古代史の資料集です。
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(14)弁辰合二十四国大国四五千家小国六七百家総四五万戸其十二国属辰王辰王常用馬韓人作之世世相継辰王不得自立為王
これといって,辺鎮漢方医一定地域までも包括していたことを見せているのに[68]ピョン・ジンハンに対する三国志の技術を見れば,
(15)弁辰亦十二国又有諸小別邑各有渠帥大者名臣智其次有険側次有樊〓次有殺奚次有邑借有已抵国不斯国弁辰弥離弥凍国弁辰接塗国勤耆国難弥離弥凍国弁辰古資弥凍国弁辰古淳是国奚国弁辰半路国弁(辰)楽奴国軍弥国弁辰弥烏邪馬国如湛国弁辰甘路国戸路国州鮮国(馬延国)弁辰狗邪国弁辰走漕馬国弁辰安邪国(馬延国)弁辰涜盧国斯盧国優由国弁辰合二十四国大国四五千家小国六七百家総四五万戸其十二国属辰王辰王常用馬韓人作之世世相継辰王不得自立為王
これといって,チン弁韓に全24ヶの国々があることを叙述してこれらの中12ヶ国はチン王に属するといった。 これは過去にこの部分の信憑性問題を置いて大きい論議があったが,三国志韓電のこの記事をそのままチュィシネ見る場合陳弁した地域にチン王に属したグループとそうではないグループが混在していたという内容を記述したものと解釈して見ることができる。
ところで,小国名中に大きく国名に"辺鎮"という称号を付けた無理とそうではない無理やり区分されているという占ってもらえるのに,飼料(4)に仮住まい厳しい薪智(シンジ)に"中(案)が"と"九が"が各々辺鎮という名前を付け加えて,記述されているという点を見られるという点を勘案するならば辺鎮という名前を書いたグループとそうではないグループ中で前者の場合こそチン王と密接な関連を持って,"チン王に俗漢" 12ヶ国で三国志では記述しようとしたことと見たい。
ところで辺鎮関係小国らの地理的配置に関してはユン・ソンテ(2001)によれば洛東江(ナクトンガン)水路について降りてきて会うパルログク(高齢),マ・ヨングク(密陽(ミリャン))を過ぎて,最南端の旧野菊(金海(キムヘ))に到達した後,続いて西北側の中(案)野菊(咸安(ハマン))に降りて行って南江(ナムガン)の水路について洛東江(ナクトンガン)本流に合流して,またマ・ヨングクを経てトンノグク(東莱(トンネ)),仕路国(慶州(競走,傾注)),まぐれあたり国(蔚珍(ウルチン))等東海岸について北上することで記述されているという[69].
ところで,最近の報告によれば蟾津江(ソンジンカン)水路と南海岸地域が新石器時代から密接な交流関係にあったことが考古学的な資料を通じて立証されているというのに(ソン・ウンスク,1998) [70]クァク・チャングン(1999)によれば,金剛と蟾津江(ソンジンカン)を連結する南北方向の交通路は後日の百済がカヤセリョンネジなぜとの交易路で使った通路として白頭山脈を越えて,行くべきで逆に連結する重要な役割を担当していたという。
彼によれば4世紀全般(前半)対に早ければこの地域には中型級古塚が出現するがまもなく断行されたクン草稿王の南征で消滅することになると見たがこの古塚らの売り場主体部は竪穴式石槨墓として墓祭と遺物の属性がカヤゴブンと密接な関連性を帯びていてその造営集団がカヤムヌァを基盤に成長したことがわかったといった[71].
結局,風納土城(プンナプトソン)を違例性と見なして風納土城(プンナプトソン)から北側地域には13ヶ国が存在したという点,そして三国志韓電に現れた馬韓小国中"仮住まい号"なった4国がチン王と違った小国らの間に存在してチン王を代表して,他の小国を統括した存在で見るという通説を受け入れてみれば,これら仮住まい厳しい薪智(シンジ)が統轄する小国の位置は三国志の技術順序と相対的通り(距離)から推察する時,京畿道(キョンギド)北部=身分故国,栄山江(ヨンサンガン)流域=身運神国になることができると見る(絵1).
