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古代史の資料集です。
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公州(王女)公山城(コンサンソン)

指定:史跡 第12号


種類:性(酸性)

住所:忠清南道(チュンチョンナムド),公州市(コンジュシ),金城洞(クムソンドン),山城洞(サンソンドン)

時代:三国時代(百済)酸性寺跡碑,英恩師,硯池,イム類各地,軍窓(ウィンドウ)紙,同西門跡地,推定王宮紙,マナルジ,暗門紙などが残っている。

遺跡内容

公山城(コンサンソン)は金城洞(クムソンドン),山城洞(サンソンドン)にまたがる共産(公算)に築造された古代城郭で買った全体が城郭および関連施設で形成されている。 熊津(ウンジン)性,双手酸性,共産(公算)酸性,公州(王女)酸性などと呼ばれる公山城(コンサンソン)は1936年に史的(私的)に指定されて,保護されてきて1985年にこれをまた史跡(私的)提供院で指定して,開発が進行中だ。
特に1980年から1993年まで続いた性内の遺跡発掘調査と浄化・整備は公山城(コンサンソン)の歴史的チェ面目(容貌)を一新していたりもする。 百済時代には熊津(ウンジン)性で公州(王女)を守るための百済の代表的な古代城郭だった。 文週王元年(475)閑散性でここで首都を移して,サムグン王,東城(トンソン)王,武寧王を経て,聖王16年(538)に付与に移す時まで64年間王道を守った。 北で金剛が流れる海抜110mの稜線に位置する天然のこの頃として東西に約800m,南北で約400m程度の長方形を成し遂げている。 稜線と渓谷について積んだポゴキョンイミョ,本来は土星だったが朝鮮先祖,人造時代に大部分現在のような石聖で改築された。 城郭の全長は2.660mで外姓を除けば2.193mとなる。 誠意面積は約21万平方メートルで,現在の城壁は高さ約2.5m,幅約3mで大部分が保守された。 癇癪を起こして,遺跡ではチン乱れ,コンブンヌ,双樹亭,名局三章費,双手酸性寺跡碑,英恩師,硯池,イム類各地,軍窓(ウィンドウ)紙,同西門跡地,推定王宮紙,マナルジ,暗門紙などが残っている。


公州(王女)松山里(ソンサンニ)6号電蓄分

指定:史跡 第13号


種類:古墳(三国時代古墳)

住所:忠清南道(チュンチョンナムド),公州市(コンジュシ),熊津洞(ウンジンドン)

時代:三国時代(百済)

遺跡内容

公州市(コンジュシ),熊津洞(ウンジンドン),松山里(ソンサンニ)古墳群内に位置して,熊津(ウンジン)首都期(475~538)百済時代に作られたこの古墳は現実と現実に入るところの沿道を皆レンガで積んで,現実4壁に防衛を示す新人サ信徒を描いたトンネル型の壁画電蓄分だ。
現実は南北が長い長方形平面で同棲幅224㎝,長さ370㎝の規模になるようにして,底で天井の中央地点までの高さは313㎝だ。
沿道は南壁の中に走った。 全長230㎝,幅は80㎝~110㎝,高さは132㎝~149㎝だ。
現実底には同壁の側に一つの木棺受け台が設置されたし,現実入口で南側では長さ(道が)約20mの排水路が施設されている。
現実と沿道を築造したレンガらはそれぞれ彼使われた位置につりあうように大きさや形が多様にさせられたことなのに,内側とあらわれる面には汚水前形,菱形などの色々な先紋を入れた。 そして同書癖の各々三ヶ所と北壁1ヶ所には灯皿を置いたトン感が用意されていて,トン感上(胃)には創痍設置された。 壁面に絵を描く部門だけ泥を塗って,彩色で描いた壁画は同壁に青龍,書癖に白虎,. 北壁に玄武,南壁に朱雀と朱雀左右に太陽と月を描いたことでも今は色あせて,よく見られない。 沿道部は現実とは違って彩色が形成されていない。
また電蓄分発見当時すでに全壁の内側,すなわち沿道の天井がすでに破壊,盗掘された状態だったので古墳内で出土した遺物はない。




大田(テジョン)キョンも酸性(犬頭山城)

