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古代史の資料集です。
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百済漢城(ハンソン)時代



初期百済国家の成立は温祖と比類で代表されるユ移民集団の南下,定着から始まったことはよく知らされた事実だ。 そして百済史の展開過程で3世紀以前の初期百済史は多様な系統のユイ民集団が漢江(ハンガン)流域各地に定着して,個別的に発展しながら,徐々に下南(ハナム)違例性の百済国を中心に統合される過程で理解される。 したがって古爾王以前の百済史を決して温祖を始祖(詩)でする百済国だけの歴史で決めつけてはいけない。 ここではそういう点に焦点を合わせて,まず建国神話を通じて,百済形成集団の性格を把握して,その後初期百済史の展開過程を調べようと思う。


(1)建国説話を通じて,みた百済の形成


百済の形成に関しては正月が入り乱れている。 しかし{三国史記}クォン23温祖王王の伝記とその別奠には二種類異説が見られている。 その一つは百済の始祖(詩)が高句麗の建国者の朱蒙(ジュモン)の次男温祖という正月だ。 その内容を{三国史記}原子力発電所で調べれば次のようだ。


百済の始祖(詩)温祖王はその富が鄒矣とかあるいは朱蒙(ジュモン)ともする。 朱蒙(ジュモン)は北付与で逃亡して,ゾル本部旅路王後で付与王になって,二人の息子を産んだが壮者は比類といって借字は温祖といった。 朱蒙(ジュモン)が北付与にある時産んだ息子有利がきて,太子になるや比類と温祖は太子に容認されることができないだろうか恐れて,無理を導いて南下した。 いよいよ北漢山(プッカンサン)に達して負児嶽に上がって十分に生きられる所を眺める間,比類は浜辺に住むことを望んで,無理を分けて,ミツホを(今は仁川(インチョン))に行って住んだ。 これに温祖は下南(ハナム)違例性に首都を定めて十臣で輔翼をみなして,国号を十済といった。 比類はミチュホルの土地が湿っぽくて水が塩辛くて,安居できなかったので帰ってきて,違例を見ると首都が安定して民が安らかなので参会(懺悔)して死ぬと,その臣民これら全て違例に帰附した。 くる時に民が楽しんで追ったので後で国号を百済と直した。


もう一つの正月は朱蒙(ジュモン)は温祖の義父で,百済の建国者は温祖の兄の比類というものだ。 すなわち彼ら兄弟の実父は北部女系の優台であり,彼らは生母が朱蒙(ジュモン)に開架した後朱蒙(ジュモン)の原子価現れて,太子で冊封されるや比類が温祖と無理を導いてミチュホルに(早い)達して生きることになったということだ。 この二種類正月皆そのまま信じる難しい実情だが,概してこの二つは比類が兄という事実においては一致している。 そしてこの三国史記の記録を土台に色々な見解が出てきている。 まず朱蒙(ジュモン)と温祖を父子関係で記録した事実で百済を建国した主体勢力が北付与系統の高句麗ユイ民であったという事実,そして比類集団はその説話の内容でも名称上でボア比類数流域の住民と関連ある集団という点,また比類が兄ということに初期にはミツホを集団が一手流域各地のユ移民界チェ集団らの連盟体で主導権を掌握した勢力だが後に違例を中心にした集団によって,代替されたという事実などが主張されている。 こういう主張ら他にも色々な見解らが出てきている実情だ。


2.百済建国集団の南下と小国統合


1)先住民集団


百済の移住民集団が漢江(ハンガン)流域に達する前,すなわち祈願以前漢江(ハンガン)流域の先住民勢力らの遺跡は大部分が川について分布していたし,これは農耕が活発に行われたことを示唆している。 青銅器初期遺跡大部分で半月型石刀が出土して,また驪州(ヨジュ)フナムニで炭化米が発見された事実でそういう推定が可能だ。 またこれら遺跡らは一定地域を単位で群を成し遂げていたが,これは農耕,狩猟,漁労など当時の経済生活と関連した生活環境条件によったことで考えられて,次の段階の政治的成長の基盤で把握できる。 しかしこれら遺跡らは大規模の集団軍(郡)ではあるが,その代表地域が上程(想定)される程集約的なものではなかった。 結局今のところは各地域集団らを一つの政治勢力で結束させるほどの強力な支配勢力は登場していないことが分かる。 恐らくより強力な支配勢力の登場は青銅器文化後期段階でも可能だったことと推測される。

