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古代史の資料集です。
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1伯済国...月支国... 凡五十余国(三国志韓電)

2従来に三国志のチン王を三国史記の馬韓王と同じ存在で把握して,三国史記で見える百済王と馬韓王間に結ばれていた主従(酒類)関係は三国史記と三国志が完全に対立的な内容を扱うのではなくて,編年上の問題であるだけ三国史記やはり三国志と同じように馬韓王=チン王の相違(上位)的存在を記述していて,両者間に大きい差はないと把握する見解もあった(ユン・ソンテ,2001).

3馬韓最大共立其種為辰王都目支国尽王三韓之地其諸国王先に皆是馬韓種人焉(後漢書韓電). この飼料ではチン王が木芝国を中心に"三韓"を統轄していることを確かに記述していて,3世紀の以前の韓半島南部地域の状況が色々な小国らが分立しているとハド捉?政治的盟主を中心にした一定の秩序がある社会だったことを話している。

特に,"色々な国の国王"が馬韓人種という技術は小国の政治的自律性が相当部分チン王によって,統制されていた可能性も垣間見られている。 しかしこのような後漢書の見解は三国志危地にさらに比重を置く見解によって否定された。 これに対する転末は冷遇材(2002)の文に詳しい。

4これに対してはソ・キウォン年を前後して,すでに風納土城(プンナプトソン)が築造され始めたという説(シン・ヒグォン,2002)と既存の夢村土城(モンチョントソン)の旺盛としての位置づけを再確認して,風納土城(プンナプトソン)は夢村土城(モンチョントソン)より築造連帯が遅れた遺跡で見る視角がある(パク・スンバル,2002).

5最近三国史記初期記録の信頼性を囲んでイ・ヒジン(1998)とカン・ジョンフン(1999)の間に広がった論争はその良い例だ。

6三国志の民族指摘性格に対する意見はキム・チョルジュン(1973)と冷遇制(2002)の文に基づいた。 キム・チョルジュンの文は冷遇材の文で才人用.

7日付では中道文化の武器断食積石塚を高句麗の武器断食積石塚と結びつけて理解することによってこれをソ・キウォン年前後に南下した百済の勢力と結びつけるけれども(クォン・オヨン,1986)これまた高句麗とは関係がないと見る場合もある。 後者の場合には武器断食積石塚の場合,他日文土器が出てくるのに,この土器が高句麗初期の土器と関連がなくて,積石塚自らの構造図高句麗こととは違うという点を上げている。 十分に理解が出来る見解だが,高句麗初期土器に対する様相が簡単に確認されないでいるという点と風納土城(プンナプトソン)の他日文土器らの根源が確かに明らかになっていなかった点を考慮すれば,まだ在庫(再考)の余地は残っていると見ることができる。

8風納土城(プンナプトソン)のカーボンデーティング数値は少なくない数のサンプルが紀元前に遡るという事実を見せている(キム・テシク,2001). これによれば住居跡から出た連帯は中心連帯が紀元前200-100年に達して土星の場合は概して西暦100-300年に至っている。 住居跡の場合が土星より連帯が(早い)達したことは風納土城(プンナプトソン)紙に土星が築造される前にも相当期間使われたことを意味して,住居跡は三重歓呼の時代と結びつけてみるのも可能になり得る。 少なくとも風納土城(プンナプトソン)地域に政治的な中心地が形成され始めたことは紀元前まで逆らってあげて見ることができるという点だけは明らかだと言えよう。

9漢江(ハンガン)流域を中心にずっと発見されるこのような方式の住居地は休戦ライン北側でも発見されて,電蓄分が分布した領域の南端まで分布している可能性も排除できないと言えよう。

10イ・ホンジョン(1999)による漢江(ハンガン)流域の土器変遷に対する時期区分は次のようだ。 (カ)中道式単純期:ソング国利式土器で変化して,漢江(ハンガン)流域権の新しい土器様式で確立されて紀元前3世紀中盤-紀元前2世紀前後に該当する。 (私)こられる土器との球半期(反旗):紀元前2世紀大. こられる土器の登場は鉄器文化の波及と不可分の関連性があるといってこられる土器の出現を紀元前2世紀大義古朝鮮の変遷(ジューン王南天,衛満朝鮮滅亡)と関連を作って説明している。 (ダ)中道界イ・ドンギ:漢江(ハンガン)流域で中道界(風納洞(プンナプトン)式無紋土器)消滅,一部が内陸地域および東海岸に残存されてこられる土器は南部地域に広がる。 紀元前1世紀前半. (ラ)中道界消滅期:風納洞(プンナプトン)式無紋土器消滅. こられる土器で一元化される。 紀元前1世紀中葉-紀元前1世紀後半.

