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古代史の資料集です。
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③壬辰倭乱と唐橋当校の位置は昔でも今も重要な位置を占めている。 昔にはキョン大佐牛島(ウド)とソウルへ向かう分岐点にあったし現在もその重要性は同じだと言えよう。 この当校を基点にすれば金泉(キムチョン)・安東(アンドン)・忠州(チュンジュ)・義城(ウソン)が60km内外にあって3号国道と34号国道の分岐点がある。 このような位置にある当校を壬辰倭乱(1592)時倭軍が放置するはずがない。

壬辰年(1592) 4月27日常駐から進撃してきた倭軍は聞慶(ムンギョン)を占領して28日には忠州(チュンジュ)に進出してシルリプ(申〓)君と戦いを広げる。 同じ日外敵の一代(一帯)の毛利輝元軍(郡)が多仁で河豊津を渡って咸昌土地で前進して,当校に陣を敷く。

(大東野乗クォン26乱中雑録1)倭軍の先鋒隊はソウルに向かっていって占領地対の治安を引き受けた毛利軍がその主力を常駐と当校に駐留させて,嶺南(ヨンナム)左右陶瓦畿湖間の往来を遮断して周辺の村を略奪する。 我が方でもここを奪還するために数回攻撃をしたが良い結果を得ることができなかった。

倭軍はモリ・フィ原義部長の長曽我部元親の部下3千人を当校と聞慶(ムンギョン)地域に駐留させて鳥嶺を通じる後方補給線と洛東江(ナクトンガン)を利用する水路線を確保するのに力をつくしていた。 我が方で何回もの攻撃で敗れたという事実を大東野乗乱中雑録で調べてみれば次のようだ。

“慶尚道(キョンサンド),咸昌(ハムチャン)当校の多少集まって,大きいジンイなって,龍宮などの地に横行して,将来二番目内地を犯そうとするのに,チュァ監査韓孝純が安東(アンドン)にあって,長期県監李守一で隊長をみなして万戸閔廷鴻などと各村の軍事を率いて龍宮を守るようにして,また安東府使禹伏龍で都指揮大将をみなして醴泉土地に陣を敷くようにして栄川の郷兵と春陽の義兵らが結集して,進んで打って大きく崩れて帰ってくる。

(慶尚道(キョンサンド)純栄禄から出ること)”上の事実を見る時,当校で戦闘が継続されたし結果は奪還をできなかったものとみられる。 そしてこの当校の多少どれくらい目(雪)に可視同じだったかということが同じ年12月にキョン大佐病死(兵士)ハン・ヒョスンが宣祖にあげた状啓によく現れている。

“道内にユ鈍漢多少忍冬・大邱(テグ)・青島・密陽(ミリャン)・記帳(記章,機長)・東莱(トンネ)および咸昌(ハムチャン)から当校などの地に至るまで相変らずユー鈍くなっているのに,当校の書いた左右道義咽喉(咽喉:のど)になる所にあってその勢力がはなはだ致誠すると,たとえ1度の力をつくしても必ず先にこの敵を稚気で目標をみなします。

兵使朴晋と虞候権応銖と密陽(ミリャン)副詞李守一および部長鄭大任などすべての長寿が安東(アンドン)・醴泉(イェチョン)などの地に集まって経営してのぞいたのがすでに数ヶ月が近かったが,多少便利な地点に占拠していてしかも中間に大きい私が遮られて,長寿らが皆難しく思ってまだ一度も攻撃できないので,憤慨してきまり悪さに勝つことができなくて精鋭な軍事2千人を選抜して,

応酬に任せて,機会を見て,夜に襲撃するようにしたし,神は将来10余村の軍事と話を徴発して,義城(ウソン)・安徳(アンドク)トン処に駐留して,忍冬の賊勢をのぞいて,もし機会だけくれば大きく一度攻撃することであり,もし不便(不快)ならばすばしこい軍事を持って夜に襲撃しようとしてまた病死(兵士)でとって大邱(テグ)の敵を夜に攻撃するようにしてすでに約束を定めました。

