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古代史の資料集です。
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14.鎮営将鎮営将は1627年(人造5)各道の地方(脂肪)軍隊を管轄するために設置したチン・ヨンウイ長官を示すのに別名令状または鎮将ともする。
鎮営将は正3品堂上職で八道に46人と強化部の鎮撫営に5人があった。 江原道(カンウォンド)には3人で春川(チュンチョン),江陵(カンヌン),三陟(サムチョク)に各々1人ずつあった。 これらは中央の総ユング庁,守禦庁,鎮撫営などと各道の監営(カミョン)兵営に所属して,地方(脂肪)軍隊を統率した。

令状節目によれば鎮営将は必ず堂上官以上で抽出するようにしたが,時には文官や音観が選抜される場合もあって,軍兵を統率するのにたけていることができないだろうか心配で,極めて厳選するようにした。
鎮営将の任期は2年だった。 合わせて鎮営将は絶対に任期前に他の職責に移ることが許諾されなかったけれど,令状の職責が苦役であることを勘案して,後で令状の任期が十五月で縮小される措置が取られる。

鎮営将は任務が重大なだけ権限も強かった。
鎮営将は10月半月以後から1月大晦日以前まで各村を巡歴して,三回軍事を訓練させて,年末には監査(感謝)と病死(兵士)が一緒に集まった中で五陣営が共同で一度真法を習うようにした。
鎮営将は普段には命令が設置されたジングァンに留まっていて農閑期に所属各村を巡歴して,軍兵に対する訓練や武器または服装を点検した。

一方鎮営将が巡歴する時,軍事訓練や群舞(軍務)と関連した長官および受領(首領)の誤りを鎮営将が処罰して上部に報告する権限があった。 すなわち部下の長官が誤りを犯せば令状が処罰して,受領(首領)すなわち三陟(サムチョク)の場合三渉府士が過ちを犯した場合には江原道(カンウォンド)の監査(感謝)と病死(兵士)に見たりして処理するようにした。 暁鐘対以後には鎮営将の権限がより一層強大になる。

すなわち受領(首領)が鎮営将と高くて低さを比較したりまたは令状の命令を破ったり接待などを疎かにすれば鎮営将は監査(感謝)と病死(兵士)はもちろんで,中央の備辺司と兵曹に報告するようにしたし,群舞(軍務)に関する重大な誤りを受領(首領)が犯した場合戒文するようにしたほどだ。 したがってこの時代には地方(脂肪)受領(首領)と鎮営将の葛藤がそのどの時より激しかった。

概して鎮営将が人造の時設置されて廃止されて1657年(暁鐘8)に復旧した以後これに対する廃止議論が大きく2種類の側面で起きたが,財政問題と迷惑問題がまさにそれだ。 ヨンドン地域のようなところは令状がなくて,軍政が粗末だがそれ位の物力がなくて,設置できないほどであった。 鎮営将をはじめとする所属軍人らの給与と食糧経常経費を各地方(脂肪)都護府で負担するようになっているが三陟(サムチョク)部の場合その財政をまったく耐えられることはできない状況だった。 このように令状新設にともなう最も大きい問題は財政窮乏だった。

次に鎮営将の民間に対する弊害が深刻だから廃止しなければならないということだった。 たいていこれら令状が赴任する時にはジングァンの借金が山のようで,これを補充するためには結局住民たちの財布を払いのけなければならない弊害が連続した。 ない罪を作り出しておいた後金を受け取って解くなどこれらの威勢が高まって地方(脂肪)受領(首領)らがむしろ萎縮する状況にまでなることになったし,年齢幼い無関係が才能一つだけで職任を跳び越えて,昇進するなど位階秩序がきわめて混雑した。

とにかく鎮営将はその任期を満たしたら受領(首領)またはコン数に進めたのに,任期の間は軍事訓練および軍備拡充に忠実でなければならなかった。 たいてい各道の監査(感謝)病死(兵士)が兵丁を専門担当したのに比べて,鎮営将は訓練軍旗(軍規)湿疹などの実務を担当した。 この他に各チンに散在されている司僕寺管轄の牧場に対する監督業務を兼ねたりもした。 このような鎮営将制度は1894年高宗(コジョン)31年まで存続したが,三陟(サムチョク)布陣もこの時まで東海岸海上防衛司令部としての役割を遂行した。
※参考資料-[民族文化大百科事典]第21冊,[三陟市(サムチョクシ)紙]