11三重歓呼は風納土城(プンナプトソン)の最も早い層と関連があるという(文化財研究所,2002).

12三国志韓電には馬韓と帯方郡(テバングン)の間に風納土城(プンナプトソン)と同じ程度の優れた政治集団の存在は全く記述されていないという点を注目しなければならない。

13冷遇材(2002)によれば,忠南(チュンナム)公州(王女)奉安リ,全北(チョンブク)長寿南陽里(ナミャンリ),忠南(チュンナム)扶余(プヨ)ハプソンニ,忠南(チュンナム),唐津(タンジン)にょっきりと,論山(ノンサン),ウォンブクリ トグァンミョドゥンの例がこれに該当するという。

14冷遇材(2002)によれば益山(イクサン)平葬リ出土ハンギョンと公州(王女)公山城(コンサンソン)出土ハンギョンは前漢大の東京としてまじめな人と関連があるという。

15冷遇材(2002)によれば,全北(チョンブク)と忠南(チュンナム)一帯で発見された一連の後ハンギョンらは皆公州(王女)-付与-益山(イクサン)の金剛中,下流権に限定される様相を見せていて,この一帯が当時馬韓の中心地だったことを示唆してくれているという。

16冷遇材(2002)のこのような解釈は日本の邪馬台国論争で影響を受けたと見られる。 周知のように,日本の邪馬台国論争では中国式東京が中国から流入した後邪馬台国を通じて,日本各地域に反射したがこのような東京の分布を分析して,邪馬台国の位置と権力集中に対する端緒(糸口)を探そうと思う研究が成される。

17この時期に早ければ制限された種類の鉄器だけを搬出する清川江(チョンチョンガン)以南地域に(ほれる)反して,その北側地域は多様な種類の鉄製農工拘留をはじめとする酒造鉄器が多量発見されて,両者間の鉄器文化の様相は大きい差があると見る。

18チョン・ヨンファ(2000)は西北ある地域に全国界の鉄器が流入した後南部地方で鉄器が広がった時点は紀元前2世紀以前なのに従来は慶州地域の鉄器は全国界の影響を受けたソ南部地方の酒造鉄器の系統を引継いで,漢方医単調鉄器技術を間接的に受け入れて,鉄器を製作されたと見てきたが彼の分析によれば慶州地域の鉄器は皆全国界をつなぐヨン画報-傾向(税)竹籬類型の初期鉄器遺物組合上を現わしていて,嶺南(ヨンナム)地方鉄器流入は必ず韓半島中西部地域と同じ脈絡で見ることはできないといっている。 彼はヨン画報-傾向(税)竹籬類型が南へ広がる時,中西部地方で主に一部品目に限定された青銅器を代える現象を見せることとは違って,嶺南(ヨンナム)地方では実用的な鉄器として受容されたという点で受け入れ背景が違った可能性をのぞけるという。

これはこの地域で早い時期から鉄器の自体生産が可能だった技術的段階で可能だったと見ることなのに慶州地域で鉄器の自体製作技術を確保した時期に中国は鉄器製作技術が国家によって,厳格に,統制されていた点を勘案すれば当時慶州地域の鉄器文化の水準が違う地域と比較して,相当な優位にあった可能性を示唆していると見る。 実際に彼の論文によれば非常に制限的な鉄器だけを搬出する金剛流域とは違って慶州地域は鉄器の種類と数量面にあって祈願後で早ければ金剛流域より優位にある状況にあったと見られる余地があると見る。

19三国志危地東夷前

20ただし,冷遇材(2002)はチン王と馬韓王を分離して,チン王は金剛流域を支配する首長である反面三国史記に登場する馬韓王は他の存在として3世紀中葉当時馬韓社会全体を統制した実力者がいるならばチン王でなく馬韓王だと呼んだことといっている。

21紀元前韓半島の中のセヒョン銅剣文化の中心地は大同江(テドンガン)流域と金剛流域そして慶尚道(キョンサンド)地域ということができる(ある国喪固辞(考査,告辞,枯死)学会間韓国上告社(II)のセヒョン銅剣文化の地域的特性,異種では,1992). 二才地域中最も開始がはやいのは金剛流域として従来の通説のように大同江(テドンガン)流域が古朝鮮,金剛流域がジューン王の南天紙という視覚で見れば混線ができることになる。

