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古代史の資料集です。
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①この地域の過去の指名考察が老姑城を現地調査して,こちら指名で古くなった私たちの過去の記録上の指名と似ていたのを発見した。 三国史記百済温祖王36年8月組に“円山,クムヒョン(錦〓)の二省を修理して古沙夫里城を積んだ。”という記録がある。

ここに登場する円山城を龍宮地方(脂肪)のタビソンすなわち龍飛山城で見てクムヒョン性を醴泉郡(イェチョングン),龍門面(ヨンムンミョン),金谷洞(クムゴットン)にある金堂室星すなわち上乙谷城で仮定すれば古沙夫里城はサブレイにある労苦性ではないかという疑問がおこる。

この労苦性がある村名前がサブレイラしながら内省(耐性)がある頭を沙夫嶺,師父令(領)向こう側の醴泉(イェチョン)側同名が沙夫里であり,サクチバシと接した上里面(サンリミョン)の同名が沙谷里だ。 遠い昔からこの地域の指名がサブレイ,師父令(領),サクチバシと呼ばれた由来がこちらの成果関連になったことで推測をしてみるならば想像の飛躍なのかは分からないけれど多くの疑問が残す指名といえる。

そして百済は草稿王25年(178)に新羅の西側円山郷を攻撃して,それから20年後の210年に“チョクヒョン(赤〓),沙道の二城を築いて東部の民を移して生きるようにした。 10月に靺鞨がきて沙道城を攻撃して勝てないと声紋(城門)を燃やして逃亡した。

”したし,“口受王3年(216) 8月に靺鞨がきて,チョクヒョン性を包囲するので城主(星州)が堅く防ぐと多少退くや王がすばしこい軍事8百人を率いて後を追って沙道城の下で戦って破って敵兵を非常にたくさん殺した。”したし“翌年の4年2月に二冊をSadosungのそばに設置するものの同,での通り(距離)が10里位なるようにしてチョクヒョン性の兵力を分けて守るようにした。”としたのが見える。

私たちはここでチョクヒョン性とSadosungの正確な位置がどこなのかが分からない。 私たちの東魯面(トンノミョン)ポルチェジェがチョクヒョン性がアニゲンヌがする。 ポルチェジェをチョクヒョン性で見るならばSadosungが労苦性だと見ることができる。 固辞(考査,告辞,枯死)クチバシ性とSadosungを同じ性で仮定するならばチョクヒョン性とSadosungの距離(通り)は20里に過ぎないので軍事を分けて,駐留させやすくてお互い間の連係が容易だ。

凍露の適性で丹陽(タニャン)の適性に行くことができるヒョン(〓)がポルチェジェイミョ労苦性がある地域の凍露側名前が‘サブレイ’,醴泉(イェチョン)側名前がサクチバシ,商利側名前が沙谷里(サゴンニ),性がある頭が師父令(領)であるからそちら指名と似ているので(に)このように疑問を持つようになった。

上の疑問を解決大切にしては百済がその建国初期にこちらまで進出しただろうと信じることができる記録を探すことができなくて,3世紀初葉まで百済がここを占有したとも推定しにくい。 百済は2世紀後半に新羅の西側橋渡し役円山郷を襲撃するのにこの原産香りを醴泉郡(イェチョングン)龍宮で見るといえば3世紀始めにはチョクヒョン性,Sadosungまでの通り(距離)が30里から40里に過ぎないから現在の龍宮と凍露一員が百済の東側警戒(境界)になりうる。

百済が新羅脱解王7年(63)に娘子谷城を現在の忠州(チュンジュ)地方(大東輿地図によること)で見るといえば忠州(チュンジュ),丹陽(タニャン),清風(チョンプン)と直接連結しているこの凍露地域もまた百済の土ではなかったと断定することもできない。

新羅鳥糞尼師今4年(233) 7月初めに“イチャン于老が倭兵と沙道で戦って,風について火をつけて,時の腹(船,梨)を(焼く)乗せると多少水に落ちて逃げて死んだ。”という記録があることを見るのにこの新羅の使徒は東海岸にあったと見られてこれは百済Sadosungとは違うことが分かる。

そして有利尼師今9年(292)にも倭兵とSadosungで戦った記録がある。 これもまた東海岸が確実だ。 しかし翌年2月初めに見れば“Sadosungを建て直してサ罰酒(沙伐州;現常駐)の裕福な知識人80余号を引越しさせた。”といったがサ罰酒(常駐)の住民を東海岸まで移住させたことか,近いSadosung(凍露)に移住させたことかはよく分からない。