朝鮮初期期のクン司祭も<三兆元年(1455)と3年(1457)に改革した軍事組織>・江原道(カンウォンド)軍事組織;道内の陸軍を統率する指揮官を兵馬節度使といって,観察使が兼職,その所在地の原州(ウォンジュ)が主鎮・主震の下に3ヶのジングァンで編成;江陵(カンヌン)珍菓はウォン・ジュジン観会両陣観,ジングァンの親分を節製使といって,その地域の受領(首領)が兼職.
・各ジングァンはまた中左右翼で編成・江陵(カンヌン)ジングァンの場合江陵(カンルン)大都護府を中イク,襄陽(ヤンヤン)干城(カンソン)古城(大声)通川(トンチョン)の猪津(チェジン)を左翼,三陟(サムチョク),蔚珍(ウルチン)評解義猪津(チェジン)を右翼といって,受領(首領)が兼職;郡守級以上の大きい村の受領(首領)は同僉節制使・県令以下の受領(首領)は節製都尉と呼んだこと


15.許穆組では中期三渉府士を歴任したホ木船生は寝る文簿または画報,ホは未遂またはテリョン老人といったが先祖28年の1595年漢陽チャンソン方で県監教義(校医)長男に生まれた。 幼いころから聡明で学業に専念して,早く大きい人物に成長することができたのに1626年人造の生母ケウン宮ク氏の服喪問題と関連して過去を見ることはできない停車の罰を受けることになって,これによって学問にだけ専念することになった。

在野の指導者であったホ木船生が中央政界で著しい活躍を始めたことは暁鐘賃金が亡くなって玄宗賃金が即位した1660年司憲府将令(本当に4中)で登用されてからだ。 この時暁鐘賃金の継母の趙大妃が数年の間喪に服しなければならないかという服喪問題でソン・シヨルと対立することになるのに,ホ首をはじめとする南人らは3年正月を主張してソン・シヨルを筆頭としたソインらは満1年正月を主張した。

これは単純な服喪問題でなく玄宗賃金の王統の正当性と関連になった非常に敏感な問題であった。 玄宗は暁鐘の次男なのに兄のソヒョン跡継ぎが死んで,上の子の代わりに王位を継承したので暁鐘を長男と認定すれば趙大妃の服喪は3年であってこそして,そうでなければ満1年だ。 ところで結論は当時の法典の経国大典により長男でも二番目以下でもそのお母さんは皆満1年喪に服しなければならないということだった。

結局ソン・シヨルをはじめとするソインらの主張と同じ決定が下されて,このような複製論争是非で政界が騒がしくなると玄宗賃金はホ首を三渉府士に任命(左遷)したのだ。
三渉府士で赴任したホ首は郷約を作って,住民教化に努める一方脊柱紙編纂,脊柱東海(日本海)費建設など多くの政治功績を残すことになる。

そうするうちに1674年暁鐘王妃が死ぬやまた趙大妃の服喪問題がまた提起されるのに,経国大典には長男の嫁の上の場合姑は万1年,二番目嫁以下は9ヶ月に規定された。 この時調整の中心をなしたソン・シヨルとソインらは暁鐘王妃を長男の嫁と認定しなかったので9ヶ月福を主張したが玄宗賃金はそれが不当だと考えられて,万1年福で直す。

これでソン・シヨルとソインらは失脚して南人らの執権と一緒にホ首は吏曹参判,吏曹判書を経て,右議政に昇進されて,過去を経ないで唯一大臣に上がった。
右議政で再任(在任)時島流し中だったソン・シヨルに対する処罰問題を置いて領議政ホジョクと対立して,これによって南人は玉ネギで分かれることになるのに,ホジョクはソン・シヨルの処罰を軽くしようというタク・ナム,ホ首は苛酷な処罰を主張するチョンナムの親分になった。

