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古代史の資料集です。
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(5)唐橋と蘇定方唐橋は聞慶市(ムンギョンシ),茅田洞(モジョンドン)と尚州市(サンジュシ),咸昌邑(ハムチャンウプ)輪直リとの警戒地点にある毛廛川上(胃)に置かれた橋(脚)の名前だ。 三国遺事奇異便第29太宗台(テジョンデ)王朝(三国遺事紀異篇第29太宗大王條)に見れば当校(唐橋:トェダリ・トェダリ)で唐軍と蘇定方を新羅のキム・ユシン(金〓信)将軍が抹殺をさせたと記録している。

その原文は次のようだ。 「又新羅古伝云定方既討麗済二国又謀伐新羅而留連於是〓信知其謀饗唐兵荷物之皆死坑之今尚州界唐橋是其坑地」*荷物=荷物鳥荷物“また新羅の過去の電気に達することをソ・ジョンバンがすでに高句麗と百済両国を打って,また新羅を打とうとする下心で留まっているので,キム・ユシンがその悪知恵を知って党病を接待して,荷物主(州,株)(荷物酒)を食べさせて殺して席巻して埋めたので今常駐警戒(境界)にある当校という所がまさにそこという。

”そして九註に言うことを“当社(唐史:唐司書)を調べればそのような言葉がなくてただし死んだという話だけ使ったことはどうなったことなのか,亡くなったものか? 私たちの記録で根拠ないことを使ったものか? 万一壬戌年(壬戌年:662)高句麗との戦いで新羅の人々が丁方の軍事を殺したとすればその後の総長無尽(総章戊辰:668)にどのように清兵して,高句麗を滅ぼすことができただろうか。

これでボア私たちが伝える言葉が根拠ないことを分かる。 ただし無辰年(戊辰年:668)高句麗を滅ぼした後に党に臣下の例を守らなくてしたことはその土地を思いのままに占めるということであってソ・ジョンバンや移籍を殺したのではない。”といって,三国遺事の著者の一然はこの事実に対し疑問を提起している。

それなら果たして当校戦闘は実際したし,ソ・ジョンバンは当校で死んだのか? いまだにこれに対する明確な解答はない。 当校戦闘とソ・ジョンバン殺害説の事実の有無を分けるためには我が国の歴史資料と中国側の飼料を比較,検討,分析してみるしかなくて正確な解答を(求める)救うことは難しい。

①中国側記録中国側の記録では新・旧唐書(新・旧唐書)で探すほかはない。 中国側記録の旧唐書にはコンボン2年(乾封2年:667,新羅文武王7年)にソ・ジョンバンが死んだ。 年齢は76才であった。 高宗(コジョン)が聞いて実に惜しがって,死体らに早くて,言うことを“ソ・ジョンバンは国に球があると表症することが例に党合併したのに(も)キョンらは言葉がないな。

いよいよ使節を送ったが哀悼することが映画に達し得なくて議論がここに(狂う)及ぼすと悟れないように悲しいな。”と調書をおろして幽州都督を追贈して諡号を荘といったと記録しており,新唐書にも九党での記録と似ているように次の通り記録している。
“謹封2年(667)にソ・ジョンバンが死んだ。

年齢は76才であった。 帝がこれを哀悼して,死体らを叱責して言うことを「丁方は国に球があるので表症することが当然なのにあなたたちは言葉がないから何のためか?」とこれにチュァ・ヒョ偉大将軍ユジュドドク(左驍衛大将軍幽州都督)を追贈した。 諡号は荘だ。”と記録されている。

上の記録を見る時,唐調整では何のためなのかソ・ジョンバンに対する褒賞を建議しなかった。 なぜそうしたのだろうか? 百済討伐の隊長軍(郡)のソ・ジョンバンが死んだのにこのようにないがしろに接待することができるだろうか? 唐鼓種は側近らを叱責しておりソ・ジョンバンがどこで死んだのかも記録しないでいることを見るならばソ・ジョンバンの死に対する疑問を消すことはできなくなる。 二シーン・九党での記録がソ・ジョンバンの当校殺害によったことか,平壌(ピョンヤン)敗戦の責任なのかは確実でない。

②我が方記録私たち側の記録では三国史紀・三国遺事・東史綱目・東国李相国集でソ・ジョンバンに関する記録を要約してみる。
三国史記新羅王の伝記太宗武烈王7年(660) 3月組に唐高宗がチュァ無二将軍ソ・ジョンバンを神丘道行軍大摠管で金仁問を部隊総管に任命して左驍衛将軍劉伯英など水陸軍13万人を率いて百済を打つようにすることと同時に勅旨をおろして,王を隅夷道行軍摠管をみなして,軍事を率いて進んで声援させた。