これはその全面的な実状は分からないが,身分故国と身運故国は相対的に非情な位置を持って判断してみるならば,韓半島南部に存在した最も有力な交通路周囲に存在した相対的に優勢な段階の小国だった可能性を示唆することだ。 [72]特に身分故国と百済国は三国志韓電にはすぐそばに記述されているので[73]これは風納土城(プンナプトソン)をチヌァンの分小路見られるならば,身分故国と百済国は両者皆漢江(ハンガン)北部に配置されていた可能性を示唆してくれるという。
次に陳弁した地域に存在する旧野菊と中(案)野菊の場合を先んじて記述した通り全北(チョンブク)東部地域で小白(ソペク)山脈を越えて,慶南(キョンナム)内陸地域,最終的には金海(キムヘ)地域に入ってくるギョンノさんに位置すると見る時,この両国やはり漢江(ハンガン)流域のチン王から出発する交通路が韓半島南端まで(早い)達する経路の途中位置して,周辺の小国を統轄した立場にあったと見ることもできる。 [74]
3.後代の歴史展開でみたチン王と交通路の意味の末で三国志韓電で見られるチン王とこれに密接な関連を持っている交通路が後大義歴史展開にいかなる影響を及ぼしたし違う姿で変化して行ったのかに対する若干の浅見を表明してこの文を結ぼうと思う。 ユン・ソンテ(2001)によれば,馬韓の統合はたとえ百済によって,完遂されるが,その統合の最初動きは木芝国のチン王から始まったし,三国志韓電はまさにそのチン王の歴史だといったのに,論旨の相当部分に共感するところだ。
最近ある鞠庁動機文化に対する理解が深くなって,中国東北部と韓半島という広い地域にかけて,分布したこの文化は川ある共通的特性にもかかわらず,地域的に多様な類型を産んで,発展して行ったことを理解することができるようになったがこのような類型らの間の共通性維持のためにはこの地域らの間の緊密な交流なしでは不可能だという点を考える時,交易路と政治勢力の発展は非常に密接な関連があると見る[75].
すなわち,青銅起電機に遼寧省と南満洲,韓半島に達する広い地域がその文化的性格にあって相当な程度の類似性を持つようになる現象はこの文化圏内にどんな高度な政治的統一体が存在しているということを意味するのではないならば,文化圏内部の数多くの類型らの間に緊密な文化的,人種的交流があったことを意味していると見ることだ。
特に,このような韓国青銅奇聞化の流れが青銅起電機にはまだ日本にまで及ぼせずにいたことを勘案してみるならば,青銅起電機と後期の文化的な交流の様相は航海と関連した技術的な問題とも関連を作ってみることができると考える[76]. しかし青銅気候期に入れば,韓国青銅奇聞化は西日本で延びて,弥生文化を成立させることになるのに[77],韓半島南部まで(早い)達した交易路が西日本まで延びることになってこの地域に文化的な急変を起こしていたと見る。
最近の研究結果によれば,弥生全(前),中期に韓半島から日本側に一方的に流れた文化的,人種的流れの方向は弥生後期に早ければこれとは反対方向の逆流現象が観察され始めるとされている。 すなわち,ソ・キウォン年以後の日程時期に早ければなぜ癸酉物が韓半島男敷地駅の海岸地方(脂肪)を中心に発見されているのに[78],
このような遺物の性格に関して多くの論議があるがこれまたよく発達した貿易路が当時帯方郡(テバングン)が位置した地域で韓半島を通じて,日本の瀬戸内海まで(早い)達する経路に存在したものとみられるという点を前提とする時に簡単に理解することができる[79]. このようななぜ癸酉物の使用者と見える人々は三国志韓電の記事でも簡単に看取することができるのに
(16)男女近倭亦文身便歩戦兵仗与党馬韓同其俗行者相逢皆住譲路
のような部分は韓半島の海岸地域に存在したなぜ系移住民の姿を形容したものと考える[80]. 韓半島南部で日本西部地域に達するこのような"貿易路"の存在とこれを通じた文化,人口の移動は今後の研究報告によって,より一層精緻日が沈まなければならない性質のことだが,現在の不十分な資料を持って性急な推論をしてみようとするなら,このような貿易路の成立と崩壊は韓国と日本の古代史の展開にとても密接な関連を持っていると考える。
すなわち,筆者は百済と新羅という社会は韓国青銅器時代以来韓半島南部と日本に存在した"交易路"に対してこれを圧迫して,崩壊させる方向として作用していた可能性を提起したい。
すなわち,瀬戸内海の交易路の掌握を通じて,日本の邪馬台国が西部日本の敗者で発展して行ったように,韓半島でも韓半島中部地域で旧野菊に達する地域の交通路をチン王を頂点でこれと密接な相関関係を結んだ小国らの緊密な連係を通じて維持されていたと考えるのに今後,また他の機会を(祈る)借りて使ってみるだろうが,百済と新羅はこの貿易路を破壊する方向で自身の勢力を拡張させる立場にあったと見る。
百済と新羅はある剛柔駅と慶州地域で興起して,この貿易路を北側と東側方向で圧迫していたと見るのにこれらが強盛になれば負けるほど残ったことは"一時成立していた貿易路"の破片的勢力らだったことだと見る[81].