22岡内三真はイ・チョンギュ(1997)で才人用

23大同江(テドンガン)流域の土器は植木鉢兄土器と原著端境号を週にした養殖がすでにモックァンミョダンゲに成立して(国立中央博物館,2001)ジューン王のウォン乞食が大同江(テドンガン)流域の場合にはこれと類似の養殖の土器が漢江(ハンガン)流域で出てこなければならないが現在まで漢江(ハンガン)流域の外来界土器で大同江(テドンガン)地域の直接的影響の痕跡を探すことは容易ではないと見る。

24ヨン画報-傾向(税)竹籬文化がオンドル施設を整えた地上(紙上)家屋,灰色のテトにスンソク文(門)を他日ある他日文(門)土器,名刀前,中国系鋳造機術を基づいた発達した全面的鉄器文化および青銅奇聞化の消滅(チェ・モンニョン,1997)という点を特徴として,漢江(ハンガン)流域の文化やはり更迭無紋土器とともに他日文土器,クドゥルシソル,青銅奇聞化の消滅という共通点を見せている様相を考慮すれば両者間の関連性はずっと注目しなければならないと見る。

25このように見るならば,馬韓は従来の考えと同じように金剛を中心にしたセヒョン銅剣文化圏を指し示すのではなく,漢江(ハンガン)流域を中心にして発達したチョルギムヌァジヨンヌル基盤で韓半島全域にその影響圏を(狂う)及ぼす勢力で再調整することができる。 馬韓は従来の考えのように"土着人の成長"で成り立ったのではなく,ユイ民による鉄器文化の大々的普及(補給)に祈願を置いた,ユイ民集団と土着人の連合による新しいチョン・チセ力で席付けることできるということだ。

26実際に馬韓を伝統的な認識のように忠清道(チュンチョンド)一帯に非情でなくて,京畿道(キョンギド)一帯に非情な別個の全勝も存在するという点を注目する必要がある。

27この土星は後代に行けば百済の都城としても機能したとのことは明確だと考えられるのに三国志のチン王=百済王という解釈が可能かという問題に早ければまた他の複雑な問題が発生することになる。 少なくともこの問題に関しては漢江(ハンガン)流域の文化の所有者に対するもう少し緻密な分析が返事を与えるはずだ。

28この文化は"青銅器とは決別した完全な鉄器文化"の姿を見せていると言える。 またこの文化の形成に寄与した"外来文化"には単に一つの系統=移住民集団万が存在するのではなく,清川江(チョンチョンガン)北側の色々な集団らが青銅器時代までは単に一種の"公示"に過ぎなかったこの地域で連続的に南下してきたところで起因したと見ることもできる。

29金剛と栄山江(ヨンサンガン)流域は3世紀に早ければ他の地域より鉄器文化の導入と流行が先んじていた地域だと見るには難しくて漢江(ハンガン)流域に同時期に風納土城(プンナプトソン)がすでに席を占めていた可能性を考えてみるならばより一層そうである。 したがって三国志"チン王"の木芝国を現在の通説のとおり金剛流域で見ることになれば,この地域を中心にした勢力が三国志韓電が記述した時代に韓半島全域にかけて,鐘主権を行使していたと見にくい状況だという点を指摘せざるをえない。

30辰王治月支国(三国志韓電)

31現在木芝国の名前に対しては三つの他の名前が伝えられてきている。 すなわち,木芝国(目支国,翰園主(州,株)ウィリャク,後漢書,通典),月支局(月支国,三国志)そしてさあ支局(自支国,翰園主(州,株)危地)だ。 この三種類の名前は並んで書かれたことでなく一つの名前を残り二種類が間違って記録したと見ることこの一般的だ。

32冷遇材(2002)は現在学界には三国志の月支局説に従う研究者もいるが大部分の場合,後漢書の木芝国説に従うといった。

33違例性と隣接した川名前が郁李しろと三国史記には出ているのにこれを現代中国音で読めば上(胃)リ(yuli)だ。 漢字では違例とかなり異なるが現代中国音で読む場合,郁李下衣郁李(yuli,上(胃)リ)と違例(weili,ウェイリ)はほとんど似た発音が出ることが分かる。 月支局の"月紙"の場合には"紙"を首長に対する伝統的な称号で見る場合"月"はウィアー(yue)と発音されて,だいぶ似ていることを考えてみることができる。

