忍者ブログ
古代史の資料集です。
カレンダー
04 2024/05 06
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
フリーエリア
























最新コメント
最新トラックバック
プロフィール
HN:
kuma83
性別:
非公開
バーコード
ブログ内検索
[ 86 ] [ 85 ] [ 84 ] [ 83 ] [ 82 ] [ 81 ] [ 80 ] [ 79 ] [ 78 ] [ 77 ] [ 76 ]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


③カウン性戦闘キョン・フォンは敬順王3年(敬順王3年:929) 10月に加恩県を包囲して勝つことができなくて帰った。 (三国史記新羅王の伝記敬順王2年10月組)上から見れば929年10月にキョン・フォンは自身の出生地のカウン性を攻撃したが失敗する。 キョン・フォンが初めて奇病(騎兵)時には常駐,聞慶(ムンギョン)地方が皆キョン・フォンの管轄権だったと見られる。 なぜならキョン・フォンのお父さん阿慈介が沙伐城主がよかったことから見る時,キョン・フォンの勢力圏の中ではなくては不可能だ。

キョン・フォンのお父さん牙子犬はキョン・フォンが自身の出生地カウニョンを攻撃する13年前の(新羅傾命王2年:918)にすでに高麗太祖に降参している。 「7月に尚州賊帥牙子凱歌使節を送って,太祖に降参した。」(三国史記新羅王の伝記傾命王2年7月組)それならキョン・フォンのお父さん牙子犬は自らの息子が後百済の王として常勝疾走している時になぜ常駐地方(脂肪)を持って,王健に行ったかするのに疑問を持たざるをえない。

この事件も確かには分からないがキョン・フォンとの父子の間不和で起因したことではないかという。 キョン・フォンは自らの親父が持って考慮に降参した出身地を起筆高探すべきだとの心でカウニョンを攻撃したが失敗する。 一説には新羅の敬順王が直接カウンまできて,鳳岩(ボンアム)寺にユスク下面でキョン・フォンと戦ったという。

現在鳳岩(ボンアム)寺祖師堂が敬順王の行在所で使われたという伝説が伝えられている。 私たちの故障が産んだ偉大な英雄キョン・フォンは家を間違って治めて,彼のお父さん牙子犬と息子身体検査に裏切られてその大きい意向を繰り広げられないまま死んだ。


(7)高思葛伊城信証東国輿地勝覧(新増東国輿地勝覧)ムン・ギョンヒョン建置沿革組に見れば本来新羅の冠文県だ。 また高思葛伊城だと(早い)達してまた冠県といった。 しかし固辞(考査,告辞,枯死)耕作性が現在のどこなのかは確かに断定することはできない。 延世(ヨンセ)大利刀学は彼の執筆した「新羅北進侵略の拠点醴泉(イェチョン)の上を哭声」で“聞慶(ムンギョン)の麻姑城は固辞(考査,告辞,枯死)耕作性がほとんど明らかだ”としているがどこに基づいているのかも確実な説明がない。

一説には鳥嶺産(山)チェ2冠文(門)東側谷間で主屹山(チュフルサン)首脳(頂上,正常)までを固辞(考査,告辞,枯死)耕作性ではないのか推測する。 その推定する根拠は次のようだ。
高麗史節要太祖10年(927) 8月組に“8月に王が康州を巡行する時,固辞(考査,告辞,枯死)耕作性をすぎると城主興達がその息子を先に送って帰順した。

これに後百済で置いた性守る役人たちもまたみな降参すると王がこれを感心して感じて興達には青州のサビを下ろしてその長男俊達には珍州の溶ける,次男雄達には寒水の溶ける,三番目の息子玉達には長浅のサビを下して,また田宅をおろしてくれた。

”したし,増補文献備考余地で官房組(増補文献備考輿地考関防條)には高麗太祖の主筆紙が魚類性といったので,果たしてその山中にヒョンを治める性があったのかは分からない。 現在聖地がある井谷里の麻姑城と上草里の魚類性,この二城中どれが「固辞(考査,告辞,枯死)耕作性」なのかはもう少し研究が必要だと見る。

しかし過去の聞慶県誌によれば次の通り記録している。 “鳥嶺はケリムニョンでのびて達項に達して,二つの幹に分かれられる東から聳えて主屹山になって西の方に相次いで鳥嶺になった。 岩が切り立ったような勢いで広く覆ってマッチャバ対し抑制すると自然に,城郭を作った。

