,そのチュンアンカンは内部と通じるように四方に文があって,塔中(案)の中央には四角形の大きな擦柱が置かれている。 各面にはエンタシス手法を使った角張った柱をたてたし,その上に平枋・昌枋を組んだし,また二供養式(〓蛇様式)を模倣した3段の支えで屋蓋を支えた。 2階から塔身が(薄くなる)浅くなって屋蓋石は初め層と同じ手法で表現した。

この石塔は各部分が小さい石材で構成されたし,その架構手法も木造建物を模倣するために石塔以前に木塔を先にたてたという事実を証明する見ることで,韓国石塔様式の祈願が分かる資料となる。 養殖上で見る時,現存する石塔中で建設連帯が最も古くなって規模も本来7階石塔で推定するならば20m内外の巨大な塔であっただろう。 建設連帯は百済末期の武王の時の600~640年で見る見解が最も有力だ。 日帝強制占領期間の時,崩壊が憂慮されるとコンクリートを塗っておいてき損が激しい。

2001年10月,総工事費80億ウォンを入れて,解体・補修作業に入って,2007年完成する予定だ。

百済金銅竜鳳蓬莱山(ポンネサン)香炉百済金銅龍鳳蓬莱山香炉

概要

7世紀始め百済の金銅香炉.
時代:7世紀始め大きさ:全体高さ64cm,直径20cm種類:香炉




内容


全体高さ64cm,直径20cmだ。 1993年付与陵山里古墳群で出土した。 鳳凰ふた装飾,蓬莱山(ポンネサン)が陽刻されたふた,蓮の花びらで装飾された胴,ヨン支えの4ヶの部分に分けられる。

ふたの取っ手の上にある鳳凰は鳥の尾をあげて翼をぱっと開いており,その下では5人の楽士がまいていて,また下では74ヶの山が重なっている。

胴には優雅で精巧なレンゲ紋が刻んでおり,一匹のヨンイ(受ける)着る器底中心に付けてからだをねじって降り立って,支えを成し遂げている。 これは中国漢国の時から作られた博山香炉の形式を継承したのだ。

パク山香炉はたいてい海を象徴するという承盤の上に一ヶの橋(脚)を持って,その上に重なった峰がある胴体を持った香炉として神仙思想が造形的背景になったとする。 したがってこの香炉にも神仙思想が濃厚に反映されたことが分かって,登場する人物らは新鮮に,そして動物たちも現実世界の動物というよりは神秘の理想郷に住んでいるという想像の動物たちで見られる。

また胴がヨンつぼみ形なところから蓮華化生死傷(史上,思想)をのぞくことができる。 軟化化生は極楽世界のレンゲで万物が神秘に誕生するという仏教の生成観で,この香炉でのレンゲもふたの山を誕生させている。 これは74ヶの山の稜線枠ごとに加えられたピックム某嬢の火炎紋で知ることが出来る。 火炎紋は仏教の軟化化生の気を意味するためだ。 またこの軟化化生観は龍とレンゲの関係でも成り立つ。 すなわち,この香炉でヨンウン海の目出度い獣として陰の世界を現わすこと以外に仏教的な観念を含んでいる。 ヨンイ吐き出す育てる仏教の軟化化生の気として解釈して,表現したと見られる。 すなわち,用意口で吐いた気はレンゲで吐いて,この香炉の胴で化生されることだ。

この香炉のまた他の造形的な背景は陰陽説だ。 音に該当する下から手中動物の精華で龍を登場させて,その上にレンゲの上に生成された地上(紙上)の仙界を現わした。 そちらには多様な動物と楽士をはじめとする新鮮が配置されて,首脳(頂上,正常)には鳳凰を配置したが鳳凰はまもなく量の浄水(整数)となる。 そして手中生物だけでなく地上(紙上)の新鮮と動物などが混在されている胴は香炉でその高さが中間部位であるように陰と陽が交わる中間仙界地帯であることを知ることが出来る。 ここに5人の楽士線のと5ヶの饗宴穴を二重で出したこと等は陰陽説と結びついて現れた五行説の反映で見られる。

一方この香炉のてっぺんで翼をぱっと開いている鳳凰は昔から音楽と踊りを伴うといって,これを証明でもするように真下で5匹のオシドリが鳳凰を眺めており仙界の楽士らも鳳凰をむかえて,音楽を演奏している。 山中の神仙たちは音楽と共に瞑想に浸ったり,釣って髪を洗ったり,馬に乗って狩猟を楽しんだりもする。 この他にもこの香炉には6ヶ所の木と12ヶ所の岩,山腹を分けて出た道,山の間で流れる小川,立体的に突出して,落下する滝,釣り場になった穏やかな湖などを見られる。

香炉の対座を龍とした例は中国の漢大から現れるが,当時は用意表現が微弱で軟化化生の表現もなかった時期だ。 香炉の胴をレンゲ形で構成した形態は中国の南北朝時代の400年ごろから登場しているがこの香炉のように高度(孤島)に考案された軟化化生の表現や蓬莱山(ポンネサン)で展開する多様な人物,動物などの描写は探してみるのが難しい。 したがってこの香炉は中国香炉の形式に従ったが造形性や絵画的な構図は中国を跳び越える芸術的感覚と独創性を発揮した代表的な百済美術品だ

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私費時代



(1)聖王の私費川も


聖王は在位16年(538)に私費で遷都した。 聖王の私費遷都は熊津遷都のように他律的に外部の力に押されて成り立ったのではない百済の内在的な発展によって成り立った。 聖王は私費遷都を通じて,熊津(ウンジン)時代社会混乱を惹起させた貴族勢力の内紛を終息させたし,22副詞の設置. 5部・5方制度の実施. 16館登第の確立を通じて,国家権力を確立した。 その結果聖王は百済の中興を試みたし,王権強化が可能だったとする。 聖王の王権強化と関連して,上の事項らをもう少し見回してみればこれと同じだ。

聖王は私費川も以後の色々な制度改革を断行した。 その中5部・5方制を通じて,聖王の改革政治性格を推測してみることができる。 私費川も以後聖王は地方(脂肪)統治体制を22塀ローゼで部屋-群体制に変えた。 22塀ローゼは拠点中心の地方(脂肪)統治方式だった。 これに比べて,部屋-群体制は部屋の妻の父方領が郡将と導師を直接指揮統率できる統治方式だった。 地方(脂肪)統治方式の変化は単純な制度変更でない地方(脂肪)土着勢力の権限を中央権力に編入させるということだった。 これは各地方(脂肪)を勢力基盤で持っていた貴族らの勢力を縮小させる結果を持ってくることになって結局国王の権力はそれだけ強化させることができるということだった。

聖王は思想的な面でも国王統治の正当性を確保しようとした。 このような意図は南部旅路の国号の変更と始祖(詩)神(靴)としての祭事対象の変化でも探してみることができる。 ナム付与は王室の成人プヨ氏で由来したことだったしこれは王室の権威を高めるための措置として国号を変更したということができる。 そして私費時代には今まで百済の始祖(詩)と認識された東明に対する祭事は衰退したし,聖王対以後には王室種苗の機能を持つ仇台廟に対する祭事を強化させた。

