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古代史の資料集です。
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(5)唐橋と蘇定方唐橋は聞慶市(ムンギョンシ),茅田洞(モジョンドン)と尚州市(サンジュシ),咸昌邑(ハムチャンウプ)輪直リとの警戒地点にある毛廛川上(胃)に置かれた橋(脚)の名前だ。 三国遺事奇異便第29太宗台(テジョンデ)王朝(三国遺事紀異篇第29太宗大王條)に見れば当校(唐橋:トェダリ・トェダリ)で唐軍と蘇定方を新羅のキム・ユシン(金〓信)将軍が抹殺をさせたと記録している。

その原文は次のようだ。 「又新羅古伝云定方既討麗済二国又謀伐新羅而留連於是〓信知其謀饗唐兵荷物之皆死坑之今尚州界唐橋是其坑地」*荷物=荷物鳥荷物“また新羅の過去の電気に達することをソ・ジョンバンがすでに高句麗と百済両国を打って,また新羅を打とうとする下心で留まっているので,キム・ユシンがその悪知恵を知って党病を接待して,荷物主(州,株)(荷物酒)を食べさせて殺して席巻して埋めたので今常駐警戒(境界)にある当校という所がまさにそこという。

”そして九註に言うことを“当社(唐史:唐司書)を調べればそのような言葉がなくてただし死んだという話だけ使ったことはどうなったことなのか,亡くなったものか? 私たちの記録で根拠ないことを使ったものか? 万一壬戌年(壬戌年:662)高句麗との戦いで新羅の人々が丁方の軍事を殺したとすればその後の総長無尽(総章戊辰:668)にどのように清兵して,高句麗を滅ぼすことができただろうか。

これでボア私たちが伝える言葉が根拠ないことを分かる。 ただし無辰年(戊辰年:668)高句麗を滅ぼした後に党に臣下の例を守らなくてしたことはその土地を思いのままに占めるということであってソ・ジョンバンや移籍を殺したのではない。”といって,三国遺事の著者の一然はこの事実に対し疑問を提起している。

それなら果たして当校戦闘は実際したし,ソ・ジョンバンは当校で死んだのか? いまだにこれに対する明確な解答はない。 当校戦闘とソ・ジョンバン殺害説の事実の有無を分けるためには我が国の歴史資料と中国側の飼料を比較,検討,分析してみるしかなくて正確な解答を(求める)救うことは難しい。

①中国側記録中国側の記録では新・旧唐書(新・旧唐書)で探すほかはない。 中国側記録の旧唐書にはコンボン2年(乾封2年:667,新羅文武王7年)にソ・ジョンバンが死んだ。 年齢は76才であった。 高宗(コジョン)が聞いて実に惜しがって,死体らに早くて,言うことを“ソ・ジョンバンは国に球があると表症することが例に党合併したのに(も)キョンらは言葉がないな。

いよいよ使節を送ったが哀悼することが映画に達し得なくて議論がここに(狂う)及ぼすと悟れないように悲しいな。”と調書をおろして幽州都督を追贈して諡号を荘といったと記録しており,新唐書にも九党での記録と似ているように次の通り記録している。
“謹封2年(667)にソ・ジョンバンが死んだ。

年齢は76才であった。 帝がこれを哀悼して,死体らを叱責して言うことを「丁方は国に球があるので表症することが当然なのにあなたたちは言葉がないから何のためか?」とこれにチュァ・ヒョ偉大将軍ユジュドドク(左驍衛大将軍幽州都督)を追贈した。 諡号は荘だ。”と記録されている。

上の記録を見る時,唐調整では何のためなのかソ・ジョンバンに対する褒賞を建議しなかった。 なぜそうしたのだろうか? 百済討伐の隊長軍(郡)のソ・ジョンバンが死んだのにこのようにないがしろに接待することができるだろうか? 唐鼓種は側近らを叱責しておりソ・ジョンバンがどこで死んだのかも記録しないでいることを見るならばソ・ジョンバンの死に対する疑問を消すことはできなくなる。 二シーン・九党での記録がソ・ジョンバンの当校殺害によったことか,平壌(ピョンヤン)敗戦の責任なのかは確実でない。