したがって,"百済"は交易路上の韓半島側頂点で機能した"チン王"を押してこの地域の敗者で機能することを希望したが,結局従来に存在した貿易路上の小国らは"再征服"しなくてはいけなかったと考えるのに[82]が動きが結局歴史的に記述された部分が栄山江(ヨンサンガン)流域を含んだ韓半島南部地域での進出だと見る[83].
ただし,百済の場合は始終一貫このような交易路の宿敵で存在した新羅とは違って長寿王の南征で熊津(ウンジン)遷都を敢行して,高句麗の南進を阻止するために従来に存在した交通路上の小国との連係を大きく強化したと考えるのに[84],この過程で百済となぜ肝の関係は新羅となぜ肝の対立とは全く違う性格のことで変わって行ったと見る。
IV. 結び今まで本論文では最近発見された風納土城(プンナプトソン)が3世紀以前の漢江(ハンガン)流域での強固な政治体の成立を象徴するという報告が定説に固まる場合,三国志韓電は飼料的価値を完全に喪失するほかはないかという問題に関して,簡単に調べた。
周知し次第,三国志と三国史記が伝える当時の状況が互いに対立的であると認識される状況で風納土城(プンナプトソン)と同じ政治体の存在の可能性は三国志の立場で見る時,飼料的信憑性において相当な打撃を受けることになるという点は疑いの余地がない。 ただし,多くの論理的飛躍が前提にならなければならなくはあるが,三国志韓電が伝える内容が風納土城(プンナプトソン)の発掘報告と一致する面を設定してみることはできないかというという点を調べようと思う意図で本研究は計画された。
結論的に要約しようとするなら,三国志韓電自体が片鱗を提供していたが大きく重要視されなかった三韓の盟主としてのチン王に対する全勝を学界でもう少し積極的に解釈することになれば,風納土城(プンナプトソン)の発掘と関連して,多くの暗示を受けることができると考える。
将来発掘が進行されてこそ全貌が分かることかもしれないが,風納土城(プンナプトソン)が韓国を含んだ東アジア社で占めることになる比重はその遺物を正確に分析してみれば,この土星の支配者が東アジアの交易路でいかなる役割をしていたのかという点と密接な関連を持つことになる可能性が多いと見る。
本論文ではその間の考古学的発掘報告と三国志韓電を新しく解釈して,みた結果,風納土城(プンナプトソン)を中心にした韓半島中部地域の文化圏は初期には北方から移動してきた外来界と土着界の結合で派生したがその中(案)には馬韓で代表される勢力と百済で象徴される勢力が混在している可能性を提起した。
風納土城(プンナプトソン)が3世紀以前に築造が完了したという一部の主張が事実に固まる場合,存在する飼料の積極的解釈を通じて,三国志韓電で片鱗にだけ伝えられる韓半島南部を統制するチン王の存在は事実と解釈される余地が多いと考える。
風納土城(プンナプトソン)は現在までの報告を見れば,百済国家の旺盛として機能した時期も後代に早ければ存在したことが確実だと見られるだけに,風納土城(プンナプトソン)の主体が時期を置いて交替させられた可能性も考えてみられると見て,これはチン王から百済での覇権の交替を意味すると見る。
この点,学界の積極的検討を望むことだが,最近韓半島西南敷地駅の遺跡に対する調査が活発に進行しているのを勘案すれば,チン王の中心地を風納土城(プンナプトソン)で設定してみたこの試みも暫定的な推論に留まるほかはないということを自認したい。 もしチン王に対応されることができる遺跡が違う地域で報告されられることができたり風納土城(プンナプトソン)の発掘が最も早い時期から百済と関連になって成立したとのことが確実になりえるならば拙稿の論理は自然に,廃棄されなければならないと考える。
