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古代史の資料集です。
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7.高麗時代と三陟(サムチョク)後三国を統一した考慮は初期には地方行政を整備できなくて新羅の制度をそのまま従う一方で地方(脂肪)には受領(首領)を派遣できなくて地域の力がある豪族らの自治に任せた。 三陟(サムチョク)地域も当時の豪族らが子房自治の形態を取ったことと考えられるのに三陟(サムチョク)を本館でする盛観すなわち三陟(サムチョク)キム氏などがその代表的な場合ということができる。

特に三陟(サムチョク)では真珠という地方別号を使っていたとのことは当時三陟(サムチョク)に強力な豪族勢力があったことを象徴的に見せることだ。 地方別号というものは指名以外にその地域に対する別号をいうことで三国時代から考慮にかけて使われたが,それは考慮が三国を統一した以後に地方(脂肪)にあった強力な豪族勢力を慰める次元で彼らの本館や封爵名を使うようにしたのだ。 三陟(サムチョク)が進駐という別号を使ったとのことは新羅語と考慮初の三陟(サムチョク)地域にそれだけ強力な豪族勢力が存在したことを表わしてくれることだ。

考慮は成宗2年(983)に(早い)達して,12首と病気馬小屋制度を用意して,初めて地方長官を派遣したし,成宗14年(995)には全国を10度で分けたが今日江原道(カンウォンド)は咸鏡南道(ハムギョンナムド)の一部を合わせて,朔方道(ド)といった。 そして道(ド)下の主要村にはト鍛練社鍛練社などを置いて治めたし,三陟(サムチョク)は三渉郡(サムチョクグン)で脊柱で昇格させて,鍛練社(全国11州に置いた地方官. 軍事的監察機関性格. 1005年までドゥーム)を置いて治めた。

玄宗9年(1018)には地方(脂肪)制度を5度養鶏で整備してその下に4都護府,8首,56郡県,28陣を置いたが嶺東(ヨンドン)地方は咸鏡南道(ハムギョンナムド)地域と合わせて,冬季になって,この時三陟(サムチョク)は脊柱で三陟(サムチョク)ヒョンで改名される。
高麗時代の君剤は中央に2軍6位があって,全国を統括したし,各道にはチュ・ヒョン君がいたし,嶺東(ヨンドン)地方の冬季には一般チュ・ヒョンより補強された軍隊が駐留していた。

三陟(サムチョク)は軍事的に非常に重要な位置を占めていただけに外敵の侵入も多かった。 三陟(サムチョク)地域の外敵の侵入は北方で契丹とモンゴルの侵入,東海岸で倭寇の侵入で二元化された。
北方から外敵の侵入は先に成宗と玄宗年間に契丹の侵入があったが三陟(サムチョク)地域では特別な戦闘がなかったことから見られる。

しかし高宗(コジョン)年間のモンゴル侵入の時には現世休暇三陟(サムチョク)住民たちと共にこの前酸性で抗戦したし,朝鮮太祖イ・ソンゲの先祖の木造吏案社も抗戦した程に戦闘が激しかった。 モンゴル軍が三陟(サムチョク)をはじめとするヨンドン地域を侵入したことは第4-5次侵入の1247-1253年だった。

一方この頃東海岸には倭寇の侵入もまた多かった。 このように東海岸を通した倭寇の侵入が多かった原因は日本内部の事情で飢えた日本人たちが多かったためであり,主侵入経路がヨンドン地域だった理由は東海岸の海流が日本で直ちにヨンドン海岸地域で流れたためだ。 倭寇の侵入は恭愍王以後強引に通そうとするのに,これらは東海岸沿岸に入ってきて,農民らを略奪するなど大きい被害をもたらせた。

このような環境の影響でこの地域の住民たちは弥勒信仰に没頭することになって,千年後の極楽世界を念願して干潟に香りを尋ねる埋香意識が広がった。 東海岸でも梅香意識が行われたが脊柱紙によれば1309年8月江陵(カンヌン)もジョン無事金泉(キムチョン)号と江陵(カンヌン)副詞薄紅数・三陟(サムチョク)顕位祖神主(州,株)など東海岸の地方官らが集まって,弥勒仏様に誓願して,評して,海岸丘に100兆・三陟(サムチョク)同盟国村物価に250兆・江陵(カンヌン),チョンドン村物価に310兆・蔚珍(ウルチン)トジョンに200兆など東海岸5ヶ所に全1,500兆のいぶきを埋めた。

一方高麗時代中・後期になれば三陟(サムチョク)地域には新しい地方(脂肪)豪族が出現する。 個性府尹を過ごして三渉郡(サムチョクグン)デクァンに冊封されたパク・ウォンギョンを始祖(詩)でする三陟(サムチョク)朴氏,木造の非人ヒョ球王侯のお父さんで上将軍だったイガン制を始祖(詩)でする三陟(サムチョク)李氏,忠烈王の時二部侍郎を過ごして三渉郡(サムチョクグン)で冊封受けた真意の耳を始祖(詩)でする三陟(サムチョク)チン氏などの豪族らが新しく位置して,三陟(サムチョク)の地方文化を一層多彩に花を咲かせることになる。