青銅器文化後期钥系はセヒョン銅剣文化の時期で韓半島北部では一連の政治的変化に伴って,鉄器が本格的に普及(補給)使われる時期だ。 この時期にあって注目する点は遺跡らが川に接している現象がより明確になったという点と遺跡分布中心が初期とは違い内陸側に移動しているという点だ。 これは恐らく農耕の本格化という推移と関連あるようだ。 そして初期の散発的な分布上とは違ってより明確に群を成し遂げている点も注目される。 特に今のソウル市一円で遺跡の密集度が最も高いがこれは青銅器文化後期段階に入ってきて,ソウル地域が漢江(ハンガン)流域の集団群衆で最も多数の住民が居住して,この一帯で最も優れた政治制が成長した結果で把握することができる。

ところで漢江(ハンガン)流域には典型的なセヒョン銅剣文化がそんなに明確にあらわれないでいる。 これは新羅カヤの発展の母体になる洛東江(ナクトンガン)流域と比較する時,大きい差異点と指摘されることができる。 漢江(ハンガン)流域の場合無紋土器-誌石墓段階で大規模的なセヒョン銅剣文化の流入を経ないで,その次時期の祈願以後直ちに金海(キムヘ)式土器-鉄器文化段階に移った可能性が大きいのだ。 それなら青銅奇聞化後期段階に西北ある地域の衛満朝鮮界移住民が定着しないで,その次の段階に本格的な鉄器使用集団が内奏しただろうという推測が可能になって,この集団がまさに百済建国のチュンチュセリョクがなる温祖などのユ移民集団だと考えることができる。


2)百済建国集団の南下


ユ移民集団が本拠地を離れて,南下してくる理由は確実でないけれど,温祖と比類集団が北付与で新しく南下してきた有利勢力に押されて離れてきた事実とそれによって政治的に勢力が弱まって免職されたことに対する不満に南下する例を見ても,これらの移動は各不足単位で成り立つのに,イ野原族ウォンらは三国史記百済王の伝記に現れる北部,東部などの電信(前身)であっただろう。 また初期百済の部に表現された勢力集団は温祖集団と同じようにユ移民系統であったという点では同一だが南下してきた時期と経路,あるいは出資などが少しずつ違ったものと見られる。

次にユイ民らで構成された漢江(ハンガン)流域の色々な小国の一つに過ぎなかったソウルの伯済国が成長して,他の集団らを統合して百済を称することになる過程を調べる。

温祖集団が南下して,最初に定着した地点が河北違例性であったのは広く認められているのに,河北違例性の位置に対しては見解が入り乱れていた実情だ。 温祖集団が河北違例性に留まった期間がそんなに長くなくて明確な資料を残さなかったためだと見られる。 温祖集団はまもなく下南(ハナム)違例性で遷都することになるのに,下南(ハナム)違例性は今のソウル市,松坡区(ソンパグ),江東区(カンドング)一円に位置したと推定される。 この地域には色々な城跡が密集分布しているので,誠意規模や立地条件などで夢村土城が最も重要な性だったと考えられて,また二省が下南(ハナム)違例性だった可能性は非常に大きい。

青銅器文化後期段階以後漢江(ハンガン)流域で最も多数の住民が居住して比較的多数の青銅器使用集団が所在したソウル地域に定着できたという事実で温祖集団は当初から色々なユ移民集団中最も優勢な集団であったのを知ることが出来る。 このような力の優勢は後で下南(ハナム)違例性集団(百済国)を中心に連盟体を形成することになる根本原因になることだ。


3)小国統合過程


3世紀以前初期百済の支配勢力は漢江(ハンガン)流域を基盤で各地に分散していたユイ民集団で構成されていた。 これらは伯済国の支配勢力と多くの共通点を持っていたし,このようなきずなを基盤である郡県や靺鞨など外部の侵略勢力に対しては共同の防御体制を取っただろう。