1678年位を捨てて帰郷したし1680年ごろシンデ黜陟で南人が失脚してソインが執権するや官爵を削奪されて故郷で著述と後進陽性(養成)に専念して1682年死んだ。
ホ木船生は絵と文字,文章に皆優れたし,文字は特に伝書に優れて,東方第1人者という賛辞を受けた。 作品では脊柱東海(日本海)費とヨンサンイウォニクピムン. イ・ソンジュン表文があって,絵では墨竹図が伝えて。 著書では[凍死(同社,動詞)] [未遂奇言]などがある。

1688年官爵が回復して,1691年彼の神位を奉安する賜額書院で米江西(カンソ)院が漂白軍(郡)にたてるようになったし,羅州(ナジュ)の米天瑞院. 昌原(チャンウォン)の会員誓願にも祭事なった。

諡号は門庭.
※参考資料:[三陟市(サムチョクシ)紙],[未遂ホ首の書道研究](三陟(サムチョク)文化院,1994),[失職文化]第3集記録に現れたホ首の姿と人柄・清秀な姿に細長いからだ,凹んでいた額に長い眉毛...恬淡しながらも広大だ....痩せた顔長い眉毛にスマートで優れていてみるので(に)新鮮同じだったし,対すれば意志の強くてさっぱりしているおもむきがあったので要するに世の中に珍しい方である(奇言)・昔の人の風貌と白い毛が混ざった眉毛で鶴と同じ姿があった(粛宗実録)・権力にへつらわないで正しさを守って揺れないこともただホ先生がそうしたし,妥当さを報告書進んで兆しを識別してはまもなく退いてきて終始(本末)が法度があるようにすることもただホ先生がそうした。

...初夜にある時には算数に趣味を付けて,膝を積み重ねて座って,先王らの道(ド)を歌って将来人生を終えるようにしたし,賃金が礼を尽くして,招へいすることに(狂う)及ぼしては何度も遠慮してひいては美しい計略を賃金に話すものの,賃金と民を孝順時のように作る考えが切実だった(城壕利益,神道碑明記)未遂ホ首の学士的位置ホ首は上に(で)退渓イ・ファンの学を受け継いで下へ城壕利益の学を発展させた方。 嶺南(ヨンナム)の性理学と近畿の実学に掛け橋自適役割をした方。


16.三陟(サムチョク)義兵の抗日闘争旧韓末乙未事変と断髪令など制度の変革と日帝侵略に対抗して,チョック婿正義民族的死傷(史上,思想)と国権守護の救国的行動綱領で全国で義兵が決起して,抗争したが三陟(サムチョク)でも創意長キム・ホン卿(倡義将金憲卿)と西暦(書記)キム・タロ(書記金達鎬)等ユリムを中心に義兵が組織されて,抗日前を展開した。 三陟(サムチョク)の義兵は関東義兵と一緒に原産地駅まで上がって,日本軍を攻撃したし,ヨンドン義兵の最後の戦闘であった三陟(サムチョク)戦闘にも参戦した。

関東義兵長閔龍鎬は1895年12月3日原州(ウォンジュ),新林(シルリム)で決起して,寧越(ヨンウォル),平昌(ピョンチャン)精選で義兵を募集して12月16日江陵(カンヌン)に入ってきて,警武官高俊錫を処刑すると観察使二位(李〓)等が麟蹄(インジェ)の山中に逃げてしまったし,ミン・ヨンホは江陵(カンヌン)に関東窓(ウィンドウ)意図病巣(都兵所)を設置して,関東地方(脂肪)を掌握することになった。

この時ミン・ヨンホと江陵(カンヌン)創意長沈鴻沢は召募使3人,前後営2人,無事. 砲軍100人余りを率いて三陟(サムチョク)にきて,10余日間留まって,三陟(サムチョク)創意長キム・ホン卿,西暦(書記)キム・タロ,先頭朱明昇と結集した。
かくしてまず元山にある日本の勢力を攻撃することにして1896年正月に江陵(カンヌン)を出発して,2月6日安辺(アンビョン)の新平(シンピョン)に到着する。 ところで戦闘準備をしながら進撃している間天地を分別できなく吹雪が勢いよく固め打ちする中で日本軍の襲撃を受けることになって2月21日義兵らはしかたなく江陵(カンヌン)で後退した。