失職国王キム上(胃)翁(悉直郡王金渭翁)別名尉雄. 新羅の宗姓. 敬順王傅の孫. 御史大夫知郡事検校司農卿を経て,ウン清狂録大物常駐国チュァ丞相(銀青光禄大夫上柱国左丞相)の位を過ごした。 三韓壁上功臣と悉直君で冊封されたし,後で郡王で冊封された。

サムチョッキムシの始祖(詩).
李康済高麗時代入れ墨. 本館は三陟(サムチョク). 木造(吏案社)の妃の孝恭王后のお父さん. 位は上将軍. 三陟(サムチョク)李氏の始祖(詩).
朴元慶高麗時代入れ墨. 本館は三陟(サムチョク). 新羅速咸大君の後えい. 恭愍王の時過去に及第,権知教書正字,開城府尹司農侍事などの位を過ごす。 功労(空路)があって,三陟君大匡に冊封されて三陟(サムチョク)朴氏の先祖になる。


8.帝王韻記の著者イスンヒュイスンヒュは考慮高宗(コジョン)11年(1224)に生まれて,忠烈王26年(1300)まで生きた高麗後期の文人であり,政治家であった。
イスンヒュの字は休休であり,字号は動安居士だ。 慶山(キョンサン)加利県人にカリイシの始祖(詩)でもある。 しかし彼がカリヒョニンでになっているだけ実際にそちらにどんな縁故があるのか全く分からなくて彼の一生大部分は外家の三陟(サムチョク)の頭陀山(トゥタサン)の下駆動(亀洞;三陟市(サムチョクシ),未老面(ミロミョン)内米ローリー)で送った。 大賢利率曲が実家の江陵(カンヌン)の歴史人物のようにイスンヒュも三陟(サムチョク)の歴史人物で尊敬されている理由がここにある。

高宗(コジョン)39年(1252)イスンヒュは29才の遅れた年齢で過去に及第してお母さんがおられた三陟(サムチョク)で故郷に錦を飾ったが1253年モンゴルの第4次侵入で強盗(強度)で行く道が塞がることになって,三陟(サムチョク)のこの前酸性でモンゴル軍と対抗して戦うこともした。
この時からイスンヒュは頭陀山(トゥタサン)の下の駆動に入って,今の千恩寺(チョヌンサ)そば川辺の龍渓弁に家を作って,一生懸命農作業をしてお母さんを奉養して生きることになる。

そうするうちに彼の年齢40才なった海人1263年関東安集使で来た李深の斡旋で強化に入って,次の年キョンフンブ(江陵(カンヌン))書記でパルタルドェムロソ官界に第一歩を踏み出すことになる。 ところが彼の地方官生活はながくなかったし,すなわち中央の都兵馬録事で昇進されて,中央政界の核で急浮上する。 しかし忠烈王6年(1280)監察司の官員と共に国王の実情および国王側近人物らの専横を聞いて,10ヶ項目で諌言して免職されてしまう。

イスンヒュは免職された後また三陟(サムチョク)県の駆動に戻って,隠居して,堂号(家の名前)を陶然名の帰去来辞の一節を引用して容安堂といった。 この時彼は国史(国事)と世論に一切口を閉じようと決心して帝王韻紀と内典録を著述した。 これが帝王韻記が誕生した背景だ。 [三国遺事]と,一緒に私たちの民族を檀君の子孫と規定した史書で有名な帝王韻記が私たちの三陟(サムチョク)で三陟(サムチョク)の人物によって使われたとのことはすごい自慢だ。

帝王韻記は上下2冊1本で,商圏は中国の歴史を神話時代から元の国の興起まで7凍った告示(七言古詩) 264句で詠じておいたし,下巻は我が国の歴史(東国国王開局連帯)と高麗朝の歴史(本組国王世界連帯)で分けて,各々264区(具)1460凍ったウイ7凍った告示,152区(具)700凍ったウイ5凍った告示と記述している。
帝王韻記は民族主義史観に立って,著述したが我が国を中国と同等な位置に置いたし,檀君を私たちの民族の始祖(詩)で前に出して,私たちの民族が檀君を中心にする単一民族であることを強調したし,最初に我が国全体を“朝鮮”と指し示した。

また渤海寺を現存司書の中で最初に私たちの民族史に包容したし,韓国の文化を中国と区分される独創的で優秀な文化であることを強調した。 事大を標ぼうした当時の雰囲気でこのように中国の歴史と我が国の歴史を対等な構造の中で詠じているのは透徹した民族意識がなかったとすれば不可能だっただろう。
帝王韻記を著述して2年後1289年龍眼当たり南側に普光情(?光亭)を建設してそのそばに飄飲亭という(のは)泉を作って,精子の下知楽塘という(のは)池を施設して生きて71才なった年(1294)突然に龍眼当たりの看板を看蔵寺に変えておいてすべての財産を不可に喜捨する。