最後に私費時代22副詞とチュァ評議相互関係を調べれば22部生きる概略私費遷都を前後して設置されたし,聖王の私費川も以後完全に整備されたことで推測している。 22副詞の整備やはり聖王対成り立った5部・5防除,16館登第とともに国王の権力強化のための目的で推進されたようだ。 そういう目的を達成するための22部生きる国王の行政統治の非常に重要な機構だったと言える。

次に聖王の関山性敗戦以後威徳王は聖王が戦死した後やっと3年ぶりに王位に即位したし,それさえもそれもこれからは貴族らの決定事項に良く従うという約束をしてしまってから雨

チョクトゥルの発言権が強化されることによって国号の還元,諡号制の一時中断,王位継承において貴族干渉などの増大にナ・タ出たし,これによって,国王の権威は失墜していった。

このように大ソンパル族を中心でした権門洗足間の勢力葛藤が国運を左右する程重大事であることを直視した聖王の私費遷都は成功的に成し遂げられたが,国家の行方は結局崩壊に達する。


(2)私費時代の新進貴族


私費時代新進貴族の登場は私費遷都以後の政治的状況と密接な関係があると言える。 私費遷都直後には大ソンパル族中でも四・首・国・ヨン氏などは親国王的な傾向が強かったし,彼らは百済の高位観などを歴任できた程にだいぶ権力を強化した。 これに反し同じ大ソンパル族中でも年・ジン・ペク氏などは国王の牽制を受けて,次第に権力が衰退することになった。 ところで耆老らの反対を押し切って払った聖王の関山性敗戦以後国王の権力は大きく下落した。 これは親国王的な傾向を持っていた貴族勢力までも国王と背を向けるようにした。 威徳王以後大ソンパル族は国王と決別したということができる。

結局国王が権力を強化するためには大ソンパル族とは結託しにくかったことであり,大ソンパル族以外の新しい勢力が必要だっただろう。 そのような理由で武王の権力強化は王族と肥大ソンパル族であり達率官等を持った人々は彼らの大ソンパル族に対する相対的な劣勢を克服するために国王と結託した。 武王対に登場した新進貴族は義慈王対に達して,だいぶ成長した。 階伯と黒歯常支のような新進貴族は国王の新任を土台に大ソンパル族と対立できる程成長した。 しかし王族らは少数の直系だけが重視されて,徐々に政治権力で淘汰されていきつつあった。


(3)前提王権の新進貴族


1)武王の王権強化

聖王の関山性敗戦以後百済の王権は威徳王・恵王・法王対をたどりながら約50年余りの間貴族勢力に大きく牽制を受けてきた。 威徳王(554-598)即位初の政治状況は'耆老'で指摘される勢力によって,政局運営が主に導かれた。 威徳王は一時陳・北斉・北周・隋と活発な対外交渉を展開して,政治的発展や王権身長を試みたりもしたが支配勢力に対する果敢な改編なしに現状維持の枠で改革を模索した点でその王権の限界性を探すことができる。

威徳王事後恵王(598-599)と法王(599-600)が王位を繋いだが短命に終わって,王権衰微現象を免れ難かった。 しかし武王(600-641)時に達しては国力が回復したし新羅に対する攻撃が成功的なのに力づけられて,王権の前提化をまた成し遂げることになった。 武王は益山に別都を設置して将来遷都する計画を持っていた。 王宮をたてて石垣の塀を積んで城内(ソンネ)には百済全体の社員を統轄する大官寺をたててまた内仏堂の機能を持った帝釈寺を伸縮(新築)するなど王道としての面目を保っていった。 これは大ソンパル族で構成された有力な貴族勢力を改編して,王室の権威を回復して王権の強化を成し遂げようと推進されたことだった。 そして弥勒寺と王興寺のような大規模社員を創建したが,特に東方最大規模の弥勒寺(ミルクサ)創建は彼の権力基盤強化のための理念的表象だった。 すなわち弥勒寺(ミルクサ)の創建延期(煙,演技)説話を通じてみる時,武王は自ら転輪聖王を自任することで仏教による国王の権威と威厳を誇示しようとした。

武王3年佐平解讐は新羅との阿莫山城戦闘で4万の兵力をなくした。 この戦闘の結果百済では相当な社会的混乱が引き起こされただろう。 これを機会で武王は権力強化のための名分を探した。 その後の武王はチュァ評議官僚化を推進してこれを通じて,22副詞を掌握することができた。 武王の権力強化の裏面にはそれを後押ししてくれることができた政治勢力が存在していただろう。 この勢力がまさに新進貴族だと呼ぶことができる人々だ。 これらは王族と非大ソンパル族であり達率官等を持った人々で構成されていたがこれらは月松官等を持っていて,大ソンパル族に対する相対的な劣勢を克服するために国王と積極的に結託した。

一方,武王対の対外関係は彼の権力強化策と関連して重要な意味を持っていた。 武王22年から始まった対唐外交は三国関係だけでなく前提王権確立のための政治改革に大きな役に立った。 同王41年(640)に唐の国学に王子弟の入学を清閑事実で儒教的な理念を土台にして,前提王権を確立しようとする意図をのぞくことができる。 三国関係において百済の台当たり外交の目的は高句麗牽制以外に対新羅戦の成功的な遂行に最大政策目標を置いた。 台当たり外交が活発になる武王後半期に新羅に対する攻撃がより一層増加している。 彼はもう一度大規模な兵力を動員して,漢江(ハンガン)流域の回復を祈ったこともあった(627). 新羅が党に緊急救援を求めることによって一度の試みで終わってしまったがこれら通じて,武王の権力が大きく成長したことが分かる。 そして遠く20里余りから水を引き込んで宮南池を作ってそのクギ中(案)には方丈仙山を模倣した山を作ったし,また景色が秀麗な大王浦と望海楼で大きい宴会を開催したという事実で武王の専制君主らしい風貌をのぞくことができる。



2)義慈王の王権強化と外交政策

武王の後に続いて,王位に上がった義慈王(641-660)は武王対に整った(鍛えられた)基盤委で執権前半期の王権を強化していって前提王権を確立することになった。 彼の改革政治の目標は儒教的理念による前提王権の確立にあった。 椅子王2年(642)に起きた政変はまもなく自身の某が死ぬや王族4人と内佐平硭味を含んだ40人余りを性で追い出した事件をいう。 これは王権強化を邪魔する一部王族とこれにかかわった貴族勢力らを除去して,新しい政治勢力の助けを受けて,親政体制を強化しようとする意図で取られたことだった。

武王対に登場した新進貴族は義慈王対に達して,大きく成長した。 階佰と黒歯常之のような新進貴族は国王の新任を土台に大ソンパル族と対立することができた。 しかし王族は少数の直系だけが重視されて,徐々に政治権力で淘汰されていきつつあった。 王権の権力基盤をより一層強化させた椅子王は武王対とは違った対外政策を追求した。 即位初の政変があった直後の643年から百済は党との緊密な友好関係を維持しながらも,新羅を孤立させるために武王対一定に距離をおいてきた高句麗と和親関係を結んで対唐交通路の遮断を試みることになった。 しかし唐太宗の高句麗遠征が失敗に終わることになるや百済は新羅攻撃に対する党の干渉を排除しようと椅子王5年(645)以後党との交渉をした間中断することになる。 党姑従対に入ってきて,党が新羅とより一層密接になって相互軍事的協力関係を議論している頃,椅子王は高句麗および暗記してきて関係を強化していって羅唐関係に積極的に対処していった。 しかし前提王権を確立することになった椅子王は王15年(655)以後から淫荒と耽楽に陥って,実情を繰り返して結局百済滅亡で帰結を見ることになる。