百済国が近隣小国単位の勢力集団に対して影響力を行使することになる過程は各部との関係を通じて知ることが出来る。 まず北部出身の年ルガー右輔に任命された事実は重要な意味を持つ。 すなわち以前の足部を音の右輔任命と対応させてみる時ヘルの任命は下南(ハナム)違例性一員に限定されていた百済国の政界に北部が編入され始めたのを意味する。 この時期を{三国史記}の紀年そのままA.D 23年で見るよりは3世紀以前のある時期で見ることが合理的であろう。 これに継続して,東部に関する記事が現れる。 タルワン3年には東部の屹于が今の金化で非情な馬首山で靺鞨の侵略をはね除けるのに,これは温祖王台の対靺鞨戦闘が王が直接軍事を導いて出て行った方式だったこととは大きい差を内包している。 したがってこれも北付議ヘルと同じように東部勢力が百済国の政界に編入された事実を反映すると理解することができる。 ただしその時期もまたA.D 30年でなくヘルの牛歩任命とほとんどほぼ同じ時期であろう。 東部勢力は以後屹于が年ルーの代わりをして,牛歩に任命されるなど北部と同じように百済国を中心に連盟関係を結ぶことになって,また北部のチン会が牛歩に任命されてチンシセリョクまで含むことになる。 このような一連の過程が経過した後下南(ハナム)違例性の百済国は小国単位の各勢力集団に対して優れた政治力を行使することができるようになることだ。

ここで問題になるのは比類集団の統合過程だ。 比類集団の本拠地であったミチュホルを仁川(インチョン)で非情なことには大部分意見の一致を見せていて,ミツホを勢力が初期百済の成長過程で重要な構成要素であることもまた事実と認定している。

三国史記の初期記録を批判して研究する学者らのあいだには{三国史記}温祖王朝記事のとおりミチュホルの比類勢力がそのように早い時期に下南(ハナム)違例性の伯済国に吸収されはしなかったことであり,だいぶ長い間の期間にわたって,百済国と並存した可能性を提示している。 そして{三国史記}に西部と表現された勢力は比類集団の一部と考えている。 したがって西部に対する統合は比較的遅れた時期だったことが分かることだ。 その時期はもうこれ以上の資料がなくて,確言する訳には行かないが結局3世紀頃には北部,東部,比類勢力などが百済に完全に編入されたことで見なされる。


3.王権降下と勢力拡大


西部勢力も3世紀中盤にはすでに百済国に統合されたし,以後伯済国は百済を称することになった。 そしてこの時期は百済が本格的に膨張することになる時期だ。 まず衰退して行ったある郡県に積極的な攻勢をかけて追い出した後内的な整備に着手した。 古爾王対の体制整備は前段階の連盟関係を基盤で成り立ったと理解されるのに6チュァ評制度と16館登第は後代に旺盛な可能性が大きいとしても,チュァ評提案骨格はすでに古爾王当時に用意されただろう。

ある郡県を追い出した後百済は強大な高句麗と直接国境に接することになった。 これは政治的,軍事的に大きい負担を抱くことになると同時に同じ付与族系統国家としての主導権争奪を置いて領土的な面でだけでなく意識的な面でも大きい変化を招いて,その結果百済王室は高句麗と百済の共同発源地の付与に対する意識がもう少し強くなって,対外的にプヨ氏を標ぼうすることになることだ。

一方百済と高句麗の緩衝地帯役割をしたある郡県がなくなるやこれら勢力の衝突は不可避になった。 すなわち南進政策を追求していた高句麗と当時漢江(ハンガン)流域を占領して北進政策を展開した百済のクン草稿王(341~375)が正面衝突することになったのだ。

396年故局員王がボー奇病(騎兵)2万人を率いてあげてきて,クン草稿王は太子およそ九手をさせて,これを撃破させた。 またクン草稿王26年(371)に今回は百済が高句麗に侵して,ピョンヤン城を攻撃して,故局員王を敗死させた。 そうして百済の勢力圏はス哭声(新渓)まで含むことになったので黄海道(ファンヘド)北部に達する最大の地図を確保した。 しかしクン草稿王30年にス哭声を高句麗ソ・スリム王(371~384)に奪われたのでこの地域を中心に何回の攻防があったことを推定することができる。