1298年チュンソン王が即位するやイスンヒュを特別に起用して,改革政治の中心勢力で活躍するようにする。 しかし国政がずっと漂流されるやイスンヒュは自身の力が微力さを認識して位から退く。
現世休暇官位を出してなじんだ駆動に戻って2年後の1300年10月,77才の年齢で多事多難だった生を終えることになる。

高麗史列伝(熱戦)イスンヒュジョ先の部分に“性分が正直で世の中に(求める)救うことがなかったし,はなはだ部署法(不法)を好んだ”と評した。 現在彼の墓が城主(星州)にあるというが確認する方法がない。 イスンヒュの息子は3兄弟なのに,最初息子の名前は林宗で背中科して,古い釜山(プサン)ランの位にあったが位を止めて故郷に戻って,お母さんを迎えたし,次男は曇昱で出家して,仏弟子の道を行ったし,三番目の息子は衍宗で背中科して,サ・ホンギュ情を経てミルチクサ兼監察大物に達した。

※参考資料:[三陟市(サムチョクシ)紙][失職文化論叢](三陟(サムチョク)郷土文化研究会,1989) [千恩寺(チョヌンサ)イスンヒュユホジバルグルチョサボゴソ](関東大学校博物館,1999)壻留婦家:妻の実家での暮らし. 高句麗-考慮-朝鮮初期(16C語-17C初廃止)座主門生制も:遅攻ことと過去合格者が一生司祭関係形成春秋社観:孔子から始まる。 王の日誌形式脱皮,作家意識反映1274年から80年間50余回にかけて,モンゴルに送る工女抽出(1回40-100人)・女官用:中流以上家庭の美貌のお嬢さん・病死(兵士)用"未亡人,孤児,逆賊の妻子,僧侶の娘など


9.竹西楼(チュクソル)の佳客(歌客)-シム・ドンノ三陟(サムチョク)シム氏の詩引き締めて竹西楼(チュクソル)の佳客(歌客)で名高かったシム・ドンノは考慮恭愍王元年(1352)に通川郡(トンチョングン)数を過ごした。 本来名前は漢,ホは信斎であり検校であった尋問数の息子だった。
シム・ドンノは考慮語チュンへワン3年(1342)お誕生日課に次席で合格して,その年秋職翰林院社. ソンギュン官学録になったし,1351年には内職に入って,ウ・チョンオンになった。

その後の恭愍王10年(1361)にはポンソン大物中叙事の地祭高という高い位に上がったがシム・ドンノは年老いていられた両親を迎えるために地方(脂肪)受領(首領)に出て行くことを望んだ程に態度に真心がこもっていたという。
江原道(カンウォンド),通川郡(トンチョングン)数を過ごして,考慮語の乱れていた情事を正そうと思ったが不如意になるや位を捨てて故郷へ降りて行けるようにしてくれと王様に懇請した。 恭愍王は何回も彼の心を戻そうと思ったが意志があまりにも固まって,やむを得ず帰郷を許諾して,その意を高く評価して“老人が東に帰る”という意で東老という名前をおろしたという。 これから激しいという(のは)名前の代わりにシム・ドンノと呼ぶことになった。

牧隠李穡が学士承旨になった時,王に次の通り申し上げた。 “シム・ドンノは神(靴)より学識が高くて,年齢も神(靴)より多くて,官職の道も先に上がったので神の職責を彼に下ろして下さい”恭愍王が異色のチョンを受け入れなかったけれど,当代留学の巨匠の異色がそういう話をしたほどならばシム・ドンノがいかなる人物なのか察してあまりあるだろう。

当時にキム・グヨンが安死になって,三陟(サムチョク)にきた時,シム・ドンノを訪ねてきて,彼が居住する家を訪問して,シム・ドンノの好人“新材”という文字を直接書いて扁額で彼の家に歩いてくれた。 このように三陟(サムチョク)に来る多くの官員らは必ずシム・ドンノを訪ねてきて国の仕事をすることに論じて詩を作ったことが分かる。

考慮忠烈王8年(1282)元の国で陳謝及第後帰ってきて,例ウィーン試乗の位にあった李球は“関東の君子は二人でシム・ドンノと衰服する”と評したがその市議内容は次のようだ。

“三陟(サムチョク)のクァルルは竹西楼(チュクソル)で/迷惑中の佳客(歌客)は心中お互いだ/今のように白髪であるのに/時と酒に依託して/暇な私のために席を施したよ”シム・ドンノは三陟(サムチョク)に住んで,毎日竹西楼(チュクソル)と年癌情を行き来して詩を書いた。 湫岩(チュアム)陵売りまくって西側に知恩ヘアムジョンは三陟(サムチョク)の海金剛(ヘグムガン)という程景色が良くて,年癌情西側新材工業が隠居したところを“シンデ感の場所”と呼ぶ。

三兆7年(1461)体察使ハン・ミョンフェはこちらに立ち寄って凌波台と名前をつけたし1530年按察社心凍ったクァンイ建立したし,1675年ソン・シヨルが年癌情表札板を残したという。 このシム・ドンノが隠居した所は今の東海市(トンヘシ),湫岩洞(チュアムドン)山のふもとなのにこちらを休山または退坪だとし1931年子孫らがその場にユ浪費をたてた。

