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古代史の資料集です。
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14.鎮営将鎮営将は1627年(人造5)各道の地方(脂肪)軍隊を管轄するために設置したチン・ヨンウイ長官を示すのに別名令状または鎮将ともする。
鎮営将は正3品堂上職で八道に46人と強化部の鎮撫営に5人があった。 江原道(カンウォンド)には3人で春川(チュンチョン),江陵(カンヌン),三陟(サムチョク)に各々1人ずつあった。 これらは中央の総ユング庁,守禦庁,鎮撫営などと各道の監営(カミョン)兵営に所属して,地方(脂肪)軍隊を統率した。

令状節目によれば鎮営将は必ず堂上官以上で抽出するようにしたが,時には文官や音観が選抜される場合もあって,軍兵を統率するのにたけていることができないだろうか心配で,極めて厳選するようにした。
鎮営将の任期は2年だった。 合わせて鎮営将は絶対に任期前に他の職責に移ることが許諾されなかったけれど,令状の職責が苦役であることを勘案して,後で令状の任期が十五月で縮小される措置が取られる。

鎮営将は任務が重大なだけ権限も強かった。
鎮営将は10月半月以後から1月大晦日以前まで各村を巡歴して,三回軍事を訓練させて,年末には監査(感謝)と病死(兵士)が一緒に集まった中で五陣営が共同で一度真法を習うようにした。
鎮営将は普段には命令が設置されたジングァンに留まっていて農閑期に所属各村を巡歴して,軍兵に対する訓練や武器または服装を点検した。

一方鎮営将が巡歴する時,軍事訓練や群舞(軍務)と関連した長官および受領(首領)の誤りを鎮営将が処罰して上部に報告する権限があった。 すなわち部下の長官が誤りを犯せば令状が処罰して,受領(首領)すなわち三陟(サムチョク)の場合三渉府士が過ちを犯した場合には江原道(カンウォンド)の監査(感謝)と病死(兵士)に見たりして処理するようにした。 暁鐘対以後には鎮営将の権限がより一層強大になる。

すなわち受領(首領)が鎮営将と高くて低さを比較したりまたは令状の命令を破ったり接待などを疎かにすれば鎮営将は監査(感謝)と病死(兵士)はもちろんで,中央の備辺司と兵曹に報告するようにしたし,群舞(軍務)に関する重大な誤りを受領(首領)が犯した場合戒文するようにしたほどだ。 したがってこの時代には地方(脂肪)受領(首領)と鎮営将の葛藤がそのどの時より激しかった。

概して鎮営将が人造の時設置されて廃止されて1657年(暁鐘8)に復旧した以後これに対する廃止議論が大きく2種類の側面で起きたが,財政問題と迷惑問題がまさにそれだ。 ヨンドン地域のようなところは令状がなくて,軍政が粗末だがそれ位の物力がなくて,設置できないほどであった。 鎮営将をはじめとする所属軍人らの給与と食糧経常経費を各地方(脂肪)都護府で負担するようになっているが三陟(サムチョク)部の場合その財政をまったく耐えられることはできない状況だった。 このように令状新設にともなう最も大きい問題は財政窮乏だった。

次に鎮営将の民間に対する弊害が深刻だから廃止しなければならないということだった。 たいていこれら令状が赴任する時にはジングァンの借金が山のようで,これを補充するためには結局住民たちの財布を払いのけなければならない弊害が連続した。 ない罪を作り出しておいた後金を受け取って解くなどこれらの威勢が高まって地方(脂肪)受領(首領)らがむしろ萎縮する状況にまでなることになったし,年齢幼い無関係が才能一つだけで職任を跳び越えて,昇進するなど位階秩序がきわめて混雑した。

とにかく鎮営将はその任期を満たしたら受領(首領)またはコン数に進めたのに,任期の間は軍事訓練および軍備拡充に忠実でなければならなかった。 たいてい各道の監査(感謝)病死(兵士)が兵丁を専門担当したのに比べて,鎮営将は訓練軍旗(軍規)湿疹などの実務を担当した。 この他に各チンに散在されている司僕寺管轄の牧場に対する監督業務を兼ねたりもした。 このような鎮営将制度は1894年高宗(コジョン)31年まで存続したが,三陟(サムチョク)布陣もこの時まで東海岸海上防衛司令部としての役割を遂行した。
※参考資料-[民族文化大百科事典]第21冊,[三陟市(サムチョクシ)紙]

朝鮮初期期のクン司祭も<三兆元年(1455)と3年(1457)に改革した軍事組織>・江原道(カンウォンド)軍事組織;道内の陸軍を統率する指揮官を兵馬節度使といって,観察使が兼職,その所在地の原州(ウォンジュ)が主鎮・主震の下に3ヶのジングァンで編成;江陵(カンヌン)珍菓はウォン・ジュジン観会両陣観,ジングァンの親分を節製使といって,その地域の受領(首領)が兼職.
・各ジングァンはまた中左右翼で編成・江陵(カンヌン)ジングァンの場合江陵(カンルン)大都護府を中イク,襄陽(ヤンヤン)干城(カンソン)古城(大声)通川(トンチョン)の猪津(チェジン)を左翼,三陟(サムチョク),蔚珍(ウルチン)評解義猪津(チェジン)を右翼といって,受領(首領)が兼職;郡守級以上の大きい村の受領(首領)は同僉節制使・県令以下の受領(首領)は節製都尉と呼んだこと


15.許穆組では中期三渉府士を歴任したホ木船生は寝る文簿または画報,ホは未遂またはテリョン老人といったが先祖28年の1595年漢陽チャンソン方で県監教義(校医)長男に生まれた。 幼いころから聡明で学業に専念して,早く大きい人物に成長することができたのに1626年人造の生母ケウン宮ク氏の服喪問題と関連して過去を見ることはできない停車の罰を受けることになって,これによって学問にだけ専念することになった。

在野の指導者であったホ木船生が中央政界で著しい活躍を始めたことは暁鐘賃金が亡くなって玄宗賃金が即位した1660年司憲府将令(本当に4中)で登用されてからだ。 この時暁鐘賃金の継母の趙大妃が数年の間喪に服しなければならないかという服喪問題でソン・シヨルと対立することになるのに,ホ首をはじめとする南人らは3年正月を主張してソン・シヨルを筆頭としたソインらは満1年正月を主張した。

これは単純な服喪問題でなく玄宗賃金の王統の正当性と関連になった非常に敏感な問題であった。 玄宗は暁鐘の次男なのに兄のソヒョン跡継ぎが死んで,上の子の代わりに王位を継承したので暁鐘を長男と認定すれば趙大妃の服喪は3年であってこそして,そうでなければ満1年だ。 ところで結論は当時の法典の経国大典により長男でも二番目以下でもそのお母さんは皆満1年喪に服しなければならないということだった。

結局ソン・シヨルをはじめとするソインらの主張と同じ決定が下されて,このような複製論争是非で政界が騒がしくなると玄宗賃金はホ首を三渉府士に任命(左遷)したのだ。
三渉府士で赴任したホ首は郷約を作って,住民教化に努める一方脊柱紙編纂,脊柱東海(日本海)費建設など多くの政治功績を残すことになる。

そうするうちに1674年暁鐘王妃が死ぬやまた趙大妃の服喪問題がまた提起されるのに,経国大典には長男の嫁の上の場合姑は万1年,二番目嫁以下は9ヶ月に規定された。 この時調整の中心をなしたソン・シヨルとソインらは暁鐘王妃を長男の嫁と認定しなかったので9ヶ月福を主張したが玄宗賃金はそれが不当だと考えられて,万1年福で直す。

これでソン・シヨルとソインらは失脚して南人らの執権と一緒にホ首は吏曹参判,吏曹判書を経て,右議政に昇進されて,過去を経ないで唯一大臣に上がった。
右議政で再任(在任)時島流し中だったソン・シヨルに対する処罰問題を置いて領議政ホジョクと対立して,これによって南人は玉ネギで分かれることになるのに,ホジョクはソン・シヨルの処罰を軽くしようというタク・ナム,ホ首は苛酷な処罰を主張するチョンナムの親分になった。

1678年位を捨てて帰郷したし1680年ごろシンデ黜陟で南人が失脚してソインが執権するや官爵を削奪されて故郷で著述と後進陽性(養成)に専念して1682年死んだ。
ホ木船生は絵と文字,文章に皆優れたし,文字は特に伝書に優れて,東方第1人者という賛辞を受けた。 作品では脊柱東海(日本海)費とヨンサンイウォニクピムン. イ・ソンジュン表文があって,絵では墨竹図が伝えて。 著書では[凍死(同社,動詞)] [未遂奇言]などがある。

1688年官爵が回復して,1691年彼の神位を奉安する賜額書院で米江西(カンソ)院が漂白軍(郡)にたてるようになったし,羅州(ナジュ)の米天瑞院. 昌原(チャンウォン)の会員誓願にも祭事なった。

諡号は門庭.
※参考資料:[三陟市(サムチョクシ)紙],[未遂ホ首の書道研究](三陟(サムチョク)文化院,1994),[失職文化]第3集記録に現れたホ首の姿と人柄・清秀な姿に細長いからだ,凹んでいた額に長い眉毛...恬淡しながらも広大だ....痩せた顔長い眉毛にスマートで優れていてみるので(に)新鮮同じだったし,対すれば意志の強くてさっぱりしているおもむきがあったので要するに世の中に珍しい方である(奇言)・昔の人の風貌と白い毛が混ざった眉毛で鶴と同じ姿があった(粛宗実録)・権力にへつらわないで正しさを守って揺れないこともただホ先生がそうしたし,妥当さを報告書進んで兆しを識別してはまもなく退いてきて終始(本末)が法度があるようにすることもただホ先生がそうした。

...初夜にある時には算数に趣味を付けて,膝を積み重ねて座って,先王らの道(ド)を歌って将来人生を終えるようにしたし,賃金が礼を尽くして,招へいすることに(狂う)及ぼしては何度も遠慮してひいては美しい計略を賃金に話すものの,賃金と民を孝順時のように作る考えが切実だった(城壕利益,神道碑明記)未遂ホ首の学士的位置ホ首は上に(で)退渓イ・ファンの学を受け継いで下へ城壕利益の学を発展させた方。 嶺南(ヨンナム)の性理学と近畿の実学に掛け橋自適役割をした方。


16.三陟(サムチョク)義兵の抗日闘争旧韓末乙未事変と断髪令など制度の変革と日帝侵略に対抗して,チョック婿正義民族的死傷(史上,思想)と国権守護の救国的行動綱領で全国で義兵が決起して,抗争したが三陟(サムチョク)でも創意長キム・ホン卿(倡義将金憲卿)と西暦(書記)キム・タロ(書記金達鎬)等ユリムを中心に義兵が組織されて,抗日前を展開した。 三陟(サムチョク)の義兵は関東義兵と一緒に原産地駅まで上がって,日本軍を攻撃したし,ヨンドン義兵の最後の戦闘であった三陟(サムチョク)戦闘にも参戦した。

関東義兵長閔龍鎬は1895年12月3日原州(ウォンジュ),新林(シルリム)で決起して,寧越(ヨンウォル),平昌(ピョンチャン)精選で義兵を募集して12月16日江陵(カンヌン)に入ってきて,警武官高俊錫を処刑すると観察使二位(李〓)等が麟蹄(インジェ)の山中に逃げてしまったし,ミン・ヨンホは江陵(カンヌン)に関東窓(ウィンドウ)意図病巣(都兵所)を設置して,関東地方(脂肪)を掌握することになった。