夏5月,王は維新(〓信)・真珠・天存などと一緒に軍事を率いてソウルを離れて,6月,南川停に駐留した。
ソ・ジョンバンは莱州から出発して,千里を相次ぐ戦船を率いて同に向かって随流に降りてきた。 王は太子法民(法敏:後に文武王)を送って兵船百隻を率いて進んで徳勿島で丁方を出迎えると丁方は法民に(早い)達するものの“私は7月10日に百済南側にたどり着いて,軍事と会合して義慈王の都城を打ち破って壊そうとします。”するので法民は話すものの“私たちの大王が今大軍を待ちこがれておられる場所でもし隊長軍(郡)が来られたという話を聞けば必ず寝床(トンボ)で食事して来られましょう。”した。

丁方は喜んで法民を歓送して,新羅坊を増発させた。 法民が帰ってきて“丁方のクンの威勢が非常に盛大ですよ。”と話すと王は喜びに耐えなくて,また太子でとって隊長軍(郡)維新,将軍品日・フムチュン(欽春:欽純ともハム)等と一緒に正兵5万を率いて応援させて王は金石城(今突城:尚州市(サンジュシ),牟東面(モドンミョン),白華山(ペクァサン)にある)に進駐した。…同年7月に新羅軍(郡)はファンサンボルで百済の階伯の5千決死隊と血戦を継続して,ケベク君を打って壊す。

三国史記にはその日のソ・ジョンバンに対する行跡を次の通り記録している。 この日に丁方が副総管キム・インムンと共に支伐浦に到着して,百済軍(郡)に会って戦って,大きく押し倒した。 維新などが党軍(郡)の陣営につくと丁方は遅くきたという理由を挙げて,新羅督軍キム・ムニョン(金文穎:穎はひょっとして永とも使うこと)の首を軍の門の前で切ろうとするので維新は色々な人に話すものの“隊長軍(郡)が硫酸の戦いを見ることができなくて遅くきたと罪を与えようとするようだが私は決して罪なしに悪口を受けることはできない。

必ず党軍(郡)と先に戦いを決めた後に百済を壊す。”とクン門の前で窓(ウィンドウ)をつかんで庶子怒った髪の毛は真っすぐに書庫腰につけた宝剣は自ずから動いて,切れ目を抜け出した。 丁方のウ将軍董宝亮が丁方の足を踏むように立って話すものの,“新羅軍(郡)が変乱を起こすようです。”ハニ丁方はいよいよ罪を問わなかった。

百済王子がチュァ評覚伽でとって手紙を丁方に送ってトェビョンヘ与えることを哀願すると丁方はゲラゲラ笑って…百済の椅子王が降参した後に8月2日照には“大きい祭りを施して将兵を慰めるのに王と丁方および色々な将軍は堂上に座って椅子王およびその息子隆恩堂下(タンハ)に座らせて椅子王をさせて酒を注ぐようにすると百済のチュァ評などの色々な臣下は喉がつまって,涙を流さないさあなかった。…”ソ・ジョンバンは任存城を攻撃したが勝つことができなかった。

9月にソ・ジョンバンがナンジャン劉仁願に軍事1万人を与えて,獅子星(泗者城)を守るようにすると王道王子仁泰と賜饌日原・給次は吉那でとって軍事7千人で補佐させた。 丁方は百済王および王族臣僚など93人,民1万2千人を連れて四肢性から船に乗って唐に帰るのにキム・インムン,賜饌儒敦・対内マ中知などが同行した。

ソ・ジョンバンは660年9月に百済前を終わらせて本国に行ったことが確実だ。 それで高句麗全域でのソ・ジョンバンの行跡を三国史記で探してみれば次のようだ。 新羅文武王2年(662)に王が維新・人文・譲渡など9人の将軍に命じて,車2千台に米4千席,組2万2千席余りをのせて平壌(ピョンヤン)に行くようにした。 維新などは風樹村にユスクしたが氷はすべりやすくて道は険しくて,車が行けないので兵糧を皆牛と馬に変えてのせた。 そうして七重河を渡って蒜壌に達した。

貴幢弟監星川と軍事朮川などが時の軍事をイヒョン(梨〓)で会って,妻殺した。 2月に先に歩騎監裂起など15人を送って,党の軍営に走って行くようにして,両オ(楊五)にたどり着いた。 しまったは良図と大御所仁仙などを送って,兵糧を伝達して,ソ・ジョンバンに銀5千7百分,細布30匹,髪の毛(橋(脚)) 30量,牛黄19ヤンなどを贈呈した。

丁方は兵糧を受けるやいなや終わって帰ることになると維新なども唐軍が帰るという話を聞いてやはり足を元に戻して…”としたと見る時,ソ・ジョンバンは新羅で多くの辛酸と苦難の末輸送した兵糧を受けては高句麗との戦いを中止して帰ったと見られて高句麗との戦いが得にならなかったことから見られる。

三国史記高句麗王の伝記保障王19年(宝臧王:658)組に冬11月に党の左驍衛大将軍ソル・ピラ力(楔〓何力)がペガンドヘングンデチョングァン(〓江道行軍大摠管)で,左武衛大将軍ソ・ジョンバンが遼東道行軍大摠管で,左驍衛将軍劉伯英が平壌道行軍大摠管で,蒲州刺史正明陣が鏤方道行軍大摠管とされて,軍事を率いて道を分けて,攻撃してきた。

