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古代史の資料集です。
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①叔母酸性とクァンガプチョンゴリョテジョ10年(927) 9月(新羅敬愛王4年9月)にキョン・フォンがクン品性(近品城:今の山羊)を打って奪って,新羅のソウルに肉迫すると新羅王は高麗太祖に救援(旧怨)を求めた。 高麗太祖はイ・チョンを受けて,時間を計算してみると歩兵では追いつくことができないと思い精騎5千で追いつくための進軍を始めたが叔母酸性に達して,進軍しようと思うと進む道がない。

秋雨はどしゃ降りのようにおりて道はなくて止む得なく叔母酸性で一夜を過ごした。 夜明けに起きて外を出てみると川の水は洪水が負けて,ごうごうと流れて前には切り立った絶壁だと進退両難の境遇で前を眺めるとウサギ一匹が現れて,岩絶壁を横切っていくのが見えた。 それを見ると同時に即軍卒を命じて“ウサギが行くのに言葉が行けない。

道をつけろ。”した。 軍卒らがウサギが過ぎ去った道に従って道をつけて,この険しい道を通過したといって今でもウサギ不正(兎遷)だと呼ぶ。 昔にソウルを行き来する道手らはこの道をクァンガプチャンも(串岬桟道:クァン甲衣はしご長さという意味)として,一番上険しい道に選んだ。
史家ソ・ゴジョン(四佳徐居正)は串岬桟道という詩で

②叔母酸性の収縮と戦闘叔母酸性の最初築城年代は今は確実でないが三国時代初期の酸性であることに間違いない。 酸性周辺で出土する土器を見る時に三国時代初期の築城と断定することができる。 しかし長い間の歳月が流れる間新羅と考慮を通じて,叔母酸性収縮期録は探してみることができなく朝鮮朝英祖35年己卯年(1759)に叔母酸性収縮のためにムン・ギョンヒョンで対米(大米:米) 8百29席12頭9合3社を与えたという記録が聞慶(ムンギョン)現地(影照本)に記載されている。

この己卯年は李麟佐の反乱があって21年後となる。 イ寅坐は聞慶(ムンギョン)松面に隠居して老論政権を打倒するために鄭希亮などと1728年に反乱を起こして敗れて,処刑された。
最も最近の収縮は高宗(コジョン)30年戒師年(1893)に県監金禎根が関隘重地といって,石で性を収縮して鎮南楼を声紋(城門)にたてた。

(ファニョスンナム鼓笛(古跡)叔母酸性組)こちら一員が警官(景観)が秀麗で今まではジンナム撹はんといって「慶北(キョンブク)八景」の第1に選んでいるが,この鎮南だと呼ぶ名称は1893年キム・ジョングン県監が叔母酸性門楼をチン乱れといったところで由来したし,うんざりすることは二省から南側を鎮圧することができるという意だ。

当時叔母酸性保守の背景にはそれから22年前の1871年李弼あるいは李弼済という東学教徒が聞慶(ムンギョン)地方で蜂起した事実があって,官軍が討伐するのに大変な苦労をした事実があったし,この時には同学教導らのタラが尋常でない時であった。 1894年甲午年同学抗争の時にこちらで戦闘があったとするがまだその記録を探すことはできない。

壬辰倭乱の時には倭兵がこちらの防備ないことを見て踊って越えたというと壬辰倭乱当時にはこちらで戦闘がなかったと認められて,1728年イ寅坐の反乱時には申思日義兵長が義兵を率いてこちらで反乱軍を防御したという。(戊申倡義録)1894年同学抗争の時もこちらで戦いがあったと伝えると記録を探すことができなくて,1896年正月に抗日義兵泣いた川イガン年代長がこちらで日本軍と一日中戦ったが不利で,退却したし,義兵捕手沈巨擘がここで戦死した。(泣いたカン・チャンウイ日録)