ただしセンガカオプコンデ兵糧が極難ハニ軍事でとって自ら包んで行かれるくるようにしようとすれば民間に一升した話の貯蓄がなくて飢えて死んだ屍が道に相次いだし,官糧を与えるとハニ各村の倉庫が行ったところごとに空いたのでどうしてするところを知りません。” (慶尚道(キョンサンド)純栄禄に出てくること)と常駐している。 この長計でボア当校の戦略上重要性と当時の実情を分かることができる。

常駐に駐留したことは同月23日に開寧県で退却したが当校には1千人の兵力が駐留していたがこちらは地形が険しくて,彼らに有利だったし,兵力も精強して,堅く守っていたので北では鳥嶺の険要を堅く守って男では軽傷(経常,慶尚)左右譲渡の要地を制圧していた。 軽傷(経常,慶尚)左道巡察使ハン・ヒョスンは左兵使朴晋と同じように軍事を安東(アンドン)部に集結した後時の隙間を見て,撃破しようと試みたが数ヶ月が過ぎるように良い機会を得られなかったのでついに左道の色々な義兵らに命じて,敵とぶつかるようにした。

しかし出て行く義兵ごとに皆敵に大敗されるばかりだった。 ここで咸昌義兵将李逢などが尚州義兵将鄭経世などと互いに連絡した後兵力を集めて,一時に打ったが勝つことができなくていよいよ尚州判官の鄭起龍に援兵を求めることになった。 チョン・キリョンは常駐龍華洞戦闘で敵を大きく終わった後尚州城を火力の攻撃法で修復したことがある。 そしてチョン・キリョンは時の頭4百級を巡営に捧げて常駐性を修復したただで尚州判官になったのだ。

チョン・キリョンは救援(旧怨)要請に応じて,軍事を導いてまもなく常駐で出動して,当校に向かって,急進した後単に先日で敵を大きく避けると敵は壊滅して大乗山に逃げて入ったがチョン・キリョンはまた進撃を加えることに少ないことの全滅してしまった。 彼は引き続き部下軍事中でゴンヨンある長寿数十人を選んで,イン邑了解紙に分散した後敵を見さえすれば撃破すると書いたお互い警戒することになって常駐付近にはあえて接近しないようにした。(宣朝中興誌クォン3,梅軒実記で)上から見るように当校の敵を壬辰年12月末に崩れた。

当校が交通上戦略上どれくらい重要な地点なのかを分かることができることになった。 ここで話す唐橋は今の聞慶市(ムンギョンシ),茅田洞(モジョンドン)と尚州市(サンジュシ),咸昌邑(ハムチャンウプ)輪直リ一代(一帯)を総称する指名であり,当校は店村(チョムチョン)と咸昌邑(ハムチャンウプ)の警戒(境界)にあって,当校寺跡碑は聞慶市(ムンギョンシ)庁広場にたてている。


(6)近品城戦闘および加恩城戦闘

①クン品性戦闘927年(新羅敬愛王4年)秋9月に甄萱が近品城を打って奪って燃やして軍事を気が向いて,高欝府を襲撃して奪って新羅,ソウルの近郊を肉迫すると新羅王は高麗太祖に救援(旧怨)を求めた。 (三国史記列伝(熱戦)キョン・フォン組)これより先立って同じ年正月に高麗太祖王健は龍宮地方(脂肪)を打って,降参させた。

この時キョン・フォンが盟約を破ってしばしば変更を侵略したので王(高麗太祖)が永らく我慢して耐えて,キョン・フォンがとても病気(受ける)乗ること(併(受ける)乗ること)しようとする心を抱いたので王がキョン・フォンを打つと新羅王が軍事を出して,考慮を援助した。 3月に王(高麗太祖)がいよいよクン品性を打って,これを陥落させた。

高麗太祖王健は927年春に現在の龍宮一員と山陽面(サンヤンミョン)一帯を打って,この地域を確保する。 三国史記雑誌第3地理誌に嘉猷県みたクン品ヒョン(本近品県)だと近は巾でもする。 現在の山羊ヒョンだといったので今の山羊地方(脂肪)が確実で尚州郡邑誌続絃組にも一緒に記録されていることを見る時,今の山陽面(サンヤンミョン)懸里後方の山近巌山性でボア間違いないと見る。