週
これといって,辺鎮漢方医一定地域までも包括していたことを見せているのに[68]ピョン・ジンハンに対する三国志の技術を見れば,
(15)弁辰亦十二国又有諸小別邑各有渠帥大者名臣智其次有険側次有樊〓次有殺奚次有邑借有已抵国不斯国弁辰弥離弥凍国弁辰接塗国勤耆国難弥離弥凍国弁辰古資弥凍国弁辰古淳是国奚国弁辰半路国弁(辰)楽奴国軍弥国弁辰弥烏邪馬国如湛国弁辰甘路国戸路国州鮮国(馬延国)弁辰狗邪国弁辰走漕馬国弁辰安邪国(馬延国)弁辰涜盧国斯盧国優由国弁辰合二十四国大国四五千家小国六七百家総四五万戸其十二国属辰王辰王常用馬韓人作之世世相継辰王不得自立為王
これといって,チン弁韓に全24ヶの国々があることを叙述してこれらの中12ヶ国はチン王に属するといった。 これは過去にこの部分の信憑性問題を置いて大きい論議があったが,三国志韓電のこの記事をそのままチュィシネ見る場合陳弁した地域にチン王に属したグループとそうではないグループが混在していたという内容を記述したものと解釈して見ることができる。
ところで,小国名中に大きく国名に"辺鎮"という称号を付けた無理とそうではない無理やり区分されているという占ってもらえるのに,飼料(4)に仮住まい厳しい薪智(シンジ)に"中(案)が"と"九が"が各々辺鎮という名前を付け加えて,記述されているという点を見られるという点を勘案するならば辺鎮という名前を書いたグループとそうではないグループ中で前者の場合こそチン王と密接な関連を持って,"チン王に俗漢" 12ヶ国で三国志では記述しようとしたことと見たい。
ところで辺鎮関係小国らの地理的配置に関してはユン・ソンテ(2001)によれば洛東江(ナクトンガン)水路について降りてきて会うパルログク(高齢),マ・ヨングク(密陽(ミリャン))を過ぎて,最南端の旧野菊(金海(キムヘ))に到達した後,続いて西北側の中(案)野菊(咸安(ハマン))に降りて行って南江(ナムガン)の水路について洛東江(ナクトンガン)本流に合流して,またマ・ヨングクを経てトンノグク(東莱(トンネ)),仕路国(慶州(競走,傾注)),まぐれあたり国(蔚珍(ウルチン))等東海岸について北上することで記述されているという[69].
ところで,最近の報告によれば蟾津江(ソンジンカン)水路と南海岸地域が新石器時代から密接な交流関係にあったことが考古学的な資料を通じて立証されているというのに(ソン・ウンスク,1998) [70]クァク・チャングン(1999)によれば,金剛と蟾津江(ソンジンカン)を連結する南北方向の交通路は後日の百済がカヤセリョンネジなぜとの交易路で使った通路として白頭山脈を越えて,行くべきで逆に連結する重要な役割を担当していたという。
彼によれば4世紀全般(前半)対に早ければこの地域には中型級古塚が出現するがまもなく断行されたクン草稿王の南征で消滅することになると見たがこの古塚らの売り場主体部は竪穴式石槨墓として墓祭と遺物の属性がカヤゴブンと密接な関連性を帯びていてその造営集団がカヤムヌァを基盤に成長したことがわかったといった[71].
結局,風納土城(プンナプトソン)を違例性と見なして風納土城(プンナプトソン)から北側地域には13ヶ国が存在したという点,そして三国志韓電に現れた馬韓小国中"仮住まい号"なった4国がチン王と違った小国らの間に存在してチン王を代表して,他の小国を統括した存在で見るという通説を受け入れてみれば,これら仮住まい厳しい薪智(シンジ)が統轄する小国の位置は三国志の技術順序と相対的通り(距離)から推察する時,京畿道(キョンギド)北部=身分故国,栄山江(ヨンサンガン)流域=身運神国になることができると見る(絵1).