クン草稿王は高句麗と衝突する一方で洛東江(ナクトンガン)流域まで進出したし,忠清道(チュンチョンド)一円の馬韓小国を侵略したりもした。 このような威勢を土台に中国の東進に使節を送って,外交関係を結んだし南側では暗記してきて通じて,その国際的な地位を確保したりもした。

クン草稿王の後に続いたクン口受王(375~384)は父王の事業を着実に継承した。 高句麗の攻撃を効果的に防いだし,同王3年には軍事3万人を率いてピョンヤン城を攻撃したりもした。 その後に続いたチムニュワン(384~385)は東進からインドの中ないで乱打がきて,仏教を伝えるやこれを受け入れたし,首都に不死をたてるなど仏教受け入れに積極的に努力した。 しかし阿華王(392~405)以後高句麗の波状的な攻撃を受けて,百済の勢力は大きく萎縮したし,母方の親戚勢力らの王権に対する牽制も激しくなっていった。 このような国難の克服と失墜した王権強化を積極的に推進した人物がケロワン(455~474)だった。 ケロワンは親衛勢力を確保するために既存の母方の親戚貴族勢力でない人物を抜てきしたし,高句麗を牽制するために上(胃)とソングに対し積極的な外交政策を追求した。 しかしケロワンのこのような政策は内外的に困難に直面することになる



熊津(ウンジン)時代



(1)熊津(ウンジン)遷都の背景


1)漢城(ハンソン)陥落当時の背景

漢城(ハンソン)が高句麗によって陥落した時の王は蓋鹵王だった。 ケロワン在位当時東北アジアの国際情勢は北魏が江北(カンブク)乙統一して,5号16国(五胡十六国)時代を終わらせて中国の南北朝東北の高句麗,そして塞北の柳柳(ユユ)(柳柳(ユユ))等4強を軸にして,均衡的な勢力配分になった状態であった。 そして高句麗の長寿王は平壌(ピョンヤン)で遷都した後427年北緯と身近な関係を維持して,ずっと百済を圧迫して入った。 西北中国土地から威嚇がない状態で積極的に南進政策を追求することになったのだ。 ケロワンはこのように対外的に高句麗の圧力に対抗して,対内的にはチン氏,該氏などと同じ大成貴族らのばっこを制御して,王権中心の新しい支配秩序を確立しなければならなかった。 ケロワンの政治的改革は貴族らの間で反発を招くことになったし,百済王室の権威を高めるために実施した大土木工事は国力の疲弊と民力消耗を持ってくることになった。 このような時期に高句麗は大軍を送って,百済に対する攻撃を断行した。 475年百済を攻撃した高句麗は首都漢城(ハンソン)を攻撃する以前に先に北性を攻撃して,7日ぶりに陥落させてまた南へ南へ降りてきて,男性にあったケロワンだけでなく王子らまで皆殺した。

一方この時期に新羅に救援を求めに行った文周は救援(旧怨)病一万人を連れてきたが彼がきた時はケロワンはすでに死んで漢江(ハンガン)流域を奪われた後であった。 このようにして,漢城(ハンソン)時代は幕を下ろした。

漢城(ハンソン)で王位に上がった文主(州,株)は木協満致と祖弥桀取の助けで荒れ地になった漢江(ハンガン)のほとり都城を捨てて熊津(ウンジン)で遷都を断行した。


2)熊津(ウンジン)の地勢

熊津(ウンジン)は北で車嶺(チャリョン)山脈と金剛に囲まれていて同では鶏龍山(ケリョンサン)が防いで立って,高句麗と新羅から侵略を防御する天然の要塞地であった。 こちらを貫いて流れる金剛を通じて,西海(ソヘ)に進むことができて,また南側には穀倉の湖南(ホナム)平野が広げられていて関防だけでなく交通と経済の要衝地として良い立地条件を整えていた。 漢城(ハンソン)時代に熊津(ウンジン)がいかなる位置にあったのかは明らかでない。 ただし熊津(ウンジン)が地理的天険で軍事上の要旨だったとの面で見る時,ひとまず高句麗の鋭鋒を避けるために軍事的要旨の熊津(ウンジン)を首都地域で選んだだろう。 これはケロワン21年9月に高句麗の攻撃を受けた後同じ年10月に移都したところで見るように文週王としては首都宅地(首都択地)の時間的余裕がなかったという点と漢城(ハンソン)陥落以後軍事地理的側面で最大の要旨が熊津(ウンジン)だったとある事実で十分に立証になるだろうと考える。