34筆者は風納土城(プンナプトソン)が初期には"チン王"の打ってのせたが,この後あるシギエンガこの地域の敗者で登場した百済やはり後代には首都で使ったことではないか推測している。 このように見るならば,"違例"という名前は百済以前からすでに使用されたことだと個人的には考えるがやはり十分な根拠は不十分だ。

35侯準僭号称王為燕亡人満所攻奪将其左右宮人走入海居韓地自号韓王其後絶滅今韓人猶有奉其祭祀者

36準後滅絶馬韓人復自立為辰王

37三国史記百済王の伝記温祖王34年組

38三国史記新羅王の伝記脱解王5年組,馬韓将孟召以覆巌城降

39三国史記百済王の伝記温祖王34年組

40 二十九年春二月王命東部築牛谷城以備靺鞨

41靺鞨入牛谷奪掠民口而帰

42靺鞨入牛谷界奪掠人物

43温祖王2年,靺鞨連我北境

44温祖王3年,靺鞨侵北境;陳謝王7年,靺鞨攻陥北鄙赤〓城

45東城(トンソン)王4年,靺鞨襲破漢山城

46温祖王26年,潜襲馬韓遂并其国邑唯円山錦〓二城固守不下

47キム・ビョンナム(2002)は原産性を忠南(チュンナム),錦山(クムサン),珍山面(チンサンミョン)の東側30にあった猿山郷で見る見解に従っているが三国史記には出兵襲新羅西境円山郷進囲缶谷城(草稿王25年組)として,原産香りは新羅の領土内に属した性と記述していて,原産香りと原産性は区分してみなければなければならないと考える。

48聖王26年組に,高句麗王平成与党〓謀攻漢北独山城といって,禿山城(トクサンソン)が漢江(ハンガン)の北側にあったことを明確にしているのに,2年後の28年組に王遣将軍達己領兵一万攻取高句麗道薩城三月高句麗兵囲金〓城といって,百済と高句麗の間に屠殺性とクムヒョン性を置いて攻防が広がったことを使っていて,クムヒョン性が当時の漢江(ハンガン)を間に置いて高句麗と攻防を行った状況と密接な関連があることが分かる。 一方同じ事件を新羅王の伝記では百済抜高句麗道薩城高句麗陥百済金〓城主乗両国兵疲命異斯夫出兵撃之取二城増築といったが真興王対に一度の出撃で百済と高句麗の城2ヶを皆奪取したという記録を残している状況から見て,クムヒョンは屠殺性と共に漢江(ハンガン)流域にあったと見ることが最も合理的であるようだ。

49馬韓在西其民土著種植知蚕桑作布各有長帥大者自名為臣智其次為邑借散在山海間無城郭(三国志韓電)

50大国万余家小国数千家総十万余戸(三国志韓電)

51寒暑地理誌

52三国志危地倭人伝

53後漢書と三国志の記録が相異なった部分があってどちら側をさらに信頼できるかという問題はその間多くの学者らによって議論されたことがある。 そうみたいなコでは三国志や後漢書両者皆韓半島南部での"チン王"という存在を記述していて彼の役割に対する認識やはりほとんど似ていたと見て三国志を主に,後漢書を補助的に引用した。

このような点でみたコは"チン王"を"ある全体を統治する総王"として把握する1950年代までの通説(これに対する整理は冷遇材(2002)に詳しい。)ウイ延長線上にあるといえる。 冷遇材(2002)によればこのような通説はその後三国志東夷前により大きい比重を置くことになることで批判を受けることになったがこのような批判が伴うことになった背景には何よりも"韓国古代の政治発展段階上そのような広域の王が三韓時期に存在することは不可能だという大勢論が共感"よかったためだという。 しかし,現在漢江(ハンガン)流域で三国志の時代に強力な政治的勢力が存在した可能性が提起された以上"三韓総王説"は原点からまた調べるべきだと見る。

54この程度での影響力は実際にセヒョン銅剣文化人の子孫が持っている"先行獲得権"だけでは生じることができないと見る。 それよりは実際の"生産力と武力(無力)"が優位にある集団ではないならば不可能だということができる。 結局,金剛流域の3世紀の状況ではこのような影響力は不可能だと見る。

55三国志韓電には其官有魏率善邑君帰義侯中郎将都尉伯長といって,馬韓の官職名を記述している。 名称上で見れば,中国が周辺のマニグンジャンに下賜した官職名と見えて実際にそのような意図で賜与されたことで考えられるがこの官職名が郡県の官職名という漸移"ある"世界の内部秩序の不在と中国の統治の強固さを意味することとは見られない。 実際にこの文章は辰王治月支国という一節のまさに後に出てきていて,チン王と関連を意識して挿入したという感じが強い。