これはその全面的な実状は分からないが,身分故国と身運故国は相対的に非情な位置を持って判断してみるならば,韓半島南部に存在した最も有力な交通路周囲に存在した相対的に優勢な段階の小国だった可能性を示唆することだ。 [72]特に身分故国と百済国は三国志韓電にはすぐそばに記述されているので[73]これは風納土城(プンナプトソン)をチヌァンの分小路見られるならば,身分故国と百済国は両者皆漢江(ハンガン)北部に配置されていた可能性を示唆してくれるという。
次に陳弁した地域に存在する旧野菊と中(案)野菊の場合を先んじて記述した通り全北(チョンブク)東部地域で小白(ソペク)山脈を越えて,慶南(キョンナム)内陸地域,最終的には金海(キムヘ)地域に入ってくるギョンノさんに位置すると見る時,この両国やはり漢江(ハンガン)流域のチン王から出発する交通路が韓半島南端まで(早い)達する経路の途中位置して,周辺の小国を統轄した立場にあったと見ることもできる。 [74]
3.後代の歴史展開でみたチン王と交通路の意味の末で三国志韓電で見られるチン王とこれに密接な関連を持っている交通路が後大義歴史展開にいかなる影響を及ぼしたし違う姿で変化して行ったのかに対する若干の浅見を表明してこの文を結ぼうと思う。 ユン・ソンテ(2001)によれば,馬韓の統合はたとえ百済によって,完遂されるが,その統合の最初動きは木芝国のチン王から始まったし,三国志韓電はまさにそのチン王の歴史だといったのに,論旨の相当部分に共感するところだ。
最近ある鞠庁動機文化に対する理解が深くなって,中国東北部と韓半島という広い地域にかけて,分布したこの文化は川ある共通的特性にもかかわらず,地域的に多様な類型を産んで,発展して行ったことを理解することができるようになったがこのような類型らの間の共通性維持のためにはこの地域らの間の緊密な交流なしでは不可能だという点を考える時,交易路と政治勢力の発展は非常に密接な関連があると見る[75].
すなわち,青銅起電機に遼寧省と南満洲,韓半島に達する広い地域がその文化的性格にあって相当な程度の類似性を持つようになる現象はこの文化圏内にどんな高度な政治的統一体が存在しているということを意味するのではないならば,文化圏内部の数多くの類型らの間に緊密な文化的,人種的交流があったことを意味していると見ることだ。
特に,このような韓国青銅奇聞化の流れが青銅起電機にはまだ日本にまで及ぼせずにいたことを勘案してみるならば,青銅起電機と後期の文化的な交流の様相は航海と関連した技術的な問題とも関連を作ってみることができると考える[76]. しかし青銅気候期に入れば,韓国青銅奇聞化は西日本で延びて,弥生文化を成立させることになるのに[77],韓半島南部まで(早い)達した交易路が西日本まで延びることになってこの地域に文化的な急変を起こしていたと見る。
最近の研究結果によれば,弥生全(前),中期に韓半島から日本側に一方的に流れた文化的,人種的流れの方向は弥生後期に早ければこれとは反対方向の逆流現象が観察され始めるとされている。 すなわち,ソ・キウォン年以後の日程時期に早ければなぜ癸酉物が韓半島男敷地駅の海岸地方(脂肪)を中心に発見されているのに[78],
このような遺物の性格に関して多くの論議があるがこれまたよく発達した貿易路が当時帯方郡(テバングン)が位置した地域で韓半島を通じて,日本の瀬戸内海まで(早い)達する経路に存在したものとみられるという点を前提とする時に簡単に理解することができる[79]. このようななぜ癸酉物の使用者と見える人々は三国志韓電の記事でも簡単に看取することができるのに
(16)男女近倭亦文身便歩戦兵仗与党馬韓同其俗行者相逢皆住譲路
のような部分は韓半島の海岸地域に存在したなぜ系移住民の姿を形容したものと考える[80]. 韓半島南部で日本西部地域に達するこのような"貿易路"の存在とこれを通じた文化,人口の移動は今後の研究報告によって,より一層精緻日が沈まなければならない性質のことだが,現在の不十分な資料を持って性急な推論をしてみようとするなら,このような貿易路の成立と崩壊は韓国と日本の古代史の展開にとても密接な関連を持っていると考える。
すなわち,筆者は百済と新羅という社会は韓国青銅器時代以来韓半島南部と日本に存在した"交易路"に対してこれを圧迫して,崩壊させる方向として作用していた可能性を提起したい。
すなわち,瀬戸内海の交易路の掌握を通じて,日本の邪馬台国が西部日本の敗者で発展して行ったように,韓半島でも韓半島中部地域で旧野菊に達する地域の交通路をチン王を頂点でこれと密接な相関関係を結んだ小国らの緊密な連係を通じて維持されていたと考えるのに今後,また他の機会を(祈る)借りて使ってみるだろうが,百済と新羅はこの貿易路を破壊する方向で自身の勢力を拡張させる立場にあったと見る。
百済と新羅はある剛柔駅と慶州地域で興起して,この貿易路を北側と東側方向で圧迫していたと見るのにこれらが強盛になれば負けるほど残ったことは"一時成立していた貿易路"の破片的勢力らだったことだと見る[81].