(2)熊津(ウンジン)時代の対外発展

熊津(ウンジン)に移った後中国関係交流は高句麗の妨害を押し切った文週王の再起潮力で始まる。 文週王2年(476)にソングで使節を送ったが高句麗の集中的な妨害に戻ってきてしまった。 また東城(トンソン)王6年(484)にも南斉に使節を送ったがまた失敗した。 高句麗の南進政策は続いて,熊津(ウンジン)川も初期にも中国との首脳(頂上,正常)関係は形成されなかった。 東城(トンソン)王は継続的に使節を送って,結局高句麗の妨害を突き抜けて中国の南朝と交隣関係をよく維持したし,南朝路(ナムジョロ)から冊封を受けたりもした。

一方熊津(ウンジン)遷都後百済は内部の訂正(政情)保安によって高句麗に対してしばらく守勢的立場を堅持した。 しかし武寧(ムリョン)王大(早い)達しては高句麗に対して攻勢的な立場を取り始めた。 武寧(ムリョン)王は即位初めの政変を収拾した後直ちに高句麗に対して積極的な攻勢を強化した。 百済は南天以後高句麗に対して守勢的な立場から抜け出して,攻撃的姿勢で切り替えたのだ。 強力な高句麗の南進政策を受ける百済と新羅は同じ運命のひもを握っていた。 東城(トンソン)王の時両国間に婚姻関係が結ばれるまで両国の共同歩調は一体感を持って維持された。 しかし新羅は紙症(証)王が即位した以後敵対的だった高句麗との関係を改善していって,百済と高句麗との対決主導に直接介入を自制したまま権力基盤を強化していった。 武寧(ムリョン)王はまた積極的に行ってこそ地域に進出して,百済の影響力を拡大していった。 高句麗によって,漢江(ハンガン)流域を奪われた百済は熊津(ウンジン)遷都以後これに代えるほどの新しい農業生産地を必要とすることになることによって王権が安定した武寧(ムリョン)王大から積極的な南方の経営に着手することになったのだ。 上のような事実は百済が大々的に遷都後の政局不安を克服して,王権安定を取り戻したし対外的に国際的な孤立から抜け出したことを意味すると見なされる。


(3)新進勢力の登場とその背景


文週王は弟(妹)昆支をネシンジュァピョンに任命して壮者三斤を太子で冊封して,新しい首都体制の下で整備を急いだ。 しかし在位3年ぶりに兵官佐平オットセイが強力な軍指揮権で国史(国事)をむやみにして暴れてハンティング道野営地で王を殺害した。 太子で後に続いて,王位に上がったサムグンはわずか13才繋いだので権力をオットセイが掌握した。 従来太子が幼くて,情事を世話することはできない場合には王位継承にならなかったのでサムグン王の場合でボア,ワン系統が混乱したことが分かる。

一方熊津(ウンジン)遷都によって貴族勢力らの地位と地位面で変化があった。 漢城(ハンソン)に勢力基盤を持った貴族勢力が南天するのにともない支配勢力の構成に大きい変化が現れたのだ。 熊津(ウンジン)時代の貴族勢力はチン氏,該氏,モク氏などと同じ旧貴族勢力と金剛流域の土着勢力基盤を持って熊津(ウンジン)川も以後中央政界に進出したペク氏,ヨン氏,サ氏などと同じ新進勢力で大別して見ることができる。