②我が方記録私たち側の記録では三国史紀・三国遺事・東史綱目・東国李相国集でソ・ジョンバンに関する記録を要約してみる。
三国史記新羅王の伝記太宗武烈王7年(660) 3月組に唐高宗がチュァ無二将軍ソ・ジョンバンを神丘道行軍大摠管で金仁問を部隊総管に任命して左驍衛将軍劉伯英など水陸軍13万人を率いて百済を打つようにすることと同時に勅旨をおろして,王を隅夷道行軍摠管をみなして,軍事を率いて進んで声援させた。

夏5月,王は維新(〓信)・真珠・天存などと一緒に軍事を率いてソウルを離れて,6月,南川停に駐留した。
ソ・ジョンバンは莱州から出発して,千里を相次ぐ戦船を率いて同に向かって随流に降りてきた。 王は太子法民(法敏:後に文武王)を送って兵船百隻を率いて進んで徳勿島で丁方を出迎えると丁方は法民に(早い)達するものの“私は7月10日に百済南側にたどり着いて,軍事と会合して義慈王の都城を打ち破って壊そうとします。”するので法民は話すものの“私たちの大王が今大軍を待ちこがれておられる場所でもし隊長軍(郡)が来られたという話を聞けば必ず寝床(トンボ)で食事して来られましょう。”した。

丁方は喜んで法民を歓送して,新羅坊を増発させた。 法民が帰ってきて“丁方のクンの威勢が非常に盛大ですよ。”と話すと王は喜びに耐えなくて,また太子でとって隊長軍(郡)維新,将軍品日・フムチュン(欽春:欽純ともハム)等と一緒に正兵5万を率いて応援させて王は金石城(今突城:尚州市(サンジュシ),牟東面(モドンミョン),白華山(ペクァサン)にある)に進駐した。…同年7月に新羅軍(郡)はファンサンボルで百済の階伯の5千決死隊と血戦を継続して,ケベク君を打って壊す。

三国史記にはその日のソ・ジョンバンに対する行跡を次の通り記録している。 この日に丁方が副総管キム・インムンと共に支伐浦に到着して,百済軍(郡)に会って戦って,大きく押し倒した。 維新などが党軍(郡)の陣営につくと丁方は遅くきたという理由を挙げて,新羅督軍キム・ムニョン(金文穎:穎はひょっとして永とも使うこと)の首を軍の門の前で切ろうとするので維新は色々な人に話すものの“隊長軍(郡)が硫酸の戦いを見ることができなくて遅くきたと罪を与えようとするようだが私は決して罪なしに悪口を受けることはできない。

必ず党軍(郡)と先に戦いを決めた後に百済を壊す。”とクン門の前で窓(ウィンドウ)をつかんで庶子怒った髪の毛は真っすぐに書庫腰につけた宝剣は自ずから動いて,切れ目を抜け出した。 丁方のウ将軍董宝亮が丁方の足を踏むように立って話すものの,“新羅軍(郡)が変乱を起こすようです。”ハニ丁方はいよいよ罪を問わなかった。

百済王子がチュァ評覚伽でとって手紙を丁方に送ってトェビョンヘ与えることを哀願すると丁方はゲラゲラ笑って…百済の椅子王が降参した後に8月2日照には“大きい祭りを施して将兵を慰めるのに王と丁方および色々な将軍は堂上に座って椅子王およびその息子隆恩堂下(タンハ)に座らせて椅子王をさせて酒を注ぐようにすると百済のチュァ評などの色々な臣下は喉がつまって,涙を流さないさあなかった。…”ソ・ジョンバンは任存城を攻撃したが勝つことができなかった。

9月にソ・ジョンバンがナンジャン劉仁願に軍事1万人を与えて,獅子星(泗者城)を守るようにすると王道王子仁泰と賜饌日原・給次は吉那でとって軍事7千人で補佐させた。 丁方は百済王および王族臣僚など93人,民1万2千人を連れて四肢性から船に乗って唐に帰るのにキム・インムン,賜饌儒敦・対内マ中知などが同行した。

ソ・ジョンバンは660年9月に百済前を終わらせて本国に行ったことが確実だ。 それで高句麗全域でのソ・ジョンバンの行跡を三国史記で探してみれば次のようだ。 新羅文武王2年(662)に王が維新・人文・譲渡など9人の将軍に命じて,車2千台に米4千席,組2万2千席余りをのせて平壌(ピョンヤン)に行くようにした。 維新などは風樹村にユスクしたが氷はすべりやすくて道は険しくて,車が行けないので兵糧を皆牛と馬に変えてのせた。 そうして七重河を渡って蒜壌に達した。