次の年の保障王20年(659)春正月,党は河南北・淮南67週の軍事を募集して,4万4千人余りを得て,平壌(ピョンヤン)・迷惑謗議行ヨンに進むようにしてまたホンノギョン蕭嗣業で扶余道行軍摠管をソルピパリョクでヨドンドヘングンチョングァンをソ・ジョンバンでピョンヤンドヘングンチョングァンをみなして,焼死業およびすべての胡兵と共に都合35軍の水陸で道を分けて,いっせいに進撃するようにして…と記録しており,次の年の保障王21年(660)春正月,党の左驍衛将軍白州刺史沃沮道摠管パン・ヒョテ(〓孝泰)が蓋蘇文と蛇水街で戦って,全軍が陥没されてその息子13人も共に戦って死んだ。

ソ・ジョンバンが平壌(ピョンヤン)を包囲して大きい雪が降ったせいで包囲を解いて退いた。 およそ前後の歩みにこのようにする球がなしで退いた。
党軍(郡)は659年と660年にかけて,高句麗を攻撃したがパン・ヒョテのような将軍が戦士(戦史)と大惨敗にあって退いたことを分かることができる。 三国史記には以後にはソ・ジョンバンの名前が見られない。 次にはソ・ジョンバンの当校殺害を記録している三国遺事の記録を見回してみようと思う。

太宗(太宗:太宗武烈王)が百済中に変怪が多いということを聞いて5年更新(庚申:658)に使節人問を党に清兵ぼけていて送ったところ高宗が調書をおろして,チュァ護衛隊長軍(郡)局面工業ソ・ジョンバン(左虎衛将軍荊国公蘇定方)で神丘道行軍摠管をみなして,左右将軍劉伯英とチュァ護衛将軍馮士貴とチュァ腰囲将軍パン・ヒョ工業(〓孝公)等を率いて13万人を統率してきて打つようにした。

(郷記:私たちの記録には軍事が12万2千7百11人で,腹(船)が1千9百隻といったが詳しく記録しなかった。) 新羅王春秋では隅夷道行軍摠管をみなして,新羅軍(郡)を率いて共に結集するようにした。

丁方が軍事を導いて城山から海を渡って,西側徳勿島に達した。 王は将軍キム・ユシンを送るものの正兵5万を率いて行くようにした。…党病と新羅軍(郡)は前進して,結集してナルッカに行って陣を敷いたところ突然鳥一羽がソ・ジョンバンの英上(胃)ではいかいしているので吉凶を占うようにしたところ「必ず元帥がケガする。」とする。

丁方が怖がり軍事を回して戦わないようにハニ維新が丁方に“どうして飛び回る鳥の不思議なことで天時を破ろうとするのか? 空の意志を受け継いで人心に順応して,極めて不仁ハムを打つことなのに何か不祥事があるだろうか。”と身体検査を選んで,鳥をねらうと鳥が死んで,席に落ちた。 これに丁方は白江の左側街に進んで山のふもとに陣を敷いて戦うと百済軍事が大解夏であった。 党軍(郡)が潮水を(受ける)乗って集まるのに戦船は相次いだし,太鼓の音が騒がしかった。

丁方は歩兵と騎馬兵を導いてまさに都城に走って行って,30里しか留まった。 百済は性中で軍事を総動員して,抵抗するとやはり敗れて,死亡者が万余名で,党軍(郡)が勝勢を追い立てて,性に近づくと椅子王は逃れる術はないことを知ってなげいて成充の話を聞かないがこのようになったことを悔いた。

椅子王は太子ユング(隆:あるいはヒョといえど誤りだ。)煮込んで,北に逃げて丁方が城を取り囲むと王の次男泰が自ら賃金になって,民衆と共に堅く守った。 太子の息子文思はテに(早い)達するものの“王が太子とともに出て行ってないのに小さいお父さんが思いのままに王になってもし党軍(郡)が解ければ私たちがどのように伝えないことができますか。”と左右の人々と綱渡りをして性を移ると国民らが皆従うので,ひびが入って防ぐことはできなかった。

丁方が軍事をさせて,性妾を積んで党の羽振りをきかせると燃やす急に悪化して,しかたなく文を開いて助けることを願った。 これに王と太子ユングおよび代わりに貞福がすべての成果共に降参した。

丁方が椅子王と太子ユング,王子テ,王子演および代わりに,商売88人と民1万2千8百7人を唐鏡(唐京:唐ソウル)に送ってしまった…7年(660)壬戌にソ・ジョンバンでヨトンドヘングンデチョングァンをみなしてすぐ平壌(ピョンヤン)道路直して,高句麗の軍事をペガン(〓江)で撃破して馬邑山を奪って,軍営を作っていよいよピョンヤン城を取り囲む。 ちょうど大きい雪が降って,包囲を解いてファングネッタ. 凉州安集大事に任命して吐蕃を平定したところコンボン2年(乾封2年)に死んだ。