この時ミン・ヨンホと江陵(カンヌン)創意長沈鴻沢は召募使3人,前後営2人,無事. 砲軍100人余りを率いて三陟(サムチョク)にきて,10余日間留まって,三陟(サムチョク)創意長キム・ホン卿,西暦(書記)キム・タロ,先頭朱明昇と結集した。
かくしてまず元山にある日本の勢力を攻撃することにして1896年正月に江陵(カンヌン)を出発して,2月6日安辺(アンビョン)の新平(シンピョン)に到着する。 ところで戦闘準備をしながら進撃している間天地を分別できなく吹雪が勢いよく固め打ちする中で日本軍の襲撃を受けることになって2月21日義兵らはしかたなく江陵(カンヌン)で後退した。

このように虚しく原産攻撃に失敗して戦列を整備している頃観察使徐廷圭が4月12日ソウルから降りた金鴻権中隊長の官軍を前面に出して,反撃してきた。 初めには大関嶺(テグァルリョン)の下大公山城(コンサンソン)で戦って,19人をひきつけたが多くの官軍がずっと反撃してくるので臨界百福令(領),北評を経て,三陟(サムチョク)で後退した。 義兵らは三陟(サムチョク)で気まぐれな鬱陵島(ウルルンド)視察社廉錫夏を先に処断してこれから差しせまってくる大田(テジョン)のために三陟(サムチョク)邑性を中心に陣を敷いた。

京軍の攻撃を備えるために三陟(サムチョク)義兵をはじめとする関東創意軍(郡)は最後の砦の三陟(サムチョク)性に総集結して,日帝の手先京軍との大血戦を準備していた。 ミン・ヨンホ隊長は同じ民族どうし戦うことができなくて何度も戦わないことを哀願したがついに聞かなくて結局一代(一帯)血戦を払うことになった。

三陟(サムチョク)に集結した関東義兵は3ヶ地域で分けて陣を敷いた。 村の後の行く山側ではミン隊長を始めとして,崔中峰,姜禹瑞,李永燦,全致雲,シン・ムソプなどがホを波高待ち伏せしていたし,村性には先頭金道鉉と閔東植の部隊が潜伏したし,竹西楼(チュクソル)東側にはキム・ホン卿キム・タロ主名勝など三陟(サムチョク)義兵らが陣を敷いていた。

この時に京軍は何の疑いもなしで市内に入ってきたし,待ち伏せしていた義兵らはいっせいに火をつけるとこれで三陟(サムチョク)大田(テジョン)別名行く山性の先日が始まったのだ。 1896年4月19日午前6時で午後6時まで一日中の血戦だった。

行く山とその北側山峰の間のアール開放材は双方ともの死傷者が多くて,火の海になったし,村性抱いた火の海になった。 義兵らは弾丸が落ちて,五十川(オシプチョン)で後退したし京軍らはこの機会をのがさないように性中に入ってきて火を付けた。 花火は天を突き刺すよう燃え上がった。 ミン隊長は義兵らを率いて五十川(オシプチョン)について桶里(トンニ)峠を越えて,精選に行って,キム・ドヒョンは彼の故郷の栄養に帰った。

三陟(サムチョク)創意長と西暦(書記)は捕まって,官軍に問責にあった後王の詔勅によって解放されてきたが官軍は北評で行って創意長キム・ホン卿の家を燃やしてしまった。 三陟(サムチョク)の大田(テジョン)は結局義兵軍(郡)が大破したが200人の官軍も50人だけ生きて,江陵(カンヌン)に帰ったので皆の敗戦といわなければならないだろう。
このようにして,三陟(サムチョク)血戦は幕を下ろしたが外勢を追い出そうと血流した義兵らの義に徹した精神は永遠に私たちの胸に残っているだろう。

※参考資料:[三渉郡(サムチョクグン)紙][三陟市(サムチョクシ)紙]

韓末の義兵活動姑従43年(1906) 4月義兵長イガン年・皇后頃が境内に入ってきて,銃砲および養殖をおさめていった。 次の年の1907年10月30日未老面(ミロミョン)鼎洞で義兵500人が倭兵と接戦,11月18日金生山が率いる義兵対600人余りが荒地で倭兵と接戦,キム生産が逮捕された。 11月26日には辺鶴基が率いる義兵対約120人余りが三渉郡(サムチョクグン)般生野で接戦した(太白(テベク)の歴史)

17.イム原理測量士にしても食糧不足に苦しんでいた日本は植民地朝鮮の土地を暴力的に収奪して,日本農民を移住させて,農業権を掌握するために1910年から1918年まで全国的に土地調査事業を実施した。 日本の土地調査事業を担当した東洋拓殖会社のあくらつな収奪と農民搾取によって多くの人々が火田民に転落したり間島(カンド)地方など海外で移住することになった。

このような日帝の農村経済収奪に対し全国あちこちで農民らの抗争が続いたが江原道(カンウォンド)の場合三陟(サムチョク)イム原理の農民抗争を代表的な事件で上げられる。 三陟(サムチョク)の郷土紙と年取られた方々の考証に基づいて,イム原理林野測量士件を整理すれば次のようだ。
1913年4月にイム原理で国有林と私有林に対する警戒(境界)測量をするのに私有林を不当に国有林に編入させることがあった。 すでに大韓帝国は日本の植民統治を受けている状況であるから国有地は結局日本政府の所有や同じだったので個人所有の林野を国有地で作るのに血眼になったのだ。

そうしてこのような不当さを指摘して抗議する目的で元徳面住民5百人余りが殺到した。 イム原理金致卿の指揮で再測量を要求して決起して,数日間デモを行った。
当時三渉郡(サムチョクグン)数沈宜昇と元徳免状金東鎬が日本人測量基数(奇数,旗手,機首,騎手)花蔵を同行して民衆を説得させるためにイム原理にきたが,この時後方の山でこっそりと写真撮影する者を発見して群衆らはいきりたって,測量基数(奇数,旗手,機首,騎手)を殺せと叫んで駆せ参じて,他殺して火に焼いた。

すると日本憲兵20人余りが出動して,無差別発布(発砲)して,群衆らはいち早く解散したが3人が死んで多くのケガ人を出す惨事(参事)であった。
日帝は今後群集示威の根っ子を抜くために手本で主導者キムチ頃をはじめとして,趙正元李洛書金文植金平書など70人余りが引きずられて行って監獄の苦しみを体験することになったが咸興(ハムフン)刑務所で服役中キム平西は獄死して,残った人々は京城刑務所で移監されて,5年間服役して解放されたがひどい拷問による後遺症で苦労して皆死亡した。

この事件があった後に元徳面のユリムらは同じ言葉で奸悪な日本憲兵らの蛮行を猛烈に,糾弾して非難した。 これに慌てた日本憲兵隊は大規模民衆蜂起につながることを心配して,1913年5月儒林らの本拠地の元徳面山陽里(サンヨンリ)の山陽書院を放火して,建物は皆火に焼けてなくなって,廟庭碑だけ残ることになった。

1971年儒林らの誠意で墓情碑閣は建立したが誓願みた建物はまだ復旧できずにいると,元徳住民たちは今まで忘れることのできない事件と記憶している。 1998年4.18山羊誓願墓整備は江原道(カンウォンド)文化財資料第123号と指定された。
※参考資料:[三渉郡(サムチョクグン)紙][三陟市(サムチョクシ)紙]


1919年己未年三陟(サムチョク)地域の独立万歳デモ運動・三陟(サムチョク)の独立万歳運動は三陟(サムチョク)普通学校学生たちが起こしたのが代表的だ。 4月14日金達河が独立宣言書を入手して,沈富潤呉元模などと合意,教師金基洪の支援を受けて,翌日全校生を運動場に集めて独立宣言書朗読後独立万歳を呼んで,三陟(サムチョク)邑を振動させた。

この時校長山田は天皇の勅語を服の中に隠して,後方の山に逃げたという。 当時江原道(カンウォンド)長官の報告に176人の生徒が参加したし,江原道(カンウォンド)憲兵隊長の報告に94人を訓戒処分したというとその規模が大きかったし,全校生が呼応したものとみられる。
・三陟(サムチョク)普通学校学生たちの万歳運動に一般住民たちも刺激を受けてサムチョッキムシ始祖(詩)失職国王廟議春季戦士(戦史)日を期して,300人がデモを行おうとしたが事前に兆しを知って出動した憲兵隊によって解散した。






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7.高麗時代と三陟(サムチョク)後三国を統一した考慮は初期には地方行政を整備できなくて新羅の制度をそのまま従う一方で地方(脂肪)には受領(首領)を派遣できなくて地域の力がある豪族らの自治に任せた。 三陟(サムチョク)地域も当時の豪族らが子房自治の形態を取ったことと考えられるのに三陟(サムチョク)を本館でする盛観すなわち三陟(サムチョク)キム氏などがその代表的な場合ということができる。

特に三陟(サムチョク)では真珠という地方別号を使っていたとのことは当時三陟(サムチョク)に強力な豪族勢力があったことを象徴的に見せることだ。 地方別号というものは指名以外にその地域に対する別号をいうことで三国時代から考慮にかけて使われたが,それは考慮が三国を統一した以後に地方(脂肪)にあった強力な豪族勢力を慰める次元で彼らの本館や封爵名を使うようにしたのだ。 三陟(サムチョク)が進駐という別号を使ったとのことは新羅語と考慮初の三陟(サムチョク)地域にそれだけ強力な豪族勢力が存在したことを表わしてくれることだ。

考慮は成宗2年(983)に(早い)達して,12首と病気馬小屋制度を用意して,初めて地方長官を派遣したし,成宗14年(995)には全国を10度で分けたが今日江原道(カンウォンド)は咸鏡南道(ハムギョンナムド)の一部を合わせて,朔方道(ド)といった。 そして道(ド)下の主要村にはト鍛練社鍛練社などを置いて治めたし,三陟(サムチョク)は三渉郡(サムチョクグン)で脊柱で昇格させて,鍛練社(全国11州に置いた地方官. 軍事的監察機関性格. 1005年までドゥーム)を置いて治めた。

玄宗9年(1018)には地方(脂肪)制度を5度養鶏で整備してその下に4都護府,8首,56郡県,28陣を置いたが嶺東(ヨンドン)地方は咸鏡南道(ハムギョンナムド)地域と合わせて,冬季になって,この時三陟(サムチョク)は脊柱で三陟(サムチョク)ヒョンで改名される。
高麗時代の君剤は中央に2軍6位があって,全国を統括したし,各道にはチュ・ヒョン君がいたし,嶺東(ヨンドン)地方の冬季には一般チュ・ヒョンより補強された軍隊が駐留していた。

三陟(サムチョク)は軍事的に非常に重要な位置を占めていただけに外敵の侵入も多かった。 三陟(サムチョク)地域の外敵の侵入は北方で契丹とモンゴルの侵入,東海岸で倭寇の侵入で二元化された。
北方から外敵の侵入は先に成宗と玄宗年間に契丹の侵入があったが三陟(サムチョク)地域では特別な戦闘がなかったことから見られる。

しかし高宗(コジョン)年間のモンゴル侵入の時には現世休暇三陟(サムチョク)住民たちと共にこの前酸性で抗戦したし,朝鮮太祖イ・ソンゲの先祖の木造吏案社も抗戦した程に戦闘が激しかった。 モンゴル軍が三陟(サムチョク)をはじめとするヨンドン地域を侵入したことは第4-5次侵入の1247-1253年だった。

一方この頃東海岸には倭寇の侵入もまた多かった。 このように東海岸を通した倭寇の侵入が多かった原因は日本内部の事情で飢えた日本人たちが多かったためであり,主侵入経路がヨンドン地域だった理由は東海岸の海流が日本で直ちにヨンドン海岸地域で流れたためだ。 倭寇の侵入は恭愍王以後強引に通そうとするのに,これらは東海岸沿岸に入ってきて,農民らを略奪するなど大きい被害をもたらせた。