ヨンウイ首脳(頂上,正常)から北側は忠州(チュンジュ)のNolumok(〓項)についてこそはじめて平たく広い道に出て行って,男では本ヒョンウィ犬灘に達してはじめて平たく広い野原に出て行ける場合があるのでその間100里余りが高くて険しくて,石長さ(道が)数奇だ。 俗伝に三韓時興達がこちらに城を築いて自ら堅く守ったのでいわゆる「固辞(考査,告辞,枯死)耕作性」であったか疑問が残る。

高思葛伊城主ふん月は考慮に亡命した2年後の929年9月に“キョン・フォンが将来固辞(考査,告辞,枯死)耕作性を打とうとすると城主(星州)ふん月がこれを聞いて出て行って戦おうとする時,入浴をして突然上がった八位に滅者があることを見て10余日ぶりに病気にかかって死んだ。” (高麗史節要太祖12年巳丑條)したし,“キョン・フォンが自身の出生地の加恩県を包囲したが勝つことができなくて帰った。

” (高麗史節要太祖12年9月條)でしたと見る時,キョン・フォンは自身の出生地とその近隣の性を攻撃しても勝つことができないことが明白で,同じ年10月にキョン・フォンは高敞郡(コチャングン)(古昌郡:現安東)を包囲攻撃したが考慮軍(郡)に敗退する。


(8)杯(倍)買った性(拝山城)拝山城は虎渓県の過去の名前だ。 東国輿地勝覧ムン・ギョンヒョン古跡組に見れば“虎渓廃県はヒョンで東南40里にある。 根本は新羅虎則県であり,また拝山城だと(早い)達する。”とした。 そして高麗史チョリョ太祖10年8月組には“船酸性を収縮して政調(正朝本当に7中武散階)チェソンに命じて,軍事2代を率いてこちらを守るようにした”とした。

この船酸性があった席がどこなのかは確実でない。 過去のホ・ケヒョンという(のは)現店村(チョムチョン)市と虎渓面(ホゲミョン)のウ・ローリー西北地域であり,その警戒(境界)は虎渓面(ホゲミョン)キョン弾リと麻城面(マソンミョン),シニョルリの警戒(境界)までに見なければならない。 その北側はムン・ギョンヒョンであるためだ。

そのように見る時に船酸性の位置は現店村(チョムチョン)と虎渓面(ホゲミョン)地域で探さなければならないのに,この地域内には過去の聖地がある所がない。 しかしこの地域中で船酸性があった所で推測が行く所が枠組み某産(山)だ。

枠組み某産(山)は当時ケリムニョンギルが幽谷リと火整理を経なければならなくて東には天涯の絶壁を成し遂げた下に英カンが流れている。 この枠組み某産(山)では幽谷リと火整理の道路を監製してさらにはキョン弾リ・キルド監製できる天然の要塞地といえる。

船酸性(拝山城:チョルムェソンあるいはチョルムェサン,ペムェサン)を枠組み某産(山)で見る理由は当時のとおりのケリムニョンを行くなら必ず幽谷リと向い側のキョン弾リを経てこそ行けるし北進する兵力も南侵する兵力もここをすぎてこそ常駐,醴泉(イェチョン)方面に通じることができるためだ。

そして枠組み某産(山)という(のは)指名だ。 枠組み某産(山)は村の名前であって山の名前ではないのに今までその村を枠組み某産(山)だと呼んでいる。 船酸性が韓国語ではチョルムェサンがなる。 二チョルムェサンが変音なってトゥルムェサン,枠組み某産(山)になったことではないか推測される。 また枠組み某産(山)で少し出てくればペットゥルだ. 拝山城この船縮約して性というといってもペットゥル近くの買った谷間では枠組み某産(山)があるだけだ。

以上で私たちは三国時代の私たちの故障にあった城とその性にあった歴史的事実を考察してみた。 ここで調べた三国時代の性がクン癌性(近巌城:別名クン品性)だけがその位置を確かに知ることが出来てその他の性らはその位置を正確に分からないのに惜しいと言えよう。

しかし以上で調べた歴史記録を通じて,私たちの故障が三国時代当時どれくらい重要な役割をしたのかが分かる。 新羅北進の戦略的要衝地として高句麗と百済の南進を阻止するには私たちの故障が地理的特殊性があったためだ。

それは南漢江(ナムハンガン)上流と洛東江(ナクトンガン)上流をつなぐ2代内陸水露を結びつける最短距離地域と同時に嶺南(ヨンナム)の関門として北方の先進文物が伝来する町角だというところで三国の欲がこの地域に集中することで,三国勢力の戦場になったりした。しかしこの酸性らは三国時代にだけ限定されたのではなくその後にも永い歳月にかけて,国防に多くの役割をしたので現存する私たちの故障の酸性と歴史的事実および戦略的価値に対し記述しようとする。