(5)と副ソン(姑夫城)姑夫城は叔母性の南側便でまっすぐに渡って見える魚龍山首脳(頂上,正常)付近にある。 魚龍(オリョン)産(山)は麻城面(マソンミョン),九浪里(クランニ)と仏井洞(プルチョンドン)の警戒地点だ。 「聞慶(ムンギョン)現地」に“姑と嫁性はトチョンの南側高い山の上にあって叔母性と一緒に互いに向かい合っている。”したことから見て叔母性とは姉妹性であり,同時代に築造されたと推測される。

姑と嫁性で南側谷間は算数ゴールといって,九浪里(クランニ)とカウン行く全(前)から中(案)プルチョンと他プルチョンのトドッコルロ通じる地点に位置して,カウン方面と聞慶(ムンギョン)方面2ヶ所を監製することができる。

特にカウン方面は軟風と槐山(クェサン),青天で越えてくることができるところが鳳岩(ボンアム)寺方面のオ・ポンジョン道と青天方面のクァンピョン道があってケリムニョンノを経なくて新羅の内地で侵攻が可能だから姑と嫁性の必要性はより一層固まる。 このような事実は6.25韓国動乱(朝鮮戦争)が証明している。

①6.25韓国動乱(朝鮮戦争)と姑夫城・姑母城一代(一帯)の攻防戦昔に積んだ性がある地点らが現代戦にも昔でも同じ役割をして,現代戦にも重要な要衝地として十分な価値があることを6.25韓国動乱(朝鮮戦争)中で叔母性と姑と嫁聖地駅の戦闘状況を“朝鮮戦争社”で調べてみる。

1950年7月19日梨花嶺で奉命産(山)(鳳鳴山:692m),ナム狐狸(南湖里:聞慶市(ムンギョンシ),麻城面(マソンミョン))まで撤収した国軍第6師団19連隊(連隊長民兵権)は3号国道を警戒(境界)でして,その東側のシニョルリ(新〓里:叔母性所在地)に指揮所を置いて2個大隊として五情産(山)(烏井山:810m),シニョン(叔母性北側500m)間の真摯(陣地)を占領した。

この地域は英カン東北側のウサギ不正犬灘里と梧泉里を遮る所として時の集結地のナム狐狸(南湖里:聞慶(ムンギョン)南方3km)をひと目で監製できる地帯だ。 特にこの地域を貫く3号国道が確保されてこそ幽谷,店村(チョムチョン),咸昌(ハムチャン)を連結する線(船)を確保可能なためだ。 国軍は五情産(山)を選んで,2個大隊として4kmの防御正面に真摯(陣地)を構築した。

この日07:00を期して,北朝鮮1師団3連隊が五情産(山)で侵攻してきた。 ここに対抗して,2大隊がホ・ケリ西側赦免の500等高線に達する2,500mの防御正面を守っていたがナム狐狸で五千里渓谷で急襲した2個大隊規模の多少俗称“カソプ”という山間の村で峠を越えて,侵攻してきたし他の1個大隊はシニョルリ渓谷に押し寄せた。

このようになって,激しい攻防戦が展開したが3時間にかけたすさまじい戦闘の末に敵は私たちの大隊の火網の中で前進でなくて敗走してしまったし,加湿付近の赤道兵力をおさめて,撤収すると私たちの1小隊が五情産(山)北側稜線に一撃を加えるや敵は壊滅して味方は多くの戦利品を捕獲した。

翌日書いた04:00から(浴びせる)降り注ぐ卑俗で大大規模に奇襲を敢行してきた。 敵はシニョルリ渓谷から固持(告知,高地)の西側赦免に潜入して,私たちの6中隊正面を集中攻撃してきた。 この地域はキョン弾リへ渡る近道だからこれを重視して私たちもその付近に兵力を待ち伏せさせたところで重大はこれを捕らえて総和力を集中させたが30分後には真摯(陣地)で肉弾で対抗する混戦上になった。

30人余りの敵を射殺または他殺したが私たちも中隊長をはじめとして,6人が戦士(戦史)と10人余りが浮上(負傷)した。 2時間半の間の血戦でついにキョン弾リ側で撤収した。 同じ日09:00に反撃を加えて,4時間の間の激戦の末に13:00に東進紙を奪還して,五情産(山)とシニョルリ間の真摯(陣地)をまた連係させた。 しかし翌日19:00に連帯は師団の命令によって新機里で撤収した。