このような環境の影響でこの地域の住民たちは弥勒信仰に没頭することになって,千年後の極楽世界を念願して干潟に香りを尋ねる埋香意識が広がった。 東海岸でも梅香意識が行われたが脊柱紙によれば1309年8月江陵(カンヌン)もジョン無事金泉(キムチョン)号と江陵(カンヌン)副詞薄紅数・三陟(サムチョク)顕位祖神主(州,株)など東海岸の地方官らが集まって,弥勒仏様に誓願して,評して,海岸丘に100兆・三陟(サムチョク)同盟国村物価に250兆・江陵(カンヌン),チョンドン村物価に310兆・蔚珍(ウルチン)トジョンに200兆など東海岸5ヶ所に全1,500兆のいぶきを埋めた。

一方高麗時代中・後期になれば三陟(サムチョク)地域には新しい地方(脂肪)豪族が出現する。 個性府尹を過ごして三渉郡(サムチョクグン)デクァンに冊封されたパク・ウォンギョンを始祖(詩)でする三陟(サムチョク)朴氏,木造の非人ヒョ球王侯のお父さんで上将軍だったイガン制を始祖(詩)でする三陟(サムチョク)李氏,忠烈王の時二部侍郎を過ごして三渉郡(サムチョクグン)で冊封受けた真意の耳を始祖(詩)でする三陟(サムチョク)チン氏などの豪族らが新しく位置して,三陟(サムチョク)の地方文化を一層多彩に花を咲かせることになる。

失職国王キム上(胃)翁(悉直郡王金渭翁)別名尉雄. 新羅の宗姓. 敬順王傅の孫. 御史大夫知郡事検校司農卿を経て,ウン清狂録大物常駐国チュァ丞相(銀青光禄大夫上柱国左丞相)の位を過ごした。 三韓壁上功臣と悉直君で冊封されたし,後で郡王で冊封された。

サムチョッキムシの始祖(詩).
李康済高麗時代入れ墨. 本館は三陟(サムチョク). 木造(吏案社)の妃の孝恭王后のお父さん. 位は上将軍. 三陟(サムチョク)李氏の始祖(詩).
朴元慶高麗時代入れ墨. 本館は三陟(サムチョク). 新羅速咸大君の後えい. 恭愍王の時過去に及第,権知教書正字,開城府尹司農侍事などの位を過ごす。 功労(空路)があって,三陟君大匡に冊封されて三陟(サムチョク)朴氏の先祖になる。


8.帝王韻記の著者イスンヒュイスンヒュは考慮高宗(コジョン)11年(1224)に生まれて,忠烈王26年(1300)まで生きた高麗後期の文人であり,政治家であった。
イスンヒュの字は休休であり,字号は動安居士だ。 慶山(キョンサン)加利県人にカリイシの始祖(詩)でもある。 しかし彼がカリヒョニンでになっているだけ実際にそちらにどんな縁故があるのか全く分からなくて彼の一生大部分は外家の三陟(サムチョク)の頭陀山(トゥタサン)の下駆動(亀洞;三陟市(サムチョクシ),未老面(ミロミョン)内米ローリー)で送った。 大賢利率曲が実家の江陵(カンヌン)の歴史人物のようにイスンヒュも三陟(サムチョク)の歴史人物で尊敬されている理由がここにある。

高宗(コジョン)39年(1252)イスンヒュは29才の遅れた年齢で過去に及第してお母さんがおられた三陟(サムチョク)で故郷に錦を飾ったが1253年モンゴルの第4次侵入で強盗(強度)で行く道が塞がることになって,三陟(サムチョク)のこの前酸性でモンゴル軍と対抗して戦うこともした。
この時からイスンヒュは頭陀山(トゥタサン)の下の駆動に入って,今の千恩寺(チョヌンサ)そば川辺の龍渓弁に家を作って,一生懸命農作業をしてお母さんを奉養して生きることになる。

そうするうちに彼の年齢40才なった海人1263年関東安集使で来た李深の斡旋で強化に入って,次の年キョンフンブ(江陵(カンヌン))書記でパルタルドェムロソ官界に第一歩を踏み出すことになる。 ところが彼の地方官生活はながくなかったし,すなわち中央の都兵馬録事で昇進されて,中央政界の核で急浮上する。 しかし忠烈王6年(1280)監察司の官員と共に国王の実情および国王側近人物らの専横を聞いて,10ヶ項目で諌言して免職されてしまう。

イスンヒュは免職された後また三陟(サムチョク)県の駆動に戻って,隠居して,堂号(家の名前)を陶然名の帰去来辞の一節を引用して容安堂といった。 この時彼は国史(国事)と世論に一切口を閉じようと決心して帝王韻紀と内典録を著述した。 これが帝王韻記が誕生した背景だ。 [三国遺事]と,一緒に私たちの民族を檀君の子孫と規定した史書で有名な帝王韻記が私たちの三陟(サムチョク)で三陟(サムチョク)の人物によって使われたとのことはすごい自慢だ。

帝王韻記は上下2冊1本で,商圏は中国の歴史を神話時代から元の国の興起まで7凍った告示(七言古詩) 264句で詠じておいたし,下巻は我が国の歴史(東国国王開局連帯)と高麗朝の歴史(本組国王世界連帯)で分けて,各々264区(具)1460凍ったウイ7凍った告示,152区(具)700凍ったウイ5凍った告示と記述している。
帝王韻記は民族主義史観に立って,著述したが我が国を中国と同等な位置に置いたし,檀君を私たちの民族の始祖(詩)で前に出して,私たちの民族が檀君を中心にする単一民族であることを強調したし,最初に我が国全体を“朝鮮”と指し示した。

また渤海寺を現存司書の中で最初に私たちの民族史に包容したし,韓国の文化を中国と区分される独創的で優秀な文化であることを強調した。 事大を標ぼうした当時の雰囲気でこのように中国の歴史と我が国の歴史を対等な構造の中で詠じているのは透徹した民族意識がなかったとすれば不可能だっただろう。
帝王韻記を著述して2年後1289年龍眼当たり南側に普光情(?光亭)を建設してそのそばに飄飲亭という(のは)泉を作って,精子の下知楽塘という(のは)池を施設して生きて71才なった年(1294)突然に龍眼当たりの看板を看蔵寺に変えておいてすべての財産を不可に喜捨する。

1298年チュンソン王が即位するやイスンヒュを特別に起用して,改革政治の中心勢力で活躍するようにする。 しかし国政がずっと漂流されるやイスンヒュは自身の力が微力さを認識して位から退く。
現世休暇官位を出してなじんだ駆動に戻って2年後の1300年10月,77才の年齢で多事多難だった生を終えることになる。

高麗史列伝(熱戦)イスンヒュジョ先の部分に“性分が正直で世の中に(求める)救うことがなかったし,はなはだ部署法(不法)を好んだ”と評した。 現在彼の墓が城主(星州)にあるというが確認する方法がない。 イスンヒュの息子は3兄弟なのに,最初息子の名前は林宗で背中科して,古い釜山(プサン)ランの位にあったが位を止めて故郷に戻って,お母さんを迎えたし,次男は曇昱で出家して,仏弟子の道を行ったし,三番目の息子は衍宗で背中科して,サ・ホンギュ情を経てミルチクサ兼監察大物に達した。

※参考資料:[三陟市(サムチョクシ)紙][失職文化論叢](三陟(サムチョク)郷土文化研究会,1989) [千恩寺(チョヌンサ)イスンヒュユホジバルグルチョサボゴソ](関東大学校博物館,1999)壻留婦家:妻の実家での暮らし. 高句麗-考慮-朝鮮初期(16C語-17C初廃止)座主門生制も:遅攻ことと過去合格者が一生司祭関係形成春秋社観:孔子から始まる。 王の日誌形式脱皮,作家意識反映1274年から80年間50余回にかけて,モンゴルに送る工女抽出(1回40-100人)・女官用:中流以上家庭の美貌のお嬢さん・病死(兵士)用"未亡人,孤児,逆賊の妻子,僧侶の娘など


9.竹西楼(チュクソル)の佳客(歌客)-シム・ドンノ三陟(サムチョク)シム氏の詩引き締めて竹西楼(チュクソル)の佳客(歌客)で名高かったシム・ドンノは考慮恭愍王元年(1352)に通川郡(トンチョングン)数を過ごした。 本来名前は漢,ホは信斎であり検校であった尋問数の息子だった。
シム・ドンノは考慮語チュンへワン3年(1342)お誕生日課に次席で合格して,その年秋職翰林院社. ソンギュン官学録になったし,1351年には内職に入って,ウ・チョンオンになった。

その後の恭愍王10年(1361)にはポンソン大物中叙事の地祭高という高い位に上がったがシム・ドンノは年老いていられた両親を迎えるために地方(脂肪)受領(首領)に出て行くことを望んだ程に態度に真心がこもっていたという。
江原道(カンウォンド),通川郡(トンチョングン)数を過ごして,考慮語の乱れていた情事を正そうと思ったが不如意になるや位を捨てて故郷へ降りて行けるようにしてくれと王様に懇請した。 恭愍王は何回も彼の心を戻そうと思ったが意志があまりにも固まって,やむを得ず帰郷を許諾して,その意を高く評価して“老人が東に帰る”という意で東老という名前をおろしたという。 これから激しいという(のは)名前の代わりにシム・ドンノと呼ぶことになった。

牧隠李穡が学士承旨になった時,王に次の通り申し上げた。 “シム・ドンノは神(靴)より学識が高くて,年齢も神(靴)より多くて,官職の道も先に上がったので神の職責を彼に下ろして下さい”恭愍王が異色のチョンを受け入れなかったけれど,当代留学の巨匠の異色がそういう話をしたほどならばシム・ドンノがいかなる人物なのか察してあまりあるだろう。

当時にキム・グヨンが安死になって,三陟(サムチョク)にきた時,シム・ドンノを訪ねてきて,彼が居住する家を訪問して,シム・ドンノの好人“新材”という文字を直接書いて扁額で彼の家に歩いてくれた。 このように三陟(サムチョク)に来る多くの官員らは必ずシム・ドンノを訪ねてきて国の仕事をすることに論じて詩を作ったことが分かる。

考慮忠烈王8年(1282)元の国で陳謝及第後帰ってきて,例ウィーン試乗の位にあった李球は“関東の君子は二人でシム・ドンノと衰服する”と評したがその市議内容は次のようだ。

“三陟(サムチョク)のクァルルは竹西楼(チュクソル)で/迷惑中の佳客(歌客)は心中お互いだ/今のように白髪であるのに/時と酒に依託して/暇な私のために席を施したよ”シム・ドンノは三陟(サムチョク)に住んで,毎日竹西楼(チュクソル)と年癌情を行き来して詩を書いた。 湫岩(チュアム)陵売りまくって西側に知恩ヘアムジョンは三陟(サムチョク)の海金剛(ヘグムガン)という程景色が良くて,年癌情西側新材工業が隠居したところを“シンデ感の場所”と呼ぶ。

三兆7年(1461)体察使ハン・ミョンフェはこちらに立ち寄って凌波台と名前をつけたし1530年按察社心凍ったクァンイ建立したし,1675年ソン・シヨルが年癌情表札板を残したという。 このシム・ドンノが隠居した所は今の東海市(トンヘシ),湫岩洞(チュアムドン)山のふもとなのにこちらを休山または退坪だとし1931年子孫らがその場にユ浪費をたてた。

シム・ドンノは三陟(サムチョク)で後輩の学者らを集めて,文を教えて立派な人材を養成するのに残った人生をみな捧げた。 したがって三陟(サムチョク)地方の学風を振興するのにも大きい役割をしたと見られる。 万年(晩年)には国で礼儀板書と集賢殿(チピョンジョン)制鶴をおろしたが遠慮して赴任しなかった。 また賃金は特権地位を下賜して,真珠君で封じたがついに赴任しないで算数と市(詩)を友とした。