住所:大田(テジョン)広域市,東欧,孝平洞(ヒョピョンドン)買った83(犬頭産(山))


指定:記念物20号

時代:三国時代(百済)

種類:性(酸性)

遺跡内容

鶏足山城で東南方向で1.3kmぐらい離れている標高363mの(犬頭産(山))の首脳(頂上,正常)部にテムェシクでだまされた石垣酸性だ。
この酸性の周囲は280m程度で自然岩石を利用して,雑石で構築したが南壁の一部を除いては城壁の大部分が崩れ落ちて,現在はその輪郭線だけを確認することができる。 城内(ソンネ)東側の部分には将台址と推定される所があって文席が跡だけ残っていて楼址などは探せない。
軟質と更迭の平行線文(門)と格子門の土器便が発見されている。 1991年7月10日指定.



大田(テジョン)桂族酸性(鶏足山城)

住所:大田(テジョン)広域市,大徳区(テドック),長洞(チャンドン)洞買った85他10必至(鷄足山(ケジョクサン)紙ボン)



指定:史跡(私的)355号

時代:三国時代(百済)

種類:性(酸性)

遺跡内容

標高423.6mの鷄足山(ケジョクサン)で伸びた420mの支峯の算定にあるテムェシクで性周囲は約1,000mで城体は内托工法によって,自然な釈義外面を合わせて,築造したが,この酸性の東側山すそを横切って,築造された同壁の200m程度は内外夾築一部門が残っているのに現在内壁とは3.4m,外壁とは7mであり,城壁の上部幅3.7mだ。
現在原形をよく保存している北壁の高さは10.5mに達してこの北壁に隆起した石塁の上部幅は4.2mだ。
原形に近く残っている所は高さが8m,階数は70段であり,城壁の石垣幅は約3.9mだ。 西南壁の城壁とは6.8mに達した。
この酸性の聖体を構築する公法(工法)において小さい某積むことを基本としているが横積むことと縦積むことを交差路築造する公法(工法)を併行しており平たい自然なソクを使っている点などが報恩三年山城の構築公法(工法)と軌を共にしているといえると,百済酸性として特異な面を見せていてする。 この酸性で確認できる門址は同壁線上に水口址があったと判断されるがその構造物は確認されなかった。
首脳(頂上,正常)部で同壁に降りて行く傾斜面に上で流れておりる水を塀誰何で使うように施設された井址があって直径1.9mの原形で4段-5段の石材で構築していた。 また将台址と推測される所と平地に百済時代の土器便,ワピョンをよく見られる点から推測して,建物紙があったことと推測される。 城内(ソンネ)では高麗時代の魚骨文(門)ワピョン(魚骨紋瓦片)と朝鮮時代の磁器片もたまに見ることができて築城以後高麗時代を経て,朝鮮時代までもこの酸性がずっと主要視されたものとみられる。 鷄足(ケジョク)山城は百済ポクングン(百済復興軍)の主要拠点中の一つで当時の戦争現況が文献記録で生き生きと残っている重要な遺跡といえる。 1991年10月30日指定.



付与副牛酸性指定:史跡 第5号









扶余(プヨ)定林寺(チョンニムサ)跡五層石塔扶余定林寺址五層石塔

概要

忠清南道(チュンチョンナムド),扶余郡(プヨグン),扶余邑(プヨウプ)東南里扶余(プヨ)定林寺(チョンニムサ)跡にある百済末期の花崗岩石塔.
指定番号:国宝第9号指定年度:1962年12月20日所在地:忠南(チュンナム)扶余郡(プヨグン),扶余邑(プヨウプ)東南リ時代:百済末期大きさ:高さ8.33m種類:石塔




内容


1962年12月20日国宝第9号と指定された。 よく百済五層石塔ともする。 花崗岩になったし,高さは8.33mだ。 益山(イクサン)の弥勒寺(ミルクサ)跡石塔(国宝第11号)と共に2機だけ残っている百済時代の石塔だ。

狭くて浅い断層基壇,四角形隅柱に見えるエンタシスの手法,薄くて広い各層屋蓋石の形態,屋蓋石各転角に現れた反転などが木造塔婆の構造と似ていて,またこのような点が特徴だ。