927年春に考慮が占領したクン品性を同じ年秋にキョン・フォンが奪還してきれいな富(現霊泉(ヨンチョン)地方)を占領してまさに新羅のソウルを攻撃して鮑石亭で宴会をしていた新羅の景哀王をひきつけて殺して敬愛王の族弟のキム部(金傅:敬順王)をたてて思う存分略奪をして帰った。 それでここでキョン・フォンに対する三国史記列伝(熱戦)キョン・フォン組を移して記載する。


②三国史記のキョン・フォン前“キョン・フォンは新羅尚州加恩県人だ。 本性は李氏だったが後に甄で姓を変えた。 お父さん阿慈介は農作業で生活して後に家を起こして,将軍になった。 初めてフォンが出て,産着中にある時,お父さんが畑を分かれて行ったのでお母さんがご飯を持ってきて,キョン・フォンを森の中に置いたが虎がきて,乳を与えた。

村ではこの話しを聞いて異常に感じると成長するや体毛が雄壮で志気が非凡だった。 従軍して,ワン卿(王京:ソウル)に入ってきて,戍兵になって,南海に行って防御するのに窓(ウィンドウ)を切って敵を待ってその勇気はいつも兵卒のために先頭に立ったので功労(空路)で裨将になった。 真聖王6年に小人らが王のそばにあって政権をもてあそぶと規律はみだれて凶年まで重なって,民は遊離して泥棒群れは蜂起した。

これにキョン・フォンが国を道(ド)きつい意向を抱いて徒党を募集して連れて歩いて,ソウル西南の週・ヒョンを攻撃すると行く所ごとにさらって,わずか一月の間に軍事が5千人余りに達した。

いよいよ無尽主(州,株)(武珍州:現全羅南道(チョルラナムド))を襲撃して自称王といったがあえて公然と王だとできなくて官職を「新羅西南都統指揮病気馬蹄致知節度(窃盗)督戦武功など主君私行前週自社謙語四仲丞相酒国ハン・ナムグン開局工業(新羅西南都統指揮兵馬制置持節都督全武公等州軍事行全州刺使兼御史中丞上柱国漢南郡開国公」として式邑2千戸を持っていた。

この時北原賊梁吉がウン降下とか弓裔自身が行ってその部下になった。 フォンは聞いて遠くはヤンギルに悲壮の敵をチェ・スハであった。 フォンがソ順(西巡:西側を巡行)して完山州に達するや住民が合って慰めるとフォンは好評を得たのを喜んで,左右に(早い)達するものの「私は三国の根源を推察したところ馬韓が先に起きて後に赫居世が勃興した。

したがって辰・弁がしたがって起きた。 それで百済は金馬山で開局して,6百年余りを降りてくるのに唐高宗が新羅のチョンで将軍ソ・ジョンバンを送って,海軍13万で海を渡ってきて新羅キム・ユシンが巻土して,硫酸を経て,使者(ライオン)(泗者)に(早い)達して,党病と結集して,百済を打ってなくした。

今私が果敢に完山(ワンサン)に首都をたてて義慈王の宿憤を解いていないこともあるか」といよいよ後百済王だと自称して官職を用意して,分配した。 時はヒョ球王(孝恭王:900) 4年だった。
使節を呉・越に送って問い合わせると五・月王が答礼することと同時に検校太保ウイ職を追加弟嫁と残りは前職と一緒にした。

5年(ヒョ球王5年)にフォンが大耶城を攻撃して勝つことができなかった。 14年にフォンは金星(錦城:現羅州(ナジュ))が宮例に降参したのを怒って歩・騎病3千で包囲攻撃して,10日を越えるように解けなかった。
信徳王元年(神徳王元年:912)に宮例の諸将が私たちの太祖(太祖:王健)を推戴して,即位させるとキョン・フォンはこの話しを聞いてその年秋8月に日キル・チャン(一吉蹴った)ミン劇(閔劇)を派遣してファレを差し上げて,孔雀扇と智異山(チリサン)の竹箭を捧げた。

また五・月に使節を送って良馬を捧げると五・月王道使節を送って,これに答えて中大夫の位をより多くやって,その他に位は前と同じだった。
4年(920)にキョン・フォンは軍事を起こして歩騎1万人を率いて新羅の大耶城を打って,陥落させて軍事をジンレ性(進礼城:現忠南(チュンナム),錦山(クムサン))に移した。