前でも見た通り私たちの故障は三国時代戦略的要衝地であったため酸性が多いといった。 ここでは増補文献備考余地で官房組に登載された私たちの故障の酸性鳥嶺性,姑夫城,姑母城,妖星(要城要=耳+尭),甄萱山城,曦陽山城,御留城,井谷城,鵲城,古城(大声)(姑城:別名老区城九=女+区))および加恩城,花庄城を順に見回してみようと思う。

私たちの故障の性らは概略道に従って,その道を防御してその道を通じて,前進する基地(機知)としての役割をしたようだ。 魚類性と妖星,マ・コソン(正鵠性),叔母性,姑と嫁性がケリムニョンノを,そして作成,労苦性,化粧性がチョクソンノ(ポルチェギル)を,ヒヤン酸性が五峯(オボン)正路を,天馬山(チョンマサン)性(キョン・フォン酸性)がコモリョンノと災い北路を防御して直ちに進出するために築造されたと推測される。 ここでは各誠意位置とその戦略的価値およびその性であった歴史的事実を調べることにする。

(1)組リョン買った性(鳥嶺山城)増補文献備考余地で官房組に“聞慶(ムンギョン)鳥嶺性は粛宗34年(粛宗34年:1708)に石で積んだ。 南北が18里で,周りが1万8千5百9より。 性が三ヶ所にあると一つは経営湖西と嶺南(ヨンナム)の警戒(境界)にあって,一つは鷹岩北側に忠元の旧城を因って築き直したし,一つは草谷にあると軍餉倉がある。

三省がみな紅霞文(門)があって,大通りが通じる。 英危疑性を鳥嶺関だと呼んで中性を鳥東門といって草谷城を主屹関という。 また水口に紅霞文(門)3間を置いて,ソンアニすべての小川がみなこちらに流れ出る。”したし,過去の聞慶(ムンギョン)現地にはわんぱくな時に興達がこちらに城を築いて自ら固まるようにするといわゆる高思葛伊城がこちらだ。 コした。

英祖妊娠(英祖壬申:1752)に独鎮を設置して県監で守城将を兼ねるようにした。 (英祖実録妊娠組,聞慶(ムンギョン)現地官職組)そして鳥嶺鎮に別将1人(武科4品官)を置いて軍官2人,軍器監官1人,手帳軍官(守〓軍官) 3百人,鎮吏4人,知印4人,使令7人,奴8区(具)を置いた。 (聞慶(ムンギョン)現地官職組)また鳥嶺陣には5村(聞慶(ムンギョン)・常駐・咸昌(ハムチャン)・龍宮・醴泉(イェチョン))の軍餉倉庫と軍器等庫があった。

私たちのムン・ギョンヒョンには鳥嶺酸性の軍餉米で毎年米5百47席1頭2合9社と豆1百91席7頭8勝8合8社を出して,鳥嶺性中にある東・西・南・北4ヶ倉庫に納付した。 (聞慶(ムンギョン)現地田賦條)鳥嶺路すなわち新しいジェギルを朝鮮太宗14年(1414)に開通させて,嶺南(ヨンナム)とソウルをつなぐ大通りで利用するようにした。

その時まで利用したケリムニョンノ(チルプチェギル)をやめて鳥嶺(セジェ)に新しい道を開通させて,この道だけを利用するようにした。 新しいジェギルは前で言及したが新しいジェギル30里は切り立った岩の間を人馬だけが越えることができる険しい道であり,天険の要塞地だ。

嶺南(ヨンナム)の高尚な人らが過去見に漢陽を行くなら必ずこの峠を越えるべきなのに鳥嶺(セジェ)を無事に越して反過去はしたというところだ。 ケリムニョンノが新羅・考慮の道だったら鳥嶺(セジェ)は朝鮮朝の道だ. また嶺南(ヨンナム)のすべての租税と供物(貢物)が洛東江(ナクトンガン)で水運なって,ハ風疹で陸路で人材と牛馬を利用して,忠州(チュンジュ)可興倉まで運送になれば嘉興窓(ウィンドウ)では寒江津から舟運に漢江(ハンガン)を利用して,ソウルの麻浦まで行ったというと新しいジェギルはその細工を運ぶ人馬に如何に多い漢菓苦難を体験しなければならなかった長さだけか。

このような重要なところにジングァンが設置されなかったために壬辰倭乱(壬辰倭乱:1592)時にこちらを守ることができなくてソウルがあっという間に陥落する恥辱的受難にあった。 壬辰倭乱の時明国支援軍総指揮観にきた都督李如松がこちらをすぎて,開戦初期にこちらを守れなかったシルリプ(申〓)を恨んで,作った市価あると次のようだ。