貴幢弟監星川と軍事朮川などが時の軍事をイヒョン(梨〓)で会って,妻殺した。 2月に先に歩騎監裂起など15人を送って,党の軍営に走って行くようにして,両オ(楊五)にたどり着いた。 しまったは良図と大御所仁仙などを送って,兵糧を伝達して,ソ・ジョンバンに銀5千7百分,細布30匹,髪の毛(橋(脚)) 30量,牛黄19ヤンなどを贈呈した。

丁方は兵糧を受けるやいなや終わって帰ることになると維新なども唐軍が帰るという話を聞いてやはり足を元に戻して…”としたと見る時,ソ・ジョンバンは新羅で多くの辛酸と苦難の末輸送した兵糧を受けては高句麗との戦いを中止して帰ったと見られて高句麗との戦いが得にならなかったことから見られる。

三国史記高句麗王の伝記保障王19年(宝臧王:658)組に冬11月に党の左驍衛大将軍ソル・ピラ力(楔〓何力)がペガンドヘングンデチョングァン(〓江道行軍大摠管)で,左武衛大将軍ソ・ジョンバンが遼東道行軍大摠管で,左驍衛将軍劉伯英が平壌道行軍大摠管で,蒲州刺史正明陣が鏤方道行軍大摠管とされて,軍事を率いて道を分けて,攻撃してきた。

次の年の保障王20年(659)春正月,党は河南北・淮南67週の軍事を募集して,4万4千人余りを得て,平壌(ピョンヤン)・迷惑謗議行ヨンに進むようにしてまたホンノギョン蕭嗣業で扶余道行軍摠管をソルピパリョクでヨドンドヘングンチョングァンをソ・ジョンバンでピョンヤンドヘングンチョングァンをみなして,焼死業およびすべての胡兵と共に都合35軍の水陸で道を分けて,いっせいに進撃するようにして…と記録しており,次の年の保障王21年(660)春正月,党の左驍衛将軍白州刺史沃沮道摠管パン・ヒョテ(〓孝泰)が蓋蘇文と蛇水街で戦って,全軍が陥没されてその息子13人も共に戦って死んだ。

ソ・ジョンバンが平壌(ピョンヤン)を包囲して大きい雪が降ったせいで包囲を解いて退いた。 およそ前後の歩みにこのようにする球がなしで退いた。
党軍(郡)は659年と660年にかけて,高句麗を攻撃したがパン・ヒョテのような将軍が戦士(戦史)と大惨敗にあって退いたことを分かることができる。 三国史記には以後にはソ・ジョンバンの名前が見られない。 次にはソ・ジョンバンの当校殺害を記録している三国遺事の記録を見回してみようと思う。

太宗(太宗:太宗武烈王)が百済中に変怪が多いということを聞いて5年更新(庚申:658)に使節人問を党に清兵ぼけていて送ったところ高宗が調書をおろして,チュァ護衛隊長軍(郡)局面工業ソ・ジョンバン(左虎衛将軍荊国公蘇定方)で神丘道行軍摠管をみなして,左右将軍劉伯英とチュァ護衛将軍馮士貴とチュァ腰囲将軍パン・ヒョ工業(〓孝公)等を率いて13万人を統率してきて打つようにした。

(郷記:私たちの記録には軍事が12万2千7百11人で,腹(船)が1千9百隻といったが詳しく記録しなかった。) 新羅王春秋では隅夷道行軍摠管をみなして,新羅軍(郡)を率いて共に結集するようにした。

丁方が軍事を導いて城山から海を渡って,西側徳勿島に達した。 王は将軍キム・ユシンを送るものの正兵5万を率いて行くようにした。…党病と新羅軍(郡)は前進して,結集してナルッカに行って陣を敷いたところ突然鳥一羽がソ・ジョンバンの英上(胃)ではいかいしているので吉凶を占うようにしたところ「必ず元帥がケガする。」とする。

丁方が怖がり軍事を回して戦わないようにハニ維新が丁方に“どうして飛び回る鳥の不思議なことで天時を破ろうとするのか? 空の意志を受け継いで人心に順応して,極めて不仁ハムを打つことなのに何か不祥事があるだろうか。”と身体検査を選んで,鳥をねらうと鳥が死んで,席に落ちた。 これに丁方は白江の左側街に進んで山のふもとに陣を敷いて戦うと百済軍事が大解夏であった。 党軍(郡)が潮水を(受ける)乗って集まるのに戦船は相次いだし,太鼓の音が騒がしかった。