新羅王はしまったは金律を派遣して,太祖(王健)に救援(旧怨)を求めるので太祖はまもなく軍事を送ると,キョン・フォンはこの話しを聞いて軍事を導いて後退した。 これにキョン・フォンは私たちの太祖と表面ではやわらかくするふりをしながらも,中では相克になった。

敬愛王元年(景哀王元年:924)秋7月にキョン・フォンは息子須弥強を派遣して大耶城・ムンソ性(聞所城)の軍事を発動して,曹物城を攻撃したが性病らは太祖(王健)を大切にして,堅く守備して,また戦うのでスミガンは勝つことができなかった。 その年8月にキョン・フォンは使者(ライオン)を派遣して,太祖(王健)に聡馬を捧げた。

2年(925)冬10月にフォンは歩騎3千人を率いて造物性に踏み込むと太祖もまた正兵を率いて出てきて互いに激戦をしたが,フォンの軍事がはなはだすばしこくて勝負を欠くことができなかった。 太祖は一時和平をして,その軍事らを疲れるようにさせようと文を送って,和親することを求めて,堂弟王信を人質に送るとフォンもこれを承諾して外甥真虎を交質でした。 12月にフォンは軍事を起こして,新羅の居昌など20余省を球取り下げであった。

そしてフォンは使節を後唐で派遣して藩屏になることを志願すると,後堂荘宗は彼に「コムギョテウィ兼市中時百済軍事(検校太尉兼侍中判百済軍事)」の位を与えて,前例によって「チジョルドドク専務工業トンジュ軍事行前週自社解凍西南都統指揮病気馬蹄分謄写百済王(持節都督全武公等州軍事行全州刺史海東西南都統指揮兵馬制置等事百済王」を冊数と式邑2千5百号を与えた。

4年(927)に真虎が突然死んだがフォンはこの話しを聞いて太祖がわざと殺したことで疑ってまもなく考慮の姪子王信を獄中に閉じ込めてまた人をさせて,連戦に送った総マを回してくれと言うと太祖は笑って回してくれた。

4年秋9月にフォンが近品城を打って奪って燃やして軍事を気が向いて,新羅きれいな富(高欝府:霊泉(ヨンチョン)地方)を襲撃して奪って新羅,ソウルの近郊を肉迫すると新羅王は太祖に救援(旧怨)を求めた。 冬10月に太祖は将来軍事を出して,援助しようとした車(茶)にフォンが突然新羅王道に入ってきた。

その時王は婦人と嬪御を連れて鮑石亭(ポソクチョン)に遊び出て行って,酒を置いて楽しんで多少突然入ってくると慌ててどうするところを分からない婦人と一緒に城南の別宮に帰って色々な終始と臣下および女官約款らはみな大騒ぎ筒に陥没した。

フォンは軍事を置いて,大きく略奪して人をさせて,王を捉えて自分の前で殺すようにして直ちに宮中に入って居住して強制的に王妃を引っ張って姦淫して王の族弟金傅で上(胃)を継承させた後王の弟孝廉・宰相英景をひきつけてまた国庫にある貴重な宝物を取得して子供と各種工人らを奪取して帰ると太祖は正兵5千でフォンを公山下で首受けて,大きく戦って,太祖の長寿金楽,申崇謙は死んで色々な軍事は敗れて太祖はやっとからだだけ抜け出た。

フォンは勝利を乗って大きな課題軍(郡)(大木郡:現若木(ヤンモク))を取得した。 契丹の使節娑姑・魔道を(麻石)等35人がきて,予防するとフォンは将軍崔堅をさせて,マ石の一行を搬送させて船に乗って北に行って風に会って,党の登州に押されて,皆捕えられて死んだ。 この時新羅の君臣が国運が衰残して,また興起しにくいといって私たちの太祖を引き込んで,和親を結んで応援になってくれるように望むとキョン・フォンが自ら国を奪う心があって,太祖が先手を打つか心配した。

この理由に軍事を引っ張って王道に入ってあがいたのだ。 敬順王元年(景順王元年:927) 12月に太祖に書信を伝達するものの,「昨日聞くと国相金雄廉などが将来足下を呼び入れて,ソウルにくるようにする形とか国境警備兵の声に癌スッポンが応じるようで毎翼にダルマエナガが裂けようと思うようなものだ。