皇帝が悲しげに感じて左驍騎大将軍幽州都督をツンジカで諡号を荘といった。 (以上は唐史の原文だ。)ラ記録しておりまた古記には総長元年無尽(総章元年戊辰:668)とした。 (マンイル総長無尽ならばまもなく移籍のことなのに下でソ・ジョンバンといったことは誤りだ。

万一ソ・ジョンバンならば連呼が当然龍きちんと<龍朔>2年壬戌<壬戌:662>にピョンヤン城をふうっと大切にした時であろう)に清兵ある唐軍事が平壌(ピョンヤン)郊外に陣を敷いて文を伝えて,急に「兵糧をのせて送れ」ハニ王が君臣を集めておいて相談するものの,“敵国を通じて,党軍(郡)がある所まで行こうとするなら形勢がとても危険で清兵ある党軍(郡)が養殖が足りないというと送らないのも正しくないからどうしてするだろうか。

”あるみな維新工業が申し上げるものの,“臣等が兵糧を輸送することができる場合があるので心配しないで下さい。”とは維新・人文などが数万人を導いて高句麗の国境に入って,養殖2万斛を輸送して帰ってきた。 王が大きく喜んで,また軍隊を起こして,党病と結集しようとすると,維新が然起・兵川などを送って,和合する期日を尋ねた。

直ちにソ・ジョンバンがナンセ(鸞)と小牛(犢)を描いて送ったので誰もその意を知らなくて,元暁法師に尋ねると“速くファングナという意”と解釈して“書犢画鸞の半截法で速還です。”した。 これに維新工業がペガンを渡ろうとして,軍令をおろして“後に渡る者は処刑する。”ハニ軍事らが争って先に行こうとした。 半分ぐらい渡るや高句麗軍事がきて,侵略するとそこまで渡ることができない者は死にいたった。 翌日維新工業は高句麗軍事を追いかけて,数万級を捉えた。

前で記録したソ・ジョンバンの当校殺害説とその他に三国遺事の記録を・咲いてみたが当校ソ・ジョンバン殺害説外には三国史記の記録と同行焼夷することを見られる。 凍死(同社,動詞)綱目(東史綱目:アン・ジョンボクあの1712~1791)に記録されているソ・ジョンバンの事実を調べる。

648年(唐太宗静観2年,新羅ジンドク王2年)に新羅がキム春秋を送って,党に組氷河であった。 新羅のキム春秋が党に清兵をするために党に行って唐太宗に会うと唐太宗が尋ねることを“聞いたところあなた国にキム・ユシンという(のは)人があるというのにその人柄がどのようですか?”ハニ,キム春秋が答えることを,“維新がたとえ若干の材智があるが,万一天威を頼らなければどうして隣の為替危機をなくすことができますか。”した。

皇帝が(早い)達することを“真に君子の国だ。”と,これに将軍ソ・ジョンバンに詔勅をおろして,軍事20万を率いて百済を征服するようにした。 565年(唐鼓種英フィ6年,新羅太宗2年,高句麗保障王14年,百済椅子王15年) 2月に党が正明陣・ソ・ジョンバンを送って,高句麗を打った。

660年(唐鼓種ヒョンギョン5年,新羅太宗7年,百済椅子王20年) 3月に党のソ・ジョンバン・キム・インムンなどを送って,水軍と陸軍を導いて百済を打つようにしてまた新羅王に詔勅して,これを声援するようにした。 この時キム・インムンが援兵を求めるために党に行っていたが帝は道路の険夷がどうかと尋ねた。

人文が非常に詳細に答えるので帝は喜んで,出兵することを決心,ソ・ジョンバンで神丘道大摠管を三考人文を副総管でして,ユ・ペギョン・パン・ヒョ工業・どぶんとサの耳など水陸兵12万2千7百11人と腹(船,梨)1千9百隻を導いて百済を打つようにした。 そして新羅王は隅夷道行軍摠管として,その無理を率いてこれに結集するようにした。

党と新羅の軍事が獅子星(泗者城)を包囲すると百済椅子王は熊津城で逃げた。 そうして王子泰が自ら王になった。 ソ・ジョンバン・キム・インムンなどが伎伐浦を渡って海岸どん底にヤナギ枝を構成して敷いて出師ハニ,百済は軍事を集めて熊津口で出て来てこれを防いだ。 丁方が左側丘に出てきて高いところに陣を敷いて百済軍(郡)と戦って,大きく撃破させた…. 新羅王がソ・ジョンバンと獅子星で会談したし,使節を党に送って勝捷を知らせた。

王が南川から今突城に出ていて百済の降参を聞いて金石城で獅子星で第監天の恵みを送って,党に老舗(露布:全勝を知らせる布告文)した。 9月に党が百済の土地を五都督府を作って劉仁願に命じて,獅子星に留まって守るようにして降参した王義慈を捕まえて行かれる帰った。