このように虚しく原産攻撃に失敗して戦列を整備している頃観察使徐廷圭が4月12日ソウルから降りた金鴻権中隊長の官軍を前面に出して,反撃してきた。 初めには大関嶺(テグァルリョン)の下大公山城(コンサンソン)で戦って,19人をひきつけたが多くの官軍がずっと反撃してくるので臨界百福令(領),北評を経て,三陟(サムチョク)で後退した。 義兵らは三陟(サムチョク)で気まぐれな鬱陵島(ウルルンド)視察社廉錫夏を先に処断してこれから差しせまってくる大田(テジョン)のために三陟(サムチョク)邑性を中心に陣を敷いた。

京軍の攻撃を備えるために三陟(サムチョク)義兵をはじめとする関東創意軍(郡)は最後の砦の三陟(サムチョク)性に総集結して,日帝の手先京軍との大血戦を準備していた。 ミン・ヨンホ隊長は同じ民族どうし戦うことができなくて何度も戦わないことを哀願したがついに聞かなくて結局一代(一帯)血戦を払うことになった。

三陟(サムチョク)に集結した関東義兵は3ヶ地域で分けて陣を敷いた。 村の後の行く山側ではミン隊長を始めとして,崔中峰,姜禹瑞,李永燦,全致雲,シン・ムソプなどがホを波高待ち伏せしていたし,村性には先頭金道鉉と閔東植の部隊が潜伏したし,竹西楼(チュクソル)東側にはキム・ホン卿キム・タロ主名勝など三陟(サムチョク)義兵らが陣を敷いていた。

この時に京軍は何の疑いもなしで市内に入ってきたし,待ち伏せしていた義兵らはいっせいに火をつけるとこれで三陟(サムチョク)大田(テジョン)別名行く山性の先日が始まったのだ。 1896年4月19日午前6時で午後6時まで一日中の血戦だった。

行く山とその北側山峰の間のアール開放材は双方ともの死傷者が多くて,火の海になったし,村性抱いた火の海になった。 義兵らは弾丸が落ちて,五十川(オシプチョン)で後退したし京軍らはこの機会をのがさないように性中に入ってきて火を付けた。 花火は天を突き刺すよう燃え上がった。 ミン隊長は義兵らを率いて五十川(オシプチョン)について桶里(トンニ)峠を越えて,精選に行って,キム・ドヒョンは彼の故郷の栄養に帰った。

三陟(サムチョク)創意長と西暦(書記)は捕まって,官軍に問責にあった後王の詔勅によって解放されてきたが官軍は北評で行って創意長キム・ホン卿の家を燃やしてしまった。 三陟(サムチョク)の大田(テジョン)は結局義兵軍(郡)が大破したが200人の官軍も50人だけ生きて,江陵(カンヌン)に帰ったので皆の敗戦といわなければならないだろう。
このようにして,三陟(サムチョク)血戦は幕を下ろしたが外勢を追い出そうと血流した義兵らの義に徹した精神は永遠に私たちの胸に残っているだろう。

※参考資料:[三渉郡(サムチョクグン)紙][三陟市(サムチョクシ)紙]

韓末の義兵活動姑従43年(1906) 4月義兵長イガン年・皇后頃が境内に入ってきて,銃砲および養殖をおさめていった。 次の年の1907年10月30日未老面(ミロミョン)鼎洞で義兵500人が倭兵と接戦,11月18日金生山が率いる義兵対600人余りが荒地で倭兵と接戦,キム生産が逮捕された。 11月26日には辺鶴基が率いる義兵対約120人余りが三渉郡(サムチョクグン)般生野で接戦した(太白(テベク)の歴史)