第1塔身4面には唐の将軍蘇定方が百済を平定した後に刻んだ紀功文があって,俗称'平済塔'と呼ばれたりもした。

各部で見せてくれる特異な養殖は韓国石塔養殖の派閥を確立させるのに大変重要なのだ。 細部手法は盲目的な木造様式の模倣で脱皮した整頓された形態の洗練されて創意的な造形であり,全体が荘重で明快で,格調高い気品を漂って,後世に模倣品がたくさん出た。


瑞山(ソサン)磨崖三尊仏像瑞山磨崖三尊仏像

概要

忠清南道(チュンチョンナムド),瑞山市(ソサンシ),雲山面(ウンサンミョン)ヨン・ヒョンリにいる百済末期の花崗岩仏像.
指定番号:国宝第84号指定年度:1962年12月20日所在地:忠南(チュンナム),瑞山市(ソサンシ),雲山面(ウンサンミョン)ヨン・ヒョンリ時代:百済大きさ:高さ本尊如来上2.8m,菩薩立像1.7m,半跏像1.66m種類:仏像




内容


1962年12月20日国宝第84号と指定された。 高さは本尊如来上2.8m,菩薩立像1.7m. 半跏像1.66mだ。 忠清南道(チュンチョンナムド),瑞山市(ソサンシ),雲山面(ウンサンミョン),カヤ山渓谷の層岩絶壁に巨大な如来立像を中心に右側には菩薩立像,左側には半跏思惟像が彫刻されている。

如来立像は素髪ある頭上,豊満な面相を特徴として厚い法衣が足の甲まで覆われていて足の下には簡略な単弁蓮華が陰刻されたし,光背は補注型トグァン(宝珠形頭光)の単弁軟化が陽刻されている。 右側の菩薩立像は頭に三山冠を使ったし面相は若干長い方であり,上半身は裸形に下裳は長く増えている。 足の下には二重の単弁複蓮が陽刻されていて,光背は補注型トグァンだ。 左側の半跏像は三山(サムサン)観を使ったし上半身はナ型であり,両腕は損傷した。 川上は非常に薄くて,広く横に広がって,足の甲まで覆ったし,光背は補注型トグァンだ。

この仏像は三尊形式としては異例的なこととして,中国の南北朝時代末期の斉周様式をのぞくことができる。 あたたかく穏やかな組閣(彫刻)手法,半跏像の配置など当代信仰の一面をのぞくことができるだけでなく,石仏の最も優美な例だ


弥勒寺(ミルクサ)跡石塔弥勒寺址石塔

概要

全羅北道(チョルラブクト),益山市(イクサンシ)金馬面箕陽里弥勒寺(ミルクサ)にある百済末期の花崗岩石塔.
指定番号:国宝第11号指定研も:1962年12月20日所長(訴状,小腸):弥勒寺(ミルクサ)所在地:全北(チョンブク),益山市(イクサンシ)金馬面箕陽里時代:600~640年推定(百済末期)大きさ:高さ14.24m種類:石塔




内容

1962年12月20日国宝第11号と指定された。 高さ14.24m. 四角形の多層石塔だったが,西南の部分は崩れて北東側6階まで残っている。 初め層塔身は赦免が3間ずつであり,そのチュンアンカンは内部と通じるように四方に文があって,塔中(案)の中央には四角形の大きな擦柱が置かれている。 各面にはエンタシス手法を使った角張った柱をたてたし,その上に平枋・昌枋を組んだし,また二供養式(〓蛇様式)を模倣した3段の支えで屋蓋を支えた。 2階から塔身が(薄くなる)浅くなって屋蓋石は初め層と同じ手法で表現した。

この石塔は各部分が小さい石材で構成されたし,その架構手法も木造建物を模倣するために石塔以前に木塔を先にたてたという事実を証明する見ることで,韓国石塔様式の祈願が分かる資料となる。 養殖上で見る時,現存する石塔中で建設連帯が最も古くなって規模も本来7階石塔で推定するならば20m内外の巨大な塔であっただろう。 建設連帯は百済末期の武王の時の600~640年で見る見解が最も有力だ。 日帝強制占領期間の時,崩壊が憂慮されるとコンクリートを塗っておいてき損が激しい。