百済が熊津(ウンジン)で遷都した以後東城(トンソン)王5年までの支配勢力は前で調べた通りナムネグィジョクトゥルが中心になった。 しかし東城(トンソン)王が即位した後遷都初期の政治的混乱を収拾して行くことになって,漢城(ハンソン)時代にはほとんど知られていなかった姓氏らが支配勢力の中に登場している。 熊津(ウンジン)川も以後新興した勢力ら中で最も中心になる姓氏は大成8族と関連させてみる時,サ氏,ヨン氏,ペク氏だと言える。 この姓氏集団らは金剛流域権を基盤とした土着勢力としてこの時期に新しく頭角を現れた勢力で把握される。 東城(トンソン)王大に百済王室が持っていた課題は失墜した王権を回復させて政治的安定を模索するということだった。 したがって実力者の旧貴族中心の政治体制から抜け出すためには金剛流域に土着的基盤を持って勢力を拡張させていった新進勢力に関心を持たないわけにはいかなかった。 このような新進勢力の登場は支配層の幅を広げて,王権の支配力を強固にするという点で百済史の新しい転機をもたらすのに重要な意味を持つということだった。 したがって東城(トンソン)王対電気にはまだ熊津(ウンジン)時代初期の慣行の実力者貴族を中心に政局を運営したが,金剛流域の新進勢力らが順次中央政界に進出するのにらしく新旧勢力間の均衡の上で王権を安定させて強化しようとしたものとみられる。 一方,後期には新進勢力らがより一層登用される現象が現れている。 これで新進勢力が軍指揮権を掌握したことを契機に政治の主導権を掌握したことが分かる。 このような新進勢力の独走は王権の強化と安定基盤を威嚇するもう一つの妨害物になった。


(4)東城(トンソン)王と武寧(ムリョン)王の王権強化努力

1)東城(トンソン)王の王権強化策と政治的限界

熊津(ウンジン)川も以後貴族らのあいだの勢力葛藤の中で即位した東城(トンソン)王は金剛流域に基盤を持った新進勢力らを登用することによって政治的基盤を拡大させていった。 新進勢力と南来貴族との調整の上で政権を安定させた東城(トンソン)王は失墜した王権を強化するための一連の措置を取った。 彼は対内的に支配勢力の改編作業,新羅王室との結婚,王後太守制実施および大土木工事を通じて失墜した王権を振興させようとした。 対外的には既存の羅済同盟を軸に新羅と緊密な関係を維持して,高句麗に共同で対処したし,また南朝国家のナム制と伝統的な友好関係を結んで,高句麗を牽制したし,私費での遷都を計画して,王権中心の政治運営を模索したりもした。

東城(トンソン)王対に推進された一連の王権強化と政局安定,支配基盤の拡大のための施策はある程度の成果を持って,後代の武寧(ムリョン)王と聖王対につながる王権中心の政治運営に土台になったことはもちろんだ。 しかし大小の土木工事をしばしば起こして,国力の消耗と民心の離脱を持ってきたし,日照りと凶作などの続く自然災害と振興対策に対する無関心は農民の生活を窮乏するようにしたし荒々しくした。 そして執権末期には私費遷都を計画して,王室の権力を強化させていきなり大きくて,行く新進勢力を止めようとしたが彼の側近だった新進勢力百家に殺害されてしまった。 東城(トンソン)王の新進勢力登用政策は漢城(ハンソン)を喪失した以後百済の王室の支配基盤を拡大させてくれたし,遷都初期の混乱した政治情勢を収拾する土台になったとしても新旧勢力間の対立と調整の役割を通した王権の安定に充実でなくてただ権力基盤拡大に戦々恐々としたことは彼の政治的限界といえる。