(4)私費時代の文化


私費時代は538年で663年まででありこの時期に百済文化は極盛期に到達した。 百済第25代聖王は諸氏16年に応真を離れて,私費,すなわち付与に遷都と国号も従来の百済を捨てて南扶余国で直した。

この私費時期には中国の南北朝と手当ての文化を輸入して,百済ことで融和させようと努力した。 聖王は梁で,威徳王は斉と秦と隋で,そして武王.義慈王は党でその文化を輸入して,三国中でも最も発展した姿を見せてくれた。

特に仏教は国交や同様に王が親しく社員に家書行香りをすることが多かった。 法王は王興寺を創建したし,武王は35年間をかかって,益山(イクサン),弥勒寺(ミルクサ)を完成した。 仏教中心の芸術は極度に発達して,後世にも取り扱うことが出来ない傑作品が少なくなかった。 私費性にはインドの配達みな三章がキョミクをついてきて,律賦翻訳に参加した。 善信尼など日本旧法留学スンイきて,百済仏教を習った。 このように歴代王らが心力をつくして積み上げた文化は百済の最後の王の義慈王対に達して,黄金時代を形成した。







百済の芸術

百済の芸術は優雅で繊細な米意識が洗練されたのが特徴だ。 百済芸術は中国の南朝と高句麗の影響を受けながらも,新しい芸術を開発した。 特に日本,飛鳥文化[飛鳥文化]を開発させるなど韓半島文化前月の功労が大きかった。
百済の建築は寺の跡地・塔・古墳でその規模が分かる。 寺の跡地では全北(チョンブク),益山市(イクサンシ)金馬面素材の百済最大の弥勒寺址があってここに残っている弥勒寺(ミルクサ)跡石塔は東洋最大のことで木造塔の形式を模倣した石塔で有名だ。 そして定林寺(チョンニムサ)跡5重の石灯(定林寺址五層石塔)は優雅で洗練されて安定感を与えて三国時代石塔中最も優秀だ。
百済の墳墓は複葬が可能な石室廟議伝統と玄室壁画の内容面で高句麗の影響を受けたし,同時に中国南朝の前室(〓室)古墳の形態まで受け入れたことで,当時大陸と活発な文化交流があったことを語ってくれている。 百済,漢城(ハンソン)時代の古墳はソウル,松坡区(ソンパグ)石村洞のことが代表的なのに,これは卒本地方(脂肪)の高句麗初期古墳と類似の積石塚であり,熊津時代の公州(王女)宋山里古墳はクルシク[横穴式]石部屋[石室]古墳だ。

また無リョン王陵と同じデンプン(〓墳)は中国南朝の影響を受けたのだ。 特に無リョン王陵は蓮花文のレンガになったアーチ型の電蓄分(〓築墳)でここで出土した遺物では金冠・石獣・童子像・青銅頃・自分・誌石・金は装身具などがあるのに,この古墳を通じて百済の国家上,社会生活,梁国との文化交流,葬法はもちろんで,特に三国間の文化交流,文化の特殊性と共通性を確認できる学術的価値が高い古墳だ。
また私費時代の付与陵山里古墳は横穴式石室古墳で松山里(ソンサンニ)古墳より規模は小さいが建築技術と軟化文(門)・雲文,四神図の壁画が洗練された。 そして忠南(チュンナム),瑞山(ソサン)にある磨崖三尊仏像は百済末期に花こう岩壁に刻んだ磨崖石仏なのに,素朴な身なり,うすい微笑を浮かべた温和な美しさは‘百済の微笑’と広く知られている。

その他にも金銅観世音菩薩上(金銅観世音菩薩像:忠南(チュンナム)扶余郡(プヨグン)出土),金銅弥勒菩薩半跏像,無リョン王陵の出土品の禁制クァンシク(金製冠飾) ・石水(ソクス)・童子上,金は装飾品のネックレス・腕輪・イヤリングなどが有名で算数鬼門前(山水鬼文〓) ・軟化門(ゴール)前(蓮花文〓)等と瓦などにも百済美術の優秀性が現れているのに,高句麗の瓦当は力と情熱(瓦当のおばけ上)を表現したが比べて,百済のことは温和な美しさがその特色を成し遂げている。 代表的彫刻家としては新羅の皇龍寺9階塔を建築した阿非知がある。







百済の社会

3世紀前半韓半島の状況を伝える『三国志』「東夷前」によれば,馬韓の勢力の中で大きい国は1余万家,小さい国は数千家で成り立ったという。 当時百済は比較的大きい国に属したと考えて1号党5人内外で計算する時,概略5-6万人の人口を持ったと見ることもできる。 しかし,百済が滅亡する当時の人口は記録により違うが,4-5世紀に70-80万人,7世紀に約120万人が最も可能性ある数値と考えられる。

百済社会を構成している人々は身分により区別された。 まず,支配層の中心の王と王族がいるのに,これらは付与族の一派が南下してきたことで考えられる。 これらの中真氏と解氏が各々電気と後期に王妃族になったし,特に該氏はプヨ氏が王室を占める前の過去の王族として付与・高句麗系統だったものとみられる。

これら他にも私費時代の貴族8ヶ姓氏が中国側記録に残っている。 このような貴族身分は百済が中央集権的古代国家に成長する過程で各地域土着勢力の族長らが中央貴族で転換されたことで理解することができる。 百済の支配勢力らがいくつかの身分層で細分されたのかは分からないが,役人たちは公僕(空腹)と服色と官等制が連結していた。 それで,松系統官僚らは赤紫色服を着たし,トク系統官僚らは赤い色服を,そしてムンドク以下の役人たちは青色服を着たという。

被支配層では自由民の一般農民がいた。 これらは赤い色や赤紫色系統の服を着ることができなかったと伝えるのに,青色が除外されたことから見てムンドク以下の下位役人たちは一般民と身分的に大差なかったことから見える。 一般農民は小規模土地を持っていてノン・球・上に従事した。 これらの中15才以上は成人に分類されて,毎年税金を出したし,兵役と賦役の義務も持っていた。 またこれらの中には戦争などで手柄を得て,社会・経済的に地位が上昇する場合もあったものとみられる。 最下層では天人と奴婢があった。 これらには征服戦争と統一戦争過程で征服した地域の国民らや捕虜,または犯罪者,姦通した女性などが含まれた。 奴婢には官奴と私奴があったが,官奴は国家または官庁に隷属していたし,私奴は個人に隷属していた。

百済社会は農業を基盤としたし,米・麦・組・豆・記帳(記章,機長)など5曲に対する記録がたくさん出ている。 最近の考古学的研究結果,4-6世紀に鉄製農機具の数と種類が皆急増して特に大型補習が出現すると見て,この時期に牛耕が実施された可能性が大きい。 鉄を生産して各種鉄器を製作することは概して国家の主観(主管)下に成り立っただろう。 恐らく4-5世紀まで武器およびぜいたく品はもちろん農工区までも製作と普及(補給)を大部分中央で管理した可能性が大きい。