百済陳謝王7年(辰斯王7年:391) 4月に“靺鞨がチョクヒョン性を打って,陥落した”という後ではチョクヒョン性とSadosungに対する記録を探してみることはできない。 翌年392年に高句麗広開土王は百済を攻撃して,10余省を陥落させて,長寿王63年(長寿王63年:475) 9月に百済の漢城(ハンソン)を陥落させて百済の蓋鹵王を捉えて,ア単性(阿旦城:現丹陽(タニャン)迎春)下で殺した。

(凍死(同社,動詞)綱目で)この時に丹陽(タニャン),迎春など竹嶺(チュンニョン)北側は高句麗の土地になったし,長寿王69年(481)には美質部(弥秩夫:今の栄えて)まで進出した。
このような情勢変化でチョクヒョン性とSadosungは歴史記録から消えたことではないかという。

それなら新羅ではいつ頃にこの地域まで進出してきただろうか? 新羅は初め弛緩砂金(沾解尼師今:247~262)時に現常駐地方(脂肪)の沙伐国を合わせる。 新羅がケリムニョンノを開通させて80年後となる。 そして信証東国輿地勝覧霊泉(ヨンチョン)軍(郡)(栄川郡:現永住軍(郡))健歯沿革組に本来高句麗捺已郡なのに新羅派沙王が取ったといったが現永住地方は2世紀初葉にすでに新羅で合わせたと見られる。

新羅素地(所持)麻立干(昭知麻立干:479~500) 22年(500) 9月に王が直接日がクンにお出ました事実があることを参考にするならば永住地方は5世紀末6世紀初めには新羅の領土が確実になる。

法興王12年(525) 2月サ罰酒に軍主を置いたのでこの時期には新羅で現東魯面(トンノミョン),小白(ソペク)山脈以南地域は新羅の領土だったと推測することが無理がないものと見えてために新羅の次の王の真興王(真興王:540~576) 12年には小白(ソペク)山脈を越えて,漢江(ハンガン)に進出,10村を占領できたと推測になる。

以上の提起録を総合してみる時,竹嶺(チュンニョン)付近は5世紀中葉に高句麗の長寿王によって,征服されて新羅素地(所持)王台に新羅の土地で回復したものとみられられて龍宮地方(脂肪)で凍露までがひょっとして4世紀末葉まで百済の土地であったか疑問が残る。 しかし東魯面(トンノミョン)過去の安仁県一員の指名「ポルチェジェ」「サブレイ」「師父令(領)」「サクチバシ」等をもう一度考察してみて研究してみる課題と考えられる。


(10)作成(鵲城)作成は東魯面(トンノミョン)ミョン電離荒荘産(山)麓谷間にあって私たちの故障に伝えられる話では考慮恭愍王10年(1361)にホンゴン敵の侵入を避けてきた時に恭愍王は主屹山(チュフルサン)魚類洞で起居して恭愍王費露国公州(王女)がこの作成で避難したし,恭愍王が鵲将軍に命じて,この城を築くようにしたと伝えられている。

この作成が高麗末期の築城だったと見るにはその築城方法が三国時代新羅築城方法と違ったところがなくて,またこの誠意位置がチョクソンノの北端にあって見方によっては労苦性の前進性であり,漢江(ハンガン)進出の最前方基地(機知)の新羅性と見られる。

増補文献備考クォン17醴泉郡(イェチョングン)官房組には“鵲城は周りが6百10隻で,高さが11隻であり,広さが10両チョック”としたし,東国輿地勝覧では“荒荘産(山)を鵲城山”と醴泉郡(イェチョングン)山川組に記録している。

そして“作成は周りが6百10隻であり,西の方に石文があると高さが11隻,広さが12隻であり,三面が皆岩石だ。”と記録して,過去の醴泉郡(イェチョングン)紙には“作成産(山)はクンで北側75里にあって黄腸禁林で封日が沈んだので周りが40里だ。”した。

東国輿地勝覧でも醴泉郡(イェチョングン)紙では皆荒荘産(山)で呼ばないで作成産(山)だと記録している。
東国輿地勝覧の丹陽(タニャン)現健歯沿革に“本来高句麗の赤山県であり,また赤城だと呼ぶ。