必ず民はドン底に落ちて従事は空地になることであるから私は先に鳥迹(祖敵)のムチをプディッコ単独で韓信の斧を振り回して明るい年を聞いて,百官に誓って義風で肉部をヒョ柔らかかったです。

思いのほか奸臣は逃げて国君はむごたらしい事態にあったでいよいよ景明王の表弟で古い元気満々の外孫なるこれを敬って,尊位に進むようにして危ない国をまた起こしたので賃金を失って賃金を置いたのがこれにあるというので足下(足下:高麗太祖王健を指摘)は忠告を見回すことができなくてハンガッ流言だけを聞いて,百種類悪知恵で狙って多方面で侵略しました。

しかしまだ私の話頭を見ることができなくて私の牛毛一つも選ぶことができなかったし,初めての冬に都頭索湘が星山の陣営下で手を縛られて1ヶ月中に挫傷キムナクが米理寺前で骸骨だけ残ることになって死亡者も多くても捕われた者も少なくないから強弱がこの同じなので勝敗も十分に分かるでしょう,所期の目的は平壌(ピョンヤン)の楼に弓をかけておいてペガン(〓江:大同江(テドンガン))の水に話を飲ませることです,

ところで前月7日に五月菊使節班尚書行って伝達する王の調書に(そのまま考慮で一緒に永らく互いに楽しみを通じて共に隣の誓いを結ぶとこの頃二ヶ所の質子がみななくなるので因って,いよいよ和親の旧好を喪失して互いに領土を侵して,戦いを終わらないというので今使節を発送して,敬意本土を送ってまた考慮で文院を送ったのでそれぞれお互い親しくて,長さ(道が)美しくして。) しました。」

私は尊王の義は義に篤くて事大思想が深いので詔諭を聞くことになるやまもなくコンギョンヒ敬おうとすると常に足りること止めないでむしろ戦おうとすることを心配して,今調書を記録して送るがチョンコンデ心を寄せて,詳しく見回しなさい。 またウサギと犬が共に疲れればついに嘲弄(冷やかし)の種だけ残して貝とコウノトリが互いに持ちこたえればそれはやはり笑い話だけなることであるから当然本キルロ帰るとは思わないことを警戒(境界)と自ら後悔を及ぼさないで下さい。

明年正月に太祖(王健)は答えるものの,“五月菊通和使反上書が伝えた調書一通を敬ってかたがた足下から伝えた長書を受けました。 草花(華初)の美しい使節が勅書を伝えられかたがた尺素の良い言い方が教誨を与えました。 芝検を敬うとたとえ感激は加えるが華川(ファチョン)(華川)を咲いてみると疑惑を捨てにくい。 今帰る車を依託して,ふと危険な話を宣言します。

私は仰ぎ空が(祈る)借りてくれたことを敬って下へ民の推戴に耐えれないで,長寿の権力を一人占めして経綸の際会に参加することになったことです。 先立って三韓の厄運と九洲の凶年として民はほとんどみな黄巾に所属して農地は皆が赤地でした。 ほとんど大騒ぎの警報(競歩)を防いで国の災難を(求める)救うことができるようなことでいよいよ隣どうし好んで,和親を結んだところ果たして数千里に農業が安らかで七八年を士卒がのんびりと寝ました。

年は酉年で,時は10月にそこまで突然ことが起こって,戦いをプディンヌン状況に達しました。 足下が初めに敵を軽く感じて,直ちに出ることを螳螂が車輪を抵抗するようにするとついに困難を知ってさっさと退くものの蚊が泰山を負けたことのように考えました。 手を集めて頼んで空を置いて誓うものの今日以後では長い世の中を平和に過ごすことであり,もしも誓いを変わるならばシニ罰を与えるつもりだといいました。 私やはり止戈の武を崇めたてて不殺の仁を約束していよいよ何重の包囲を解除して疲れる軍事を休息させて子供を不毛捕えられることも辞退しなくてただし民を安らかにしようとしました。