シム・ドンノは三陟(サムチョク)で後輩の学者らを集めて,文を教えて立派な人材を養成するのに残った人生をみな捧げた。 したがって三陟(サムチョク)地方の学風を振興するのにも大きい役割をしたと見られる。 万年(晩年)には国で礼儀板書と集賢殿(チピョンジョン)制鶴をおろしたが遠慮して赴任しなかった。 また賃金は特権地位を下賜して,真珠君で封じたがついに赴任しないで算数と市(詩)を友とした。

シム氏が三陟(サムチョク)を本館でしたことはシム・ドンノの遺言(流言)に従ったことという。 彼の徳行と文章は[解凍名臣録]に収録されるほどだ。 三陟(サムチョク)の自慢の関東八景第1塁“竹西楼(チュクソル)”とシム・ドンノはこのような縁がある。
※参考資料:キム・ヨンギ,“失職国の人脈”,[失職文化]第4集,三陟(サムチョク)文化院,1993 [三陟市(サムチョクシ)紙]. [東海市(トンヘシ)社][三陟(サムチョク)の忠孝列人物](三渉郡(サムチョクグン),1994)

年癌情(年癌情)江原道(カンウォンド)有形文化財63号考慮恭愍王10年(1361)進駐軍シム・ドンノが初めて創建したが消失して,朝鮮 中宗25年(1530)漁村沈彦光が建立した。 その後の政調18年(1794)中誰何だったが規模は正面3間・側面2間超イク工業養殖の断層合掌屋根で陰陽の調和を合わせたし,原州(ウォンジュ)柱が10ヶで全面を除いた3面皆が4隻程度の壁体で立てられて開放された。 しかし現在は4面皆文を付けておいた。
特権地位:国家でその租税を功臣などの個人に書き取るように配分した村


10.龍飛御天歌(朝鮮の創業を讃美した歌)の最初龍-木造イアン思潮先王朝の建国は太祖イ・ソンゲによって,実現されたがその根拠地は木造吏案社によって成したとのことが定説になっている。 実際に朝鮮王朝時代にもそのように説明されている。
世宗(セジョン)27年(1445) 4月にクォン制,分かってから,チョン・インジなどが編纂した[龍飛御天歌]には木造吏案社から王朝の根拠地が捕えられたと記録している。

“解凍六龍がナリシャことごとに天福だから...”と詠じたがこの六龍の初めての人物がまさに木造吏案間だ。 六龍は木造吏案社(穆祖李安社)次に益鳥(翼祖李行里)賭租(度祖李椿)ファン組(桓祖李子春)太祖(太祖李成桂)太宗(太宗李芳遠)に続く。
木造吏案社が江原道(カンウォンド),三陟(サムチョク)地方と縁を結んだことは考慮高宗(コジョン)18年(1231)を前後した頃だった。 イ・ソンゲが造成王朝を開局する162年前後だ。 木造は前週で出生したし三陟(サムチョク)に移して生きてまた咸鏡道(ハムギョンド)徳源府龍珠里に移したし,また幹東に移して生きた。

木造が三陟(サムチョク)に移住することになった理由は次のようだ。 木造が前週に住む時山城別監がきて,木造が愛する寄生(芸者)と関係するや二は戦いが広がったし,前週の地主(知州;ジュウイ長官)が酸性別監と一方になって戦うことになった。 地主が調整に報告して軍事を動員して,木造を害しようとするという情報を木造はあらかじめ知って三陟(サムチョク)の活気リで移住することになる。 この時木造に従った170余号が共に移住した。

何の理由で木造が三陟(サムチョク)に移住したのかに対して多くの人々が心配しているのに三陟(サムチョク)は木造吏案社の外家地域であるためだ。
木造が初めて敷地を定めた三陟(サムチョク)の未老面(ミロミョン)弓賛える本来矢場と呼んだが後で木造が生きた場所として賃金皇子を使って皇基に変わった。

矢場は弓基を意味する所であったのに矢場-黄耆-活気でその指名が変わった。 その場所は現在未老面(ミロミョン)活気リのトゥメグァングァンノンウォンで少し上側に位置しているのにそちらには木造が生きた所であることを知らせる旧居地碑閣がたてている。
弓賛える三渉郡(サムチョクグン)未老面に属したし,未老面(ミロミョン)は玄宗3年(1662)当時三渉府士ホ首が眉老里と呼んだところで今日と同じ指名に定着した。

こちらに住む時,木造の父親が死亡した。 その有名な“白牛金冠の伝説”と同じように道僧が話した通り白牛と燕麦金冠(金冠)を準備して,墓を使うことになることによって5代に達して,イ・ソンゲが朝鮮王朝を開局することになることだ。