また丹陽(タニャン)現山川組に南川はクンの西側30譜にあるとその根源は慶尚道(キョンサンド),醴泉郡(イェチョングン)作成産(山)から出て,二楽楼前で下津に入る。”とした。 作成という(のは)指名を調べれば現在の東魯面(トンノミョン)所在地を赤城里と呼んで二敵性理から丹陽(タニャン)に渡る嶺を赤城だと呼んでいることを見る時,適性令(領)北側地域一員は三国時代には丹陽(タニャン)(積算ヒョン)に属したのがでない街推定される。 現在の小白(ソペク)山脈ノモにある東魯面(トンノミョン)鳴田里一員は丹陽(タニャン)現地駅だと春が妥当だろう。

鵲城で南側適性(凍露)との距離や北側丹陽(タニャン)適性(ハ方里)との距離が似ているだけでなく,丹陽(タニャン)北側の温達(オンダル)性などと関連させてみる時,作成は赤城嶺を防御して新羅での進入をするための高句麗性である可能性も排除できないと見る。

高句麗は長寿王(長寿王;413~476)対に竹嶺(チュンニョン)を越えて,霊泉(ヨンチョン)(栄川:今の永住),のろし,青松,例中(案)地域までを占めたことはもちろん丹陽(タニャン),提川(チェチョン),清風(チョンプン),忠州(チュンジュ),槐山(クェサン)地域も占めた。 丹陽(タニャン)の過去の名前赤山,赤城は高句麗の指名だ。

それなら鵲城もまた高句麗性である可能性があることができると見られる。 作成はその西の方に湖港令(領)(狐項嶺:女巫モク頭)の関隘と遠くなくて労苦性との距離も20里を越えない。
高句麗勢力がここで南進をするといっても労苦性の要衝を切り開いて行くことは難しかったことであり,作成が新羅の漢江(ハンガン)進出の前衛基地(機知)であった漢江(ハンガン)上流に到達することはなかなかやさしい道に違いない。

これと共に重要な位置にある作成に対しはその築城年代と新羅,高句麗のどちらの築城なのかを明確に,区別するための調査が必要だと考えられる。 作成は荒荘産(山)(1,077.4m)首脳(頂上,正常)までどこに街道水が流れて,数量が豊富で,丹陽(タニャン)の三仙九曲との距離(通り)はもちろん丹陽(タニャン)大岡面一員を見下ろして監製することができる。


①適性リ戦闘と6.25戦闘という(のは)以前や現代にもその武器体系は変わったが包囲して攻撃して撤収してする戦略や戦術は星に変わらなかったと見られる。 特に地形地物などが条件を最大限で利用することは古代前や現代戦において大差ない。 6.25韓国動乱(朝鮮戦争)中中国共産軍の介入で鴨緑江(アムノッカン)まで進出して,全国土の統一が目前に迫る時,中国共産軍が50万の大兵力で介入して,わが国軍と国連軍は撤収作戦をせざるを得なかった。

書いた1951年1月10日頃に忠北(チュンブク)の提川(チェチョン),丹陽(タニャン)地域を占領して竹嶺(チュンニョン)を越えることはできなくなるや赤城路について1951年1月13日美名に東魯面(トンノミョン)適性リに侵入してきた。

この時に我が方は国軍1個大隊と米帝10軍団配下の特殊攻撃対1中隊の兵力で敵軍1師団の兵力と戦うことを満4日間1951年1月16日敵軍が退く時まで激しい攻防戦と国連軍の航空支援を書き取る完全に打撃せん滅すると残り書いた丹陽(タニャン)側で敗走した。

この戦闘で東魯面(トンノミョン)ある青黛院と国民間防衛隊が参戦して,24人が戦死した。 適性リ戦闘での戦果(前科)は敵射殺1,057人(確認),敵浮上(負傷)900人,武器捕獲2,000点余りの大田(テジョン)課であった。 この戦闘で敵はチョクソンノが狭くて,軍需支援が不可能だったし適性リで労苦成果間訟理を通過できないことを知ることになるや後退しなければならなかった。

6.25韓国動乱(朝鮮戦争)中中国共産軍がもしここを突破して,山北面(サンブックミョン)まで進出したと仮定するならば本当にきわどい瞬間だった。 適性リで中国共産軍の南進を最後で阻止できたことは適性リ盆地を囲んでいる険しい小白(ソペク)山脈の地形にあったと見られる。

もし逆らって,1,500年前に高句麗がこの道で侵攻してきたといっても結果は同じだったと推測される。 凍露川について耐火リまでこようとするなら深山峡路を40里以上過ぎるべきなのに果たして可能だったか。 私たちはチョクソンノサンの作成と労苦性の戦略的価値をもう一度考えさせる.