熊津(ウンジン)・私費時代に百済の手工業と関連した中央官庁で弓矢を業務を引き受けた馬部・刀部・木部,一般行政を引き受けた司軍部・司空部・綢部などがあった。 名称でボア,馬夫は話と車の付属品製作および管理,ト部は各種刃物の製作と管理,牧夫は土木・建築と関連したことを担当したものとみられる。 また,使君部は各種武器の製作および管理,船頭部は一般土木・建築,主婦は織物手工業と関連した部署と考えられる。







百済の鉄器兵器

1.百済の鉄器文化

百済は早くから鉄器文化を発展させた。 日本書紀を見れば百済のクン草稿王が日本使節に鉄製40枚を与えたという記録が出てくる。 現在日本イソノカミシングン(石上神宮)が神物と感じる中で所蔵している七支刀やはり百済が日本にジューン鍛鉄の刃物といえる。 この時期やはりクン草稿王時のことだ。

そして漢城時代百済遺跡のソウル,城東区(ソンドング),九宜洞(クイドン)古墳出土鉄斧と鉄だらっとを分析した結果実際高炭素鋼と明らかになった。 このように百済は漢城時代にすでに鉄器文化の花を咲かせた。

鉄器文化は同棲や古今を問わず国家の隆盛を左右する。 征服国家で武器は鉄器文化の花でもある。

2.百済の兵器

1)扶蘇(プソ)山城の乾き鉄

私費性(泗費城)旧跡の忠南(チュンナム)扶余(プヨ)邑扶蘇山城ですぐにヒトデのように見える鉄器が出土したがその鉄器は乾き鉄(鉄質藜)という一種の防御用武器であった。 4ヶの可視でなされた乾き鉄はある方向で置いても尖鋭な可視一つが上側に向かって立てられるように考案された。 その中に最も大きい可視一つに穴があけられて,色々な乾き鉄をひもに連結することもできる。 三国史記にもこの乾き鉄に対する記録が見える。 "あきれた防御用武器だ。 乾き鉄をひもに連結,城外にまるく並べれば可視ツル役割をすると同時に城壁の上で投げれば敵を殺傷したり追いはらう武器役割をする"(三国史記). 乾き祝う扶蘇(プソ)山城出土品が唯一の実物だ。

2)攻撃用武器

弓と矢,鉄脳(弩)は攻撃用武器であり遠距離武器でもある。 その代表的遺物で全南(チョンナム),羅州(ナジュ),新村里(シンチョンニ)9号古墳出土品がある。

3)環頭大刀

刀の柄終わりの丸い輪中に装飾紋があるファン2台も中羅州(ナジュ),新村里(シンチョンニ)9号古墳から出た三ツ葉文(門)ファンドゥデドは特に有名だ。 チョルジに金版をかぶせた楕円形ビョンド輪の中心装飾が金銅三ツ葉型になっている。 取っ手には肉うろこ紋を生えたウン版で閉じた。 また刀の柄終わり輪に他出門の生えたウン版をかぶせて輪の中には鳳凰衣頭を飾った輪刀(タン奉還2台も:単鳳環頭大刀)やはりこの古墳で発見された。 この他に無リョン王陵出土品がある。 楕円形輪表面に龍を刻んでコリアンで如意珠を口で噛んだ龍頭(ヨンドゥ)を飾った輪刀(金銅チャンファン2台も:金銅装環頭大刀)だ。

4)動物骨製造鎧

鎧といえばよく鉄を連想するはずだ。 ところで百済人らは鉄でない動物の骨を取り替えても鎧を作った。 夢村土城(モンチョントソン)出土品骨うろこ鎧骨製札甲がそれだ。 このように百済人らが着た鎧の輪郭は明らかになっているが,投球と盾が発見されなかった。 本来鎧(甲)と投球(冑)は一襲を成し遂げなければならないから2種類を付けて甲冑という言葉を使っている。

'三国史記'は鎧に対する記録を残している。 金甲乙はじめとしてクミュゲ(金ヒュ鎧),明光鎧という鎧名前が記録された。 これら鎧は新羅古墳の金冠塚から出た金銅鎧と同じであることではなかったかする。




[ケベク] (階伯)


660年キム・ユシンとソ・ジョンバンのナ党連合軍が百済の要衝地のタニョンと百強で進撃してきて,決死隊5千を選んで率いて硫酸(黄山:今の演算)野原に出て行って,5余万新羅軍(郡)を迎えた。 彼は戦場(全長)に進むこと先立って妻子を皆殺して国のために命を捨てることを覚悟した。 彼の決死隊は険しいところを先に占めて,三陣営に分かれて,新羅軍(郡)に対抗した。 命を捨てることを誓った5千決死隊の勇猛は新羅の大軍を圧倒するだけのことはあった。 そうして初めて新羅軍(郡)との四度にかけた戦いで皆勝利をおさめることができた。 しかし盤屈・官倉など幼い画廊の戦士(戦史)で士気が上がった新羅の大軍と敵対するにはその数があまりにも少なかった。 結局百済軍(郡)は敗れてケベクは壮烈な最後を終えた。

(出場:三国史記





興首


椅子王20年(660)唐と新羅の連合軍が百済を行ってするので,王がウイ職,常永などの臣下を集めて,戦争に備えようと会議を開いたが異論が多様で決定することができなかった。 すると王は人を送って,フンスに意見を聞いたが,彼は“百強とタニョンは我が国この頃であるゆえ当然勇士を分けて送って守るようにして唐百強に入ってこないようにして新羅人にとってタニョンを越えないようにしなさい。 そして大王は堅く声紋(城門)を閉じて守っていて敵軍の養殖が落ちてまた兵士たちが疲れる時を待って,これを打つようにするならば必ず敵兵を破るだろう。”といった。 しかし代行らはこれを受け入れないで言うことを“唐軍が百強に入ってきて,流れにより腹(船,梨)を整列できなくして新羅軍(郡)はタニョンに立ち上がって,細道について話を整列できなくした次にこの時に軍事を置いて打てばあたかも鳥篭中にある鶏を死んで網にかかった魚を釣るようだ。”というと王がそのように思った。 しかしこの時に唐軍事はすでに百強をすぎて,進撃してきて新羅軍(郡)はタニョンを越えて,攻撃してくるという話を聞くや王はどうするところを分からなかった。 かくしてケベクが率いた5,000人の決死隊はファンサンボルサウムで敗れて百強で水軍が敗れて,百済は滅亡してしまった。

(出場:三国史記





成忠


656年チュァ評である時,王が新羅との戦いで連勝して,自慢と主色に陥るやクク間して投獄されてオッタ. 獄中で断食をして死に差し迫って,王に文を載せることを“忠臣は死んでも賃金を忘れない法です。 それで死んで,した言葉だけ差し上げます。 シニ常に相場の流れを見る時に遠くなくて必ず戦争が起きそうです。 ところで軍隊を使うことにおいてはその地理的条件をよく利用するべきなのに,川上流で敵兵を迎えれば国を保全できます。 万一敵軍があげてくれば陸路ではタニョン(炭〓)を越えないようにして,水軍はキボルポに入ってこれないようにした後,険しい地形にウイ地下で戦えばまちがいなく勝つでしょう。”といった。 結局660年新羅軍(郡)はタニョンを越えて,首都私費に攻め込んで,唐軍隊もキ野原フォーをすぎて,私費性に攻め込んで,百済は滅亡した。 現在付与では彼をフンス・ケベクと共に三忠祠に迎えて祭事を上げている。