ところが木造の三陟(サムチョク)生活は苦行の連続だった。 お父さんの死亡後まもなくお母さんまで亡くなることになったのだ。 三陟市(サムチョクシ)で五十川(オシプチョン)について西の方に60里,上整理で15里労働産(山)に木造のお父さん委譲無ウイ墓(ジューン軽妙)が位置したし,木造のお母さん李氏の墓(英軽妙)は東山里(トンサンリ)にある。

活気リ木造の過去の家の跡地には今でも石段と礎が残っている。 木造が三渉郡(サムチョクグン)弓切り絵両親を尋ねてまた咸鏡道(ハムギョンド)に発つほかはなかったことは先立って前週で戦った酸性別監がアルリョムサ位に上がって三陟(サムチョク)村で巡視するという便りが聞こえてきたためだ。 座ってこうむることより先に避けることが上策だと考えて咸鏡道(ハムギョンド)に入った。 この時にも前週でついてきた170余号が共に移住した。

木造の三陟(サムチョク),未老面(ミロミョン)活気リ生活は少しの間だったが,両親を埋めたし自らの家の跡地まで残したので第2の故郷になった。 三陟(サムチョク)のファルギリが朝鮮王朝建国の根拠地というのはこのような歴史的事件があったためだ。
※参考資料:[三陟市(サムチョクシ)紙]. [失職文化]第1集(三陟(サムチョク)文化院,1990),キム・ヨンギ,“失職国の人脈”,[失職文化]第3集,三陟(サムチョク)文化院,1992

朝鮮王朝の王は27人なのに[朝鮮王朝実録]に記録された王は36人・追尊王9人;木造,益鳥,も(ごつんと)組,ファン組,トク種(成宗のお父さん. 機動警察跡継ぎ),原種(人造の実父),真宗(政調の伯父. 孝昌(ヒョチャン)跡継ぎ),場種(政調の実父. 長兄跡継ぎ),イクチョン(憲宗のお父さん. ヒョミョン跡継ぎ) [太祖実録]イ・ソンゲ一族の始祖(詩)-離韓(新羅太宗の10代手).
・イ・ソンゲの高調(木造吏案社)は三陟(サムチョク)で考慮北東国境地域義州路(イジュロ)移住,元の国に投降“白虎”という官職生活⇒曽祖イ行李⇒祖父利子チューは大に元の国の高麗人差別政策で考慮に亡命高麗ウ王:明国の動揺の土征伐推進. 8度都統社チェ・ヤン,友軍都統社イ・ソンゲ,左軍都統社チョ・ミンス⇒違和も会軍(郡)⇒チャンワン擁立(辛屯子供,にせ物ワン氏)⇒右王とチャンワン殺害⇒供養王擁立


11.朝鮮時代三陟(サムチョク)地方行政組織朝鮮時代の地方行政組織は全国を8ヶ道で分けて,各道には観察使を配置すると同時に道義下部組織で府,大都護府,牧,都護府,郡,県を置いた。
地方行政の責任者では富に鐘2稟議府尹,大都護府に正3品の都護府使,首には正3品の牧使,都護府には鐘3稟議府使,クンには鐘4稟議郡守,ヒョンには鐘5稟議県監を受領(首領)で配置したが,三陟(サムチョク)は太祖2年(1393)木造の他香餌や先代の墓地がある所だとヒョンで部に昇格させて(記念でホンソ対下賜)太宗13年(1413)三陟(サムチョク)部を都護府に変えて,鐘3稟議副詞を配置した。

軍事制度は陸軍と水軍に分けられるのに陸軍の場合太祖6年(1397)三陟(サムチョク)陣という軍事基地を設置してその親分の初め節制社を副詞が兼職したが,三兆1年(1455)君イクも体制によって三陟(サムチョク)陣は江陵(カンヌン)道義右翼で編成されてその首長を病魔鍛練副詞と称したし,三兆3年(1457)君イク導体制がジングァン体制に変わって,三陟(サムチョク)陣は巨鎮になって,蔚珍(ウルチン)とピョンヘジヨクまで管掌した。

水軍の場合太祖の時から副詞が三陟(サムチョク)の水軍本部の三陟(サムチョク)胞衣万戸を兼職したが世宗(セジョン)1年(1419)副詞が三陟(サムチョク)万戸を兼職したことを廃止して別途の水軍僉節制使を派遣したし,三兆3年(1457)ジングァン体制に変わる時,三陟(サムチョク)ジングァンを設置してサムチョクポ占い言葉が初め節制社になるのにその下中(案)インフォ. コソンポ. ウルチンポ. ウォルソンポを置いた。

その後の人造5年(1627)各道の地方(脂肪)軍隊を管轄するための陣営の首長の令状が派遣されて,三陟(サムチョク)布陣は令状がヨンドン地域の束伍軍を治めて鬱陵島(ウルルンド)の治安を担当してきて高宗(コジョン)35年(1898)三陟(サムチョク)布陣が廃止される時,共になくなった。 朝鮮時代各級受領(首領)間の偽計は赴任する受領(首領)の品階差はあったが富でヒョンに至るまで横笛では対等に道(ド)観察使の指揮監督を受けた。