丁方が百済を滅亡させて獅子星入口にチン・ヨンウルとして新羅を打とうとする陰謀を整えるや新羅王がこれを知って色々な臣下に対策を尋ねると多米という臣下が申し上げることを“私たちの民を偽り百済の人で整えて害しようと思いそうだったから,党が必ず攻撃することとかこの時を機会を利用して戦うならば思い通りできるでしょう。

”ハニ,維新がこの言葉通り追うことを求めると王が言うことを“党軍(郡)は私たちのためで敵を滅亡させたがかえって彼らと戦ってなるだろうか? ”ハニ維新が言うことを“犬はその主人を恐れるが主人が私の足を踏めばかむはずなのに,どうして為替危機に会って,自ら救済(駆除)することができないことがありますか?”した。 党の人々がスパイを通じて,新羅で備えていることを知ってついに止めた….

丁方が帰って義慈などを帝に謁見させると帝は則天門にひいては捕虜を受けて彼らを叱責しては許してくれた。 そして丁方に(早い)達することを,“どうして,この時を機会を利用して,新羅を打たなかったか?”ハニ丁方が答えることを,“その賃金は善良で,民を愛してその臣下は忠誠にあふれて,賃金をよく仕えて,下の人は目上の人仕えることを子弟(自制)が父兄を護衛することのようにハニ,国はたとえ小さいが企てることはできなかったです。”した。

上の事実を見るならば党が出兵をした目的が百済だけを征服するところにあったのではなく新羅まで征服する目的を持っていたことがあらわれている。 新羅側でもそのような事態が発生したのを予測して備えたことを分かることができる。 このような事実は三国史記や三国遺事にはなくてただ凍死(同社,動詞)綱目だけで見られる。

凍死(同社,動詞)綱目には同じ年11月に党が桂ピラ力(契〓何力)とソ・ジョンバンなどを送って,道を分けて,高句麗を打ったと,661年(党高宗(コジョン)龍きちんと元年) 8月に党のソ・ジョンバンが高句麗軍事をペガン(〓江)で大きく撃破して,麻邑(マウプ)産(山)を奪っていよいよ平壌(ピョンヤン)を包囲した。 同じ年12月に新羅でソ・ジョンバンに兵糧を伝えられた事実は三国史記の記録と同じだ。

662年(党龍きちんと2年) 2月に平壌(ピョンヤン)の包囲を解いて帰った。 丁方は養殖がつくして軍事が疲れたし,また大きい目に会って帰ろうとしたが帰ることはできなかったが,この時に達して,養殖を得て,まもなく帰った。 前後の行軍に皆大きい功績を立てることができなくて退いた。 以上が凍死(同社,動詞)綱目で探してみたソ・ジョンバンに関する記録だ。 ここでもソ・ジョンバンが662年(龍きちんと2年)に帰った後にまた高句麗全域に出てきたという記録は探せない。

考慮の時の入れ墨イ・ギュボ(李奎報:1168~1241)の東国李相国集にのせられている祭蘇定方将軍文中には次の通り記録している。 “大著外国が中国に服従しないのか古いので太宗が万国を服従させてムングェを統一しようとして将軍にとって軍事を率いて私たちの高句麗を打とうとしたが,将軍は不幸にも追記(〓騎)をわが国に留まったままミョンにチェさえも西の方に帰ることができなかったので遺祠がここにあることになったのだ。”と書いている。 この祭文で見るならばソ・ジョンバンは我が国で死んだことが明白だ。

私たちは前で中国側の記録と我が方の記録を見回してみた。 中国の司書らという(のは)いつも中華思想に透徹して,自分たちに不利で恥になる事実は熱心に縮小して記録しないクセがある。 言ってみれば唐太宗のアンシ城敗戦のようなものだ。 そうだとは一つソ・ジョンバンの当校殺害説にはいくつかの疑問が残る。

最初に,三国遺事でソ・ジョンバンが死んだという総長元年(総章元年:668年)は唐書でソ・ジョンバンが死んだということはボン2年(乾封2年:667)と1年の差があって668年は高句麗が滅亡した年だ. ソ・ジョンバンが667年に死んだとすれば三国遺事で話す「すでに高句麗と百済を打って,また新羅を打とうとする下心で…」と比較するならば高句麗はソ・ジョンバンが死んだ1年後に滅びたし,

二番目,唐書にはソ・ジョンバンの死んだ年齢が76才といったので生きたと仮定するといっても77才の年齢で戦場に残っていたと見るのが難しくて,三番目,668年の高句麗全域の総指揮観は李勣であったから百済征伐の隊長軍(郡)を過ごした77才の老将軍が移籍やユイングェ・ソルイングィなどの紙部下に入ることもできなくて,四番目,当校は当時でボア新羅の内地といえるのにこちら当校までくることはできなくてどこにも党軍(郡)が百済や高句麗土地外の新羅境内に来た記録がない。