翌日反撃を開始した味方第1師団第11,12両連帯は永順面(ヨンスンミョン)キム・リョンリと虎渓面(ホゲミョン)膜曲リで06:00を期して,反撃を開始,五情産(山)と浮き雲令(領)(浮雲嶺:五情産(山)東北側4km)を占領して,6師団正面であがくことの退路を遮断して包囲攻撃することにした。 膜曲リを出発した12連隊は08:00に五情産(山)を占領した。 連帯は第1,第2両大隊で五千里底部室の敵を攻撃させたが電車で増強されたことと14:00時から17:00時まで激戦をして命令で五情産(山)に復帰した。

7月21日02:00時を期して,敵は私たちの第2連隊(連隊長ハム・ビョンソン大佐)が担当している師団中央地対の魚龍(オリョン)産(山)(魚龍山:姑と嫁性615m)と新しいボン(鳥峰:683m)を攻撃してきた。 しかしこの時魚龍(オリョン)産(山)で新しいボンを侵攻することを予測したので私たちの歩砲の集中化力の前に敵は退いてしまった。

07:00時からは第3大隊によって,魚龍(オリョン)産(山)奪還作戦が展開したが時の抵抗が頑強で,5時間の間の逆攻勢にも意図を成し遂げられない中12:00時を前後して,国連戦闘爆撃機1両編成大義公衆(空中)支援でその目標を奪取するとこの時が13:00時であった。

17:00時には互いに一歩ずつ退いて,1kmの間隔を置いて南と北で対立するようになった。 翌日06:00時頃書いた増強された連帯規模の兵力で電車を前面に出して叔母酸性の下のジンナム教ドーハ作戦を敢行してきた。 時の野砲と電車胞衣援護の下威勢堂々と白昼のドーハを試みてきた。 この時に私たちの両大隊では電話力をジンナム撹はんに集中したが敵一部兵力が聞慶(ムンギョン)炭鉱付近まで浸透した。

ちょうどこの時に国連空軍1両編成代価チン南郊付近と聞慶(ムンギョン)炭鉱付近の敵を騎銃でさらうと書いた四分五裂されて支離滅裂になるのに米帝90砲兵隊A砲台が155m重砲を店村(チョムチョン)茅田里(モジョンニ)で推進して,この一帯に集中砲火を(浴びせる)降り注いで,敵は正常な感覚でないのに米軍電車対1ヶ所代価5代の電車を追い立てて,支援すると開戦以来初めて歩,戦,砲,空の協同作戦が成り立った。

このようになって,3度道路の軸線(船)を確保するようになったが魚龍(オリョン)産(山)と新しいボンでは翌日05:00時頃に2個大隊規模の多少また攻撃してきた。 前日同固持(告知,高地)北赦免で攻撃を受けたことは大大規模に増強して中(案)プルチョンに通じる渓谷(算数ゴール)をあがいてきたし,また他の大大規模の書いた低音リ(トルマレミ)渓谷で攻撃してきた。

2,000m夫婦の防御陣紙全面が砲煙弾雨で覆って手榴弾の暴飲は大騒ぎを加えた。 このような血戦が2時間が過ぎるや私たちの11中隊真摯(陣地)が崩れて,数的に劣勢な私たちの大隊は悪戦苦闘の末に分散状態に陥った。

連帯の前真摯(陣地)を監製できる新しいボンを時の手中に譲り渡すことになると中(案)プルチョン一帯が時のキ・ドンノに変わる危機を迎えることになった。 この時に国連空軍の公衆(空中)支援で第2中隊は651△ウンジョムジェを占領するようになった。

翌日第7連隊は新しいボンを奪還するのにために05:00時を期して,攻撃を開始したが適宜頑強な抵抗で14:00時まで射撃前だけ続いた。 一方第2連隊は第7連隊が幽谷リで反転した後翌日06:00を期して,新しいボン奪還作戦を開始した。