各級受領(首領)には地方(脂肪)の行政権と共に軍事職と司法権まで付与されていてすべての裁判を自身の名医にできた。 ただし棍杖50代以上死刑までは観察使の許可を受けて,兄を執行した。
都護府の事務は副詞の補助機関の豪壮以下6発の夷俗らによって,分担されたし,このような吏属らを衙前といったし,主にその地域の土着人を起用したが6発の扮装事務は次のようだ。

吏房-者,秘書,その他事務に関する事項/戸房-戸口,貢賦,田税,その他財政事務/礼房-儀礼,祭事,学校などに関する事務/兵房-軍政に関する事務/刑房-法律,訴訟などに関する事務/工房-工匠,営繕などに関する事務副詞の軍事.警察権の補佐役ではクン教(軍官,布教)があったがこれらの身分は衙前より下職であったし,これらクン教の下にフプ例,文卒,お手伝いする日数,罪人を文初夏は羅将,軍人らの奴婢の司令(辞令)があった。

また通仁(トンイン)だと称する急死(給仕)職(執事・給仕)があったがこれは代理(衙前)の息子として副詞の身辺を見守ったし,以外にも受領(首領)の日常生活に使役される及唱庫直房子などの官奴と寄生(芸者),需給(水お使い)等の官奴婢があった。
一方副詞の自問機関でクン(軍衙,郡庁)に郷所(郷所;後期には郷庁)を設置して,徳望ある地域の有力要人を郷任に任命して(富には4-5人,クンには3人)郷吏の悪弊を防止して風俗(風速)校正(校庭)とクン.県の下部組織の面のトユンすなわち免状推薦権まで付与した。

郷所のチャンウン座睡(座首;任期2年)として(次席は別監別監)年長者中で受領(首領)が任命した。 都護府の下部組織で面または社坊があって,その下洞里村があったし,ならば四発の長は尊位都尹面任坊長社長,そして冬瓜リの長は洞首里正座上頭民と呼ばれた。
同. リの下には最末端組織人鷹5戸をしたヶの統でする5家統制度があったし,5ヶ筒を1ヶ リにして,若干のリを合わせて面でして,農業を指導するクォンノングァンを配置した。

一方地方(脂肪)の交通通信行政を管掌する特殊地方官職で察訪(察訪;鐘6中)があったし(1508年役僧駅丞⇒察訪),三陟(サムチョク)は東海岸の江陵(カンヌン),三陟(サムチョク),蔚珍(ウルチン)評解義16ヶ駅伝を管轄する逆徒(重量挙げ)所在地があった。 (ピョンヌンヨク⇒校歌駅)※参考資料:三陟市(サムチョクシ)紙

朝鮮時代交通路:全国10ヶの幹線道路. 東海(日本海)側はクァン凍露第3で(原州(ウォンジュ)-江陵(カンヌン)-三陟(サムチョク)-評して)第10で(忠州(チュンジュ)-安東(アンドン)-のろし-嶺南(ヨンナム))10里ごとに指名と通り(距離)刻んだチャンスン(木像),30里ごとに大きいチャンスン(木像)と院設置1530年全国に1,210ヶのウォン設置. ウォン・ウニョン-大通りは5世帯,中路3世帯,小路2世帯(僧侶郷吏地方役人,雑役除外)壬辰倭乱丙子胡乱以後ウォン衰退⇒民間居酒屋・旅館開設賛えて:通り(距離)測る機構(輪を1里の百分のことで製作,100回り1里,北)


12.朝鮮時代三陟(サムチョク)の行政官庁朝鮮時代の三陟(サムチョク)地方行政官庁は東軒を中心に隣接していたので東軒の場所がある今の竹西楼(チュクソル)付近が行政の中心をなした。

七分堂-副詞が公務を見る東軒をいうのに過去の名前は梅竹閣または易近堂といった。 1908年進駐観で移転した後郡守の官舎(冠詞)で使ってきて建物が老朽して,1979年壊してなくした。 位置は竹西楼(チュクソル)進入路と38号国道との分岐点であり,38国も開設時道路敷地に一部編入されて残った敷地に礎を集めて,東軒の場所小公園で作った。 衙舎郡衙県衙ともする。

内衙-地方官庁の母屋の私の東軒をいうのに,東軒の東側すなわち38国も敷地内にあったが今は跡さえ探せない。
郷序堂-別名郷庁といって,風俗(風速)校正(校庭)と郷吏糾察など受領(首領)を補佐する自問機関があった所で英祖45年(1769)副詞ソ・ノスが建立して,座睡1人と別監3人を置いたが,位置は竹西楼(チュクソル)境内東南の側にあった。

将官庁-クン教と司令(辞令)(お使い)の集会所で別名将庁といったが英祖7年(1731)副詞鳥翼名が作った。 位置は38国道から竹西楼(チュクソル)に進入する南側隣接紙の過去の警察署があった所で今は住宅が入っている。
坐起庁-別名政庁ともしながら吏房が公務を見た所なのに先祖36年(1603)副詞アン・ジョンロクが中央捜査したのを英祖21年(1745)副詞ソ・ノスがこれをまた中央捜査したが今は跡がない。
作庁-人吏庁で別名迭請ともしたが衙前らの集会所であった。 竹西楼(チュクソル)東側現竹西楼(チュクソル)駐車場敷地にあったが今は跡がない。