丁方は歩兵と騎馬兵を導いてまさに都城に走って行って,30里しか留まった。 百済は性中で軍事を総動員して,抵抗するとやはり敗れて,死亡者が万余名で,党軍(郡)が勝勢を追い立てて,性に近づくと椅子王は逃れる術はないことを知ってなげいて成充の話を聞かないがこのようになったことを悔いた。

椅子王は太子ユング(隆:あるいはヒョといえど誤りだ。)煮込んで,北に逃げて丁方が城を取り囲むと王の次男泰が自ら賃金になって,民衆と共に堅く守った。 太子の息子文思はテに(早い)達するものの“王が太子とともに出て行ってないのに小さいお父さんが思いのままに王になってもし党軍(郡)が解ければ私たちがどのように伝えないことができますか。”と左右の人々と綱渡りをして性を移ると国民らが皆従うので,ひびが入って防ぐことはできなかった。

丁方が軍事をさせて,性妾を積んで党の羽振りをきかせると燃やす急に悪化して,しかたなく文を開いて助けることを願った。 これに王と太子ユングおよび代わりに貞福がすべての成果共に降参した。

丁方が椅子王と太子ユング,王子テ,王子演および代わりに,商売88人と民1万2千8百7人を唐鏡(唐京:唐ソウル)に送ってしまった…7年(660)壬戌にソ・ジョンバンでヨトンドヘングンデチョングァンをみなしてすぐ平壌(ピョンヤン)道路直して,高句麗の軍事をペガン(〓江)で撃破して馬邑山を奪って,軍営を作っていよいよピョンヤン城を取り囲む。 ちょうど大きい雪が降って,包囲を解いてファングネッタ. 凉州安集大事に任命して吐蕃を平定したところコンボン2年(乾封2年)に死んだ。

皇帝が悲しげに感じて左驍騎大将軍幽州都督をツンジカで諡号を荘といった。 (以上は唐史の原文だ。)ラ記録しておりまた古記には総長元年無尽(総章元年戊辰:668)とした。 (マンイル総長無尽ならばまもなく移籍のことなのに下でソ・ジョンバンといったことは誤りだ。

万一ソ・ジョンバンならば連呼が当然龍きちんと<龍朔>2年壬戌<壬戌:662>にピョンヤン城をふうっと大切にした時であろう)に清兵ある唐軍事が平壌(ピョンヤン)郊外に陣を敷いて文を伝えて,急に「兵糧をのせて送れ」ハニ王が君臣を集めておいて相談するものの,“敵国を通じて,党軍(郡)がある所まで行こうとするなら形勢がとても危険で清兵ある党軍(郡)が養殖が足りないというと送らないのも正しくないからどうしてするだろうか。

”あるみな維新工業が申し上げるものの,“臣等が兵糧を輸送することができる場合があるので心配しないで下さい。”とは維新・人文などが数万人を導いて高句麗の国境に入って,養殖2万斛を輸送して帰ってきた。 王が大きく喜んで,また軍隊を起こして,党病と結集しようとすると,維新が然起・兵川などを送って,和合する期日を尋ねた。

直ちにソ・ジョンバンがナンセ(鸞)と小牛(犢)を描いて送ったので誰もその意を知らなくて,元暁法師に尋ねると“速くファングナという意”と解釈して“書犢画鸞の半截法で速還です。”した。 これに維新工業がペガンを渡ろうとして,軍令をおろして“後に渡る者は処刑する。”ハニ軍事らが争って先に行こうとした。 半分ぐらい渡るや高句麗軍事がきて,侵略するとそこまで渡ることができない者は死にいたった。 翌日維新工業は高句麗軍事を追いかけて,数万級を捉えた。

前で記録したソ・ジョンバンの当校殺害説とその他に三国遺事の記録を・咲いてみたが当校ソ・ジョンバン殺害説外には三国史記の記録と同行焼夷することを見られる。 凍死(同社,動詞)綱目(東史綱目:アン・ジョンボクあの1712~1791)に記録されているソ・ジョンバンの事実を調べる。