“鳥嶺の高くて険しさが白狐や長いな。 明らかに空は韓国をポホッケ作ったんだな”してなげいて話をすることを十分に無謀して(早い)達するな。”した。
先祖25年(宣祖25年:1592) 4月13日に倭軍は釜山(プサン)に上陸して,破竹の勢いで北進を継続する。

4月26日に常駐が陥落して4月27日には聞慶(ムンギョン)に侵入して,県監申吉元が孤軍奮闘して外敵に捕えられて,四肢が切断される苦痛にあいながらも,最後まで外敵を叱って殉節をした。 (慶尚道(キョンサンド)純栄禄)その以前に調整では当代の名匠(名将)のシルリプ(申〓)に8ドドスンビョンサ(八道都巡辺使:野戦軍総司令官)を任命して,外敵を防御させた。

ト巡辺使シルリプは従事観(参謀長)金汝勿と漢陽で募集した8千人の軍事を率いて忠州(チュンジュ)に達した。 その日が4月25日であり,巡辺使李鎰が常駐で敗れて逃走したことで前日だ。 従事観キムマグサが言うことを“天下の要衝の鳥嶺(セジェ)を守らなければなりません。”してシルリプは偵察隊を導いて鳥嶺(セジェ)の地形を偵察した。

しかしここでシルリプは千慮一失の誤った判断をする。 “書いた鳥銃で武装した20万の大軍なのに私が率いた8千人を漢陽で急募した訓練されなかった烏合の衆だ。 もしこちらに陣を敷いて,退路を置いたら一度争うこともできなくて皆が逃亡するだろう。 残って世の中に出て一度死があるだけだ。

退いても死んで戦っても死ぬ絶対絶命の土地で戦わなければならない。”といいながら忠州(チュンジュ),弾琴台(タングムデ)で達川(タルチョン)を後に置いた裵水陣を打って4月28日に外敵と大回転を展開して,8千人全員が戦死した。 もしこの時鳥嶺に城壁があって関門が設置されていたとすればこのようなことがあったのか物足りなさが残る事実だ。

この壬辰倭乱から5年後の先祖バカ(丙申:1596)年に釜山(プサン)・蔚山(ウルサン)まで退却した倭軍が本土での派遣軍と同じように再度侵攻をしようとする時に忠州(チュンジュ)守門将申忠元が“忠州(チュンジュ)を守るところはただ鳥嶺(セジェ)を守るのに走った。”と“鳥嶺(セジェ)中間地点の最もハムと狭い鷹岩に城を築かなければならない。

”といいながら総力を傾けて,現在の第2省の鷹岩(ウンアム)性を築造した。 翌年精油年(丁酉年:1597)に再侵入を敢行した倭軍は鳥嶺を越えるのを断念してその唾(針)功労(空路)を湖南(ホナム)方面に変更した。
このような経験がある国では壬辰倭乱と丙子胡乱など叫びを体験して,鳥嶺の重要性を悟って鳥嶺に対する防備を考えることになる。

大東野乗クォン4人組16年無人4月11日照に見れば“嶺南(ヨンナム)では魚類酸性(鳥嶺(セジェ)中性)を収縮させた。 この性は三国時代に賃金が駐駕した所という。”として,はじめて鳥嶺の酸性を収縮させたが今日と同じ性は収縮でなかった。 それから40年が過ぎた粛宗34年(1708)にきて,鳥嶺に3ヶの性を収縮して44年後の英祖妊娠(1752)年にジンを設置して守城軍を配置した。

鳥嶺性は第1省の主屹(チュフル)観は出ることからくることを防いで第3省の鳥嶺観は北にくることを防御するのにために築城されたとするがその城壁構造を見る時,3省皆が南側を防御するように築城されている。 3ヶの性が全部南面(ナムミョン)は削ってたてたし北面は上がって下せるように階段で築造された。

鳥嶺性が築造された以後の戦いは1896年2月13日日帝の侵略を阻止させて国権を回復するために起きた泣いた川イガン年(雲崗李康〓)ウイジンが鳥嶺(セジェ)動員村に駐留して,一群と中性で戦ったが不利だった。 (ウン鋼鉄船生創意日録) 1907年8月にイガン年部隊が中性に駐留したが鳥嶺観を守ったウイジンが敗れたという報告を受けて上草曲第1館を守った。