7時間にかけた連続血戦の末に13:00時に新しいボンを奪還した。 同固持(告知,高地)を奪還して見ると射殺されたこと死体が300余区(具),機関銃18丁,小銃128丁,実弾3,500発を捕獲して捕虜1人をひきつけた。 以上で私たちは6.25韓国動乱(朝鮮戦争)中叔母性,姑と嫁性がある五情産(山),魚龍(オリョン)産(山),新しいボンの10日余りにかけた戦闘状況を見渡してみた。 そしてこの一帯が戦略上どれくらい重要な位置かを分かったと見る。

この地域だけ突破されればまさに洛東江(ナクトンガン)だ。 6.25ヶ前以来真に戦闘として敵を制圧した地形はこちらがあるだけだ。 この一帯で10日以上敵を縛っておいたので洛東江(ナクトンガン)橋頭堡の構築が可能だったと見るならば昔や現代や戦略上の要衝地の価値は変わりないことが証明されている。 すなわち新羅と考慮の時はケリムニョンノ,朝鮮時代はチョリョンノ,今日にはまた内陸を貫く3号国道は最も重要だと言えよう。

②姑と嫁性の伝説が姑と嫁性には築城当時の切ない伝説が私たちの故障に伝えられている。 昔に空から降りた女二人と男三人がカラシナ村(冠県)にきた。 1人の女性は麻姑仙女で,また1人の女性は姑母仙女であり,男は姑夫三兄弟だったという。 これらがこの村に降りてきてみると山川は美しいが遠くなくて兵乱が起きるようだ。

それで重要な町角に城を築くことにして,五人が性を先に積む出すことをすることにしたという。 姑と嫁三兄弟は下駄を履いて魚龍(オリョン)産(山)床に城を築いて,マゴソンニョは正鵠リ後方の山,叔母天女はトチョンタンボンに城を築くことにして,女たちはエプロンで石を運んで積んで,男たちは下駄を履いて,算数ゴールで石を持って積むのに1夜昼に終了にして男が先に積めば女天女は男たち中でひとりを差し引いて嫁に行くことにして,女が勝てば男たち三は積んだ星位に石に変わって,いつまでも性を守ることに約束をした。

姑と嫁三兄弟は仕事をして弟(妹)がする言葉が“お兄さんらお二人様は天女と結婚して天上に行って幸せに暮らして下さい。

私はこの地上(紙上)に残ります。”とする。 一番上の兄が言うことを“私が残ることとか君たち二人で妻をめとれ”といいながらお互いが遠慮する言葉をいったのが何時間を消費して,翌朝までも城を築くことを締めくくることができなかったが二人の天女は性をみな積んだ。 それで三兄弟は石になったという。 今でも叔母性で眺めれば魚龍(オリョン)山の頂上には三兄弟岩といって,大きい石が三が立っている。

(6)ヒさん買った性(曦陽山城)ヒヤン酸性は加恩邑(カウンウプ),ウォンブクリ鳳岩寺後方の山のヒヤン山の頂上に積んだ石聖だ。 東国輿地勝覧には“カウン現北側15里に昔の城があると三面が皆石壁であり,過去の軍倉があった。”したし,増補文献備考官房組には“曦陽古城はヨラム(東国輿地勝覧)に行って銀牌県の北側15里にあるのに三面が皆石壁だ。”とした。 聞慶(ムンギョン)現地にも同じだ。

三国末期に敬順王が二省でキョン・フォンと戦ったといって三国史記キョン・フォン王朝には“3年10月キョン・フォンがカウニョンを包囲して勝つことができなくて帰った。”としたので戦ったとすればこの時ではなかったか推測される。

また「聞慶(ムンギョン)現地影照本」には鳳岩(ボンアム)寺には新羅敬順王が創建した極楽殿があって本組(朝鮮朝)傾向(税)粗大王の御帖がその中である。”としたので敬順王がこちらまできていたと推測はなっても果たして後三国末期の混乱が深刻な時期に賃金がここまで行動しろといっては考えられない。