したがって上(胃)によって,授与された万が軍装に対する官職だという点を認めるとしてもこれら官職はチン王の下位に存在して,チン王の統制を受ける官職という意味があると見たい。 同じ時期倭人伝を見れば今以難升米為率善中郎将牛利為率善校尉仮銀印綬引見労賜遣還といって,卑弥呼が送った使節にやはり類似の名称の官職を下賜して送っているという点を勘案すれば,当時韓半島南部地域まで強制するほどの威力を持つことができなかった郡県とある社会間のタ〓?結果と解釈してみる余地がある。

56ユン・ソンテ(2001)は最近の論文で三国志韓電の"仮住まい号"以下の薪智(シンジ)は他の小国らとは差別される三韓の大国らとしてチン王はこれらに対して政治的影響力を行使することによって韓半島南部地域に対する年とおよび陸路交易網を掌握したといった。

57この文章は"馬韓"と"郡県"の警戒(境界)にどんな政治的勢力の存在も示唆していないことに,馬韓が大方(テバン)と直接チョプケハであった可能性を示唆してくれることでもある。

58この一節中山海間という話は地理的に韓半島西南部地域を示すと見られて,伝統的に馬韓だと見てきた金剛南地域を示すことだと見る。 こちらに城郭がないといっているのにこの問題は現在考古学的に不正が試みられている状況だが,概して韓半島西南地域が城郭が違う地域より多くないということは事実ということができる。

59余期には馬韓地域で"城郭"と"官庁"を作る姿を説明している。 従来これを(11)飼料の内容と差があることを聞いて,三国志韓電の信憑性に問題があるという見解があったがむしろこれは馬韓社会内の北側と南側地域の差と解釈してみる余地がある。 すなわち,南側地域は城郭が多くなかったといっても北側地域は城郭が築造される姿を描いていると見たい。 この飼料内に存在する一節中"若者が背中の皮を突き抜けて,列を通して.."という部分は一部学者によって"背負子(しょいこ)負けた姿"と解釈されてワッ オンヌンデ(罹病も,韓国史古代便)が一節で"風納土城(プンナプトソン)"と同じ大規模土星を時祝いは状況を浮かび上がってあげてみることもできる。

60三国志危地東夷前. 月支局と共に表記された太い文字の国家は同じ三国志に出てくる,薪智(シンジ)名称に仮住まい号なったことで考えられる国家だ。 前にある数字は一連番号.

61この主張に対しては反論もある。 何よりもコンマグクが全北(チョンブク),益山(イクサン)に非情なのに反して終わりで二番目に出てくるという部分がそれだ(冷遇材,2002).

62武田幸男,1996.冷遇材(2002)で才人用.

63最も最後に記述されたのはマ国と最も初めに記述された有爰襄国が各々馬韓の男系と北界に該当すると仮定して見ることができる。 北側の末に位置したという有爰襄国はどこなのか分からないが,百済国(伯済国)と月支局は全体馬韓を構成する国家ら中だいぶ北側に位置していたし,二つの国家はだいぶ至近距離にあった可能性があると見ることができる。

特に3世紀帯方郡(テバングン)の南方限界を上(胃)-賑貸の電蓄分で象徴される勢力が(狂う)及ぼす南方限界を馬韓の北側警戒(境界)が始まると仮定してみるならば(韓在帯方之南東西以海為限南与党倭接)私たちの思ったより馬韓の北側警戒(境界)はだいぶ北側まで上がっている可能性を考えてみられるし月支局は概して漢江(ハンガン)流域に位置していたと見ることができる。

ここでもし漢江(ハンガン)流域が祈願前後して,相当な水準の文化的共通性を持った領域の特徴を見せているという最近の報告を信頼するならば,漢江(ハンガン)流域,南漢江(ナムハンガン),北漢江(プッカンガン)を含むこの文化圏には非常に複雑な出資の外来移住民らが定着したと見るが百済建国勢力だけでなくジューン王で代表される勢力も同一地域に定着したと考えて,これらは土着勢力とも競合して,漢江(ハンガン)流域の鉄器文化の発展に寄与したと考えてみることもできる。

64ユン・ソンテ(2001)によれば,特に西進対の中国遺物が出てきた洪城(ホンソン)の新金性はチン王権力と関連して,非常に注目されるところといった。

65これに対しチョン・クァヌゥ,全英だって,キム・テシク,利刀学,キム・ヨンシムなどは5ヶのウムミョンで切って読まなければならないという立場の反面罹病も,耳基洞(イギドン),路中国などは4ヶのウムミョンが正しいという立場にある。