泣いた川イガン年は第1関門に駐留した兵力を引率して8月3日葛坪で進撃して,日本軍1中隊をせん滅した。(ウン鋼鉄船生創意日録)葛坪戦闘があった後に日本軍は鳥嶺の3省門楼を燃やして誠意一部を崩して,荒廃化させた。


①鳥嶺酸性の築城史壬辰倭乱勃発初期にシルリプ(申〓)将軍が鳥嶺を守らなくて忠州(チュンジュ),達川(タルチョン)(達川:タルレ)で背水陣で倭軍と戦って敗戦することになるや調整でもチョリョンノを守らないのを後悔して防備がないことを心配することになる。

先祖26年(1593)先祖王は義州(イジュ)行在所を離れて,ソウルでの帰還のために安州に滞留している時に安住(おつまみ)百祥楼で明国使節院外と有情(員外郎劉挺)が先祖王に鳥嶺官房設備の必要性を力説した。 しかし戦乱による物資の欠乏で実行を躊躇した。 遊園外が言うことを“帰国がソウルを守ろうとするなら先に不可不鳥嶺を守らなければならないことです。

もし敵中できめ出荷は自家あって,その要害になることを知って先に嶺にウンガーして,防備することになれば千兵(明国軍事)に会うといっても制圧するのがきわめて難しいこととか速くたけていた宰臣を送って要害1ヶ所を見回して関を設置して防備するようにして下さい。”したが朝鮮朝情では中国の山海関のようにしようとか,鳥嶺だけが天険ではないが他の所はソルグァンしなくてなるかなど議論だけ繰り返すことになった。

この時平安監査李元翼,病死(兵士)シンジャプ(申ヂャプジョブ=石+集),優勝紙柳夢鼎,朱書金尚窩,コムニョル趙維韓などの議論で鳥嶺と竹嶺(チュンニョン)のソルグァンをするための資料収集のため画工12人を中国に派遣しろとの先祖の指示があったが成し遂げることができなくて設関をするとしても書いた兵力で守りにくかったとかソルグァンをしようとかその時の弊害の東・西当たりのワルカワルブに挫折した。

先祖26年(1598) 12月に領相柳成龍が“今回の戦争で性に頼って,承前した例が多いです。”とその経験を聞いて,鳥嶺ソルグァンをまた常駐して,先祖王も鳥嶺説観の必要性を感じることになった。 ユ・ソンニョンは忠州(チュンジュ)守門将申忠元の鳥嶺の地勢とソルグァンおよびソルグァン厚意破水計画を持って先祖27年(1594) 2月に再度上奏をした。

“鳥嶺は国の文科同じで,忠州(チュンジュ)を守ろうとするなら鳥嶺で防がなければならなくて忠州(チュンジュ)が陥落すればある強硬姿勢白狐を自然に失うことになります。 忠州(チュンジュ)守門将臣忠院は鳥嶺地勢をよく知っているのに鳥嶺の嶺山には雑路が多くて防ぐのが難しくてヨンで東に10里位降りて行けば切り立った絶壁が両側に聳えていてその中心に水が流れて,

道行く人らが木をかけて渡らなければならない所が何と24ヶ所もなる地点を鷹岩というとこちらにソルグァンをして,多少こちらに達する時,橋(脚)を撤去して上側に水を防いでトゥノウミョンあえて踏み込めないことであり弓努と菱鉄火砲などを撃つといえば100人余りでも守ることができる。

聞慶(ムンギョン)東側には過去の道があって,鳥嶺の西側に達することになるが百余年間使ったことがなくて,山林がうっそうとして空が見られなくて通いにくくて,聞慶(ムンギョン)西側にも小路が延豊県の東側につくがあまりにも険しくて,ここも(しなびる理財) 数十人ならば守ることができる。

軟風邑と水回村の土地が肥沃だから僧軍と山尺ペク女性を得て屯田耕種して,兵糧に充当して火薬銃砲を得て,夜昼で訓練すれば精軍を得ることができると農資を与えて,派遣して下さい。”と建議して,先祖王の允許を受けた。

臣忠院は直ちに人を集めて,築城を始めた。 先祖27年忠清巡察使尹承勳は築城のチンチョプ状況を見渡してみて勇将に数百人を与えて守るならば大兵があげてくるといっても前日のようにじゅうりんされないだろう。”して,竹嶺(チュンニョン)も鳥嶺と同じようにソルグァンをすれば良いですが,臣忠院が城を築いて出た後にそれ(彼)にとって竹嶺(チュンニョン)にも築城させれば良い成果を得そうだという長計(状啓:報告書)があったが物力が不足して,開始できなかった。