ヒヤン産(山)(996m)は三面が足を付けることができない層岩絶壁であり,ウォンブクリ・ハンベ米側で上がることができて,忠北(チュンブク)軟風側で上がることができるところが1ヶ所ある。
ヒヤン酸性は小白(ソペク)山脈の主令中最も岩石壁が雄壮な山だ。

この山の性は槐山(クェサン),軟風方面で南へ侵入することを防御しやすくて男からくることも越えることはできない。 築城方法は南側と西側の石壁首脳(頂上,正常)と北側,東側の稜線委に石で積んだし,周囲は広くない。 忠北(チュンブク)側オ・ポンジョンで越えてくるただ一つの道があるだけだ。 その首脳(頂上,正常)では槐山(クェサン)青天方面も監製することができて位置上では重要なところだ。

6.25韓国動乱(朝鮮戦争)の時7月21日傀儡軍は3号国道での進撃が難しくて,このオ・ポンジョン抜け道に越えてきて,カウン玉女峯を攻撃した事実でボア,ヒヤン酸性の重要性が証明されている。 イ・ヒヤン山の麓は新羅九山禅門の一つの鳳岩(ボンアム)寺が位置しておりその周囲の秀麗な警官(景観)は小金剛(ソグムガン)だと称してきた。 夜遊岩,妓淵,白雲台は天下の絶景だ。


(7)が銀性(加恩城)カウン性だと指定される性はカウン王陵でノンアムを向かって,時々見ればソン低利(城底里:性下)とソン・ユリ(城踰里:性君縮約して)がある。 二省私と聖油をつなぐ山がまいており,二省が私たちの故障では一番最初に築造された土城だ。

今はカウン~ノンアムガン道路が開通して,絶壁の下を通過しているけれど昔には層癌の下は川の水が絶壁とあわせて流れた。 この山などソンは聖油で性私につながって,周囲が1km程度なる。 内側稜線は蓮花峯(ヨンファボン)だと呼んで外側便は英カンだ。 過去の新羅の時の加害(加えて)ヒョン,加線ヒョンイあった位置がまさにこちらだ。 付近の山と畑では新羅の時の土器が出土している。

この性は常駐,報恩(ポウン)方面に通じる町角を遮断している。 ケリムニョンイナ華北(ファブク),報恩(ポウン)方面で侵入を遮断できる所であり,小白(ソペク)山脈北側の槐山(クェサン),青天などの地での侵入も防御できる所だ。 新羅敬順王3年10月に“キョン・フォンがカウニョンを包囲攻撃したので勝つことができなくて帰った。

”としたのでこの地域はまさにキョン・フォンの出生地だ。 私たちの故障に伝えてくる伝説にはキョン・フォンがこちらで英カンの向い側の行く電離ア開冬で出生したといってア開冬は牙子犬(阿慈介:キョン・フォンのお父さん)が生きたといって今までア開冬だと呼んで,このア開冬にはキョン・フォンが読書したトクソグルがあったといって,その岩窟の名前を金霞窟だと呼んだがその洞窟の中で騒々しい声が聞こえて,カキ入口を封じていたと伝えられる。 またソン低利買った麓には茅山窟別名蝎生窟という洞窟がある。

(8)抑えがたいフォン買った性(甄萱山城)キョン・フォン酸性は加恩邑(カウンウプ)ミン地理と篭岩面(ノンアムミョン)ノンアムニの間にある天馬山にある。 別名天馬山(チョンマサン)性といって,百済性だと呼んだりもする。 聞慶(ムンギョン)現地(影照本)鼓笛(古跡)組には“キョン・フォン酸性はカウン現西南5里にある。

山委に石で積んだが周りが565隻だ。”といったし,ファニョスンナムには“百済性,別名キョン・フォン酸性という。 青化産(山)東側10里にある。 キョン・フォンがその中でウンガーしたという。 石泉が一つある。”とした。 以上の記録を総合してみる時にキョン・フォンと関連があることだけは明らかな事実だ。

築城方法は近いところにある石を集めて積んだが誠意高さはわずか2m程度で高いところが3mを越えない。 近い姑と嫁性や叔母性の築城方法必ず性下を通過してこそ行くことができる。 同・男・西からは川の水が流れて北側は加西項の単一に行っているだけだ。