そしてこの時はまだ百済の各地で残存勢力らが頑強に抵抗中であり高句麗苦土で同じ状況なのに果たして党軍(郡)が新羅の内地まで進出できる余力があったのかも疑問が残る。 党で百済に踊る風変わりな時にシルラマジョも征服しようとする下心があったという事実は凍死(同社,動詞)綱目でみた記録と同じだと見られて,ソ・ジョンバンは新羅を征服できないことを知ってこれを実行でなくて帰って,唐太宗に事実通り報告をしたことを見る。 その翌年高句麗展でも功績を立てることができなくて帰った。

しかし新・旧唐書に他の人物らとは違ってソ・ジョンバン死亡に関する場所,一時がなくて,唐調整でも重臣らのあいだに重い沈黙が流れて事後の優遇も皇帝が直接出るなどを見る時,彼の殺害説と関連になったことではないか? 私たちの記録のイ・ギュボの祭文がない事実を使ったと見ることができなくてソ・ジョンバンの遺祠が我が国にあったことを見る時,ソ・ジョンバン当校殺害説の事実の有無を分けること大切にしてはより多い研究が成されなければならないだろうと見る。





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http://www.sanbut.com/dosgan/sansung.htm




1 。 三国時代の私達の故障でいた

戦い

( 1 ) モサン性能元山香の戦い
( 2 ) 、 高句麗のナムジンとギェオンアセオンジェオ
( 3 ) ギェリプリェオングァ新羅の北進
( 4 ) ギェリプリェオングァオンダル
① 『 三国史記 』 熱戦のオンダル
② ギェリプリェオングァギムチュンチュ
( 5 ) ダンギョワソジェオンバン
① 中国側の記録
② 韓国側の記録
③ 文禄慶長の役とダンギョ
( 6 ) ゲウンプムセオンとガエウン城の戦い
① ゲウンプムセオンジェオンツ
② 『 三国史記 』 のギェオンフヲンジェオン
③ ガエウン城の戦い
( 7 ) 試験行く異性
( 8 ) バエサンセオン

2 。 現存する私達の故障の酸

( 1 ) ジョリェオン酸
① ジョリェオンサン性チュクセオンサ
② ジョリェオンおよびジョリェオンサン性にまつわる民間説話
が。 シンリプ将軍とジョリェオンイェオグィ
私。 サエジャエ盛況の神とチョエミェオンギル
す。 エオミェオンに死んだトラ
( 2 ) エオリュセオン
① 魚類の性の地形
( 3 ) マゴ酸
( 4 ) 叔母酸
① 叔母酸とグァンガプチェオン
② 叔母酸の収縮との戦い
( 5 ) ゴブセオン
① 6.25戦争とゴブセオン。叔母省一帯の攻防

② 高付加性の伝説
( 6 ) フイヤンサンセオン
( 7 ) ガエウンセオン
( 8 ) ギェオンフヲン酸
① チェオンマサンにまつわる伝説
( 9 ) ノゴセオン
① この地域の昔の地名の考察
( 10 ) の作成
① 6.25と能力里の戦い
② 作成にまつわる伝説
( 11 ) フワジャンセオン
( 12 ) ギタセオン






モ リ話

私たちの故障聞慶(ムンギョン)地域には他の地方(脂肪)と比較して山城が多い。 酸性が多いということは私たちの地方(脂肪)の戦略上,交通上重要な要衝地であることを話すことだ。
三国電気の156年4月にケリムニョンノ(鶏立嶺路:チルプチェギル)が新羅によって開通することによって私たちの地域は南北交通の最も重要な要衝地となる。 そして新羅の漢江(ハンガン)進出のための前進基地としての役割と百済,高句麗の南進阻止の防御線として役割も兼ねたと見られる。

三国電気に小白(ソペク)山脈という天然の警戒(境界)を利用して,お互いが領土を拡張すること大切にしては必然的に警戒地点で戦闘があるということは常識的な話だ。 特にケリムニョンノは北方勢力が洛東江(ナクトンガン)に進出できる最も近い近道であったためケリムニョンノの掌握のための三国間の争奪戦がことができなく繰返しなったと推測される。

戦争という(のは)昔や現代やその武器体系での発展はあったがその戦略や戦術においては大差ないと見られるから私たちの地方(脂肪)に散在した色々な酸性の歴史と戦略的価値とそこであった戦いを記録して,郷土社研究を助けようと思う。

遠くは三国電気から近く6.25韓国動乱(朝鮮戦争)まで私たちの地方(脂肪)の酸性とその周囲であった戦闘を探して記録して古代から現代までのその酸性らの戦略的価値の変化を見回して温古知新の契機を作れるとする。




かつて慶州(競走,傾注)地方で育った新羅が一つの非常に大きい部族勢力に成長して,隣接したウムナックッカドゥルを征服・吸収して2世紀中葉にはケリムニョンノ(鶏立嶺路:チルプチェギル)を開通させることによって小白(ソペク)山脈の南側にまで進出する。 新羅第8代二ドル尼師今3年(阿達羅尼師今3年:156) 4月にケリムニョンノを開通させて2年後には竹嶺路を開通させる。 このような三国史記の記録事実をそのまま認めるといえばこの時期に新羅ではすでに私たちの故障聞慶(ムンギョン)地域に進出してきたと見なければならない。