66位三個の小国は名前が非常に似ていたり同一だということでこれと共に推定した。 日本書紀の不正と壁中の場合も馬韓前の壁不正国とどんな関連があるかも知れない。

67従来と一緒に金剛流域に月支局を非情な場合,地盤国などと月支局間の小国の数字がとても多くて,通説のとおり地盤国などを全北(チョンブク)地域に非情な場合,金剛流域はこれからとても近接していると話できる。 ただし,天安(チョナン)をはじめとする忠南(チュンナム)北部地域の場合はまだ月支局の非情紙としての可能性を完全に払拭するには(早い)達すると見る。

一方,もし三国志韓電が北側で南に小国名を記載したという通説が正しいならばコンマグク=金馬面(クムマミョン)という従来の通説は在庫(再考)されられるべきだと見る。 コンマグクは54回目に存在するので全南(チョンナム)海岸地域に存在したと見ることが正しいと見る。

68陳弁漢方医12国がチン王の統制を受けていたというので馬韓の領域を共に含めばチン王の統制を受けていたと考えられる数は馬韓を含む韓半島南部地域総80万人程度がチン王の影響圏下にあった計算だ。 これは三国志魏志東夷傳文脈だけでは解釈するとしてもチン王の影響力の範囲がだいぶ広かったということを示唆しているといえる。

69このような推論はチョン・クァヌゥ(1991)に基づいたといった。

70クァク・チャングン(1999)で才人用

71特にこの地域は従来百済文化圏に属することで認識されてきたのにその勢力集団が百済でないカヤの文化を基盤としていると確認されて注目をあびているといった。

72これに関してユン・ソンテはキリヨンジョントゥダンシ身分故国は近隣の他の6国より相違(上位)の権力者としてこれらを一定に統制,指揮していた状況であったのを示唆したがこれは3世紀前半帯方郡(テバングン)崎離営を攻撃したという臣智激韓が宋本には神策添え状と記載されたことに注目して,これを人名(人命)でなく国名で把握してシンブヌァルグクの異称身分初め国と同一視したところで起因したのだ。

特に彼は三国史記百済王の伝記古爾王13年弔意記事(棺柩黒く楽浪太守有無,朔方太守ワン・ジューンと共に高句麗を征伐したが王が隙間を他座長尽忠を送って,楽浪辺境の住民をチュィスパだった...王が侵略を受けるか恐れて回してくれた)をキリヨンジョントゥと連係させて,解釈して,当時百済が身分故国と共に郡県と抗争する状況だったとした。

たとえ詳細な論旨は本稿と違うようだが,筆者はこのような身分故国の位置づけは他の"仮住まい号"なった小国ら,すなわち身運神国,アン,旧野菊の場合にも同じことだったと思う。 すなわち,これらは周辺の小国を統轄して,チン王と密接な関連を持って韓半島西南敷地駅の貿易路の維持に参加していたと見る。

73このためにユン・ソンテ(2001)は身分故国をチン王の下位にある存在と見なしていましたが,百済を圧迫する"靺鞨"と同じ存在まで把握していた。 筆者はこのような見解に全面的に同感することはないけれど,身分故国と百済は共に漢江(ハンガン)北部地域に存在したし,相当な近距離に位置していたという点には共感する。

74チン王と韓半島南部の交通路の維持が密接な関連があることはすでにユン・ソンテ(2001)によって提起された。

75韓国の槐亭洞(クェジョンドン)類型は韓半島内では最も速いセヒョン銅剣遺跡なのに,その先行型は動揺のチョンガワジャ類型にある(信用民,2000). まだ韓国青銅奇聞化の全貌が確認されなくてこの類型の文化やはり陸路を通じて伝播した可能性も排除できないが,現在まではチョンガワジャ類型で槐亭洞(クェジョンドン)類型の間に中簡単界の類型に対する報告がなくて,動揺地域から海洋を通じて,直接的に伝播した可能性が高いと見る。

最近では山東(サントン)半島に分布する誌石墓は北方式でなく韓半島南部にたくさん分布する南方式という主張が提起されたがこれまた陸路を通した電波が容易でないという点で韓国青銅奇聞化のある時期に海路を通した移動が非常に活発に伝播したことを上程(想定)して見ることができる。