キョン・フォン酸性の戦略的価値は報恩(ポウン),沃川(オクチョン)方面で華北(ファブク)を経て,双龍渓谷を通過するまもなく俗離川について侵入する西側からの敵を防御することはもちろん系リップ峰を越えて,常駐など内陸に入ってくることを防御するのにも重要な地点になる。 そして青天松面で叔母峰を越えて,窮気,漣川(ヨンチョン)側からくることもこちらで遮断になる。

このように見る時,異性(理性)で10里通り(距離)にある「カウン性」30里通り(距離)にある叔母性と姑と嫁性,常駐華北(ファブク)にあるキョン・フォン酸性などが一つのように北・西側を防備するように築城されている。 ソ・北の勢力がたとえ小白(ソペク)山脈を越えてきたといっても要衝地になる町角にこれら性があったので新羅内地での進入が常時私たちの地域で阻止されたと推測される。

こちらキョン・フォン酸性で新羅の敬順王とキョン・フォンとの戦いがあったと伝えられているが歴史記録では探すことができなく,百済武寧王12年9月に仮払い性を打って奪った高句麗軍が原産性(現龍宮)まで進撃したという三国史記の記録がある。 この加弗城があった所が不明で断定することはできないがこちらではないかという疑問が残る。

①天馬山にからまった伝説私たち故障で天馬山(チョンマサン)にからまった伝説は次のようだ。 私たちは前の記録で酸性の中には石泉が1ヶ所あるといったのを見た。 このわき水は今でも出てきていて天馬泉だと呼んでいる。 “キョン・フォンが若い時にこの天馬山(チョンマサン)で軍事を集めておいて戦争練習をしていて喉が渇いて水を飲もうとこの泉に行ったところ自分より先に野生馬一匹が水を飲んでいた。

キョン・フォンが野生馬を調べるとすばしこくてがんじょうによくできたのでこの話を自らのスン竜馬としようと試験をしてみることにした。 話と矢中どれがはやいかを試験するのにもし言葉が矢より遅れれば話の首をはねることに決心して,天馬山(チョンマサン)で馬に乗るのと同時に篭岩面(ノンアムミョン)ヨン千里側崖を見て矢を引いた。

”彼と同時に話を鞭打ちして,漣川(ヨンチョン)の崖に来てみると矢が見られないので矢より遅くきたといって,話の首をはねるとさあ矢が飛んできてささった。 キョン・フォンがしまった後悔しなかっい話はすでに死んでいた。 当時話の首をはねる時,流した血が流れて,今日まで岩が赤いといってそれからその崖の名前を話岩と呼んだと伝えられている。

これとは他の一つ伝説は“天上の玉皇上帝は男兄弟がない一人娘の公州(王女)があったが公州(王女)は‘スローガン’という未婚の男性と他人の目を避けて,愛をささやいてきて終わらせる玉皇上帝に発覚した。 スローガンは人間世の中で島流しされて離れてくる時,公州(王女)から宝物箱二と白馬一頭を受けたという。

天上で島流しされたスローガンはまさにこの天馬山(チョンマサン)に降りてきて過ごしているのに一日はどんな娘が悲しげに泣くのを見てその理由を尋ねたところ自分は阿鼻という娘に行った夜にお父さんが虎患にあったが女のからだだとどうすることはできないので泣いていると答えた。

この話しを聞いたスローガンはその虎を捉えて怨みを晴らしてくれるから安心しなさい(早い)達して天馬山(チョンマサン)一帯を歩き回って手ぶらで虎を捉えて,娘の怨みを晴らしてくれた。 そうした後に互いに愛することになって一緒に住んだ中に親父娘が子供を内包してマンサギドェオ解散する日が近づいた。

親父を連れて空に上がろうとすれば公州(王女)に面目がなくて,置いて行こうとすればかわいそうな気がして,親父を連れて天上に上がるやこれを見た玉皇上帝と公州(王女)は思わず大老して,また追い出すとスローガンが(受ける)乗った白馬が落ちて,天馬山(チョンマサン)になってスローガンと親父は天馬山(チョンマサン)東側に落ちて,二つの岩になったという。 その岩が今日のノンバウィ(篭岩)という。