17.イム原理測量士にしても食糧不足に苦しんでいた日本は植民地朝鮮の土地を暴力的に収奪して,日本農民を移住させて,農業権を掌握するために1910年から1918年まで全国的に土地調査事業を実施した。 日本の土地調査事業を担当した東洋拓殖会社のあくらつな収奪と農民搾取によって多くの人々が火田民に転落したり間島(カンド)地方など海外で移住することになった。

このような日帝の農村経済収奪に対し全国あちこちで農民らの抗争が続いたが江原道(カンウォンド)の場合三陟(サムチョク)イム原理の農民抗争を代表的な事件で上げられる。 三陟(サムチョク)の郷土紙と年取られた方々の考証に基づいて,イム原理林野測量士件を整理すれば次のようだ。
1913年4月にイム原理で国有林と私有林に対する警戒(境界)測量をするのに私有林を不当に国有林に編入させることがあった。 すでに大韓帝国は日本の植民統治を受けている状況であるから国有地は結局日本政府の所有や同じだったので個人所有の林野を国有地で作るのに血眼になったのだ。

そうしてこのような不当さを指摘して抗議する目的で元徳面住民5百人余りが殺到した。 イム原理金致卿の指揮で再測量を要求して決起して,数日間デモを行った。
当時三渉郡(サムチョクグン)数沈宜昇と元徳免状金東鎬が日本人測量基数(奇数,旗手,機首,騎手)花蔵を同行して民衆を説得させるためにイム原理にきたが,この時後方の山でこっそりと写真撮影する者を発見して群衆らはいきりたって,測量基数(奇数,旗手,機首,騎手)を殺せと叫んで駆せ参じて,他殺して火に焼いた。

すると日本憲兵20人余りが出動して,無差別発布(発砲)して,群衆らはいち早く解散したが3人が死んで多くのケガ人を出す惨事(参事)であった。
日帝は今後群集示威の根っ子を抜くために手本で主導者キムチ頃をはじめとして,趙正元李洛書金文植金平書など70人余りが引きずられて行って監獄の苦しみを体験することになったが咸興(ハムフン)刑務所で服役中キム平西は獄死して,残った人々は京城刑務所で移監されて,5年間服役して解放されたがひどい拷問による後遺症で苦労して皆死亡した。

この事件があった後に元徳面のユリムらは同じ言葉で奸悪な日本憲兵らの蛮行を猛烈に,糾弾して非難した。 これに慌てた日本憲兵隊は大規模民衆蜂起につながることを心配して,1913年5月儒林らの本拠地の元徳面山陽里(サンヨンリ)の山陽書院を放火して,建物は皆火に焼けてなくなって,廟庭碑だけ残ることになった。

1971年儒林らの誠意で墓情碑閣は建立したが誓願みた建物はまだ復旧できずにいると,元徳住民たちは今まで忘れることのできない事件と記憶している。 1998年4.18山羊誓願墓整備は江原道(カンウォンド)文化財資料第123号と指定された。
※参考資料:[三渉郡(サムチョクグン)紙][三陟市(サムチョクシ)紙]


1919年己未年三陟(サムチョク)地域の独立万歳デモ運動・三陟(サムチョク)の独立万歳運動は三陟(サムチョク)普通学校学生たちが起こしたのが代表的だ。 4月14日金達河が独立宣言書を入手して,沈富潤呉元模などと合意,教師金基洪の支援を受けて,翌日全校生を運動場に集めて独立宣言書朗読後独立万歳を呼んで,三陟(サムチョク)邑を振動させた。

この時校長山田は天皇の勅語を服の中に隠して,後方の山に逃げたという。 当時江原道(カンウォンド)長官の報告に176人の生徒が参加したし,江原道(カンウォンド)憲兵隊長の報告に94人を訓戒処分したというとその規模が大きかったし,全校生が呼応したものとみられる。
・三陟(サムチョク)普通学校学生たちの万歳運動に一般住民たちも刺激を受けてサムチョッキムシ始祖(詩)失職国王廟議春季戦士(戦史)日を期して,300人がデモを行おうとしたが事前に兆しを知って出動した憲兵隊によって解散した。






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