シム氏が三陟(サムチョク)を本館でしたことはシム・ドンノの遺言(流言)に従ったことという。 彼の徳行と文章は[解凍名臣録]に収録されるほどだ。 三陟(サムチョク)の自慢の関東八景第1塁“竹西楼(チュクソル)”とシム・ドンノはこのような縁がある。
※参考資料:キム・ヨンギ,“失職国の人脈”,[失職文化]第4集,三陟(サムチョク)文化院,1993 [三陟市(サムチョクシ)紙]. [東海市(トンヘシ)社][三陟(サムチョク)の忠孝列人物](三渉郡(サムチョクグン),1994)

年癌情(年癌情)江原道(カンウォンド)有形文化財63号考慮恭愍王10年(1361)進駐軍シム・ドンノが初めて創建したが消失して,朝鮮 中宗25年(1530)漁村沈彦光が建立した。 その後の政調18年(1794)中誰何だったが規模は正面3間・側面2間超イク工業養殖の断層合掌屋根で陰陽の調和を合わせたし,原州(ウォンジュ)柱が10ヶで全面を除いた3面皆が4隻程度の壁体で立てられて開放された。 しかし現在は4面皆文を付けておいた。
特権地位:国家でその租税を功臣などの個人に書き取るように配分した村


10.龍飛御天歌(朝鮮の創業を讃美した歌)の最初龍-木造イアン思潮先王朝の建国は太祖イ・ソンゲによって,実現されたがその根拠地は木造吏案社によって成したとのことが定説になっている。 実際に朝鮮王朝時代にもそのように説明されている。
世宗(セジョン)27年(1445) 4月にクォン制,分かってから,チョン・インジなどが編纂した[龍飛御天歌]には木造吏案社から王朝の根拠地が捕えられたと記録している。

“解凍六龍がナリシャことごとに天福だから...”と詠じたがこの六龍の初めての人物がまさに木造吏案間だ。 六龍は木造吏案社(穆祖李安社)次に益鳥(翼祖李行里)賭租(度祖李椿)ファン組(桓祖李子春)太祖(太祖李成桂)太宗(太宗李芳遠)に続く。
木造吏案社が江原道(カンウォンド),三陟(サムチョク)地方と縁を結んだことは考慮高宗(コジョン)18年(1231)を前後した頃だった。 イ・ソンゲが造成王朝を開局する162年前後だ。 木造は前週で出生したし三陟(サムチョク)に移して生きてまた咸鏡道(ハムギョンド)徳源府龍珠里に移したし,また幹東に移して生きた。

木造が三陟(サムチョク)に移住することになった理由は次のようだ。 木造が前週に住む時山城別監がきて,木造が愛する寄生(芸者)と関係するや二は戦いが広がったし,前週の地主(知州;ジュウイ長官)が酸性別監と一方になって戦うことになった。 地主が調整に報告して軍事を動員して,木造を害しようとするという情報を木造はあらかじめ知って三陟(サムチョク)の活気リで移住することになる。 この時木造に従った170余号が共に移住した。

何の理由で木造が三陟(サムチョク)に移住したのかに対して多くの人々が心配しているのに三陟(サムチョク)は木造吏案社の外家地域であるためだ。
木造が初めて敷地を定めた三陟(サムチョク)の未老面(ミロミョン)弓賛える本来矢場と呼んだが後で木造が生きた場所として賃金皇子を使って皇基に変わった。

矢場は弓基を意味する所であったのに矢場-黄耆-活気でその指名が変わった。 その場所は現在未老面(ミロミョン)活気リのトゥメグァングァンノンウォンで少し上側に位置しているのにそちらには木造が生きた所であることを知らせる旧居地碑閣がたてている。
弓賛える三渉郡(サムチョクグン)未老面に属したし,未老面(ミロミョン)は玄宗3年(1662)当時三渉府士ホ首が眉老里と呼んだところで今日と同じ指名に定着した。

こちらに住む時,木造の父親が死亡した。 その有名な“白牛金冠の伝説”と同じように道僧が話した通り白牛と燕麦金冠(金冠)を準備して,墓を使うことになることによって5代に達して,イ・ソンゲが朝鮮王朝を開局することになることだ。

ところが木造の三陟(サムチョク)生活は苦行の連続だった。 お父さんの死亡後まもなくお母さんまで亡くなることになったのだ。 三陟市(サムチョクシ)で五十川(オシプチョン)について西の方に60里,上整理で15里労働産(山)に木造のお父さん委譲無ウイ墓(ジューン軽妙)が位置したし,木造のお母さん李氏の墓(英軽妙)は東山里(トンサンリ)にある。

活気リ木造の過去の家の跡地には今でも石段と礎が残っている。 木造が三渉郡(サムチョクグン)弓切り絵両親を尋ねてまた咸鏡道(ハムギョンド)に発つほかはなかったことは先立って前週で戦った酸性別監がアルリョムサ位に上がって三陟(サムチョク)村で巡視するという便りが聞こえてきたためだ。 座ってこうむることより先に避けることが上策だと考えて咸鏡道(ハムギョンド)に入った。 この時にも前週でついてきた170余号が共に移住した。

木造の三陟(サムチョク),未老面(ミロミョン)活気リ生活は少しの間だったが,両親を埋めたし自らの家の跡地まで残したので第2の故郷になった。 三陟(サムチョク)のファルギリが朝鮮王朝建国の根拠地というのはこのような歴史的事件があったためだ。
※参考資料:[三陟市(サムチョクシ)紙]. [失職文化]第1集(三陟(サムチョク)文化院,1990),キム・ヨンギ,“失職国の人脈”,[失職文化]第3集,三陟(サムチョク)文化院,1992

朝鮮王朝の王は27人なのに[朝鮮王朝実録]に記録された王は36人・追尊王9人;木造,益鳥,も(ごつんと)組,ファン組,トク種(成宗のお父さん. 機動警察跡継ぎ),原種(人造の実父),真宗(政調の伯父. 孝昌(ヒョチャン)跡継ぎ),場種(政調の実父. 長兄跡継ぎ),イクチョン(憲宗のお父さん. ヒョミョン跡継ぎ) [太祖実録]イ・ソンゲ一族の始祖(詩)-離韓(新羅太宗の10代手).
・イ・ソンゲの高調(木造吏案社)は三陟(サムチョク)で考慮北東国境地域義州路(イジュロ)移住,元の国に投降“白虎”という官職生活⇒曽祖イ行李⇒祖父利子チューは大に元の国の高麗人差別政策で考慮に亡命高麗ウ王:明国の動揺の土征伐推進. 8度都統社チェ・ヤン,友軍都統社イ・ソンゲ,左軍都統社チョ・ミンス⇒違和も会軍(郡)⇒チャンワン擁立(辛屯子供,にせ物ワン氏)⇒右王とチャンワン殺害⇒供養王擁立


11.朝鮮時代三陟(サムチョク)地方行政組織朝鮮時代の地方行政組織は全国を8ヶ道で分けて,各道には観察使を配置すると同時に道義下部組織で府,大都護府,牧,都護府,郡,県を置いた。
地方行政の責任者では富に鐘2稟議府尹,大都護府に正3品の都護府使,首には正3品の牧使,都護府には鐘3稟議府使,クンには鐘4稟議郡守,ヒョンには鐘5稟議県監を受領(首領)で配置したが,三陟(サムチョク)は太祖2年(1393)木造の他香餌や先代の墓地がある所だとヒョンで部に昇格させて(記念でホンソ対下賜)太宗13年(1413)三陟(サムチョク)部を都護府に変えて,鐘3稟議副詞を配置した。

軍事制度は陸軍と水軍に分けられるのに陸軍の場合太祖6年(1397)三陟(サムチョク)陣という軍事基地を設置してその親分の初め節制社を副詞が兼職したが,三兆1年(1455)君イクも体制によって三陟(サムチョク)陣は江陵(カンヌン)道義右翼で編成されてその首長を病魔鍛練副詞と称したし,三兆3年(1457)君イク導体制がジングァン体制に変わって,三陟(サムチョク)陣は巨鎮になって,蔚珍(ウルチン)とピョンヘジヨクまで管掌した。

水軍の場合太祖の時から副詞が三陟(サムチョク)の水軍本部の三陟(サムチョク)胞衣万戸を兼職したが世宗(セジョン)1年(1419)副詞が三陟(サムチョク)万戸を兼職したことを廃止して別途の水軍僉節制使を派遣したし,三兆3年(1457)ジングァン体制に変わる時,三陟(サムチョク)ジングァンを設置してサムチョクポ占い言葉が初め節制社になるのにその下中(案)インフォ. コソンポ. ウルチンポ. ウォルソンポを置いた。

その後の人造5年(1627)各道の地方(脂肪)軍隊を管轄するための陣営の首長の令状が派遣されて,三陟(サムチョク)布陣は令状がヨンドン地域の束伍軍を治めて鬱陵島(ウルルンド)の治安を担当してきて高宗(コジョン)35年(1898)三陟(サムチョク)布陣が廃止される時,共になくなった。 朝鮮時代各級受領(首領)間の偽計は赴任する受領(首領)の品階差はあったが富でヒョンに至るまで横笛では対等に道(ド)観察使の指揮監督を受けた。

各級受領(首領)には地方(脂肪)の行政権と共に軍事職と司法権まで付与されていてすべての裁判を自身の名医にできた。 ただし棍杖50代以上死刑までは観察使の許可を受けて,兄を執行した。
都護府の事務は副詞の補助機関の豪壮以下6発の夷俗らによって,分担されたし,このような吏属らを衙前といったし,主にその地域の土着人を起用したが6発の扮装事務は次のようだ。

吏房-者,秘書,その他事務に関する事項/戸房-戸口,貢賦,田税,その他財政事務/礼房-儀礼,祭事,学校などに関する事務/兵房-軍政に関する事務/刑房-法律,訴訟などに関する事務/工房-工匠,営繕などに関する事務副詞の軍事.警察権の補佐役ではクン教(軍官,布教)があったがこれらの身分は衙前より下職であったし,これらクン教の下にフプ例,文卒,お手伝いする日数,罪人を文初夏は羅将,軍人らの奴婢の司令(辞令)があった。

また通仁(トンイン)だと称する急死(給仕)職(執事・給仕)があったがこれは代理(衙前)の息子として副詞の身辺を見守ったし,以外にも受領(首領)の日常生活に使役される及唱庫直房子などの官奴と寄生(芸者),需給(水お使い)等の官奴婢があった。
一方副詞の自問機関でクン(軍衙,郡庁)に郷所(郷所;後期には郷庁)を設置して,徳望ある地域の有力要人を郷任に任命して(富には4-5人,クンには3人)郷吏の悪弊を防止して風俗(風速)校正(校庭)とクン.県の下部組織の面のトユンすなわち免状推薦権まで付与した。

郷所のチャンウン座睡(座首;任期2年)として(次席は別監別監)年長者中で受領(首領)が任命した。 都護府の下部組織で面または社坊があって,その下洞里村があったし,ならば四発の長は尊位都尹面任坊長社長,そして冬瓜リの長は洞首里正座上頭民と呼ばれた。
同. リの下には最末端組織人鷹5戸をしたヶの統でする5家統制度があったし,5ヶ筒を1ヶ リにして,若干のリを合わせて面でして,農業を指導するクォンノングァンを配置した。