これこそ私は南側の人に大きいおかげを見せたことです。 ところでどこの早かったです。 三穴(三血)が乾く前に凶悪がまた発作して,山の峰(蜂だけ)のドクが民生に侵害して狼虎の狂が近郊にまであがいて,金星が揺れて御駕が驚くことになりました。 義を守って周を尊重することを五敗(五敗)の斉桓公・晋文公と一緒にする者がどこのあります。 合間を利用して漢を企てるずるがしこい王莽・董卓を見るだけです。

そうして王の王様にとって逆に足下に子供の称号まで出てきたので高くて低さが次序を失うことになるので上下が心配を共にして,皆元甫の忠純があるんじゃなければどうして辞職をまた安定させることができようと考えて私に私慝することがなくて意は王室を高めるのに切実だとし調整に引き込んで危ない国を捕まえるようにしようとするということでした。

足りる毛の先同じ小さい利益だけ見て天地同じ厚い恩恵を忘れて,君主を殺して宮廷を燃やして宰相で乳を漬けて士民を切ってなくして美女を火傷をしようとしたが同じ車に乗せて珍宝を剥奪していっぱいのせて行ったので大悪は桀紂よりもっと行って不仁はギョンヒョより激しかったです。

私は空が崩れたように願望が極に達して年を帰ってくるようにした誠意が売家スズメを追う力をつくすことに誓って犬馬の勤労を咲いてみることにしました。 二番目戦いをぶつける間二年が過ぎました。 陸地では雷であるもよう稲光がするように海上では虎が走るようにヨンイ出るよう動けば成功して始めれば無駄になったのがなかったです。

尹妃は(尹ウィーン)を海岸にチョッコナニ武器が山のように積もったし鄒造を星変でひきつける時には時の死体街らを覆いました。 燕山君(ヨンサングン)では軍営の前で吉奐を切ったし馬利城では旗竿下で随晤を殺しました。 任存城を奪う日に形跡(〓積)等数百人がなくなって清川を壊した時には直心など四五人が首を捧げました。

桐薮は旗竿だけ眺めても崩れて京山は玉を口で噛んできて,降参しました。 康州は男で降参してきて羅府はソで移属なりました。 攻撃がこれと同じだから収復がどうして遠くてぼけています。 必ず指数で張耳は千種類一を洗うことであり烏江で漢王は一捷の球を成し遂げるつもりですよ。
ついに波風が沈んで長さ(道が)国が清平(チョンピョン)するつもりですよ。

空が助けるのに運命がどこにトラガゲソ. まして五月王伝えることが満足で,遠方まで包容して仁が深くて,小さい国を愛して,特に丹禁の調書をおろして青丘の大騒ぎを明らかにするようにヒョ柔らかかったです。 すでに教えを敬った以上あえて従わないです。

もし足下(キョン・フォンを指摘)が勅命を敬って,戦いを中止するならば上国の御真恩恵に恩返しだけでなく海東の切れた系統をつなぐようにすることができることであり,十分に過ちを直すことができないならば後悔しても達し得ないはずであります。”夏5月にキョン・フォンが軍事をこっそりと送って,強酒を襲撃して,3百人余りを殺して将軍有文を降参受けた。

冬11月にフォンが強兵を選抜して缶谷城を打って奪って守城軍1千人余りを殺すと将軍楊志・明式などが降参した。 3年秋7月にフォンが武装した軍事5千人で考慮義城府を攻撃して,ソンジュ将軍洪術が戦死した。 12月にフォンが大軍を起こして,高敞郡(コチャングン)(古昌郡:現安東(アンドン))瓶山の下駐留した。 翌日にフォンは残兵を集めて順州城を襲撃して破って将軍元逢が防ぐことができなくて性を捨てて夜に逃亡してフォンは民を略奪して,全州に移した。

6年にキョン・フォンの臣下公職(球直)がすばしこくて知略があったが太祖を訪ねてきて,降参するとフォンは公職の息子二,娘一人を捉えて不老煮て,橋(脚)筋を切った。 秋9月にフォンが日キチャン相貴を送って,海軍を率いて考慮礼成江に入って,三日を泊まって塩,白,貞3週の腹(船,梨)1百隻を奪って燃やして猪山島の木馬3百匹を捕まえて行かれて行った。