備辺司では微賎人が築城の大きい歴史を終えたと褒賞することを建議して,先祖の允許を受けた。 議論だけ繰り返した鳥嶺説観が守門将によって完工するや要塞(このごろ)防御のための勇壮配置件のがあったし,備辺司では軽傷(経常,慶尚)左道で防御を引き受けろとの議論が継続された。

丁酉災乱(慶長の乱)の時の先祖30年(1597) 2月臣忠院は把守官になって,鷹岩(ウンアム)の一字城で遮断破水とあったし嶺上は賛劃使李時発が引き受けて治めてチュンジュ牧師金命胤のカムドカに城基を置き始めて一ヶ月がまだできなくて,3月15日にはすでに非常に威厳があってかたい2中性(2重城)を積んで中で文をたてて,頭の下を見下ろすようにする築城が終わった。

(趙靖文集丁酉年條)臣忠院は訓錬元主簿で昇進になって鳥嶺は重要な関防で防御策であることが分担されたが壬辰倭乱が終わるや鳥嶺守禦も大きい関心がなくなって人造16年(1638)倭寇の動向が心象でないことを見て備局堂上で南関要衝の防御計画が議論されたことがある。

玄宗組に北伐論が台頭して,官房に関心を持った守禦使李浣が鳥嶺に鎮を置いて酸性を積もうという建議をしたことがあって,玄宗14年6月にも建議をしたが後日に先送りすることになる。 粛宗10年(1684)に無人金南斗が“鳥嶺と八良峙”に酸性を積もうと進言して,粛宗11年には護軍金信重が鳥嶺,竹嶺(チュンニョン),チョルリョン,青石などに官房設置を上訴して,粛宗20年には宣伝官成楚衍も彼と似た進言をしていた。

粛宗33年12月に知中枢府事李寅燁は兵曹判書を歴任した重臣で鳥嶺,竹嶺(チュンニョン)の防御策を建議したし一部では江華島(カンファド)築城がさらに至急だという議論が出てきたが粛宗34年11月異人ヨプは翌年春に鳥嶺,秋風嶺(チュプンニョン),八歯磨き,雲峰(ウンボン)に順に築城すると見てと粛宗の允許を受ける。

粛宗34年(1708)に築城承認を受けて実際築城は翌年の粛宗35年(1709)に成り立ったのに聞慶(ムンギョン)現地や信証東国輿地勝覧には粛宗34年に積んだと記載されている。
築城工事は聞慶(ムンギョン)県監李重昌と営裨孫命大によって水磨石と雑石小片で積んで,その功労で加資になったが粛宗38年5月に築城状態が不良で,過半が崩れたという徐宗泰の報告によって,県監二重唱と営婢ソン・ミョンデの行こうという削奪されて罪を受けた。

ここに醜談ソンマンチン(秋潭成晩徴:粛宗祖の王子師傅)の鳥嶺山城記を調べれば,“鳥嶺は天険だ。 湖西と嶺南(ヨンナム)南北ののどにウン昨夏であったから真に要害の所であり,必ず守らなければならない土地といえる。 壬辰年大騒ぎにシン将軍口(申将軍〓)が何のために守らなくて敵にとって歌って踊って西の方に上がるようにしたことは今でも相談するこれらの大きく恨するところになった。

しかしもしその時性があって兵糧があれといって支えることができたとすれば将軍がたとえ良い悪知恵に短かったといっても必ずここを捨てて他で行くことが好きでなかったこととか多少十分に運んで越えることができなかっただろう。 前車が後車の警戒(境界)をなるようにすることとか形勢を見回して時務を分かる方なら誰もここに城を築こうと思わないだろうか。

世の中ことをむさぼって,十分に果敢にする人がなかったためだ。”無子年(戊子年:1708)に以上でイン・ヨプ(李尚書寅燁)が李相国某とともにヒョムモ(協謨:悪知恵を集めて)して,調整に進言して勇気あるように設置することを決めるとことを主管する人を探すのが難しかったが皆が言うことを武臣李重昌がかつてこの山を主管して,民力(民力:民の力)をポンゴロピジしなくて,昔の城を収縮して百世の大計になるようにしたのでこれは真にその人ですするのでこれに聞慶守をチェ・スハとか道(ド)臨むと同時に即民を愛して公務に奉仕する余暇で昼夜なしに計画して推し量って,

食糧と経費(警備)を減らして民に賦課しなくても財力が引っ張って集まって,地形の得することを見回して,石を整えて嶺の北・南・中間に横積むと過去の城地に頼ることであり,また子城三城を積んで,大きい谷間を横切ったので鉄器天狗は(鉄騎千君:鎧着て馬に乗った軍事天意無理)でもあえて誰がどうしようもないことであり,その制勝する方法キュ画したのを見れば人々でとって敬服させる。