そしてこのような時期に馬韓で起きた百済が古代国家で発展してケリムニョンとても御印中原地方まで進出することによって小白(ソペク)山脈を警戒(境界)でして,新羅と百済が対立することになって,必然的にお互い間の衝突が起きることになる。
また鴨緑江(アムノッカン)中流で起きた高句麗が大陸との接触を通じて,先進された文化を吸収して,大きく成長してその領域を南に拡張してくることになる。

このような三国の情勢の中でその初期には主に百済との衝突が私たちの故障近隣で絶えず発生することになった。 この時に百済は馬韓の色々不足を合わせて,領土を拡張して,63年(多婁王36年)には娘子谷城に達する地域を切り開いて新羅の脱解王に会見を要請する。
この清楚な人哭声の正確な位置は分からないが概略今日の忠州(チュンジュ)地域で見ている。 清楚な人哭声を信証東国輿地勝覧清州牧建置沿革組には“本来百済の上党県なのに娘子谷といって,娘臂城という。”としたが金正浩は大東地志クォン6忠州沿革組で“本来任那国なのに後に百済の所有になった。

娘子谷城だと称してあるいは娘子城,または未乙城…だ。”と同棲清州の沿革組には“本来百済の上党城だ。 三国社百済支持に西原県だと(早い)達してする方清楚な人哭声または浪費性といったことは誤ったのだ。 清楚な人哭声は今の忠州(チュンジュ)で浪費性は上告することはできない。”として,清楚な人哭声が清州(チョンジュ)ではなくて忠州(チュンジュ)と強調した。 イ・ビョンド博士の国訳三国史記では清州(チョンジュ)で見ていると果たして清楚な人哭声が清州(チョンジュ)と忠州(チュンジュ)どちらなのは確かに分からないが筆者は忠州(チュンジュ)説に従うところだ。

このような百済の領土拡張は険しい小白(ソペク)山脈を間に置いて新羅と対抗することになる。 新羅でも2世紀中盤にはケリムニョンノとチュンニョンノを突き抜けて,開通させて百済と国境を小白(ソペク)山脈で向き合うことになった。 新羅と百済は小白(ソペク)山脈という天然の障壁を間に置いて直接対決することになるや新羅で先に小白(ソペク)山脈中で最も標高が低いケリムニョンと竹嶺(チュンニョン)を開いて,南北間の通路で利用することになると,ここを中心に三国は軍事的に文化的に大きく作用することになった。

このような情勢下でケリムニョンノは新羅勢力の北方進出のため最も重要な町角で,聞慶(ムンギョン)地方は百済と高句麗など北方勢力の南進を阻止する戦略上・軍事上の要旨になって,新羅の三国統一以前まで6世紀にかけた攻防が継続された。
その後にも後三国時代に聞慶(ムンギョン)地方は新羅,考慮,後百済の角逐場になって,多くの戦闘があったし,南北交通の要衝地だから高麗時代のモンゴル軍侵入,朝鮮時代の壬辰倭乱など多くの戦闘を体験しなければならなかった。

(1)母山城と円山郷戦闘百済は新羅でケリムニョンノを開通させて32年後の188年(百済肖古王23年,新羅伐休尼師今5年)に新羅の母山城を攻撃した。 この時に新羅ではパジンチャン構図(波珍蹴った仇道)に命じて,百済軍(郡)を防ぐようにした。
それならイ・某酸性の位置が今のどこなのか知ることが出来なければならないがその位置を正確に分からない。

イ・ビョンド博士は彼の国訳三国史記25p週5に「某酸性は忠北(チュンブク),鎮川郡(ジンチョングン)にある大母山城を名前であるようだがこの時こちらが新羅の地図内にあったとは信じ難いので…」したことと同じようにこの頃に新羅が鎮川地方(脂肪)まで進出していたと見ることはできなくて,東史綱目では雲峰といったが朝鮮歴史地理(朝鮮歴史地理:イビョンドジョ210p 211p)では某酸性を雲峰(ウンボン)だと見られなくて前厚意事情でボア忠州(チュンジュ)・報恩(ポウン)方面で見ている。

この時の三国の情勢を分析してみる時,新羅が今の忠北(チュンブク),鎮川(ジンチョン)まで進出したという事実を記録上で探すことができなく,雲峰(ウンボン)説やはり疑問が多い。 2世紀後半には洛東江(ナクトンガン)西側に色々な部族たちが弓居ていたのですなわち加耶連盟であり,二街オイの征服年代ははるかに後になるのでこの時期に新羅が智異山(チリサン)を越えて,雲峰(ウンボン)に進出していたとは信じ難い。 それならイ・某酸性は小白(ソペク)山脈南で探さなければならないと見られて私たちの聞慶(ムンギョン)地方に現存する姑母山城で仮定するならば大きい無理がなくなる。