76チョモンシギエも韓半島南部との文化的交流は存在したものとみられるが,問題はどの程度で海辺の道を通した交流がよく整備されていたのかの問題と考える。 弥生時期の文化的展開は韓半島南部で発達した青銅奇聞化の提要所が時間的な前後関係により整然と伝播する姿を見せているのに,このような様相は青銅気候期の海洋交通路が一回的で断続的な水準を越えていたことだと見る。

77弥生文化の祈願に関しては多くの論議が存在するが,この文化の成立に(狂う)及ぼしたチョモンインの影響を認めるにしても文化の成立と発展に韓半島南部地域の青銅奇聞化,特にソング国利類型に密接な関連を持っているという点は否定しにくいと見る。

78日本弥生文化の性格に対しては多くの論争があったが現在までの調査報告を土台にする時,チョモンインの文化的人種的寄与を認められるが,弥生文化自体が韓国青銅奇聞化のある有形人ソング国利類型を基盤で成立することになったとのことは否定しにくいと見る。

だが弥生文化が開始されて以来韓半島で日本側に流れた文化的,人種的流れがソ・キウォン年を越えれば(弥生後期)西日本各地で日本固有の文化で発展するのにこの時期に早ければ,今まで韓半島で日本列島での一方的移住,電波であった様相が逆流する傾向を見せ始める。 最近発見されてみてなった南海岸一帯のなぜ系ハ紙するのに(土師器)の場合このような交流の結果と見られる。

79最近西海岸(ソヘアン)地域で発見される方形走狗廟議場合,このような交流のまた他の例になることができると見る。 パン・ヒョンジュ丘墓は日本列島で弥生時期の主要な売り場方式の一つで知られているのに最近これとの直接的関連の有無はまだ不明だが,これと類似の形式のパン・ヒョンジュ丘墓が西海岸一帯に相当数存在することが報告されて,関心の対象になっている。

この主丘墓の場合,現在売り場主体部がほとんど発見されなくて,発掘者などはこの廟議場合売り場主体部が分区の上に造成されていると見ているのに現在までは土器などの副葬品の出土が多くなくて完全な解明には至っていなかったと見ることができるがこのパン・ヒョンジュ丘墓が日本弥生時期のことと連結したことが明らかになる場合その起源問題を含んだ論争が深刻化されると見る。

80これらは他の風俗(風速)上の技術なしで保全にたけていて兵仗器が馬韓と同一だという点だけを記述した点から見る時,単純な生産職に従事した人々ではないと見られるが,このような技術自体がピョン・ジンハンという韓半島内の大きい政治体の枠組み中で説明されている点に注意するべきだと見る。

81この破片的勢力らの文化的同質感,連帯感が結局,栄山江(ヨンサンガン)流域,行くべきで駅,なぜ間の連帯感だと考えてみることもできる。 言ってみれば貿易路が各個撃破,切れて,生存に困難を経験することになった集団らの連帯が歴史的に存在したと見ることもできますがこのように見るならば,暗記してきて韓半島南部地域の連係は従来一部の主張のようになぜの進出が媒介になったことでなくチン・ワンデにすでにある程度完成されていた結果で見られる。

言い換えれば,漢江(ハンガン)流域--金剛流域--カヤジヨク--なぜの連結は韓半島側のチン王と日本列島の倭王を頂点に構築されていたことなのに,この中漢江(ハンガン)流域のチン王が百済によって,打倒されて新羅によって行ってこそ行って,圧迫されて,このような交通路は崩壊の危機に処したことだと見ることができる。 なぜの立場ではこのようなチン王が消えてしまった状況で韓半島南部に残っていた交通路上の小国らに対する"後援駅"を自認していたとも見られる。

82日本書紀に見えるクン草稿王となぜとの間の交流はクン草稿王が従来の交易路を通じてなぜとの接触を試みたと見ることができる。 飼料には百済と暗記しては接触以前にはお互いに対して大きくよくわからない状態であったものとみられるのにこれは百済が当初この交易路に参加しなかった状態であったがこの時期に達して,積極的にこれを利用しようとする試みの結果と見られるようだ。

83斤草稿王の南征時,なぜが共に参加した理由は百済よりもなぜがこの交通路の利害関係にさらに密接に関連になっていた巷の事情と関連があると考える。 したがってなぜが百済に"任那の土地を割譲"とする記録などはなぜの政治的影響力が韓半島南部に(狂う)及ぼしていたのが重要な点でなく,当初に負けた王が支配した韓半島南部地域の交通路の統轄権を百済が引き受けしようとすることに(早い)達して,なぜがこれに積極的に同調することによって成立したと見る。