東と西は度重なった丘があまねく会って高くて険しい鉄壁になったので城積む仕事をしなくても良かった。 声紋(城門)の上には大きいチョル(望楼)を設置して,南側の表札板は鎮南といって北側の表札板を拱北というとその形勢のりりしさと忠義の気象(機上,起床,奇想)を隠然に命名した。 これに大きい倉庫をたてて,兵糧を満たして僧舎を創建して守るようにするとその長らく行く準備とまっすぐに守る形勢を整えたので愚かな民でも十分に知ることが出来るだろう。

球(公:二重唱を指摘)の練達ある才能と激励の誠意で一生懸命勤勉に努力することが民の先に立つと色々な人が楽しくこの役割をして,数ヶ月が行かなくて,大きい球が終わったのでどうして周易に伝えるいわゆる十分にことを決断して,正しいものを失わないで優しさがあるこれといえる。 ア…南北が強化すると国家が仕事がないが男分からない準備はからめておくこととかこれはまた一関を曲がって折ったことであり,李相両公の開始とか孔子がおっしゃった道(ド)を分かるこれといえる。

これからこれからは肝っ玉がない長寿でも少しは信じるところがあることになって恐れがないだろう。 ましてすばしこい軍事が成案にまいていて安らかなことによって疲れることを待って,敵をかたいソンの下で打ち破って奇兵を出して,帰り道につかみ取れば十分にいくつかの軍事が帰ってこられないとしても十分に敵に捕えられることを免じて君父に罪を及ぼさないこととかどうして偉大でないか。

ここに一説があると礼に言うことを“国に9年の備蓄がなければ不足すると,6年の備蓄がなければ急でしたのでかつて五穀の米が3年が(埋まる)けらなくて皆虫が押し倒すことを見るならば,いわゆる9年・6年の備蓄という(のは)ウイシムコンデそのツンミ(蒸米:太った米)を指す言葉といえる。”で(書:書伝)に(早い)達することを“私が徐戎を打つ時に兵糧を準備した。

”としたし,市(詩)(詩:詩伝)に言うことを“これに倉庫に兵糧を積む。”としたのでこれは皆止めた食糧(乾食)を話すという。
色々な兵書を考察してみればまた止めたご飯(乾飯)の文が多くて兵糧を蒸米ですることはそのいきさつが詳しい。 我が国はどうして単独でないことなのか。 球(公:二重唱)がもしこれで方伯に求めて朝廷に知らせて太った米を酸性に積んで満たすといえば過去の人の遠いだろうを経営する考えに合致してまた毎年おさめて入れる弊害を減らすはずだ。

今まさに公は十分に仕事を終えたが考えればソンアニ仕事がまだ完成されることができないのが多いが任期が終わって遠くへ行くことになると真に実に惜しい。 私がことがあって,鳥嶺をすぎるのに球が私を村舎に訪ねてきて,文を求めて,家禄鼻寝るというから私がたとえ文をよく負けられないがその忠誠された努力に感動して,そのことを簡略に記述してまた無駄で浅い所見を終わりに(早い)達します。

京仁(キョンイン)(庚寅:1710)醜談ソンマンチン(秋潭成晩徴)委の奇聞を参考にしてみれば鳥嶺酸性は戊子(戊子:1708)年に李重昌が聞慶(ムンギョン)県監で赴任して,築城を始めたし,不随月がテゴンスフル(不数月而大功垂訖)としたことから見て築城期間は1年以内と見なければならない。 そうであることにも鳥嶺山城記は2年後の京仁(キョンイン)(庚寅:1710)に作成されたので築城工事を始めた2年後となる。

推測してみるならば二重唱が聞慶(ムンギョン)県監の煮込んで(瓜満:任期)になって離れることになることでソン醜談にお願いして,奇聞を作ったと見ることができる。 それなら鳥嶺酸性の築城年度は無子年(1708)~機軸年(1709)まで続いたと推測されて築城功労が認められて加資になって拙速築城で築城状態が不良だといって問責にあった。

この鳥嶺酸性期が記述されて11年後の警鐘元年伸縮(新築)(景宗元年辛丑:1721)に別将李寅成と都石手宋成元・李永右・姜斗丁などが建て直したという刻記が城壁に残っている。 それから何回も重修したが主屹(チュフル)観重修記を調べれば次のようだ。