8年春正月にフォンが太祖が渾州に駐留することを聞いていよいよ武装軍(郡)5千を選んで持ってきたが将軍金ピルが彼らが陣を敷く前に強兵数千で突撃して,3千人余りを切って殺すと熊津北側の30余省が噂を聞いて自ずから降参した。 フォンの部下術士宗訓,医者訓謙,勇将尚達,崔弼などが太祖に降参した。

キョン・フォンが妻が多くて,息子10人余りがあった。 四番目息子金剛が背が高くて知恵が多いのでフォンが特別に愛して,自分の席を譲ろうとするとその兄神劒・良劒・龍劒などが察して悩んだ。

おりしも量黒い康州やや厚くなって行ってヨンゴムは武州やや厚くなって行って唯一身体検査だけがフォンのそばにあるのでイチャン能奐は人を強酒・茂朱(ムジュ)2週に送ってヤンゴムなどと一緒に陰謀して,9年春3月にパジンチャン新徳・英順などと一緒に身体検査を薦めてフォンを金山寺に幼稚で人をさせて,金剛を殺して身体検査が大王で自称することと同時に境内に大使令(領)をおろした。 その教書はこのようだ。

“如意が寵愛を特別に(受ける)着たが恵帝が賃金になったし建成が猥濫に,太子席に処することに太宗イ作紅霞で即位した。 千人は変わらないで神器は行く所が決めている。 謹んで思うに大王フォンは神武が無理に優れて英謀が古今に一番上や末世に生まれて,豊富な経験と知性で自任して三韓の土地を瞬時と百済の国を光復(解放)して塗炭を澄まして,民が安らかで風雷とともに鼓舞して,四方でついてきた。

功業が中興に近かったが知慮が一失に軽率だった。 幼い息子が愛を一人占めして奸臣が権力をもてあそんで,大軍を晋恵公の昏暗に引き渡して慈父を晋献公の疑惑で抜かした。 そうして大宝を頑童に与えようとした。 幸運なのは上帝が法則をおろして君子が過ちを直して,私元子でとって一つの国の君長になるようにしたが振り返ってみる時,帝王資格ではないがどうして君臨の知恵があるだろうか。

用心深くて震えて,氷を踏むようにモッカに臨むようだ。 不次の恩恵を広げて維新の政策を見せることが当然なので境内に大使令(領)をおろすことが加える。 10月17日明け方以前を恨んで,すでに発覚したことでもならないことでもすでに決定されたことでもならないことでも皆許すが所属官員はまもなく施行するようにしなさい。

”フォンが金山寺(クムサンサ)で3ケ月の間あとで6月に末っ子息子能乂,娘衰福と愛妾姑比などを連れて錦城で逃げて,人を送って,太祖にお目にかかることを求めると太祖は喜んで,将軍ユ・グムピル,万歳などを送って水路で行って慰めてくるようにしてたどり着くや厚い例で待遇してフォンの年齢自分より10年上(胃)といって高めて尚父を三考南宮に居住するようにすると地位が百官の上(胃)にあることになった。 そして楊州を与えて,式邑をみなすようにしてかたがた金帛蕃縟,男奴,女婢各々40人と内規マ(内キュ馬) 10匹を与えた。

キョン・フォンの婿将軍英規が秘密に,その妻に言うことを“大王が40年を勤労して,成功することになって一日で身内の喧嘩の災いで土地を失ってしまい考慮に降参したのでおよそ貞女は二人の夫を仕えなくて忠臣は二つの賃金を仕えないのでもし自分の賃金を捨てて逆子を仕えるならば何か顔を上げて天下の意志(医師)を見ます。

まして考慮王公は咽喉勤倹で,民心を得たというから恐らく空が世の中のために出した方として必ず三韓の主人になることとか私たちの賃金に文を載せて,慰安してかたがた王公によく見えて,将来の福を企てられないことがあって。」ハニその妻も“あなたお言葉がまさに私の意です。”した。
翌年2月に人を送って,意を伝達していよいよ太祖に申し上げるものの,“もし意気を召し上がるならばチョンコンデ内応になって王師を引き受けます。