2001年10月,総工事費80億ウォンを入れて,解体・補修作業に入って,2007年完成する予定だ。

百済金銅竜鳳蓬莱山(ポンネサン)香炉百済金銅龍鳳蓬莱山香炉

概要

7世紀始め百済の金銅香炉.
時代:7世紀始め大きさ:全体高さ64cm,直径20cm種類:香炉




内容


全体高さ64cm,直径20cmだ。 1993年付与陵山里古墳群で出土した。 鳳凰ふた装飾,蓬莱山(ポンネサン)が陽刻されたふた,蓮の花びらで装飾された胴,ヨン支えの4ヶの部分に分けられる。

ふたの取っ手の上にある鳳凰は鳥の尾をあげて翼をぱっと開いており,その下では5人の楽士がまいていて,また下では74ヶの山が重なっている。

胴には優雅で精巧なレンゲ紋が刻んでおり,一匹のヨンイ(受ける)着る器底中心に付けてからだをねじって降り立って,支えを成し遂げている。 これは中国漢国の時から作られた博山香炉の形式を継承したのだ。

パク山香炉はたいてい海を象徴するという承盤の上に一ヶの橋(脚)を持って,その上に重なった峰がある胴体を持った香炉として神仙思想が造形的背景になったとする。 したがってこの香炉にも神仙思想が濃厚に反映されたことが分かって,登場する人物らは新鮮に,そして動物たちも現実世界の動物というよりは神秘の理想郷に住んでいるという想像の動物たちで見られる。

また胴がヨンつぼみ形なところから蓮華化生死傷(史上,思想)をのぞくことができる。 軟化化生は極楽世界のレンゲで万物が神秘に誕生するという仏教の生成観で,この香炉でのレンゲもふたの山を誕生させている。 これは74ヶの山の稜線枠ごとに加えられたピックム某嬢の火炎紋で知ることが出来る。 火炎紋は仏教の軟化化生の気を意味するためだ。 またこの軟化化生観は龍とレンゲの関係でも成り立つ。 すなわち,この香炉でヨンウン海の目出度い獣として陰の世界を現わすこと以外に仏教的な観念を含んでいる。 ヨンイ吐き出す育てる仏教の軟化化生の気として解釈して,表現したと見られる。 すなわち,用意口で吐いた気はレンゲで吐いて,この香炉の胴で化生されることだ。

この香炉のまた他の造形的な背景は陰陽説だ。 音に該当する下から手中動物の精華で龍を登場させて,その上にレンゲの上に生成された地上(紙上)の仙界を現わした。 そちらには多様な動物と楽士をはじめとする新鮮が配置されて,首脳(頂上,正常)には鳳凰を配置したが鳳凰はまもなく量の浄水(整数)となる。 そして手中生物だけでなく地上(紙上)の新鮮と動物などが混在されている胴は香炉でその高さが中間部位であるように陰と陽が交わる中間仙界地帯であることを知ることが出来る。 ここに5人の楽士線のと5ヶの饗宴穴を二重で出したこと等は陰陽説と結びついて現れた五行説の反映で見られる。

一方この香炉のてっぺんで翼をぱっと開いている鳳凰は昔から音楽と踊りを伴うといって,これを証明でもするように真下で5匹のオシドリが鳳凰を眺めており仙界の楽士らも鳳凰をむかえて,音楽を演奏している。 山中の神仙たちは音楽と共に瞑想に浸ったり,釣って髪を洗ったり,馬に乗って狩猟を楽しんだりもする。 この他にもこの香炉には6ヶ所の木と12ヶ所の岩,山腹を分けて出た道,山の間で流れる小川,立体的に突出して,落下する滝,釣り場になった穏やかな湖などを見られる。

香炉の対座を龍とした例は中国の漢大から現れるが,当時は用意表現が微弱で軟化化生の表現もなかった時期だ。 香炉の胴をレンゲ形で構成した形態は中国の南北朝時代の400年ごろから登場しているがこの香炉のように高度(孤島)に考案された軟化化生の表現や蓬莱山(ポンネサン)で展開する多様な人物,動物などの描写は探してみるのが難しい。 したがってこの香炉は中国香炉の形式に従ったが造形性や絵画的な構図は中国を跳び越える芸術的感覚と独創性を発揮した代表的な百済美術品だ

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