一方地方(脂肪)の交通通信行政を管掌する特殊地方官職で察訪(察訪;鐘6中)があったし(1508年役僧駅丞⇒察訪),三陟(サムチョク)は東海岸の江陵(カンヌン),三陟(サムチョク),蔚珍(ウルチン)評解義16ヶ駅伝を管轄する逆徒(重量挙げ)所在地があった。 (ピョンヌンヨク⇒校歌駅)※参考資料:三陟市(サムチョクシ)紙

朝鮮時代交通路:全国10ヶの幹線道路. 東海(日本海)側はクァン凍露第3で(原州(ウォンジュ)-江陵(カンヌン)-三陟(サムチョク)-評して)第10で(忠州(チュンジュ)-安東(アンドン)-のろし-嶺南(ヨンナム))10里ごとに指名と通り(距離)刻んだチャンスン(木像),30里ごとに大きいチャンスン(木像)と院設置1530年全国に1,210ヶのウォン設置. ウォン・ウニョン-大通りは5世帯,中路3世帯,小路2世帯(僧侶郷吏地方役人,雑役除外)壬辰倭乱丙子胡乱以後ウォン衰退⇒民間居酒屋・旅館開設賛えて:通り(距離)測る機構(輪を1里の百分のことで製作,100回り1里,北)


12.朝鮮時代三陟(サムチョク)の行政官庁朝鮮時代の三陟(サムチョク)地方行政官庁は東軒を中心に隣接していたので東軒の場所がある今の竹西楼(チュクソル)付近が行政の中心をなした。

七分堂-副詞が公務を見る東軒をいうのに過去の名前は梅竹閣または易近堂といった。 1908年進駐観で移転した後郡守の官舎(冠詞)で使ってきて建物が老朽して,1979年壊してなくした。 位置は竹西楼(チュクソル)進入路と38号国道との分岐点であり,38国も開設時道路敷地に一部編入されて残った敷地に礎を集めて,東軒の場所小公園で作った。 衙舎郡衙県衙ともする。

内衙-地方官庁の母屋の私の東軒をいうのに,東軒の東側すなわち38国も敷地内にあったが今は跡さえ探せない。
郷序堂-別名郷庁といって,風俗(風速)校正(校庭)と郷吏糾察など受領(首領)を補佐する自問機関があった所で英祖45年(1769)副詞ソ・ノスが建立して,座睡1人と別監3人を置いたが,位置は竹西楼(チュクソル)境内東南の側にあった。

将官庁-クン教と司令(辞令)(お使い)の集会所で別名将庁といったが英祖7年(1731)副詞鳥翼名が作った。 位置は38国道から竹西楼(チュクソル)に進入する南側隣接紙の過去の警察署があった所で今は住宅が入っている。
坐起庁-別名政庁ともしながら吏房が公務を見た所なのに先祖36年(1603)副詞アン・ジョンロクが中央捜査したのを英祖21年(1745)副詞ソ・ノスがこれをまた中央捜査したが今は跡がない。
作庁-人吏庁で別名迭請ともしたが衙前らの集会所であった。 竹西楼(チュクソル)東側現竹西楼(チュクソル)駐車場敷地にあったが今は跡がない。

郎庁房-官衙の堂下官が居住した所で38国道から竹西楼(チュクソル)に進入する過去の警察署の場所にあった。
軍器庁-武器を取り扱った所で三章社の場所にあった。
牢獄-罪人を閉じ込める監房で竹西楼(チュクソル)東南側旧農協官舎(冠詞)すなわち現在の竹西楼(チュクソル)第2駐車場の場所にあった。

補民庁-三兆1年(1455) 8月水害による水害民を救護した官庁で竹西楼(チュクソル)東側現在の竹西楼(チュクソル)駐車場入口の場所にあった。
敬思斎-玄宗2年副詞ホ首が建設して,退庁後読書した所で位置は官衙の北側にあったとする。

真珠館-王名を受けて来る権力の座アーチらを接待して泊まるようにする客死で本来は竹西楼(チュクソル)の下にあったがチュンジョン12年竹西楼(チュクソル)北に移した。 その後郡庁社で使って1934年進駐観を壊してその場に郡庁の新しい庁舎を作って使っている間6.25思弁に仏陀なくなったのをまた伸縮(新築)して使って1981年郡庁社をキョドンに移してその場は現在三陟(サムチョク)文化院が使っている。

漆匠房-漆塗りのタンスらの勤め先で光海君7年(1615)副詞キム尊敬が進駐観近隣にたてたが今は竹西楼(チュクソル)境内広場になった。
妓所-観寄生(芸者)らの居所で燕山君(ヨンサングン)10年(1504)王名に基づいて副詞打ち解け話が設置して一つその位置は分からない。
村郷党(?郷堂) -三陟(サムチョク)布陣の親分の令状の聴政所として別名洗剣堂ともしたがユク・ヒャンサン北側にあったが1898年火災でなくなった。

猪洋場-官衙で祭事の時使うための黒量を放牧した所で竹西楼(チュクソル)の向い側今の武芸会館や博物館敷地にあった。
珊瑚館-江陵(カンヌン),三陟(サムチョク),蔚珍(ウルチン)評して,管内の15ヶ駅站を管轄した所で本来ピョンヌンヨク(東海市(トンヘシ),泉谷洞(チョンゴクトン))にあったことを英祖36年(1760)校歌駅(近徳面(クンドンミョン)校歌リ)で移転して,建物は1899年壊して,その木材と瓦などはジューン軽妙と英軽妙の二斎舎建築に使った。

人造9年(1631) 9ヶ行政区域:メゴク,部内,ノ曲,トクポン,北評,パク曲,迷路,疎達,場生理.
英祖14年(1738) 12ヶ面:話曲(洞地域内陸),部内(洞地域海岸)ノ曲クンドク元徳迷路疎達上場性(料亭.鎖前.荒地.小島.将軍.同点.鉄岩(チョラム))賀状性(ア曲川(コッチョン).粗炭.四美.原動.ア曲.行く全(前).駅弾.大田(テジョン))肩膊曲(大邱(テグ)前.泥炭.苦戦.欧米.クラム.クェドン.
湫岩(チュアム).ボン無情)途上(初分.道内.イ老馬を。新興.敵前.三和(サムファ))ドーハ(松羅(ソンナ)情.地底.勇壮.冷泉(ネンチョン).ピョンヌン)


13.三陟(サムチョク)布陣性三陟(サムチョク)布陣は水軍の基地(機知)だ。 現在オ分離高山性と情商利ユク・ヒャンサン周囲がその位置だ。 ここは五十川(オシプチョン)河口に位置して,数百隻の戦線が停泊できる自然港だ。 この地域は東海岸の中間位置に位置していて,咸興(ハムフン)で釜山(プサン)へ行く町角に該当してまた五十川(オシプチョン)について西の方に上がれば南漢江(ナムハンガン)上流の骨只川(コルチチョン)と交差する東西南北の要衝地でもある。

したがって三国時代初期から新羅と高句麗は三陟(サムチョク)を互いに占めるために激しい攻防戦を行ったのだ。 ついに新羅が失職国を服属させて鬱陵島(ウルルンド)を征伐する時にもその出港地がまさに三陟(サムチョク)布陣だったと考えられる。 その理由は于山国と最も近い通り(距離)に三陟(サムチョク)布陣がある上に戦線が停泊できる最適の自然港だったためだ。

その後の新羅はこちらに悉直停という軍団を置いて国防に臨んだし,高麗時代右王10年(1384)にはこの前酸性を土星で築造(周囲1,870隻. 約566.6m)した後三陟(サムチョク)布陣を設置して万戸という受領(首領)を置いて,倭軍の侵入を防いだ。 三陟(サムチョク)布陣の万戸は受領(首領)が兼ねたが朝鮮太祖6年(1397)万戸を僉節製使で昇格させて,単独濃い醤油を置いたし,太宗9年(1409)にまた副詞が兼職することになって三兆12年(1466)にまた分離して鎮将を置いた。

壬辰倭乱と丙子胡乱後で兵制の多くの変革を体験して,人造5年(1627) “令状”というチクを作って,専門的な武装が三陟(サムチョク)布陣の責任者になるようにしたし,玄宗13年(1672)には三陟(サムチョク)布陣の令状にとってヨンドン9ヶ村の軍事権を管掌するようにしたし,次の年の1673年には三陟(サムチョク)令状にとって討捕使を兼ねるようにして鉄原(チョルウォン)地域まで捜査権が拡大した。

粛宗20年(1694)には鬱陵島(ウルルンド)を水土下記ために三陟(サムチョク)令状と蔚珍(ウルチン)万戸が毎年交代で入ることもした。 このように東海岸の海上防衛と治安の本山だった三陟(サムチョク)布陣ヨンウン,高宗(コジョン)35年(1898)令状キム・ポムグを最後に廃止されて今は陣営の城郭南端に位置していたユク・ヒャンサン首脳(頂上,正常)に1662年副詞ホ首が残した脊柱東海(日本海)費と対一坪水土冷雨だけ残っている。

三陟(サムチョク)布陣ヨンウイ位置は新羅,高麗,朝鮮初め三兆の時までオ分離のこの前酸性でありユク・ヒャンサン下へ移したことはチュンジョン初期の1510年前後であった。
1898年までだけでも三陟市(サムチョクシ),汀上洞(チョンサンドン)ユク・ヒャンサンの下には石で積んだ石聖が残っていたがここがまさに東海(日本海)を守るために設置した朝鮮時代の三陟(サムチョク)布陣性席だ。

この陣営の性東側門楼をチンドンヌ,あるいはアネルまたはセビョンヌラゴも呼んだが朝鮮 中宗6年の1511年三渉府士李函が創建したという。 三陟(サムチョク)布陣の衙舎は高宗(コジョン)35年(1898)火災で消失した。 その後の1916年三陟(サムチョク)港を築造する時,三陟(サムチョク)布陣性を崩した。

先祖時の大学者であったソン岩キム・ヒョウォンが三渉府士で赴任してチンドンヌという表札板を書いたし,壬辰倭乱中には副詞アン・ジョンロクが近徳面(クンドンミョン)英恩師にあった8百斤火種をこの楼閣にぶら下げて,急に悪化する時鐘を打って,住民を集めて,敵を防いだし,後で火種は英恩師に送り返したとする。 そして粛宗37年(1711)三渉府士で来た異性(理性)組は文字よく書く高尚な人としてアネルという表札板を書いて甘かったし,竹西楼(チュクソル)には[竹西楼(チュクソル)]と[関東制一塁]という表札板を書いて残した。

このチンドンヌはその後何回も中央捜査を経てきたし,高宗(コジョン)24年(1887)に文字よく書くことに有名なソ・ナム,イ・ヒスがまた[チンドンヌ] [トポアムン]という(のは)表札板を書いて甘かったという。 このように名士(名詞)らの表札板文が多かったが今まで伝えられる作品がなくて,ソ・ナム,イ・ヒスの[トポアムン]という(のは)表札板文は十年前まで三陟(サムチョク)地方の最後の儒学者といったキム・ヨンギョン先生が所蔵していたが3年前に三陟市(サムチョクシ)で購入しようと思った時はすでに他の人の手に渡った後であった。

※東台池:三陟(サムチョク)布陣ヨンウイ屯田を利用する提言(堤堰;貯水池)東国大紙の西側頭を同大賢(東台〓;東国大頭)としたが今は[トンドゥグビ]ロ俗称されている。 東国大紙の西北側谷間を袈裟谷だとし虎大寺という寺があった。 今のチョンナチョドゥンハッキョ席.
※参考資料:[三陟市(サムチョクシ)紙] [三渉郡(サムチョクグン)紙]先祖元年(1567)三陟(サムチョク)布陣ヨンウイ軍費を充当するために屯田を設置したが“屯田上側に東池という小沢がある”したので同志は東国大紙で本当にラ小学校の下側にあった東国大提言を示して,屯田は鳳凰産(山)北側谷間だったこと。