英祖28年妊娠(英祖28年壬申:1752)に鳥嶺陣を舌診する時に中央捜査をしてその20年後の英祖48年壬辰(英祖48年壬辰:1772)にまた中央捜査をしたし,憲宗6年庚子(憲宗6年庚子:1840)に中誰何だったとの記録がある。 その他にも主屹(チュフル)観城壁を調べれば中央捜査,建て直した刻記を色々な所で発見することになる。

主屹(チュフル)観の右側盛況社付近の城壁脚気には英祖24年限りなく(英祖24年戊辰:1748)に中央捜査をして順調8年限りなく(純祖8年戊辰:1808) 3月に別荘呉海琳が建て直したと刻んでおいたし,主屹(チュフル)観の左側城壁には高宗(コジョン)17年軽震(高宗17年庚辰:1880)に別荘申永植が建て直したと脚気があって,右側城壁には高宗(コジョン)23年瓶酒(高宗23年丙戌:1886)に別荘金順基の脚気がある。

しかしこの城壁に刻んでおいた何文字ずつを報告はその中央捜査と改築の規模などを分からない。 しかし上の高宗(コジョン)軽震年と丙戌年の2次にかけた改築時には繕工監の9品官だった朴聖浩が設計と監役を担当したことと見て,国家の予算で建て直したと見られる。

その後日帝治下でも1923~1926年間に主屹(チュフル)観を収縮したし,1940年にまた主屹(チュフル)観を中央捜査と当時の聞慶郡(ムンギョングン)数李采郁が中央捜査奇聞を作って,表札板しておいたのが今まで残っている。

しかし日帝時の中央捜査は第1省の主屹(チュフル)観だけ中央捜査と,第2省・第3省は崩れた状態で放置されたことを1977年と1978年にかけて,門楼と城壁を補修して今日に至っている。 鳥嶺別荘は鳥嶺陣が設置される以前からすでに鳥嶺には別将があったことを分かることができる。 粛宗は鳥嶺酸性を築城して,別荘を配置させて,ここを守るようにしたと見なければならない。

なぜなら鳥嶺酸性第1関門城壁に彫られている粛宗年代の改築に別荘の名前が補足任命を見る時に築城と同時に別荘を配置したと推定することができる。
しかし聞慶(ムンギョン)現地英祖本には金賞妊娠(今上壬申:1752)に独鎮を設置して県監が守城将を兼ねるようにしたし,その所属で座首1人,別監2人,千摠1人,把摠2人,知殻官2人,哨官7人,軍官50人,旗牌官27人,衙前32人,知印14人,使令15人,クルロ(軍で) 30人,官奴19区(具),官婢18区(具)が付いたと記録しており,

信証東国輿地勝覧聖地組に別将を置いたが,聞慶(ムンギョン)・咸昌(ハムチャン)二つの村の軍事を専属させたとスソン荘,みた県監兼別荘1人だ. ラで記録していると城壁保守時刻んでおいた粛宗祖の別荘はどのように解釈してこそ良いか分からない。

この時の別荘は恐らく常駐陣で派遣されたと見られる。 歴代(英祖以後)の「聞慶(ムンギョン)現地」には別荘武4品官が1人があると記録しており5村(聞慶(ムンギョン)・咸昌(ハムチャン)・常駐・龍宮・醴泉(イェチョン))のクン香り倉庫と軍器庫があるといった。 このように見るならば聞慶(ムンギョン)県監が兼職する鳥嶺スソン荘の下には性病を統率する無関係出身の別荘があったことを分かることができる。

しかし鳥嶺鎮がなくなった沿道は確実な記録がない。 高宗(コジョン)23年(1886)までも別荘があったという記録が高宗(コジョン)組の聞慶(ムンギョン)現地に見えるがその後では見られない。
韓末1896年から1908年まで日帝の侵略を阻止させて国権を回復しようとする聞慶(ムンギョン)出身義兵部隊の泣いた川イガン年ウイジンとの戦闘が1906年2月6日から同年2月20日までと1907年7月から8月中旬まで鳥嶺酸性内で何回もの戦闘があった。

この時に日本軍は誠意門楼を燃やして城壁を一部破壊した。 この時に消失した門楼中主屹関は1940年に中央捜査復元されたし残りチェ2冠文(門)の鳥谷関とチェ3冠文(門)鳥嶺関は1977年から1978年まで門楼と城壁が保守された。 現在のような性はこの時に補修した姿だ。



PR
この記事にコメントする
Name
Title
Font Color
Mail
URL
Comment
Password
この記事へのトラックバック
Trackback URL:
忍者ブログ [PR]


Copyright © 古代史資料集 All Rights Reserved.
Powered by Ninjya Blog 
Design © Kuramori Hakua