郎庁房-官衙の堂下官が居住した所で38国道から竹西楼(チュクソル)に進入する過去の警察署の場所にあった。
軍器庁-武器を取り扱った所で三章社の場所にあった。
牢獄-罪人を閉じ込める監房で竹西楼(チュクソル)東南側旧農協官舎(冠詞)すなわち現在の竹西楼(チュクソル)第2駐車場の場所にあった。

補民庁-三兆1年(1455) 8月水害による水害民を救護した官庁で竹西楼(チュクソル)東側現在の竹西楼(チュクソル)駐車場入口の場所にあった。
敬思斎-玄宗2年副詞ホ首が建設して,退庁後読書した所で位置は官衙の北側にあったとする。

真珠館-王名を受けて来る権力の座アーチらを接待して泊まるようにする客死で本来は竹西楼(チュクソル)の下にあったがチュンジョン12年竹西楼(チュクソル)北に移した。 その後郡庁社で使って1934年進駐観を壊してその場に郡庁の新しい庁舎を作って使っている間6.25思弁に仏陀なくなったのをまた伸縮(新築)して使って1981年郡庁社をキョドンに移してその場は現在三陟(サムチョク)文化院が使っている。

漆匠房-漆塗りのタンスらの勤め先で光海君7年(1615)副詞キム尊敬が進駐観近隣にたてたが今は竹西楼(チュクソル)境内広場になった。
妓所-観寄生(芸者)らの居所で燕山君(ヨンサングン)10年(1504)王名に基づいて副詞打ち解け話が設置して一つその位置は分からない。
村郷党(?郷堂) -三陟(サムチョク)布陣の親分の令状の聴政所として別名洗剣堂ともしたがユク・ヒャンサン北側にあったが1898年火災でなくなった。

猪洋場-官衙で祭事の時使うための黒量を放牧した所で竹西楼(チュクソル)の向い側今の武芸会館や博物館敷地にあった。
珊瑚館-江陵(カンヌン),三陟(サムチョク),蔚珍(ウルチン)評して,管内の15ヶ駅站を管轄した所で本来ピョンヌンヨク(東海市(トンヘシ),泉谷洞(チョンゴクトン))にあったことを英祖36年(1760)校歌駅(近徳面(クンドンミョン)校歌リ)で移転して,建物は1899年壊して,その木材と瓦などはジューン軽妙と英軽妙の二斎舎建築に使った。

人造9年(1631) 9ヶ行政区域:メゴク,部内,ノ曲,トクポン,北評,パク曲,迷路,疎達,場生理.
英祖14年(1738) 12ヶ面:話曲(洞地域内陸),部内(洞地域海岸)ノ曲クンドク元徳迷路疎達上場性(料亭.鎖前.荒地.小島.将軍.同点.鉄岩(チョラム))賀状性(ア曲川(コッチョン).粗炭.四美.原動.ア曲.行く全(前).駅弾.大田(テジョン))肩膊曲(大邱(テグ)前.泥炭.苦戦.欧米.クラム.クェドン.
湫岩(チュアム).ボン無情)途上(初分.道内.イ老馬を。新興.敵前.三和(サムファ))ドーハ(松羅(ソンナ)情.地底.勇壮.冷泉(ネンチョン).ピョンヌン)


13.三陟(サムチョク)布陣性三陟(サムチョク)布陣は水軍の基地(機知)だ。 現在オ分離高山性と情商利ユク・ヒャンサン周囲がその位置だ。 ここは五十川(オシプチョン)河口に位置して,数百隻の戦線が停泊できる自然港だ。 この地域は東海岸の中間位置に位置していて,咸興(ハムフン)で釜山(プサン)へ行く町角に該当してまた五十川(オシプチョン)について西の方に上がれば南漢江(ナムハンガン)上流の骨只川(コルチチョン)と交差する東西南北の要衝地でもある。

したがって三国時代初期から新羅と高句麗は三陟(サムチョク)を互いに占めるために激しい攻防戦を行ったのだ。 ついに新羅が失職国を服属させて鬱陵島(ウルルンド)を征伐する時にもその出港地がまさに三陟(サムチョク)布陣だったと考えられる。 その理由は于山国と最も近い通り(距離)に三陟(サムチョク)布陣がある上に戦線が停泊できる最適の自然港だったためだ。

その後の新羅はこちらに悉直停という軍団を置いて国防に臨んだし,高麗時代右王10年(1384)にはこの前酸性を土星で築造(周囲1,870隻. 約566.6m)した後三陟(サムチョク)布陣を設置して万戸という受領(首領)を置いて,倭軍の侵入を防いだ。 三陟(サムチョク)布陣の万戸は受領(首領)が兼ねたが朝鮮太祖6年(1397)万戸を僉節製使で昇格させて,単独濃い醤油を置いたし,太宗9年(1409)にまた副詞が兼職することになって三兆12年(1466)にまた分離して鎮将を置いた。