”ハニ太祖は大きく喜んで,その使節に手厚く主語送ってかたがた令閨に汚らしいが“もし恩恵を力づけられて1ヶ所にかたまって途中障害さえないならば先に将軍に会った後に内実に入って,夫人にお辞儀をして兄で仕えてお姉様と敬うことであり,ついに厚い恩返しがあることとか天地神明がみなこの誓いを聞きました。”した。

夏6月フォンが申し上げるものの,“所信が殿下(電荷)にからだを依託しているのは殿下(電荷)の威力を力づけられて逆子を切ろうということですので望んでみたら大王は神兵を貸してくださって,その乱賊(難敵)を殺すことになればシニ死んでも残念がないです。”ハニ太祖は快く応諾して先に太子武,将軍述希を送って,見ること病1万を率いて天安府に走るようにした。

秋9月太祖が3軍を率いて天安(チョナン)にたどり着いて,一善に進駐すると身体検査が軍事で断って甲午日本に一利川を間に置いて互いに対抗して,陣勢を広げた。 太祖は上部フォンと共にクンを視察した後大相堅権,述懐,金山,将軍龍吉,奇彦などにとって見ること病3万を率いて左翼になるようにして,対象金鉄,洪儒,守郷,将軍王順,俊良などにとってボギー3万を率いて右翼になるようにして,大匡順式,対象競俊王謙,王乂,ユ・グムピル,将軍貞順,宗煕などにとって鉄器2万,歩兵3千および黒穂哲理(黒水鉄利)制度の強兵9千を率いて中軍になるようにして,隊長軍(郡)公萱,将軍王含允にとって軍事1万5千を率いて先鋒になるようにして北をたたいて行軍した。

百済将軍孝奉・徳述・明吉などがクンの勢力が大きくて秩序が整然さを眺めて軍服を脱ぎ捨てて陣営の前にきて,降参するので太祖は慰めて百済隊長がいる所を尋ねるとヒョ方などは“元帥(敵)身体検査が中軍にあります。”と答えた。 太祖は将軍コンフォンをさせて,直ちに中軍をぶつけるようにしてハン軍団が共に出て行って,左右で打つと百済軍(郡)が崩れた。

身体検査が二人の弟および将軍富達・小達・能奐など40人余りを連れて生きたまま降参すると太祖は降参を受けてヌンファンを除いたあげくはみな慰労することと同時に妻子を連れてソウルにきて生きることを許諾してヌンファンに尋ねることを“一番最初にヤンゴムなどと密謀して,大王を閉じ込めてその息子を聞いてたてたことは貴様の誘う。

臣下なった道理がこのようでこそ当然か。”ハニ,ヌンファンは頭を下げて言えないのでいよいよ切って殺すようにして身体検査の僭位は他人の脅迫でなったことで,彼の本心でなくまた降参して生かしてくれというので特別に許して殺さなかった。 (三兄弟がみな処刑されたともハム)キョン・フォンは心配に抑えがたくて,など穴があいた数日の間に黄山仏舎で死んだ。

身体検査のつかむ前に話したことと同じになるのをいよいよ官位を与えてその二人の弟はヌンファンと一緒に罪が同じであることでいよいよ進駐で追い出してまもなく殺して令閨に(早い)達することを“前王(フォン)が国を失ってしまった後,ひとりも慰労する者がなかったが唯一あなた内外が千里外で便りを伝えて,誠意を見せたしかたがた私に賛意を表わしたのでその義理は忘れることはできない。”としたがって左丞ウイ職を虚弱で畑1千頃を与えて役馬35匹を貸して,家族をむかえて差し上げるようにしてその二人の息子にも官職を与えた。

以上がキョン・フォンの出生から死ぬ時までの三国史記の記録だ。 キョン・フォンは私たちの故障カウンで出生して,後百済をたてて東から新羅を打って北で考慮と天下を争った。 しかし斉家を間違って,その最後はみじめだったと言えよう。 私たちの故障にはキョン・フォンに対する伝説がたくさん伝えられている。 キョン・フォンはカウン行くチョン開冬(別名しまった)で出生したと伝える。 キョン・フォンの出生説話とか話岩,王宮の跡地,キョン・フォン酸性などに対する伝説は拙著「聞慶(ムンギョン)戴冠」伝説方を参考にすることを望む。



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