(出場:三国史記







http://kr.ks.yahoo.com/service/ques_reply/ques_view.html?dnum=AAJ&qnum=3916914



百済漢城(ハンソン)時代



初期百済国家の成立は温祖と比類で代表されるユ移民集団の南下,定着から始まったことはよく知らされた事実だ。 そして百済史の展開過程で3世紀以前の初期百済史は多様な系統のユイ民集団が漢江(ハンガン)流域各地に定着して,個別的に発展しながら,徐々に下南(ハナム)違例性の百済国を中心に統合される過程で理解される。 したがって古爾王以前の百済史を決して温祖を始祖(詩)でする百済国だけの歴史で決めつけてはいけない。 ここではそういう点に焦点を合わせて,まず建国神話を通じて,百済形成集団の性格を把握して,その後初期百済史の展開過程を調べようと思う。


(1)建国説話を通じて,みた百済の形成


百済の形成に関しては正月が入り乱れている。 しかし{三国史記}クォン23温祖王王の伝記とその別奠には二種類異説が見られている。 その一つは百済の始祖(詩)が高句麗の建国者の朱蒙(ジュモン)の次男温祖という正月だ。 その内容を{三国史記}原子力発電所で調べれば次のようだ。


百済の始祖(詩)温祖王はその富が鄒矣とかあるいは朱蒙(ジュモン)ともする。 朱蒙(ジュモン)は北付与で逃亡して,ゾル本部旅路王後で付与王になって,二人の息子を産んだが壮者は比類といって借字は温祖といった。 朱蒙(ジュモン)が北付与にある時産んだ息子有利がきて,太子になるや比類と温祖は太子に容認されることができないだろうか恐れて,無理を導いて南下した。 いよいよ北漢山(プッカンサン)に達して負児嶽に上がって十分に生きられる所を眺める間,比類は浜辺に住むことを望んで,無理を分けて,ミツホを(今は仁川(インチョン))に行って住んだ。 これに温祖は下南(ハナム)違例性に首都を定めて十臣で輔翼をみなして,国号を十済といった。 比類はミチュホルの土地が湿っぽくて水が塩辛くて,安居できなかったので帰ってきて,違例を見ると首都が安定して民が安らかなので参会(懺悔)して死ぬと,その臣民これら全て違例に帰附した。 くる時に民が楽しんで追ったので後で国号を百済と直した。


もう一つの正月は朱蒙(ジュモン)は温祖の義父で,百済の建国者は温祖の兄の比類というものだ。 すなわち彼ら兄弟の実父は北部女系の優台であり,彼らは生母が朱蒙(ジュモン)に開架した後朱蒙(ジュモン)の原子価現れて,太子で冊封されるや比類が温祖と無理を導いてミチュホルに(早い)達して生きることになったということだ。 この二種類正月皆そのまま信じる難しい実情だが,概してこの二つは比類が兄という事実においては一致している。 そしてこの三国史記の記録を土台に色々な見解が出てきている。 まず朱蒙(ジュモン)と温祖を父子関係で記録した事実で百済を建国した主体勢力が北付与系統の高句麗ユイ民であったという事実,そして比類集団はその説話の内容でも名称上でボア比類数流域の住民と関連ある集団という点,また比類が兄ということに初期にはミツホを集団が一手流域各地のユ移民界チェ集団らの連盟体で主導権を掌握した勢力だが後に違例を中心にした集団によって,代替されたという事実などが主張されている。 こういう主張ら他にも色々な見解らが出てきている実情だ。


2.百済建国集団の南下と小国統合


1)先住民集団


百済の移住民集団が漢江(ハンガン)流域に達する前,すなわち祈願以前漢江(ハンガン)流域の先住民勢力らの遺跡は大部分が川について分布していたし,これは農耕が活発に行われたことを示唆している。 青銅器初期遺跡大部分で半月型石刀が出土して,また驪州(ヨジュ)フナムニで炭化米が発見された事実でそういう推定が可能だ。 またこれら遺跡らは一定地域を単位で群を成し遂げていたが,これは農耕,狩猟,漁労など当時の経済生活と関連した生活環境条件によったことで考えられて,次の段階の政治的成長の基盤で把握できる。 しかしこれら遺跡らは大規模の集団軍(郡)ではあるが,その代表地域が上程(想定)される程集約的なものではなかった。 結局今のところは各地域集団らを一つの政治勢力で結束させるほどの強力な支配勢力は登場していないことが分かる。 恐らくより強力な支配勢力の登場は青銅器文化後期段階でも可能だったことと推測される。

青銅器文化後期钥系はセヒョン銅剣文化の時期で韓半島北部では一連の政治的変化に伴って,鉄器が本格的に普及(補給)使われる時期だ。 この時期にあって注目する点は遺跡らが川に接している現象がより明確になったという点と遺跡分布中心が初期とは違い内陸側に移動しているという点だ。 これは恐らく農耕の本格化という推移と関連あるようだ。 そして初期の散発的な分布上とは違ってより明確に群を成し遂げている点も注目される。 特に今のソウル市一円で遺跡の密集度が最も高いがこれは青銅器文化後期段階に入ってきて,ソウル地域が漢江(ハンガン)流域の集団群衆で最も多数の住民が居住して,この一帯で最も優れた政治制が成長した結果で把握することができる。

ところで漢江(ハンガン)流域には典型的なセヒョン銅剣文化がそんなに明確にあらわれないでいる。 これは新羅カヤの発展の母体になる洛東江(ナクトンガン)流域と比較する時,大きい差異点と指摘されることができる。 漢江(ハンガン)流域の場合無紋土器-誌石墓段階で大規模的なセヒョン銅剣文化の流入を経ないで,その次時期の祈願以後直ちに金海(キムヘ)式土器-鉄器文化段階に移った可能性が大きいのだ。 それなら青銅奇聞化後期段階に西北ある地域の衛満朝鮮界移住民が定着しないで,その次の段階に本格的な鉄器使用集団が内奏しただろうという推測が可能になって,この集団がまさに百済建国のチュンチュセリョクがなる温祖などのユ移民集団だと考えることができる。


2)百済建国集団の南下


ユ移民集団が本拠地を離れて,南下してくる理由は確実でないけれど,温祖と比類集団が北付与で新しく南下してきた有利勢力に押されて離れてきた事実とそれによって政治的に勢力が弱まって免職されたことに対する不満に南下する例を見ても,これらの移動は各不足単位で成り立つのに,イ野原族ウォンらは三国史記百済王の伝記に現れる北部,東部などの電信(前身)であっただろう。 また初期百済の部に表現された勢力集団は温祖集団と同じようにユ移民系統であったという点では同一だが南下してきた時期と経路,あるいは出資などが少しずつ違ったものと見られる。