(9)ノー故ソン(老姑城)老姑城は東魯面(トンノミョン)間訟理天柱山東側にある。 増補文献備考クォン27余地高には姑城だと記載したし,ファニョスンナムでは麻姑城といって“チョン・ジュボン東側にあるのに水磨石で築城した。”とした。

労苦性は外城と内城があると天主側で赤城川向い側山委に石で積んだ性が外城であり,醴泉郡(イェチョングン),龍門面(ヨンムンミョン)師父洞との橋渡し役沙夫嶺で買った稜線について将台峰まで積もっている性が内城であり,外姓と内省(耐性)の間には内城谷という比較的広い谷間がある。

外姓は山の9部稜線に水磨石と雑石で精巧で丈夫に垂直で高さ5mで10mを積んだのが比較的よく保存されており,石垣の広さは1mで3mで排水が容易に凹凸の形式を取った部分もあって長さは800mとなる。

他の性らと比較して特異なのは尾根を中心に丸く積まなくて山の稜線について-者で西側面だけ積んだのだ。 これは安城(アンソン)ゴール チャン・テボンに内省(耐性)があるから適性川に従っているチョクソンノを防御するためのものだと見られて,一方では内省(耐性)の前哨防御線と推測されたりもする。

内省(耐性)は東魯面(トンノミョン)サブレイロブト醴泉郡(イェチョングン),龍門面(ヨンムンミョン)師父洞へ渡る沙夫嶺で毎峰(メボン)(鷹峰:865.3m)近所まで稜線について3kmにかけて,築造された性が内省(耐性)だ。 師父令(領)で毎峰(メボン)側で稜線について100m程度上がれば誠意入口があって凍露側では削ってたてるような尾根について積んだ石らが今は崩れて散在していて龍門面(ヨンムンミョン)側で石垣が完全なところがあって誠意周りは約8kmを越えると見る。

稜線について約2kmが過去の守城軍の兵馬を訓練した訓練長がまだそのまま残っている。 この訓練長は山稜線首脳(頂上,正常)について幅4m程度を人力で波高磨いてして中間中間には岩など障害物を設置していることを見る時,軍事らの訓練がここで成り立ったことが分かる。

そして将台峰首脳(頂上,正常)には昔指揮所行っていた将台の遺跡があったが今は新羅電気の瓦便だけ散らばっていて軍用ヘリコプーター着陸地が設置されている。 この指揮所はチャン・テボン(780m)と約100m上巨漢峰にもあったと見える所(760m)固持(告知,高地)の上にも瓦破片が散らばっている所にやはりヘリコプーター着陸地が設置されている。

チャン・テボン将台行っている所で東魯面(トンノミョン)敵性理側を眺めれば丹陽(タニャン)方面で越えてくる赤城路と鶏立嶺で越えてくる女牛目(狐項)の長さひと目で届く。
チョクソンノとケリムニョンノで敵軍が侵入して,醴泉(イェチョン)方面でも山羊,龍宮方面に進もうとするなら必ず二省をすぎてこそ行けるために北からくることを防御するには最もつりあう町角で,要衝地対ということができる。

そしてこの成案に病魔の訓練長があることを見る時,この老姑城の私の・他成案には多くの病魔が駐留して,戦闘訓練をしてチョクソンノをよって漢江(ハンガン)上流に進出する前進基地で利用されたことを推察させる。 なぜならこの労苦性で漢江(ハンガン)上流の丹陽面(タニャンミョン)までの通り(距離)がわずか16km未満だ。 これは小白(ソペク)山脈南で漢江(ハンガン)上流に進出するのに最も近い地点といえるためだ。

またチョクソンノは小白(ソペク)山脈の南北を越える頭中で竹嶺(チュンニョン)やケリムニョン,鳥嶺と比較して,最も標高が低い頭で比較的長さ(道が)平坦さを分からなければならない。 それならこの労苦性をもう一度注目しなければならないと見る。