648年(唐太宗静観2年,新羅ジンドク王2年)に新羅がキム春秋を送って,党に組氷河であった。 新羅のキム春秋が党に清兵をするために党に行って唐太宗に会うと唐太宗が尋ねることを“聞いたところあなた国にキム・ユシンという(のは)人があるというのにその人柄がどのようですか?”ハニ,キム春秋が答えることを,“維新がたとえ若干の材智があるが,万一天威を頼らなければどうして隣の為替危機をなくすことができますか。”した。

皇帝が(早い)達することを“真に君子の国だ。”と,これに将軍ソ・ジョンバンに詔勅をおろして,軍事20万を率いて百済を征服するようにした。 565年(唐鼓種英フィ6年,新羅太宗2年,高句麗保障王14年,百済椅子王15年) 2月に党が正明陣・ソ・ジョンバンを送って,高句麗を打った。

660年(唐鼓種ヒョンギョン5年,新羅太宗7年,百済椅子王20年) 3月に党のソ・ジョンバン・キム・インムンなどを送って,水軍と陸軍を導いて百済を打つようにしてまた新羅王に詔勅して,これを声援するようにした。 この時キム・インムンが援兵を求めるために党に行っていたが帝は道路の険夷がどうかと尋ねた。

人文が非常に詳細に答えるので帝は喜んで,出兵することを決心,ソ・ジョンバンで神丘道大摠管を三考人文を副総管でして,ユ・ペギョン・パン・ヒョ工業・どぶんとサの耳など水陸兵12万2千7百11人と腹(船,梨)1千9百隻を導いて百済を打つようにした。 そして新羅王は隅夷道行軍摠管として,その無理を率いてこれに結集するようにした。

党と新羅の軍事が獅子星(泗者城)を包囲すると百済椅子王は熊津城で逃げた。 そうして王子泰が自ら王になった。 ソ・ジョンバン・キム・インムンなどが伎伐浦を渡って海岸どん底にヤナギ枝を構成して敷いて出師ハニ,百済は軍事を集めて熊津口で出て来てこれを防いだ。 丁方が左側丘に出てきて高いところに陣を敷いて百済軍(郡)と戦って,大きく撃破させた…. 新羅王がソ・ジョンバンと獅子星で会談したし,使節を党に送って勝捷を知らせた。

王が南川から今突城に出ていて百済の降参を聞いて金石城で獅子星で第監天の恵みを送って,党に老舗(露布:全勝を知らせる布告文)した。 9月に党が百済の土地を五都督府を作って劉仁願に命じて,獅子星に留まって守るようにして降参した王義慈を捕まえて行かれる帰った。

丁方が百済を滅亡させて獅子星入口にチン・ヨンウルとして新羅を打とうとする陰謀を整えるや新羅王がこれを知って色々な臣下に対策を尋ねると多米という臣下が申し上げることを“私たちの民を偽り百済の人で整えて害しようと思いそうだったから,党が必ず攻撃することとかこの時を機会を利用して戦うならば思い通りできるでしょう。

”ハニ,維新がこの言葉通り追うことを求めると王が言うことを“党軍(郡)は私たちのためで敵を滅亡させたがかえって彼らと戦ってなるだろうか? ”ハニ維新が言うことを“犬はその主人を恐れるが主人が私の足を踏めばかむはずなのに,どうして為替危機に会って,自ら救済(駆除)することができないことがありますか?”した。 党の人々がスパイを通じて,新羅で備えていることを知ってついに止めた….

丁方が帰って義慈などを帝に謁見させると帝は則天門にひいては捕虜を受けて彼らを叱責しては許してくれた。 そして丁方に(早い)達することを,“どうして,この時を機会を利用して,新羅を打たなかったか?”ハニ丁方が答えることを,“その賃金は善良で,民を愛してその臣下は忠誠にあふれて,賃金をよく仕えて,下の人は目上の人仕えることを子弟(自制)が父兄を護衛することのようにハニ,国はたとえ小さいが企てることはできなかったです。”した。

上の事実を見るならば党が出兵をした目的が百済だけを征服するところにあったのではなく新羅まで征服する目的を持っていたことがあらわれている。 新羅側でもそのような事態が発生したのを予測して備えたことを分かることができる。 このような事実は三国史記や三国遺事にはなくてただ凍死(同社,動詞)綱目だけで見られる。