壬辰倭乱と丙子胡乱後で兵制の多くの変革を体験して,人造5年(1627) “令状”というチクを作って,専門的な武装が三陟(サムチョク)布陣の責任者になるようにしたし,玄宗13年(1672)には三陟(サムチョク)布陣の令状にとってヨンドン9ヶ村の軍事権を管掌するようにしたし,次の年の1673年には三陟(サムチョク)令状にとって討捕使を兼ねるようにして鉄原(チョルウォン)地域まで捜査権が拡大した。

粛宗20年(1694)には鬱陵島(ウルルンド)を水土下記ために三陟(サムチョク)令状と蔚珍(ウルチン)万戸が毎年交代で入ることもした。 このように東海岸の海上防衛と治安の本山だった三陟(サムチョク)布陣ヨンウン,高宗(コジョン)35年(1898)令状キム・ポムグを最後に廃止されて今は陣営の城郭南端に位置していたユク・ヒャンサン首脳(頂上,正常)に1662年副詞ホ首が残した脊柱東海(日本海)費と対一坪水土冷雨だけ残っている。

三陟(サムチョク)布陣ヨンウイ位置は新羅,高麗,朝鮮初め三兆の時までオ分離のこの前酸性でありユク・ヒャンサン下へ移したことはチュンジョン初期の1510年前後であった。
1898年までだけでも三陟市(サムチョクシ),汀上洞(チョンサンドン)ユク・ヒャンサンの下には石で積んだ石聖が残っていたがここがまさに東海(日本海)を守るために設置した朝鮮時代の三陟(サムチョク)布陣性席だ。

この陣営の性東側門楼をチンドンヌ,あるいはアネルまたはセビョンヌラゴも呼んだが朝鮮 中宗6年の1511年三渉府士李函が創建したという。 三陟(サムチョク)布陣の衙舎は高宗(コジョン)35年(1898)火災で消失した。 その後の1916年三陟(サムチョク)港を築造する時,三陟(サムチョク)布陣性を崩した。

先祖時の大学者であったソン岩キム・ヒョウォンが三渉府士で赴任してチンドンヌという表札板を書いたし,壬辰倭乱中には副詞アン・ジョンロクが近徳面(クンドンミョン)英恩師にあった8百斤火種をこの楼閣にぶら下げて,急に悪化する時鐘を打って,住民を集めて,敵を防いだし,後で火種は英恩師に送り返したとする。 そして粛宗37年(1711)三渉府士で来た異性(理性)組は文字よく書く高尚な人としてアネルという表札板を書いて甘かったし,竹西楼(チュクソル)には[竹西楼(チュクソル)]と[関東制一塁]という表札板を書いて残した。

このチンドンヌはその後何回も中央捜査を経てきたし,高宗(コジョン)24年(1887)に文字よく書くことに有名なソ・ナム,イ・ヒスがまた[チンドンヌ] [トポアムン]という(のは)表札板を書いて甘かったという。 このように名士(名詞)らの表札板文が多かったが今まで伝えられる作品がなくて,ソ・ナム,イ・ヒスの[トポアムン]という(のは)表札板文は十年前まで三陟(サムチョク)地方の最後の儒学者といったキム・ヨンギョン先生が所蔵していたが3年前に三陟市(サムチョクシ)で購入しようと思った時はすでに他の人の手に渡った後であった。

※東台池:三陟(サムチョク)布陣ヨンウイ屯田を利用する提言(堤堰;貯水池)東国大紙の西側頭を同大賢(東台〓;東国大頭)としたが今は[トンドゥグビ]ロ俗称されている。 東国大紙の西北側谷間を袈裟谷だとし虎大寺という寺があった。 今のチョンナチョドゥンハッキョ席.
※参考資料:[三陟市(サムチョクシ)紙] [三渉郡(サムチョクグン)紙]先祖元年(1567)三陟(サムチョク)布陣ヨンウイ軍費を充当するために屯田を設置したが“屯田上側に東池という小沢がある”したので同志は東国大紙で本当にラ小学校の下側にあった東国大提言を示して,屯田は鳳凰産(山)北側谷間だったこと。

成宗元年(1470)江原道(カンウォンド)兵船数は小猛船14隻中サムチョクポ4隻,ウルチンポとコソンポに各々3隻,月ソンポ,中(案)インフォに各々2隻配置成宗8年(1477) “三陟(サムチョク)には水鉄が出てくるのでサムチョクポ水軍90人中40人を動員採取して,塩釜(塩釜;塩御輿(窯))を作って,使用するようにした”という記録から見て,90人の水軍があったことが分かる。

成宗12年(1481)海岸に烽燧台と後望(?望;海岸警戒所)設置・狼煙台(5ヶ所):歌曲産(山)役員産(山)超谷山(コクサン)良夜産(山)広津(クァンジン)産(山)・後望(5ヶ所):犬曲宮村徳山(トクサン)クラム(湫岩(チュアム))冷泉(ネンチョン)(冷たい水賭け)



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