次にユイ民らで構成された漢江(ハンガン)流域の色々な小国の一つに過ぎなかったソウルの伯済国が成長して,他の集団らを統合して百済を称することになる過程を調べる。

温祖集団が南下して,最初に定着した地点が河北違例性であったのは広く認められているのに,河北違例性の位置に対しては見解が入り乱れていた実情だ。 温祖集団が河北違例性に留まった期間がそんなに長くなくて明確な資料を残さなかったためだと見られる。 温祖集団はまもなく下南(ハナム)違例性で遷都することになるのに,下南(ハナム)違例性は今のソウル市,松坡区(ソンパグ),江東区(カンドング)一円に位置したと推定される。 この地域には色々な城跡が密集分布しているので,誠意規模や立地条件などで夢村土城が最も重要な性だったと考えられて,また二省が下南(ハナム)違例性だった可能性は非常に大きい。

青銅器文化後期段階以後漢江(ハンガン)流域で最も多数の住民が居住して比較的多数の青銅器使用集団が所在したソウル地域に定着できたという事実で温祖集団は当初から色々なユ移民集団中最も優勢な集団であったのを知ることが出来る。 このような力の優勢は後で下南(ハナム)違例性集団(百済国)を中心に連盟体を形成することになる根本原因になることだ。


3)小国統合過程


3世紀以前初期百済の支配勢力は漢江(ハンガン)流域を基盤で各地に分散していたユイ民集団で構成されていた。 これらは伯済国の支配勢力と多くの共通点を持っていたし,このようなきずなを基盤である郡県や靺鞨など外部の侵略勢力に対しては共同の防御体制を取っただろう。

百済国が近隣小国単位の勢力集団に対して影響力を行使することになる過程は各部との関係を通じて知ることが出来る。 まず北部出身の年ルガー右輔に任命された事実は重要な意味を持つ。 すなわち以前の足部を音の右輔任命と対応させてみる時ヘルの任命は下南(ハナム)違例性一員に限定されていた百済国の政界に北部が編入され始めたのを意味する。 この時期を{三国史記}の紀年そのままA.D 23年で見るよりは3世紀以前のある時期で見ることが合理的であろう。 これに継続して,東部に関する記事が現れる。 タルワン3年には東部の屹于が今の金化で非情な馬首山で靺鞨の侵略をはね除けるのに,これは温祖王台の対靺鞨戦闘が王が直接軍事を導いて出て行った方式だったこととは大きい差を内包している。 したがってこれも北付議ヘルと同じように東部勢力が百済国の政界に編入された事実を反映すると理解することができる。 ただしその時期もまたA.D 30年でなくヘルの牛歩任命とほとんどほぼ同じ時期であろう。 東部勢力は以後屹于が年ルーの代わりをして,牛歩に任命されるなど北部と同じように百済国を中心に連盟関係を結ぶことになって,また北部のチン会が牛歩に任命されてチンシセリョクまで含むことになる。 このような一連の過程が経過した後下南(ハナム)違例性の百済国は小国単位の各勢力集団に対して優れた政治力を行使することができるようになることだ。

ここで問題になるのは比類集団の統合過程だ。 比類集団の本拠地であったミチュホルを仁川(インチョン)で非情なことには大部分意見の一致を見せていて,ミツホを勢力が初期百済の成長過程で重要な構成要素であることもまた事実と認定している。

三国史記の初期記録を批判して研究する学者らのあいだには{三国史記}温祖王朝記事のとおりミチュホルの比類勢力がそのように早い時期に下南(ハナム)違例性の伯済国に吸収されはしなかったことであり,だいぶ長い間の期間にわたって,百済国と並存した可能性を提示している。 そして{三国史記}に西部と表現された勢力は比類集団の一部と考えている。 したがって西部に対する統合は比較的遅れた時期だったことが分かることだ。 その時期はもうこれ以上の資料がなくて,確言する訳には行かないが結局3世紀頃には北部,東部,比類勢力などが百済に完全に編入されたことで見なされる。


3.王権降下と勢力拡大


西部勢力も3世紀中盤にはすでに百済国に統合されたし,以後伯済国は百済を称することになった。 そしてこの時期は百済が本格的に膨張することになる時期だ。 まず衰退して行ったある郡県に積極的な攻勢をかけて追い出した後内的な整備に着手した。 古爾王対の体制整備は前段階の連盟関係を基盤で成り立ったと理解されるのに6チュァ評制度と16館登第は後代に旺盛な可能性が大きいとしても,チュァ評提案骨格はすでに古爾王当時に用意されただろう。

ある郡県を追い出した後百済は強大な高句麗と直接国境に接することになった。 これは政治的,軍事的に大きい負担を抱くことになると同時に同じ付与族系統国家としての主導権争奪を置いて領土的な面でだけでなく意識的な面でも大きい変化を招いて,その結果百済王室は高句麗と百済の共同発源地の付与に対する意識がもう少し強くなって,対外的にプヨ氏を標ぼうすることになることだ。

一方百済と高句麗の緩衝地帯役割をしたある郡県がなくなるやこれら勢力の衝突は不可避になった。 すなわち南進政策を追求していた高句麗と当時漢江(ハンガン)流域を占領して北進政策を展開した百済のクン草稿王(341~375)が正面衝突することになったのだ。

396年故局員王がボー奇病(騎兵)2万人を率いてあげてきて,クン草稿王は太子およそ九手をさせて,これを撃破させた。 またクン草稿王26年(371)に今回は百済が高句麗に侵して,ピョンヤン城を攻撃して,故局員王を敗死させた。 そうして百済の勢力圏はス哭声(新渓)まで含むことになったので黄海道(ファンヘド)北部に達する最大の地図を確保した。 しかしクン草稿王30年にス哭声を高句麗ソ・スリム王(371~384)に奪われたのでこの地域を中心に何回の攻防があったことを推定することができる。

クン草稿王は高句麗と衝突する一方で洛東江(ナクトンガン)流域まで進出したし,忠清道(チュンチョンド)一円の馬韓小国を侵略したりもした。 このような威勢を土台に中国の東進に使節を送って,外交関係を結んだし南側では暗記してきて通じて,その国際的な地位を確保したりもした。

クン草稿王の後に続いたクン口受王(375~384)は父王の事業を着実に継承した。 高句麗の攻撃を効果的に防いだし,同王3年には軍事3万人を率いてピョンヤン城を攻撃したりもした。 その後に続いたチムニュワン(384~385)は東進からインドの中ないで乱打がきて,仏教を伝えるやこれを受け入れたし,首都に不死をたてるなど仏教受け入れに積極的に努力した。 しかし阿華王(392~405)以後高句麗の波状的な攻撃を受けて,百済の勢力は大きく萎縮したし,母方の親戚勢力らの王権に対する牽制も激しくなっていった。 このような国難の克服と失墜した王権強化を積極的に推進した人物がケロワン(455~474)だった。 ケロワンは親衛勢力を確保するために既存の母方の親戚貴族勢力でない人物を抜てきしたし,高句麗を牽制するために上(胃)とソングに対し積極的な外交政策を追求した。 しかしケロワンのこのような政策は内外的に困難に直面することになる