2)武寧(ムリョン)王の王権安定のための施策

武寧(ムリョン)王は東城(トンソン)王を殺害した百家の乱を鎮圧して40才の年齢で王位に上がった。 彼は東城(トンソン)王の無理な専制権力強化がこの震えた結果を持ってきたのかに対してよく知っていた。 したがって勢力が増大した新進勢力の権限を一定に牽制して,新旧勢力間の勢力均衡を維持する中で王権の安定を追求していくだろう。 東城(トンソン)王対には肥大化した新進勢力を牽制するために百家のような新進勢力を地方(脂肪)の拠点地域に電報させたこととは違って武寧(ムリョン)王対には22ヶのタムノに王族らを派遣して,地方(脂肪)に対する統制力を強化した。 塀ローゼは王の血縁集団による地方(脂肪)統治方式として中央の王権確立と各自に散在されていた独立的な勢力を中央の統治秩序中に吸収するために実施されたことだった。 彼は東城(トンソン)王対以後積極的に中央政界に進出していた新進勢力らによって支配層の幅が拡大するや国王を頂点でこれらを序列化して,また政務を分担するために既存のチュァ評私を改編したがこれは私費時代チュァピョンジェウニョンにも大きい影響を及ぼした。 また武寧(ムリョン)王は修理施設を拡充して遊民らを帰農させる政策を施行することによって王政の物的な基盤を強化していった。 高句麗に対しても強化されて安定した王権を基礎で常に高句麗に対する先制攻撃を一貫して,その南下威嚇を阻止したし,王権の財政基盤の産業を奨励したが特に農業振興に努力した。 その政治功績と光栄の跡は現代にきて発掘された彼の王陵の中の副葬品で立派に証明されたし強化された国力蓄積の結果は次に対人(代印)聖王対につながった。


(5)熊津(ウンジン)時代の文化

地政学的に北の高句麗がひきつづき中国勢力と対等に戦っていて,新羅は半島東南部にかくれている状況以来中国夭逝地方(脂肪)まで領土を経営したほどの百済だったので国税は真っ最中発展する可能性を持っていた。 しかし文化は高句麗の南下政策によって,多少光を放つことができなかった。 同時に新羅と党の連合軍による戦争によって,貴族的できらびやかだった文化はその歴史とともに痕跡を探してみることさえ大変な境遇にある。 しかし幸運利刀百済の文化を伝授した日本を通じて,百済文化を再現して見ることができる。 百済文化の中心は仏教であった。 熊津(ウンジン)時代以前の仏教文化内容は不死や遺跡が発掘されなくて知る術が不明だが熊津(ウンジン)時代聖王対には'聖王4年(526)に梁の武帝を賛えるために大通寺を創建した。'とは{三国遺事}の記録を時期の仏教的文化内容を察して見ることができる。 また西穴寺のような遺跡を通じて,査察の石窟形式が主となっているという事実を知ることができる。 熊津(ウンジン)時代の絵は宋山里の6胡粉星化と無リョン王陵で出土した頭枕に描かれた組閣(彫刻)の絵があるだけだ。 松山里(ソンサンニ)6胡粉壁画はプヨ系統幹であるようでこの方の壁画はサ髭そりに四神図と日月雲文,そして壁面に設置されたトン甘酒委に描かれた火焔文がある。 木で作った二唾(針)は組閣(彫刻)の絵に過ぎないがその素材を総ハで百済熊津(ウンジン)期の絵を理解するので(に)足りる。 この絵を通じて,当時の仏教的私生観の支配形態を見回すことができて,その農地の文化全域まで仏教が浸透したことが分かる。 百済のレンガは建築物からより陵墓築造に使われた場合他には残ったのがあまりない。 だが百済の軒瓦瓦に特色があるというのに軒瓦期とは屋根終わり垂木上の装飾で使われて百済の場合暗幕間はなくて軒丸瓦だけ伝えられている。 蓮花紋が主でその他に波状文,鬼文が彫られた。 この軟化文(門)軒丸瓦は中国北緯と南朝の影響を受けたのが百済化されていく過程を見せる。

上の内容を通じて,この時期文化の特徴を数種類で要約して見ることができる。

最初に,高句麗的な北方的要素が減って中間子的な位置ではあるが,農耕社会の南方的要素が明確に浮び上がる特徴を見せている。

二番目,漢城(ハンソン)時期より仏教信仰および仏教的文化は中心地の周辺性を帯びていたし,かなり広く広がって繁盛した。

三番目,仏教的な私生観が支配的であり,中国のナム制から受けた影響が順次百済化されていった。

最後に熊津(ウンジン)時期の文化は北方的な性格と南方的な性格がよく調和した新鮮な文化を創造して,出した中心的な時期という点で大きな意味があると言える。




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