新羅は真興王12年(551)に経る富(居〓夫),仇珍など8将軍に命じて,漢江(ハンガン)上流地域で進攻(真空)させて,竹嶺(チュンニョン),ケリムニョン北側の高句麗の土10郡を球取り下げであった。 それなら漢江(ハンガン)上流に進出する8将軍が必ず同じ道だけを利用したと見ることはできない。

チュンニョンノ,チョクソンノ,ケリムニョンノなど漢江(ハンガン)上流に進出できるところは皆利用が可能で漢江(ハンガン)進出を大切にしては小白(ソペク)山脈南の峠と近いところに兵力と軍需物資の備蓄基地(機知)がなければならないということは常識的な問題と見るならば漢江(ハンガン)上流と最短距離に位置した労苦性の役割は自明になる。

新羅はこの時に丹陽(タニャン)地方を占領してその地方(脂肪)の国民らを宣撫しながらその全勝を記念するために記念碑をたてたので丹陽赤城碑だ。 この丹陽(タニャン)適性費は1978年1月に旧丹陽面(タニャンミョン)下坊里にある赤城山城で発見されて,国宝第198号と指定されている。

この労苦性内省(耐性)の東側の醴泉郡(イェチョングン),龍門面(ヨンムンミョン),金谷洞(クムゴットン)には上乙谷城がある。 イさんを哭声は御臨城または御凛城,氷城ともする。 信証東国輿地勝覧豊基郡古跡組に“上を哭声は殷豊県南側34里にあって周りが980譜,高さが5隻,中に10千1系(十泉一渓)がある。”と記録している。

イさんを哭声もまた東・西の両ソンがいて労苦性と同じ目的で築造されてチュンニョンノを通した漢江(ハンガン)進出の前進基地ではないか推測される。 労苦性や上を哭声が皆内外陽性(養成)で築造されており,内外性間には大きい谷間があって数万坪の電池があるという点を見る時,これら成案と城主(星州)委には屯田をして,兵糧の自給を試みたと考えられる。

しかし労苦性の外姓と内省(耐性)の築造年代が違うと見る。 内省(耐性)は土石を混合築城したし,外姓は土は一切使用しなくて石でだけとても精巧に築造されたのを見る時,外姓は内省(耐性)が築造された時期で少なくとも1,2世紀の後に築造されたと推測される。

これは本来の主星の内省(耐性)の防御を補強するためにはるかに後に積んだと見られる。
この地域現東魯面(トンノミョン)一円の昔の地名を詳考してみれば三国史記雑誌第3冊地理1には醴泉郡(イェチョングン)続絃に“安仁県があるのに本来蘭山県であり景徳王が改名した。

今は未詳だ。”と記録している。 しかし現東魯面(トンノミョン)仁谷里と水平リ(俗称葛ら)がアン・インヒョンの過去の席と伝えられており,古山子キム・ジョンホの大東輿地図にも安仁古県だと明示しており,醴泉郡(イェチョングン),龍門面(ヨンムンミョン)一円はウン風ヒョンだったと見る。

信証東国輿地勝覧クォン25豊基県組に“本新羅赤牙県なのに景徳王が殷正県といって醴泉郡(イェチョングン)の領県になって考慮初に今の名前で直して顕宗が安東府に所属させたし恭譲王時に本郡に夷俗させた。 別号を殷山だとしクンの西南37里にある。”としたし,東君鼓笛(古跡)組に“上を哭声はウン風現南側34里にある。”としたことから見て現龍門(ヨンムン),商利一員がウン風ヒョンに属した事実を知ることができる。

そしてこのウン風現果隣接した順興が“高句麗の及伐山郡であったのに新羅景徳王が及山郡だと改名した。”としたと見る時,上を哭声と労苦性はその築城目的が高句麗の侵入を防御するところにあったことが分かって北にケリムニョンノとチョクソンノを防備することはもちろん東には高句麗に占領されたチュンニョンノブトの侵入も防御する役割も兼ねたことを推測させて合わせて高句麗勢力を追い出して漢江(ハンガン)に進出する前進基地としての任務も持ったと見なければならないだろう。





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