熊津(ウンジン)時代



(1)熊津(ウンジン)遷都の背景


1)漢城(ハンソン)陥落当時の背景

漢城(ハンソン)が高句麗によって陥落した時の王は蓋鹵王だった。 ケロワン在位当時東北アジアの国際情勢は北魏が江北(カンブク)乙統一して,5号16国(五胡十六国)時代を終わらせて中国の南北朝東北の高句麗,そして塞北の柳柳(ユユ)(柳柳(ユユ))等4強を軸にして,均衡的な勢力配分になった状態であった。 そして高句麗の長寿王は平壌(ピョンヤン)で遷都した後427年北緯と身近な関係を維持して,ずっと百済を圧迫して入った。 西北中国土地から威嚇がない状態で積極的に南進政策を追求することになったのだ。 ケロワンはこのように対外的に高句麗の圧力に対抗して,対内的にはチン氏,該氏などと同じ大成貴族らのばっこを制御して,王権中心の新しい支配秩序を確立しなければならなかった。 ケロワンの政治的改革は貴族らの間で反発を招くことになったし,百済王室の権威を高めるために実施した大土木工事は国力の疲弊と民力消耗を持ってくることになった。 このような時期に高句麗は大軍を送って,百済に対する攻撃を断行した。 475年百済を攻撃した高句麗は首都漢城(ハンソン)を攻撃する以前に先に北性を攻撃して,7日ぶりに陥落させてまた南へ南へ降りてきて,男性にあったケロワンだけでなく王子らまで皆殺した。

一方この時期に新羅に救援を求めに行った文周は救援(旧怨)病一万人を連れてきたが彼がきた時はケロワンはすでに死んで漢江(ハンガン)流域を奪われた後であった。 このようにして,漢城(ハンソン)時代は幕を下ろした。

漢城(ハンソン)で王位に上がった文主(州,株)は木協満致と祖弥桀取の助けで荒れ地になった漢江(ハンガン)のほとり都城を捨てて熊津(ウンジン)で遷都を断行した。


2)熊津(ウンジン)の地勢

熊津(ウンジン)は北で車嶺(チャリョン)山脈と金剛に囲まれていて同では鶏龍山(ケリョンサン)が防いで立って,高句麗と新羅から侵略を防御する天然の要塞地であった。 こちらを貫いて流れる金剛を通じて,西海(ソヘ)に進むことができて,また南側には穀倉の湖南(ホナム)平野が広げられていて関防だけでなく交通と経済の要衝地として良い立地条件を整えていた。 漢城(ハンソン)時代に熊津(ウンジン)がいかなる位置にあったのかは明らかでない。 ただし熊津(ウンジン)が地理的天険で軍事上の要旨だったとの面で見る時,ひとまず高句麗の鋭鋒を避けるために軍事的要旨の熊津(ウンジン)を首都地域で選んだだろう。 これはケロワン21年9月に高句麗の攻撃を受けた後同じ年10月に移都したところで見るように文週王としては首都宅地(首都択地)の時間的余裕がなかったという点と漢城(ハンソン)陥落以後軍事地理的側面で最大の要旨が熊津(ウンジン)だったとある事実で十分に立証になるだろうと考える。


(2)熊津(ウンジン)時代の対外発展

熊津(ウンジン)に移った後中国関係交流は高句麗の妨害を押し切った文週王の再起潮力で始まる。 文週王2年(476)にソングで使節を送ったが高句麗の集中的な妨害に戻ってきてしまった。 また東城(トンソン)王6年(484)にも南斉に使節を送ったがまた失敗した。 高句麗の南進政策は続いて,熊津(ウンジン)川も初期にも中国との首脳(頂上,正常)関係は形成されなかった。 東城(トンソン)王は継続的に使節を送って,結局高句麗の妨害を突き抜けて中国の南朝と交隣関係をよく維持したし,南朝路(ナムジョロ)から冊封を受けたりもした。

一方熊津(ウンジン)遷都後百済は内部の訂正(政情)保安によって高句麗に対してしばらく守勢的立場を堅持した。 しかし武寧(ムリョン)王大(早い)達しては高句麗に対して攻勢的な立場を取り始めた。 武寧(ムリョン)王は即位初めの政変を収拾した後直ちに高句麗に対して積極的な攻勢を強化した。 百済は南天以後高句麗に対して守勢的な立場から抜け出して,攻撃的姿勢で切り替えたのだ。 強力な高句麗の南進政策を受ける百済と新羅は同じ運命のひもを握っていた。 東城(トンソン)王の時両国間に婚姻関係が結ばれるまで両国の共同歩調は一体感を持って維持された。 しかし新羅は紙症(証)王が即位した以後敵対的だった高句麗との関係を改善していって,百済と高句麗との対決主導に直接介入を自制したまま権力基盤を強化していった。 武寧(ムリョン)王はまた積極的に行ってこそ地域に進出して,百済の影響力を拡大していった。 高句麗によって,漢江(ハンガン)流域を奪われた百済は熊津(ウンジン)遷都以後これに代えるほどの新しい農業生産地を必要とすることになることによって王権が安定した武寧(ムリョン)王大から積極的な南方の経営に着手することになったのだ。 上のような事実は百済が大々的に遷都後の政局不安を克服して,王権安定を取り戻したし対外的に国際的な孤立から抜け出したことを意味すると見なされる。


(3)新進勢力の登場とその背景


文週王は弟(妹)昆支をネシンジュァピョンに任命して壮者三斤を太子で冊封して,新しい首都体制の下で整備を急いだ。 しかし在位3年ぶりに兵官佐平オットセイが強力な軍指揮権で国史(国事)をむやみにして暴れてハンティング道野営地で王を殺害した。 太子で後に続いて,王位に上がったサムグンはわずか13才繋いだので権力をオットセイが掌握した。 従来太子が幼くて,情事を世話することはできない場合には王位継承にならなかったのでサムグン王の場合でボア,ワン系統が混乱したことが分かる。

一方熊津(ウンジン)遷都によって貴族勢力らの地位と地位面で変化があった。 漢城(ハンソン)に勢力基盤を持った貴族勢力が南天するのにともない支配勢力の構成に大きい変化が現れたのだ。 熊津(ウンジン)時代の貴族勢力はチン氏,該氏,モク氏などと同じ旧貴族勢力と金剛流域の土着勢力基盤を持って熊津(ウンジン)川も以後中央政界に進出したペク氏,ヨン氏,サ氏などと同じ新進勢力で大別して見ることができる。

百済が熊津(ウンジン)で遷都した以後東城(トンソン)王5年までの支配勢力は前で調べた通りナムネグィジョクトゥルが中心になった。 しかし東城(トンソン)王が即位した後遷都初期の政治的混乱を収拾して行くことになって,漢城(ハンソン)時代にはほとんど知られていなかった姓氏らが支配勢力の中に登場している。 熊津(ウンジン)川も以後新興した勢力ら中で最も中心になる姓氏は大成8族と関連させてみる時,サ氏,ヨン氏,ペク氏だと言える。 この姓氏集団らは金剛流域権を基盤とした土着勢力としてこの時期に新しく頭角を現れた勢力で把握される。 東城(トンソン)王大に百済王室が持っていた課題は失墜した王権を回復させて政治的安定を模索するということだった。 したがって実力者の旧貴族中心の政治体制から抜け出すためには金剛流域に土着的基盤を持って勢力を拡張させていった新進勢力に関心を持たないわけにはいかなかった。 このような新進勢力の登場は支配層の幅を広げて,王権の支配力を強固にするという点で百済史の新しい転機をもたらすのに重要な意味を持つということだった。 したがって東城(トンソン)王対電気にはまだ熊津(ウンジン)時代初期の慣行の実力者貴族を中心に政局を運営したが,金剛流域の新進勢力らが順次中央政界に進出するのにらしく新旧勢力間の均衡の上で王権を安定させて強化しようとしたものとみられる。 一方,後期には新進勢力らがより一層登用される現象が現れている。 これで新進勢力が軍指揮権を掌握したことを契機に政治の主導権を掌握したことが分かる。 このような新進勢力の独走は王権の強化と安定基盤を威嚇するもう一つの妨害物になった。