凍死(同社,動詞)綱目には同じ年11月に党が桂ピラ力(契〓何力)とソ・ジョンバンなどを送って,道を分けて,高句麗を打ったと,661年(党高宗(コジョン)龍きちんと元年) 8月に党のソ・ジョンバンが高句麗軍事をペガン(〓江)で大きく撃破して,麻邑(マウプ)産(山)を奪っていよいよ平壌(ピョンヤン)を包囲した。 同じ年12月に新羅でソ・ジョンバンに兵糧を伝えられた事実は三国史記の記録と同じだ。

662年(党龍きちんと2年) 2月に平壌(ピョンヤン)の包囲を解いて帰った。 丁方は養殖がつくして軍事が疲れたし,また大きい目に会って帰ろうとしたが帰ることはできなかったが,この時に達して,養殖を得て,まもなく帰った。 前後の行軍に皆大きい功績を立てることができなくて退いた。 以上が凍死(同社,動詞)綱目で探してみたソ・ジョンバンに関する記録だ。 ここでもソ・ジョンバンが662年(龍きちんと2年)に帰った後にまた高句麗全域に出てきたという記録は探せない。

考慮の時の入れ墨イ・ギュボ(李奎報:1168~1241)の東国李相国集にのせられている祭蘇定方将軍文中には次の通り記録している。 “大著外国が中国に服従しないのか古いので太宗が万国を服従させてムングェを統一しようとして将軍にとって軍事を率いて私たちの高句麗を打とうとしたが,将軍は不幸にも追記(〓騎)をわが国に留まったままミョンにチェさえも西の方に帰ることができなかったので遺祠がここにあることになったのだ。”と書いている。 この祭文で見るならばソ・ジョンバンは我が国で死んだことが明白だ。

私たちは前で中国側の記録と我が方の記録を見回してみた。 中国の司書らという(のは)いつも中華思想に透徹して,自分たちに不利で恥になる事実は熱心に縮小して記録しないクセがある。 言ってみれば唐太宗のアンシ城敗戦のようなものだ。 そうだとは一つソ・ジョンバンの当校殺害説にはいくつかの疑問が残る。

最初に,三国遺事でソ・ジョンバンが死んだという総長元年(総章元年:668年)は唐書でソ・ジョンバンが死んだということはボン2年(乾封2年:667)と1年の差があって668年は高句麗が滅亡した年だ. ソ・ジョンバンが667年に死んだとすれば三国遺事で話す「すでに高句麗と百済を打って,また新羅を打とうとする下心で…」と比較するならば高句麗はソ・ジョンバンが死んだ1年後に滅びたし,

二番目,唐書にはソ・ジョンバンの死んだ年齢が76才といったので生きたと仮定するといっても77才の年齢で戦場に残っていたと見るのが難しくて,三番目,668年の高句麗全域の総指揮観は李勣であったから百済征伐の隊長軍(郡)を過ごした77才の老将軍が移籍やユイングェ・ソルイングィなどの紙部下に入ることもできなくて,四番目,当校は当時でボア新羅の内地といえるのにこちら当校までくることはできなくてどこにも党軍(郡)が百済や高句麗土地外の新羅境内に来た記録がない。

そしてこの時はまだ百済の各地で残存勢力らが頑強に抵抗中であり高句麗苦土で同じ状況なのに果たして党軍(郡)が新羅の内地まで進出できる余力があったのかも疑問が残る。 党で百済に踊る風変わりな時にシルラマジョも征服しようとする下心があったという事実は凍死(同社,動詞)綱目でみた記録と同じだと見られて,ソ・ジョンバンは新羅を征服できないことを知ってこれを実行でなくて帰って,唐太宗に事実通り報告をしたことを見る。 その翌年高句麗展でも功績を立てることができなくて帰った。

しかし新・旧唐書に他の人物らとは違ってソ・ジョンバン死亡に関する場所,一時がなくて,唐調整でも重臣らのあいだに重い沈黙が流れて事後の優遇も皇帝が直接出るなどを見る時,彼の殺害説と関連になったことではないか? 私たちの記録のイ・ギュボの祭文がない事実を使ったと見ることができなくてソ・ジョンバンの遺祠が我が国にあったことを見る時,ソ・ジョンバン当校殺害説の事実の有無を分けること大切にしてはより多い研究が成されなければならないだろうと見る。





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