成宗元年(1470)江原道(カンウォンド)兵船数は小猛船14隻中サムチョクポ4隻,ウルチンポとコソンポに各々3隻,月ソンポ,中(案)インフォに各々2隻配置成宗8年(1477) “三陟(サムチョク)には水鉄が出てくるのでサムチョクポ水軍90人中40人を動員採取して,塩釜(塩釜;塩御輿(窯))を作って,使用するようにした”という記録から見て,90人の水軍があったことが分かる。

成宗12年(1481)海岸に烽燧台と後望(?望;海岸警戒所)設置・狼煙台(5ヶ所):歌曲産(山)役員産(山)超谷山(コクサン)良夜産(山)広津(クァンジン)産(山)・後望(5ヶ所):犬曲宮村徳山(トクサン)クラム(湫岩(チュアム))冷泉(ネンチョン)(冷たい水賭け)




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1.先史時代と三陟(サムチョク)
2.なくした王国-失職国(1)
3.なくした王国-失職国(2)
4.失職主義君主-キム理事部
5.失職国の復興運動
6.統一新羅の文化遺産-古い画家と太陽が四
7.高麗時代と三陟(サムチョク)
8.帝王韻記の著者-イスンヒュ
9.竹西楼(チュクソル)の佳客(歌客)-シム・ドンノ
10.龍飛御天歌(朝鮮の創業を讃美した歌)の最初龍-木造吏案社
11.朝鮮時代三陟(サムチョク)地方行政組織
12.朝鮮時代三陟(サムチョク)地方行政官庁
13.三陟(サムチョク)布陣性
14.鎮営将
15.三渉府士ホ首
16.三陟(サムチョク)義兵の抗日闘争
17.イム原理測量士にしても
18.独立活動家-キム・ドンホ
19.独立活動家-心材区20.およそ・現代と三陟(サムチョク)



1.先に史時代の三陟(サムチョク)三陟(サムチョク)地域に人が生き始めたことは旧石器時代からだ。 旧石器時代という(のは)一般的に人類が地球上に初めて現れて,石で作られた道具を使った時期をいうのに世界的には200万年前から,韓半島では50万年前から住み始めたとする。 この時代の遺跡遺物は三陟市(サムチョクシ),遠徳邑(ウォンドクウプ)ノ経理と東海市(トンヘシ),北坪洞(プッピョンドン)スローガンの村,発翰洞(パランドン)宅地開発地域で多量出土した。

次に新石器時代で世界的に新石器時代は紀元前7,000-8,000年頃から始まったことと見て,我が国の新石器文化は紀元前5,000年頃に始まる。 この時代の特徴は土器(櫛目文土器)の使用と農耕の開始を上げられる。 新石器時代の遺跡遺物はまだ三陟(サムチョク)で発見されなかったが近隣の襄陽郡(ヤンヤングン),烏山里(オサンニ)と江陵(カンヌン),英進里(ヨンジンリ),金真理などの地で出土したのでこれから三陟(サムチョク)地域でも新釈己酉的の発見の可能性は非常に高いと判断される。(壇君王建BC2,333年青銅器時代は新石器のツルムントギ(櫛文土器;櫛目文土器)を使った集団が後退し始める紀元前1,000年頃から中国の鉄器文化が到来する紀元前後の時期をいう。)

この時代の遺跡ではたいてい生活遺跡(住居地,生活遺物)と墓遺跡(支石墓(コインドル),石棺墓)で大別されて,三陟(サムチョク)地域では遠徳邑(ウォンドクウプ)読み上げ算と近徳面(クンドンミョン)チャンホ,五十川(オシプチョン)流域の鳳凰産(山)一代(一帯),キョドンと城北洞(ソンブクトン)一帯,そして近隣の松亭(ソンジョン). 北評. 欧米. 九湖洞(クホドン)などで馬蹄石鏃(磨製石だらっと)と石斧(石斧;石斧),石剣,ミン紋土器など広範囲な地域で多様な遺物らが発見されて,青銅器時代当時三陟(サムチョク)地域には多くの人々が生きていたことが分かる。

青銅器時代の代表的な墓遺跡の誌石墓(支石墓,支石墓(コインドル))は我が国全域で見られるが東海岸には古城(大声)(チャンピョンリ.チュクチョンニ)襄陽(ヤンヤン)(汎クチバシ)江陵(カンヌン)(アニョンドン.チャンヒョンドン)東海(日本海)(釜谷洞(プゴットン).泥老洞(イロドン).松亭洞(ソンジョンドン))蔚珍(ウルチン)(ナ曲リ)等紙で10基余り程度発見された。

青銅器時代が終わって鉄器時代に入り込んで,文化的に新しい変化が起きるのに最も著しい特色は鉄器製造技術の流入とその影響による新しい土器(更迭文土器,他日文土器)の使用を上げられる。 この時代の遺跡遺物は三陟(サムチョク),五十川(オシプチョン)河口の梧粉洞(オブンドン),メン方里,ノ経理などと近隣全天川下流の北評港湾敷地と江陵(カンヌン)の中(案)隣里,襄陽郡(ヤンヤングン)酷評リで住居跡遺跡が発見されたし,その他金真理遺跡などが発掘されて,鉄器時代ヨンドン地域の文化的特性を示唆してくれている。

すなわち,従来嶺東(ヨンドン)地方の無紋土器伝統が鉄器文化と硬質灰陶が伝来した後にも持続的に融和されたことを見せているのに,鉄器とともに既存の石器を多量で製作して使っているという点だ。 鉄器時代の歴史的背景は韓半島に三国(高句麗,百済,新羅)確立直前の時期として,漢四郡が韓半島北部を支配している頃だ。 当時東海岸,北部地方は臨屯郡の統治を受けて紀元前82年にイムドゥングンが廃止されるや一時ヒョンド君の管轄の下入ることになる。 その後ヒョンド君が中国東北地方に移動することになって楽浪東部都尉が管轄してAD(紀元後)30年楽浪郡の内紛で東部都尉が撤廃されることによって嶺東(ヨンドン)地方は漢国の勢力から完全に抜け出すことになった。

この頃東海岸中部地域はいわゆる邑落社会の独自の君長国家が形成されたが江陵(カンヌン)地域では例国(〓国)が,三陟(サムチョク)地域に悉直国が存在していたことが分かっている。
※参考資料:三陟市(サムチョクシ)紙(三陟市(サムチョクシ),1997),三陟(サムチョク)の歴史と文化遺跡(1995)

青銅器時代(BC 1,000年ごろ)小型青銅期,非波形銅剣,窓(ウィンドウ),斧,矢尻,装身具など生活道具生産. 誌石墓. 無紋土器・青銅:銅(九里)に注釈(鉛) 100%以上混ざった合金・白銅:銅(九里)に注釈25%以上混ざった合金初期鉄器時代(BC300年-BC100年頃):青銅器と鉄器併用だって。 青銅器が主流. 石棺墓,トグァンミョ,甕棺墓,輸血住居鉄器時代(BC100年-AD100年頃):鉄生産,土器発達,有利の生産・BC 108年漢四郡(楽浪郡)が韓半島全域に鉄器文化普及(補給),BC 2世紀からは南部地方までも本格的な鉄器生産・(慶州(競走,傾注),朝陽洞(チョヤンドン)トグァンミョユムル)・AD 100年頃変わった辰韓で楽浪. 大方(テバン). なぜ鉄輸出・出土遺物:鉄製壮途. コム,無紋土器. こられる土器. ビー玉・住居地は竪穴住居,墓は木棺を設置したトグァンミョが主流


2.なくした王国-失職国(1)今から2千年余り前こちら東海岸には江陵(カンヌン)地域の例国(〓国),三陟(サムチョク)地域の悉直国,蔚珍(ウルチン)地域の波朝国または波但国という(のは)軍装国家が共存していたが,これら三ヶ国を通称して滄海三国といった。
蒼海三国は新羅,百済,高句麗のような国家の軸を整えた国ではなくて,小集団が集まって,ある地域で勢力を形成した無理社会的軍装国家として当時韓半島内にはそういう軍装国家が130ヶ余りもあった。

鉄器時代をむかえて,多量の青銅制および鉄製武器を所有したこれらセナという領域拡張のため戦争をすることになって,祈願後50年頃になればついに三陟(サムチョク)の失職国が蔚珍(ウルチン)のパジョグクを侵攻して,合併することになる。 それから10年後失職国は江陵(カンヌン)の例国から攻撃を受けることになって,当時失職国の安逸王は蔚珍(ウルチン)で避難して,酸性を積んで防備をした。 この酸性は安易王が避難きて,築造した城といって,安易王山(ワンサン)性だと呼ぶのに慶北(キョンブク),蔚珍郡(ウルチングン)書面消光リに行けば今でも首脳(頂上,正常)部に酸性の形態がよく残っている。

蔚珍郡(ウルチングン)書面消光リの河川弁に自然石岩として安易王山(ワンサン)性を知らせる黄腸禁表をすぎて,酸性の頂上を上がれば南側は蔚珍(ウルチン)で一番高い通古山(トンゴサン),北側は笠峰(サッカッボン),東側は東海(日本海)海と蔚珍(ウルチン)市街地が広々と見下ろせるのに,このような地形地勢で見る時,この酸性は東側海からくることを防ぐためのものだと判断されて,当時蒼海三国の戦闘が海辺の道を利用したと推定される。

すなわち,江陵(カンヌン)の例国や三陟(サムチョク)の失職国,蔚珍(ウルチン)のパジョグク皆江門港,三陟(サムチョク)港(情羅津(ラジン)),おかゆ弁港などの入り江を戦闘機指話したし,そちらが主な浸透経路だったものと推定される。
失職国の王中で唯一その名前が残っている“安易王”. 蔚珍(ウルチン)地域では“安易王”より“エミール王”と呼ばれるのに,そちらの70代~80代老人たちの話によれば幼い時にウルムボをさく烈させれば大人たちが“はい出てくる終われ” “はい打ってくる終われ”とくれといったという。 すなわち例国が,江陵(カンヌン)の例国があげてくるからなきやめとの意だ。

これと共に安易王酸性周辺の通古山(トンゴサン)は安易王がこの山を越えて,あまりにも裁可高くて,号泣したとして通古山(トンゴサン),笠峰(サッカッボン)のポクトゥグェヒョン(僕頭掛県.別名パクダル峠ともハム)は安易王山(ワンサン)性が陥落するや安易王が臣下と服を着替えて逃げてこちらで福もすなわち賃金が使った帽子を取っておいてわき水を飲んでいる間敵軍の追跡が近づくやそこまでかけておいた福二を使うことができなくて逃げたところといって付けられた指名であり,蔚珍郡(ウルチングン)書面王避里という村は賃金がピシネットンゴッ,兵威洞(またはビョンウ洞)は安易王の軍事が留まった所,飽田は王が避難当時軍属と同じようにのどの渇きを解いて飽食したところ,イム狂の場所(またはイム王気)は賃金が座って休んだ所,ピッコルは王が敵に捕まったところ,通り(距離)曲は失職国の軍用米を保存する倉庫があった所といって,そのような指名が付けられたという指名由来が伝えてきている。

このように蔚珍(ウルチン)地域には2千年余り前ヨンドン南部地域の中心勢力だった失職国の歴史がまだその息遣いを受け継いできている。 失職国の中心地であった三陟(サムチョク)より蔚珍(ウルチン)地域に失職国関連説話がよく残っているのは蔚珍(ウルチン)地域の地形的孤立性のためと解釈される。 三陟(サムチョク)地域の失職国是対遺跡では遠徳邑(ウォンドクウプ)ノ経理および近徳面(クンドンミョン)同盟国海水浴場の初期鉄器時代遺跡と北評港湾拡張工事現場で発掘された家の跡地および石トップ(のこぎり)玉土器などがある。 この遺物らはその間関東大学校博物館に保管されてきて2000年3月29日三陟(サムチョク)市立博物館が開館されて,現在市立博物館第1展示室(船会社(善事,プレゼント)・歴史室)に展示されている。