②作成にからまった伝説作成には次のような伝説が私たちの故障に伝えられている。 “1361年紅巾賊が考慮に侵入して,恭愍王はソウルの開京を離れて,伏奏(福州:今の安東(アンドン))で避難して帰っていく道に私たちの故障御留城で相当期間留まったという。

その時にこちら荒荘産(山)に鵲将軍に命じて城を築くようにして露国公州(王女)(魯国公主:恭愍王費)と妃嬪,女官らをこの作成に待避させて留まるようにしては何日に一回ずつこの作成に往来して,避難の道の苦労を慰めて開京が修復されることを待ったという。

伝える俗説には鵲将軍が城を築いたといって作成という。”と伝えられているが果たして当時に鵲氏性を持った将軍がいたのか分からない。 そして鵲城という(のは)名前を持った性が遠くない清風(チョンプン)にもある。

三国史記雑誌地理誌に見れば未詳地にチョクヒョン性(赤〓城)がある。 韓国語ではポルチェソンだ. 犬牙性(犬牙城:個我性)を李丙燾は朝鮮歴史地図書に聞慶(ムンギョン)の西の方に見ているがチョクヒョン性が三国史記地理誌にまさに犬牙城の下に記載したことから見て今日の聞慶(ムンギョン)地方で推定するならばチョクヒョン性(赤〓城:ポルチェソン)を鵲城で見られないだろうか? さらに多い研究と分析が必要だと見る。


(11)災い場性(花庄城)化粧性は山北面(サンブックミョン)耐火リ後方の山砥石ボン(460m)稜線約2.5kmにまたがる土城であり,その中央支店の砥石ボン頂上にいる壮大(将台:指揮所)周囲にだけ東・西・南・北の門を置いて石で積んだ。 石で積んだ高さは同棲が約3m,南北が約2.5mで面積は200坪程度なる。 この中央壮大(指揮所)から東西に約2.5kmの土星が積もっている。

化粧性と労苦性との距離(通り)は約4kmになって誠意築造方法や築造形態は労苦性内省(耐性)と同一だ。 この誠意頂上でまさに見れば作成川について東魯面(トンノミョン)磨光で山北のNolumok頭を回って,耐火リに陥るところと東魯面(トンノミョン)水平でむなしい頭を越えて,終曲リ谷間についてイモンニまで出てくれば直ちに1,2里に陥ることができる。

チョクソンノの昔通った道はむなしい頭終曲-耳目-大河につながるところと水平-インゴク-マ狂-化粧-大河に連結する二道がある。
化粧性でこの二長いだけでなくケリムニョンで鳥項嶺を越えて石鳳里を経て,イモンニに出てくることができるところも監製して防御が容易な地点であり,虎渓面(ホゲミョン)支流で月頭(月〓)で出て来て梨木を通じて,1,2里に出て行くところも一目瞭然に監製,防御が可能な位置にある。

この化粧性で西南側約1km上巨漢甑峰(シルボン)(380m)の上に周り約100mの小さい石聖があったことから見て甑峰(シルボン)の性は化粧本性の外姓で前哨基地としての役割とイモンニに通じるすべての通路を防御したと見られる。

化粧性のイェシルムがなんと呼ばれたのかは今に分からなくて文献にも探すことはできない。 この地域が新羅電気には蘭山県と呼ばれて景徳王の時に安仁県だと改称したという記録を見る時に新羅電気から新羅の領域内にあったと見られるが誠意の名前は探すことはできない。

古山子キム・ジョンホは大東輿地図に今日の東魯面(トンノミョン)水平リ(葛ら)を安仁古県だったと表わしており,それなら旧醴泉郡(イェチョングン)に属した東魯面(トンノミョン)と化粧面一員が安人古県(コヒョン)に属した地域と推定される。

化粧性の築造方式と形態が労苦性の安城(アンソン)と同一なことから見て同じ時代に同じ目的で築造されたことを分かることができる。 私たちはここで上を哭声,労苦性,化粧性の任務と役割をもう一度考察して,見る必要がある。 化粧性もやはりケリムニョンノとチョクソンノを防御するのに最も重要な場所という事実には異論がない。