(4)東城(トンソン)王と武寧(ムリョン)王の王権強化努力

1)東城(トンソン)王の王権強化策と政治的限界

熊津(ウンジン)川も以後貴族らのあいだの勢力葛藤の中で即位した東城(トンソン)王は金剛流域に基盤を持った新進勢力らを登用することによって政治的基盤を拡大させていった。 新進勢力と南来貴族との調整の上で政権を安定させた東城(トンソン)王は失墜した王権を強化するための一連の措置を取った。 彼は対内的に支配勢力の改編作業,新羅王室との結婚,王後太守制実施および大土木工事を通じて失墜した王権を振興させようとした。 対外的には既存の羅済同盟を軸に新羅と緊密な関係を維持して,高句麗に共同で対処したし,また南朝国家のナム制と伝統的な友好関係を結んで,高句麗を牽制したし,私費での遷都を計画して,王権中心の政治運営を模索したりもした。

東城(トンソン)王対に推進された一連の王権強化と政局安定,支配基盤の拡大のための施策はある程度の成果を持って,後代の武寧(ムリョン)王と聖王対につながる王権中心の政治運営に土台になったことはもちろんだ。 しかし大小の土木工事をしばしば起こして,国力の消耗と民心の離脱を持ってきたし,日照りと凶作などの続く自然災害と振興対策に対する無関心は農民の生活を窮乏するようにしたし荒々しくした。 そして執権末期には私費遷都を計画して,王室の権力を強化させていきなり大きくて,行く新進勢力を止めようとしたが彼の側近だった新進勢力百家に殺害されてしまった。 東城(トンソン)王の新進勢力登用政策は漢城(ハンソン)を喪失した以後百済の王室の支配基盤を拡大させてくれたし,遷都初期の混乱した政治情勢を収拾する土台になったとしても新旧勢力間の対立と調整の役割を通した王権の安定に充実でなくてただ権力基盤拡大に戦々恐々としたことは彼の政治的限界といえる。


2)武寧(ムリョン)王の王権安定のための施策

武寧(ムリョン)王は東城(トンソン)王を殺害した百家の乱を鎮圧して40才の年齢で王位に上がった。 彼は東城(トンソン)王の無理な専制権力強化がこの震えた結果を持ってきたのかに対してよく知っていた。 したがって勢力が増大した新進勢力の権限を一定に牽制して,新旧勢力間の勢力均衡を維持する中で王権の安定を追求していくだろう。 東城(トンソン)王対には肥大化した新進勢力を牽制するために百家のような新進勢力を地方(脂肪)の拠点地域に電報させたこととは違って武寧(ムリョン)王対には22ヶのタムノに王族らを派遣して,地方(脂肪)に対する統制力を強化した。 塀ローゼは王の血縁集団による地方(脂肪)統治方式として中央の王権確立と各自に散在されていた独立的な勢力を中央の統治秩序中に吸収するために実施されたことだった。 彼は東城(トンソン)王対以後積極的に中央政界に進出していた新進勢力らによって支配層の幅が拡大するや国王を頂点でこれらを序列化して,また政務を分担するために既存のチュァ評私を改編したがこれは私費時代チュァピョンジェウニョンにも大きい影響を及ぼした。 また武寧(ムリョン)王は修理施設を拡充して遊民らを帰農させる政策を施行することによって王政の物的な基盤を強化していった。 高句麗に対しても強化されて安定した王権を基礎で常に高句麗に対する先制攻撃を一貫して,その南下威嚇を阻止したし,王権の財政基盤の産業を奨励したが特に農業振興に努力した。 その政治功績と光栄の跡は現代にきて発掘された彼の王陵の中の副葬品で立派に証明されたし強化された国力蓄積の結果は次に対人(代印)聖王対につながった。


(5)熊津(ウンジン)時代の文化

地政学的に北の高句麗がひきつづき中国勢力と対等に戦っていて,新羅は半島東南部にかくれている状況以来中国夭逝地方(脂肪)まで領土を経営したほどの百済だったので国税は真っ最中発展する可能性を持っていた。 しかし文化は高句麗の南下政策によって,多少光を放つことができなかった。 同時に新羅と党の連合軍による戦争によって,貴族的できらびやかだった文化はその歴史とともに痕跡を探してみることさえ大変な境遇にある。 しかし幸運利刀百済の文化を伝授した日本を通じて,百済文化を再現して見ることができる。 百済文化の中心は仏教であった。 熊津(ウンジン)時代以前の仏教文化内容は不死や遺跡が発掘されなくて知る術が不明だが熊津(ウンジン)時代聖王対には'聖王4年(526)に梁の武帝を賛えるために大通寺を創建した。'とは{三国遺事}の記録を時期の仏教的文化内容を察して見ることができる。 また西穴寺のような遺跡を通じて,査察の石窟形式が主となっているという事実を知ることができる。 熊津(ウンジン)時代の絵は宋山里の6胡粉星化と無リョン王陵で出土した頭枕に描かれた組閣(彫刻)の絵があるだけだ。 松山里(ソンサンニ)6胡粉壁画はプヨ系統幹であるようでこの方の壁画はサ髭そりに四神図と日月雲文,そして壁面に設置されたトン甘酒委に描かれた火焔文がある。 木で作った二唾(針)は組閣(彫刻)の絵に過ぎないがその素材を総ハで百済熊津(ウンジン)期の絵を理解するので(に)足りる。 この絵を通じて,当時の仏教的私生観の支配形態を見回すことができて,その農地の文化全域まで仏教が浸透したことが分かる。 百済のレンガは建築物からより陵墓築造に使われた場合他には残ったのがあまりない。 だが百済の軒瓦瓦に特色があるというのに軒瓦期とは屋根終わり垂木上の装飾で使われて百済の場合暗幕間はなくて軒丸瓦だけ伝えられている。 蓮花紋が主でその他に波状文,鬼文が彫られた。 この軟化文(門)軒丸瓦は中国北緯と南朝の影響を受けたのが百済化されていく過程を見せる。

上の内容を通じて,この時期文化の特徴を数種類で要約して見ることができる。

最初に,高句麗的な北方的要素が減って中間子的な位置ではあるが,農耕社会の南方的要素が明確に浮び上がる特徴を見せている。

二番目,漢城(ハンソン)時期より仏教信仰および仏教的文化は中心地の周辺性を帯びていたし,かなり広く広がって繁盛した。

三番目,仏教的な私生観が支配的であり,中国のナム制から受けた影響が順次百済化されていった。

最後に熊津(ウンジン)時期の文化は北方的な性格と南方的な性格がよく調和した新鮮な文化を創造して,出した中心的な時期という点で大きな意味があると言える。




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