失職国:青銅器-鉄器時代三陟(サムチョク)を中心に活動した軍装国家・失職=スェジクが. 鉄=悉,チク=守り(門番,倉庫紙器など)・三陟(サムチョク)は四季と鉄鉱石産地. 軍事要衝地. 高句麗と新羅の角逐場・三陟(サムチョク)⇒スェジク⇒辞職・高句麗では悉を三で表現(失職⇒三職)BC4世紀末-BC3世紀初め:中国ヨン・ナラ-韓半島(西北部)鉄器流入・衛満朝鮮( BC194- BC108). 漢四郡-韓半島全域に鉄器文化拡散・東海岸北部;イム置いた軍統治-BC82年廃止,楽浪同道胃腑,AD30・ウォンサム国是対(BC100-AD100)多様な鉄製農機具と武器生産. 鉄を貨幣のように使用,変わった辰韓で楽浪,大方(テバン),なぜ鉄供給


3.なくした王国-失職国(2)三陟(サムチョク)を中心に活動した失職国が韓国歴史の舞台に実名で登場したことは西暦102年からだ。 三国史記新羅本紀パー四尼師今23年條の内容がそれだ。
102年8月失職国は慶北(キョンブク),慶州(競走,傾注)近隣の軍装国家の音家蜂国(音汁伐国,今の慶北(キョンブク)安康)と領土拡張のための戦争を行う。 今日慶北(キョンブク)の蔚珍(ウルチン),領海,霊徳(ヨンドク)をすぎて,慶州(競走,傾注)の関門の青蝦面(チョンハミョン)地域まで取り除こうと行ってその地域の音家蜂国と戦争を行う程失職国は強力な軍事力を持った。

失職国と音家蜂国は戦争をして当時南側地域で強大国に成長した新羅の王を訪ねて行って,判決を要請する。 これに新羅王は自分より年齢も多くて賢い金冠国の首露王を招請して判決を下すようにしたが首露王は問題のその土地を音家蜂国のことだと判決を下す。 新羅王は裁判官で招請した首露王のために6部に命じて,祭りを行うようにする。 ところであきれるようにも“首露王のための祭り” -これが失職国滅亡の直接的な契機になる。

王の命令を受けた新羅の6部-級量(朴氏),思量(キム氏),本血(チョン氏),モリャン点量富. ソン氏),寒地(睡眠タク部. ペ氏),湿痺(ソク氏.安康地域)-では首露王のための祭りを施すことになるのに,6部中5部ではイチャンという高い権力の座アーチらが首露王を接待したがただ寒地部(漢祇部,または寒気部漢岐部)だけが位が低い者が接待することになった。

このために首露王は腹が立って,部下に命じて,寒地部の族長格の補剤を殺して金冠国で帰国したし,寒地部の族長補剤を殺した首露王の部下むさぼるだろうは音家蜂国に逃げて隠れた。 この消息を聞いた新羅王は大きく怒って,殺人犯むさぼるだろうを捜し出そうとするのに音家蜂国の王が非協調的に出てくるや軍事を出して,音家蜂国に突き進む。 これに音家蜂国の王は無理を率いて新羅に投降したし,この時失職国と慶北(キョンブク),慶山(キョンサン)地域のアプトッククも降参した。 それから2年後の104年秋失職国は軍事を起こして,新羅と接戦を行うがまた敗れることになって,新羅は失職国の核心人物らを南に移住させることになる。

しかしここで失職国が滅亡したのではない。 当時失職国はたとえ戦争で負けたが独立した国家として自治権を確保して,定期的に新羅に朝貢を捧げる相互並存的関係を維持したのだ。 それで138年からは新羅の王が失職国の領域の太白山(テベクサン)で親しく法事を行う程失職国は新羅と厚い関係を維持したのだ。
そうするうちに5世紀中葉になれば失職国は高句麗と新羅の勢力争いの角逐場に変わって,480年ごろついに自治権を奪われる悲劇を迎えることになる。 高句麗長寿王の侵入で失職国は480年から500年まで約20余年間高句麗の直接統治を受ける。

481年領海まで掌握した高句麗は占領国を自国の郡県で服属させて,中央で管理を派遣して統治したが失職国やはり高句麗郡県の一つの悉直郡で改編されて,高句麗の強力な中央集権的統治を受けることになった。 当時失職国の領域は失職軍(郡)の下にチュキョン(竹嶺(チュンニョン))県,晩景(万香り)ヒョン,解離(パリ)県,迂曲(雨季)県,ウジニャヒョンという5ヶのヒョンを置いたという高句麗の郡県制記録から見て,北では迂曲ヒョン(羽谷県.羽谿県;玉階),西からはずっと現ヒョン(竹〓県.竹嶺顕;賀状),男では晩景ヒョン(満卿県.満郷県;クンドク),解離ヒョン(海利県.波利県;元徳)ウジニャヒョン(于珍也県;蔚珍(ウルチン))ウシ郡(于尸郡;領海)アへヒョン(阿兮県;清河(チョンハ))ヤシホルグン(也尸忽郡;霊徳(ヨンドク))地域までが失職国の領域で把握される。

これで東海岸地域を代表した軍装国家失職国は高句麗,百済,新羅,この3国の列強らに席を出して韓国歴史の舞台から消えることになった。
※失職国関連参考資料:[蔚珍郡(ウルチングン)紙]. [鬱陵郡(ウルルングン)紙]. [三陟市(サムチョクシ)紙]. [三国史記],蔚珍(ウルチン)文化第6号(蔚珍(ウルチン)文化院,1991),[失職文化]第3-4集(三陟(サムチョク)文化院,1992-3)

三国史記(地理誌):竹嶺(チュンニョン)玄銀本来高句麗のずっと現ヒョンで景徳王が竹嶺(チュンニョン)ヒョンで改名東国輿地勝覧:南側109里竹嶺(チュンニョン)ヒョン(オク・ウォン役が竹嶺(チュンニョン)県の旧跡)同行支持(キム・ジョンホ):チュキョン.竹嶺(チュンニョン)は副西側50里. 高句麗の時奈生於脊柱紙;太祖2年(1393)宋谷はオク院東側にあって,ソング曲北側は副腎当たりがあって,池の前にヘマンサンがあって,副腎当たり南側にチュキョンがある。
朝鮮時代旅館の竹院が下長面(ハジャンミョン)円筒(原動-1995年太白市(テベクシ)に編入)にあったし,迷路と賀状の町角を五測れということ


4.失職主義君主-キム理事副新羅で州郡県制度を実施したことは第22代紙症(証)王6年(505年) 2月なのにこの時東海岸には唯一失職国(三陟(サムチョク))に失職主(州,株)を設置した。 この失職主(州,株)に初めての君主で赴任した人物が異斯夫であり,新羅時代軍主という名前はこの時初めてできたのだ。 君主は地方行政の首長だけでなく軍事まで総括する強大な力を持つ地位であった。
失職主義君主で赴任した理事部の姓は金氏で,新羅第17代奈勿王の4代孫で名前は苔宗だと呼んだりもしたがよくイ・サブロウ知られている。

理事部は新羅,百済,高句麗の3国確立時のままに行った時,新羅が飛躍的な発展をするのに中枢的な役割を遂行した。 紙症(証)王法興王,真興王3代にかけて,政治. 軍事. 学問の求心点になったのだ。 于山国と代価が征伐を成しとげたし,真興王の時には丙部令(領)として中央政治と軍事の失権を掌握したし,王に申し上げて国史を編纂することができるようにした。
理事部の多くの活躍中でも私たちの三陟(サムチョク)と関連になったことは于山国征伐だ。

理事部が失職主義君主で赴任する当時鬱陵島(ウルルンド)は于山国という部族国家であり,“友好恵沢”という王が統治していたが,友好恵沢王は対馬で“どぶんと”という美女を連れてきて,王侯で封じた後から情事は世話しないでどぶんと美女と恋愛遊戯に陥った。 その上王侯の贅沢のために三陟(サムチョク)の海岸の村はもちろんで,遠く新羅の近隣まで略奪の手助けを伸びたのだ。 これに新羅国民らの怨念の声が高まってついに新羅王は失職主義君主理事部に于山国を討伐しろとの命令を下す。

511年理事部は直ちに出兵して,于山国に接近したが天然要塞(このごろ)のような地形と住民たちが荒っぽくて,力では征伐する難しい状況だった。 しかたなく戻ってきた理事部は軍事を徹底的に訓練させて,イドゥム海人512年失職主(州,株)をそのまま存続させた状態で領域を拡張して,江陵(カンヌン)のハスルラジュ君主に上がった後また于山国討伐道に上がる。 三陟(サムチョク)のチョンナハンで于山国に至った理事部は友好恵沢王に使節を送って,降参するように薦める。

しかし友好恵沢王は前回戦いで後退した新羅軍(郡)であるから軽く見てその場で使節の首を切った後戦闘を始める。 理事部は計画した戦略のとおり戦闘を導いて行く。
すべての軍船の船首に作ってたてた大型木(木)使者(ライオン)からいっせいに火を吐くようにしてまた矢も撃つようにして軍船を走らせるようにしたのだ。 この光景に于山国の軍事らはびっくり驚天した。 聞くことも見ることもできなかった大きな獣が口で火を吐いているから... 茫然自失したのだ。

この時新羅の軍事らが合唱して,大きい声で“直ちに降参しなければこの荒っぽい獣を解いて,島の人々を抹殺させる”と威嚇した。 すでにおかしな獣に真っ青になってしまった于山国兵士たちは戦意を喪失しているうえに新羅軍(郡)が撃つ降り注ぐ矢を避けるのに忙しかったので友好恵沢王は自身の投球を脱いで,理事部の軍門に投げて降参してしまった。 これで于山国は滅亡してこの時から失職主義管轄英知になったのだ。

512年. このように于山国は滅亡したが1,500余年が過ぎた今日までもその歴史の自炊が残っていると鬱陵郡(ウルルングン)書面南洋入り江の使者(ライオン)岩と投球岩がそれだ。 新羅軍(郡)が軍船に積んできた木使者(ライオン)が鬱陵島(ウルルンド)に(落ちる)下されて,岩に変わったという使者(ライオン)岩,友好恵沢王が降参する時投げ捨てた投球が残って投球愚か者なったという悲しい伝説がまだ鬱陵島(ウルルンド)の人々の胸中に住んでいることだ。

そして三陟市(サムチョクシ)にも于山国征伐の記念物がある。 社稷洞(サジットン)と近徳面(クンドンミョン)の警戒(境界)(過去の三陟市(サムチョクシ).クンの警戒(境界))の旱災道そばにたてたライオン像と東海市(トンヘシ)と橋渡し役トン鳳梨ガソリンスタンド道そばの獅子像で1986年パク・ファンジュ市長再任(在任)時郷土史学者らの建議を受け入れて,于山国征伐の時活用した木使者(ライオン)を記念する意で三陟市(サムチョクシ)警戒地域にトルサジャサンを設置しておいたものだ。

于山国征伐,これは韓国と日本の古代史において非常に重要な事件であることを分からなければならない。 なぜなら理事部が于山国を征伐して,新羅の領域sに編入させたので鬱陵島(ウルルンド)と独島(ドクト)が今日我が国の国土ではっきりと席を占めているためだ。
※参考資料:[三陟市(サムチョクシ)紙],[鬱陵郡(ウルルングン)紙],[三国史記],キム・ヨンギ,“失職国の人脈”,[失職文化]第3集,三陟(サムチョク)文化院,1992