84百済の南天時大きい功績を立てた首ほど背中は後代に行くべきで訳科の密接な関連が看取されるのに,これは金剛流域で行くべきで駅につながるチン・ワンデの交通路の残存の結果と見られる。 すなわち,熊津(ウンジン)南天以前の百済に圧迫された金剛--行くべきで駅の小国残存勢力らはチン王の滅亡以後にもなぜとの交流はずっとこの沮側?あったが百済が大きい打撃を受けることになることに(早い)達して,百済の復興に従来の交易路上の私の小国らが積極的に参加することによってこのような記録が残ることになったと見る。



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29イ・ヒジン,1998,「初期記事に対する最近紀年再調整の問題点」『歴史学報』160 30チョン・ヨンファ,2000,「慶州地域鉄器生産の変遷」『顧問化』韓国大学博物館協会,pp. 59-91 31チョン・クァヌゥ,1979,「馬韓帝国の位置時論」『東洋学』9 (冷遇制,2002で才人用) 32チョン・クァヌゥ,1991,『カヤサヨング』一切れ(ユン・ソンテ,2001で才人用) 33チェ・モンニョン,1997,「鉄器時代の時期区分」『韓国史3,青銅奇聞化と鉄器文化』pp. 325-342.34チェ・ソンナク,2001,「馬韓論の実体と問題点」『博物館年譜』9木浦(モクポ)大博物館.











絵1.風納土城(プンナプトソン)を馬韓の中心地で仮定した場合の概略的な絵馬韓は複雑な性格の多様な集団が存在したと考えるのに,現在までの発掘報告と文献記録を土台に推定してみようとするなら漢江(ハンガン)流域に最近共通の文化の存在が報告されて関心を引いている中道文化圏は風納土城(プンナプトソン)の成立と密接な関連があると思って,チン王の所在地の風納土城(プンナプトソン)(星印)がその中心地役割をしたことだと推定して見ることができる。 従来馬韓の中心地が所在したと考えた金剛流域文化は本稿では馬韓に含まれるが中心地の役割はできなかったことだと見たが,最近天安(チョナン)を中心に報告されている鉄器文化の様相を見る時,忠南(チュンナム)北部地域の場合はまだ馬韓の中心地の候補地から除外することは早いと見る。 暗く塗られている部分楕円は日本書紀神工期49年組に出てきた5ヶ村(不正壁重砲未知バンゴ寺邑)の所在地で現在の学者らの相当数はこの5ヶ村が全北(チョンブク)地域を中心に分布していたことだと見ているのに,同一だったり類似の名称の国名が馬韓前に出現している。 これらの国らが三国志韓電に見える順序を基準として計算する時,馬韓の南端までは16ヶ国がさらに存在して,月支局までは20ヶ国が間にあるのに通り(距離)上でボア金剛流域に月支局を非情なのは難しいということが分かる。 だが,天安(チョナン)地域の場合は通り(距離)上で見る時,馬韓の中心地での非情がある程度可能だ。 以外に栄山江(ヨンサンガン)流域と辺鎮界流域も三国志韓電の記録を参照すれば,チン王の地図下にあったと思う。 三国志韓電の"仮住まい号"なった薪智(シンジ)はチン王と違った小国間に存在する優勢な薪智(シンジ)らだったことと見るのに,韓電には4ヶの国家の名称が記されている。 Aの場合は身分故国として風納土城(プンナプトソン)より北側にあって,百済とともにある江北(カンブク)の側に位置していたことと考えられる。 月支局で馬韓の北側警戒(境界)までは13ヶ国しかなくて,ある江北(カンブク)側の京畿(キョンギ)北部一帯に馬韓に属した小国の存在を認めようとするなら,金剛流域に月支局を非情なのはかなり難しくて,風納土城(プンナプトソン)と天安(チョナン)地域だけがその対象に入ると見ることができる。 仮住まい厳しい薪智(シンジ)は辺鎮の中(案)野菊(C)と旧野菊(D)にも存在したがこれらは韓半島内の交通路の要点を掌握してチン王と共に馬韓の優勢な勢力を形成していたと見る。 Bは身運神国で通り(距離)上で見る時,全南(チョンナム)地域と考えられて後代の栄山江(ヨンサンガン)流域の勢力と連結した可能性を考えてみることができる。 三国志を検討すれば,月支局を中心に北側には13ヶ国が,南側には41ヶ国があって,月支局が全体馬韓の地図で見るならばだいぶ北側に偏った局面だったことが分かる。


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