化粧性だけ抜け出すことになればすぐ買った北平野の広い開放地に進出することになってその南側では防御が可能な関隘や了解紙がなくて,洛東江(ナクトンガン)につくことができるからこの化粧性は最後の阻止線になると見なければならない。 化粧性南側10里地点の過去の近品城があった山陽面(サンヤンミョン)懸里後方の山(240m)に近巌城があるが三面が広い開放地なので防御には問題がある。

化粧性が労苦性の子城だと見る時,労苦性や上を哭声が新羅の漢江(ハンガン)進出の前進基地としての役割をしたとすれば化粧性また同じ役割をしたと見なければならない。 洛東江(ナクトンガン)舟運を利用した軍需物資の調達が最もやさしいところが化粧性だ。

洛東江(ナクトンガン)の舟がつく永順面(ヨンスンミョン)三綱まで通り(距離)がわずか20里で化粧性周囲の耐火,終曲,耳目,大河に数十万坪の農地があって,屯田をするといえば兵糧の自給で何万人の兵力があるにしても兵糧や軍需品の問題はないと見る時,新羅の漢江(ハンガン)進出の前進基地としての役割が可能でする。

化粧性が労苦性の自省だったと見る漸移ここにある。 新羅が真興王11年に漢江(ハンガン)上流の10余省を奪う時にその進撃路がチュンニョンノ,チョクソンノ,ケリムニョンノなどで見るならば化粧性の任務も自明だと見る。 (註)山北面(サンブックミョン)耐火リ素材酸性は過去の文献上酸性名のなくて,筆者が便宜上‘化粧性’とした。


(11)其他城地虎渓面(ホゲミョン)腺癌リ・サンソンの村で浮き雲令(領)(浮雲嶺:庭菲才)周囲が皆昔の城ではないのか住民たちは推測している。 商船の村で浮き雲令(領)を上がろうと過去の寺の跡地をすぎれば今でも山神堂がある。

この山神堂で東側稜線,すなわち山北面(サンブックミョン)ソク鳳梨側で城辺だと今でも呼ばれており,この浮き雲令(領)向こう側には麻城面(マソンミョン)ウェオリでに通じるところと浮き雲令(領)下東には山北面(サンブックミョン)ソク鳳梨石タンゴルに通じる道がある。

浮き雲令(領)で男とソを眺めれば先祖の墓の金烏山(クモサン),プンヤンの飛鳳山(ビボン山)までも明るく眺められる展望するのに良い位置にあって,この浮き雲令(領)ではホ・ケリ方面,ウェオリ方面,ソク鳳梨方面,釜谷里(プゴンニ)と腺癌リなどどこでも行くことができる。

また東には凍露の天主愚か者手で捕えられるよう近く見えて功徳産(山),運がつく酸度近い。 ここに性があったといえば東・西・南・北の遠いだろうまでを観察して防御しなかったかという気がする。 彼ら菲才は別名ペノモサニラ呼んで過去の烽燧行っていた席がある。



私たちの故障の酸性らとその誠意位置および戦略的な価値らを調べた。 私たちの故障は小白(ソペク)山脈が同・北・ソを囲んでいて三国初期には天然の国境になっていた。 そして南北交通の最も重要な要衝地として役割をすることになる。

このような交通上の最も重要な要衝地としての役割は新羅アダルライサグム3年(156) 4月から1900年代初め京釜(キョンブ)線鉄道が開通するまで長々1,800年間を続いてきた。 ケリムニョンノを通した北方先進文化の流入と交流は私たちの故障をムヌァジョンダルロロソ役割を一番最初にするようにしたし,合わせて三国初期にはこのような交通要衝を争奪するための戦闘が続いた故障だったのでその要素毎に酸性が築造されたし,この酸性らは外敵侵入に防御役割をしたと見る。

私たちの故障には比較的平野地帯の永順面(ヨンスンミョン)を除いた全地域に酸性があってこの酸性らは必ず南北交通路の要衝地に包まれている。 ケリムニョンノビョンの魚類性,マ・コソン,叔母性,姑と嫁性は北方勢力の南進阻止のためであることはもちろん新羅の漢江(ハンガン)上流進出に橋頭堡的役割をしたと見て,チョクソンノチョクの作成,労苦性,耐火性,クン癌性もまた同じ役割をしたと見る。