三陟(サムチョク)地域の三国時代遺跡と遺物・行く山,元堂洞(ウォンダンドン),社稷洞(サジットン)古墳;金イヤリング,土器,甕棺など・東海(日本海),湫岩洞(チュアムドン)B地区古墳;出字形金銅冠出土(頭蓋骨と歯分析結果40代女性が主人公. 身分は宗教的機能担当者または慶州(競走,傾注)で派遣した管理者,4-5世紀に急成長した鉄技術者などで推定


5.失職国の復興運動慶北(キョンブク),蔚珍郡(ウルチングン),竹辺面(チュクピョンミョン),蓬坪(ボンピョン)2里118番地. 東海(日本海)南部高速道路に乗って蔚珍(ウルチン)側へ向かって見ればおかゆ弁郊外周辺道路の簡易飛行場が出てくるのに,その飛行場が終わる地点の右側に蓬坪(ボンピョン)新羅費と碑閣がある。 この蓬坪(ボンピョン)新羅費で“失職国の復興運動”という歴史的事件の一面を探すことができる。

蓬坪(ボンピョン)新羅費は1988年3月発見されて,4月15日付大邱(テグ)毎日新聞報道で全国に知らされたし,文化財管理局(チョン)と大邱(テグ)大学校研究チームの調査結果現在まで発見された新羅費中最も古くなったことで判明した。 真興王巡幸碑よりはるかに早い法興王11年(524年)に製作建設された蓬坪(ボンピョン)新羅費は1988年11月国宝第242号と指定されたが,碑石の材質は変成花こう岩で状態が非常に不良な方であり,全体的に4各を成し遂げているが文字が彫られた1面だけ若干の仕上げをしたし他の3面は自然石をそのまま利用したのだ。

2メートル高さの碑石に彫られた碑文は総10行399字で,書体は隷書で楷書体へ渡る過渡期の字体として幼稚な方で,碑文の内容は大きく4文壇に分けられる。
最初文壇は法興王以下新羅人13人が甲辰年正月15日に種苗で先祖神(靴)から掲示を受けたことが把握されて,二番目文壇は法興王以下13人の一行がこと蜂帽羅南米紙に巡行して,筏橋(ポルギョ)令(領)(今日の非上掲厳令)をおりたことで,三番目文壇は新羅6部が相談して決めたことにより執行官の対人(代印)によって,地方官および土豪に兄を執行した内容であり,四番目文壇は総指揮監督した実地君主と石刻した人などの人的事項で把握される。

この碑文によれば505年から新羅の直接支配を受けた失職国国民らは524年こと蜂帽羅性を燃やすなど大規模反乱を起こす。 この事件は新羅側で見れば反乱だが,失職国としては国権回復運動または復興運動になることだ。 しかし失敗してしまう。 新羅の法興王が親しく出兵してナンを平正で地方官の実地君主とその下実地導師とこと蜂帽羅導師に長兄の罰を下して再発防止のための目的でその内容を碑文に記録して,碑石を立てておく。

碑文を見ればこと蜂帽羅の南米紙という老人村で反乱を起こしたことになっているので,こと蜂帽羅は当時蔚珍(ウルチン)地域の水夫であった蓬坪(ボンピョン)の指名で,奴人村という(のは)新羅に征服された住民たちが集まって,住む所を指し示してこれらは他の地域住民らより激しい差別待遇を受けたと見て,こと蜂帽羅導師は実地導師とともに三陟(サムチョク)の実地君主の指揮下にあったのでこれはまもなく新羅に征服された失職国の人々の復興運動だと推定される。 そしてこの雨門を通って“失職”は法興王大に“実地”という指名に変わったことが分かる。

合わせて当時の地方行政制度が今日道知事格に該当する君主の下,市場郡守級の導師が地域を統治したことが分かる。 実地主義場合君主の下三陟(サムチョク)の実地導師と蔚珍(ウルチン)のこと蜂帽羅導師で行政体系を整えていたのだ。
失職国の復興運動を主導した核心人物は当時こと蜂帽羅の豪族だった秦氏一族と推定されるのに,これらは偉業失敗後日本で政治的亡命をして,日本京都地方(脂肪)の全域に先に日本へ渡ってきた朝鮮界住民たちを掌握してその地方(脂肪)の最も力がある豪族に成長することになる。

日本国宝1号の弥勒菩薩半跏思惟像があるホ誤り社という寺をハタ カワガツがたてたという記録から見る時,これらの力を察するようにする。 秦は日本語でハタ,蔚珍(ウルチン)の過去の名前波但また日本語でハタだ。 ある地域の人々が違う地域に移して生きる時,故郷の指名をそのまま使う例はたくさん現れる。 そして指名は簡単に変わらない。 まだ日本の奈良県,京都府近隣のウッズ馬小屋村(太秦村)にはチン氏(ハタ)の終値が生きており,チン氏の湖は7,100余号があるという。

そのような理由で1988年7月京都大名誉教授のウエダ,マ沙下(サハ)浮気心博士が日本学者では最初に蓬坪(ボンピョン)新羅費を研究するために蔚珍(ウルチン)を訪問したし,1989年にはハタ氏の子孫だと自任する日本,長岡教五市ヨオクサ(寺)の周知旧佐賀ダイ鼻種が蔚珍(ウルチン)を訪問したし,1990年春には日本映画監督一行5人が蓬坪(ボンピョン)新羅費と村全景,蓬坪(ボンピョン)海岸と北面上党利のチン氏が(家)を探して,架台(家垈;家の跡地)を撮影していった。

皆が自分たちの根元を探すためだ。 これら皆蔚珍(ウルチン)の蓬坪(ボンピョン)新羅費に彫られた“波但”という字を見てハタ(秦)氏の故郷がまさにここで"と確信した。
日本の飼料にチン氏とハン氏,ハタウチと痛い右太り2代氏族の始祖(詩)は皆応身王対人(代印)4世紀後半に帰化したと記録されたと見る時,失職国復興運動の主導勢力だったと推定されるチン氏一族の日本亡命説は郷土社研究の課題にならなければならないだろう。
※参考資料:蔚珍(ウルチン)文化第4号(1989)第6号(1991),[三陟市(サムチョクシ)紙]. KBS1TV歴史スペシャル

新羅は統一前6停という6ヶ軍団を各地方(脂肪)に設置して,国土を進水したが失職主(州,株)にも悉直停という軍団を設置して武烈王時これを終わって北進を設置した。

6.統一新羅の文化遺産-古い画家と太陽がツルニンジン国を統一した新羅は景徳王16年(757)地方(脂肪)制度を再編成する過程で東海岸の失職主(州,株)とハスルラジュ(江陵(カンヌン))を合わせて溟州といって,失職主(州,株)は三陟郡で改名することによって“三陟(サムチョク)”という指名が今日まで続いている。(脊柱紙には景徳王18年759年に“三陟(サムチョク)”で改名されたと記録されること)管轄領域は竹嶺(チュンニョン)ヒョン竹嶺県(高句麗-ずっと現ヒョン竹〓県)マニャンヒョン万郷県(または満卿県,高句麗-満若県)ウ・ケヒョン羽谿県(高句麗-羽谷県)解離ヒョン海利県(高句麗-波里県)等4県で今日玉階で元徳までに推定される。

統一新羅時代の文化遺産で三陟(サムチョク)で探すことができるのは二編(便)の郷歌だ。 まさに古い画家と太陽がサイダー. しかし今までこの二方歌の作品背景になる所がどこかとの対してははっきりと糾明されないでいる。 ところが当時のすべての状況と周辺環境から推察する時,古い画家は役員地域,太陽が生きる増産または湫岩(チュアム)地域の海岸ある地点と推測される。

三国遺事奇異第2 [水路部の]組には次の通り歌とその創作背景を紹介している。 新羅第33代成徳王の時純情工業が絹織物(銘酒)(今の江陵(カンヌン))太守で赴任する途中海辺で昼食を食べることになるのに,そちらは岩崖が屏風のように海をまいたところで高さは天井にもなって,その上に見事なツツジ花が満開になっていた。 純情工業の妻水路夫人が誰があの花を折ってこないのかと話す。 しかし種子らは人が上がることのできない険しい絶壁であるから皆できないと答える。 その時ちょうどどんな老人が雌牛を引っ張ってそのそばをすぎて水路夫人の話を聞いて絶壁上の花を折ってくれて,歌を作って捧げたがその歌が古い画家だ。

“赤紫色パウィッカに捉えた手雌牛置いて/私をいや恥ずかしがれば/花を折って,バー分切り取る”そして二日後で臨海亭という所でまた昼食を食べることになるのにこの時海龍が突然に現れて,水路夫人を拉致して,海の中に引っ張っていった。 純情工業はあたふた地団駄を踏むが夫人を訪ねてくる計略がなかった。

この時またある老人が現れて告げることを“昔話に色々な口は鉄も溶かすと言うと境内の国民らを集めて,歌を作って歌って,棒で丘を打てば夫人を探すことができるでしょう”といって,純情工業がその言葉通りしたところヘリョンが夫人を敬って出てきて純情工業に捧げる。 純情工業が海の中龍宮のことを尋ねたところ七宝焼宮殿に食べ物がおいしくて香ばしくてきれいで,人間の料理ではないといった。

水路夫人の服ではかつて人間世の中で受け持つことが出来ない風変わりな香りが漂って出た。 本来水路夫人は絶世の美人だったから毎度深い山と大きいクギをすぎる時ごとにむしずに捕まって行ったのだ。 ここで国民らが水路夫人を(求める)救おうと歌った歌が太陽がサイダー.
“亀亀水路を出せ/他人の婦女奪っていった罪どれくらい大きいのか/四万である断って出さないならば/網で捉えて焼くだろう"それで東海岸のどこで古い画家と太陽が史家呼ばれたのだろうか。 文献資料がないので海の龍と水路と関連になった指名,そして彼と関連になる民俗を通じて接近するほかはない。

新羅の首都慶州(競走,傾注)から江陵(カンヌン)まで上がってくるところに絶壁が屏風のように海辺に囲まれたところは役員と溶化の間の海岸だ。 イム・ウォナン会センター南西側山を“修理ボン” “水路ボン”だと呼ぶのにその地域老人たちによれば以前にツツジ花がたくさん咲いた所という。 そして今でもそちらの海岸崖は古い画家の作品背景のような雰囲気だ。

また三陟市(サムチョクシ)内と隣接した蝸牛産(山)裾の海岸の村の増産と湫岩(チュアム)地域には雌牛を引っ張ってきて,ツツジ花を折って捧げた老人,ヘリョンに捕えられた水路夫人を救い出す計略を話した老人を連想させる“神牛の車輪跡”が残っていたという脊柱紙の記録が見えて,その地域クラムという所に龍墓行っており,村人らが棒で土地を打ったことと似た“テブルロルが”と亀の皮を文の上に掲げて額を防ぐ民俗が伝えられる。 この部分に対してはまだ多くの研究が必要だ。

1991年イ・オリョン博士が文化部長官在職時竹西楼(チュクソル)境内の[ソン・カン精鉄歌詞の場所雨]除幕式参加のために三陟(サムチョク)を訪問して,三陟(サムチョク)を“古い画家と太陽が謝意(辞意)故障”に育てて広報しろとの助言に力づけられて,三陟市(サムチョクシ)ではツツジを市花として,江原道(カンウォンド)民俗芸術競演大会に古い画家を背景にした“失職国ツツジ遊び”という作品を出品して,広く広報したりもした。
※参考資料:[三国遺事],失職文化第3集(三陟(サムチョク)文化院,1992)


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