したがって,"百済"は交易路上の韓半島側頂点で機能した"チン王"を押してこの地域の敗者で機能することを希望したが,結局従来に存在した貿易路上の小国らは"再征服"しなくてはいけなかったと考えるのに[82]が動きが結局歴史的に記述された部分が栄山江(ヨンサンガン)流域を含んだ韓半島南部地域での進出だと見る[83].
ただし,百済の場合は始終一貫このような交易路の宿敵で存在した新羅とは違って長寿王の南征で熊津(ウンジン)遷都を敢行して,高句麗の南進を阻止するために従来に存在した交通路上の小国との連係を大きく強化したと考えるのに[84],この過程で百済となぜ肝の関係は新羅となぜ肝の対立とは全く違う性格のことで変わって行ったと見る。
IV. 結び今まで本論文では最近発見された風納土城(プンナプトソン)が3世紀以前の漢江(ハンガン)流域での強固な政治体の成立を象徴するという報告が定説に固まる場合,三国志韓電は飼料的価値を完全に喪失するほかはないかという問題に関して,簡単に調べた。
周知し次第,三国志と三国史記が伝える当時の状況が互いに対立的であると認識される状況で風納土城(プンナプトソン)と同じ政治体の存在の可能性は三国志の立場で見る時,飼料的信憑性において相当な打撃を受けることになるという点は疑いの余地がない。 ただし,多くの論理的飛躍が前提にならなければならなくはあるが,三国志韓電が伝える内容が風納土城(プンナプトソン)の発掘報告と一致する面を設定してみることはできないかというという点を調べようと思う意図で本研究は計画された。
結論的に要約しようとするなら,三国志韓電自体が片鱗を提供していたが大きく重要視されなかった三韓の盟主としてのチン王に対する全勝を学界でもう少し積極的に解釈することになれば,風納土城(プンナプトソン)の発掘と関連して,多くの暗示を受けることができると考える。
将来発掘が進行されてこそ全貌が分かることかもしれないが,風納土城(プンナプトソン)が韓国を含んだ東アジア社で占めることになる比重はその遺物を正確に分析してみれば,この土星の支配者が東アジアの交易路でいかなる役割をしていたのかという点と密接な関連を持つことになる可能性が多いと見る。
本論文ではその間の考古学的発掘報告と三国志韓電を新しく解釈して,みた結果,風納土城(プンナプトソン)を中心にした韓半島中部地域の文化圏は初期には北方から移動してきた外来界と土着界の結合で派生したがその中(案)には馬韓で代表される勢力と百済で象徴される勢力が混在している可能性を提起した。
風納土城(プンナプトソン)が3世紀以前に築造が完了したという一部の主張が事実に固まる場合,存在する飼料の積極的解釈を通じて,三国志韓電で片鱗にだけ伝えられる韓半島南部を統制するチン王の存在は事実と解釈される余地が多いと考える。
風納土城(プンナプトソン)は現在までの報告を見れば,百済国家の旺盛として機能した時期も後代に早ければ存在したことが確実だと見られるだけに,風納土城(プンナプトソン)の主体が時期を置いて交替させられた可能性も考えてみられると見て,これはチン王から百済での覇権の交替を意味すると見る。
この点,学界の積極的検討を望むことだが,最近韓半島西南敷地駅の遺跡に対する調査が活発に進行しているのを勘案すれば,チン王の中心地を風納土城(プンナプトソン)で設定してみたこの試みも暫定的な推論に留まるほかはないということを自認したい。 もしチン王に対応されることができる遺跡が違う地域で報告されられることができたり風納土城(プンナプトソン)の発掘が最も早い時期から百済と関連になって成立したとのことが確実になりえるならば拙稿の論理は自然に,廃棄されなければならないと考える。
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