そしてカウン方面のヒヤン酸性,カウン性,天馬山(チョンマサン)性などすべての酸性が新羅,高句麗,百済の国境とかみ合わさって,数多くの戦いが払われたが三国史記の記録中その時の指名を詳しく分からないのが遺憾に思う。

南へ流れる洛東江(ナクトンガン)と北で流れる漢江(ハンガン)の根源が小白(ソペク)山脈を分岐点でするから洛東江(ナクトンガン)で漢江(ハンガン),漢江(ハンガン)で洛東江(ナクトンガン)の最も近い通り(距離)を持ったところが私たちの故障だ。 洛東江(ナクトンガン)のハ風疹船着場で系リップリョンをすぎて,漢江(ハンガン)の漢江(ハンガン)船着場までが歩いてハルッキル,洛東江(ナクトンガン)の三綱船着場でチョクソンノを越えて,丹陽(タニャン)の下津までがまたハルッキルだ.

それなら二強の舟運を連結するところは必然的に聞慶(ムンギョン)を経なければならない。 そして必ず聞慶(ムンギョン)を経てこそ洛東江(ナクトンガン)の東・西方面で分かれて行くことができるので新羅以後にも交通上,戦略上の価値は続いている。

朝鮮朝成宗の時の私たちの故障出身の名臣ホン・グィダル(洪貴達:1438~1504)先生は幽谷駅遷喬亭重修記文でヨンウイ南側60州余りが地域が広くて人が多いが皆が幽谷の道をすぎてこそソウルに行くことができてソウルから南側へ行く人もまたここをすぎて,ようやく散って,自分の行く所を行くことができる。

人に比喩するならばこの駅は嶺南(ヨンナム)ののどといえる。 のどにピョンイナミョン食べ物を食べることができなく食べ物を食べられなければ命を持ちこたえることを願うことができるだろうか。”としたと見るがまた壬辰倭乱が起きた8ヶ月の後の壬辰年(1592) 12月に慶尚道(キョンサンド)巡察使ハン・ヒョスン(韓孝純:1543~1612)が先祖賃金にあげた状啓に言うことを“道内にユ鈍漢多少忍冬,大邱(テグ),青島,密陽(ミリャン),記帳(記章,機長),東莱(トンネ)および咸昌(ハムチャン)から唐橋などに至るまで相変らずユー鈍くなっているのに,当校の書いた左右道義咽喉(咽喉:のど)になる所にあってその勢力がはなはだ致誠するとたとえハルロク道義力をつくしても必ず先にこの敵を稚気で目標をみなします。

病死(兵士)朴晉と虞侯権応銖と密陽(ミリャン)副詞李守一および副将鄭大任などすべての長寿が皆安東(アンドン),醴泉(イェチョン)などの地に集まって経営してのぞいたのがすでに数ヶ月が近かったが多少便利な地点に占拠していてしかも中間に大きい私が遮られて,長寿らが皆難しく思ってまだ一度も攻撃できないので憤慨してきまり悪さに勝つことができなくて精鋭な軍事2千人を選抜して応銖に任せて,機会を見て,夜に襲撃するようにしたし…”と報告しているのを見る時,私たちの故障一代(一帯)がどれくらい重要な交通上,戦略上の要衝であったかを証明している。

過去の人々は全部私たちの故障を人ののど一緒に重要なところで認識して,その重要性をいっている。 だから私たちの地方(脂肪)は多くの戦乱に苦しめられなければならなかったと見る。

古代には新羅と百済,新羅と高句麗,後三国時代には新羅と後百済,考慮との争奪戦が激しかった所であり,高麗中期にはモンゴルとの戦闘,朝鮮朝には壬辰倭乱,そして現代にきて,6.25韓国動乱(朝鮮戦争)に至るまでその多くの戦いらが一度も私たちの地方(脂肪)をかすめて行かないのがなかったので真に重要な戦略上の要旨に間違いない。

過去の聞慶県誌には壬辰倭乱後数年間に県内に住民がなかったといったことから見てその時の被害がどれくらい激しかったのかをいっている。 たとえば三国時代にケリムニョンノ,朝鮮時代にチョリョンノが私たちの地域になかったと仮定するならばその多くの戦乱の直接的な被害をこうむれないこともあるだろうと見るためだ。

筆者は2年の間にかけて,私たちの地域内の酸性らを直接現地調査してその資料らを収合するのに自らの努力をしたが資料の不足はもちろん筆者自身の能力不足で不十分な点が多さを惜しんで終わりにすることになることが恥ずかしい。








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