三国史記の記録を総合してみる時,百済はタルワン36年(多婁王36年:新羅脱弛緩砂金7年)に清楚な人哭声(娘子谷城:忠州(チュンジュ)地方)まで進出して草稿王(肖古王:166~214)時にずっと南進を試みている。 百済草稿王25年(新羅ピョリュイサグム7年<190>)に百済は新羅の西側地方(脂肪)の円山郷を攻撃襲撃してまた進撃して缶谷城を包囲すると新羅荘軍(郡)仇道は定期500を率いてこれを打った。 百済は偽り敗れたままして逃げると構図が追って蛙山に達して,かえって百済軍(郡)に敗れたといったと見る時に某酸性が小白(ソペク)山脈南の聞慶(ムンギョン)地域であることが自明になる。

円山は聞慶(ムンギョン)と接している龍宮の過去の名前であり,現在この地方の人々は原産性を聞慶市(ムンギョンシ),永順面(ヨンスンミョン)三綱の向い側醴泉郡(イェチョングン),龍宮面(ヨングンミョン)にある龍飛山城で見ている。 この用費酸性をこの故障で呼ぶ名前が「タビソン」だ。 タビはまもなく丸いという意とか漢字を借用するならば円山になる。 信証東国輿地勝覧ヨン弓弦健歯沿革組(龍宮県建置沿革條)にはみた新羅畜産,一運原産(本新羅竺山,一云円山)としたと記録している。 国訳三国史記(イビョンドジョ) p25でも円山は醴泉(イェチョン)地方,缶谷は軍威地方(脂肪)で見た。

上のような記録を総合してみる時母山城を聞慶(ムンギョン)の姑母山城で仮定するならば叔母酸性でタビソンカジの通り(距離)が40里(約16km),タビソンで富谷(プゴク)性までの通り(距離)が約100里程度になることで百済軍(郡)のチン功労(空路)が明らかになる。 百済軍(郡)は清楚な人哭声で鶏立嶺ロをよって南進して,先に某酸性(聞慶(ムンギョン))を打って進撃して,原産性(龍宮)を打って富谷(プゴク)性(軍威)まで進出して新羅軍(郡)の反撃を受けて尚州,報恩すなわち蛙山城で新羅軍(郡)を敗退させたと推定ができないだろうか?

この時期に百済と新羅は小白(ソペク)山脈を警戒(境界)でして,北側は百済が,南側は新羅が占めていたと見るならば大部分の国境地域戦闘は聞慶(ムンギョン)・常駐・醴泉(イェチョン)地方で探してみれば214年(新羅奈解19年,百済仇道1年)に百済が新羅の要車城を攻撃して,城主(星州)薛夫を殺すと新羅王は二着蹴った繋ぐこと(伊伐蹴った利音)をさせて,正兵6千人を率いて百済軍(郡)を打って,サ・ヒョンソン(沙〓城)を破った。

ここに出てくる乳母車性とサ・ヒョンソンの位置は確実でないが国訳三国史記p27には常駐の要済院一代(一帯)そうに見えるといった。 しかし一部学者らは今日の槐山地方(脂肪)で見る人もいる。 新羅と百済は2世紀で3世紀末葉まで私たちの地方(脂肪)とその周辺で多くのけんかをしたが5世紀にきては高句麗の南進で小白(ソペク)山脈は三国の戦場となる。

(2)高句麗の南進と犬牙城戦闘百済がクン草稿王(近肖古王:346~375),クン口受王(近仇首王:375~384)時に一つの征腹国家で大成荘をしながら韓半島の中部(景気(競技)・忠清(チュンチョン))と西部(全羅(チョルラ))地方全域を掌握して北進を継続して,369年(新羅川の水尼師今14年,百済クン草稿王24年,高句麗故局員王39年)にはピョンヤン城を攻撃して,高句麗の故国原王を戦死させた。

一代(一帯)打撃を受けた高句麗では広開土王(広開土王:392~412)と長寿王(長寿王:413~491)のような英主が現れて,活発に,征服事業を展開して,領土を大きく広めていった。
高句麗では過ぎた日故局員王の戦士(戦史)に対する報復的な南進を継続した。 396年(高句麗広開土王6年,百済ご存知な王5年)に広開土王は直接水軍を導いて百済の西海岸(ソヘアン)に上陸して関弥城をはじめとして,漢江(ハンガン)のほとりの58省と700ヶ余りの村を奪った。

この時に高句麗は小白(ソペク)山脈北側のミッド フィールド地方(脂肪)まで進出してケリムニョンを間に置いて新羅と対立することになる。
1979年に忠州(チュンジュ)地方で発見された中原高句麗碑はこのような事実証明を助けている。 広開土王の後に続いた長寿王は475年(高句麗長寿王63年,百済ケロワン21年,新羅慈悲王18年) 9月に百済のソウル漢山を3万の兵力で攻撃してケロワンを捕らえて,殺害するとその息子文周王が首都を熊津に移す。 高句麗長寿王は韓半島中部で百済を追い出して漢江(ハンガン)の前流域を含んで竹嶺を越えて順興,栄州,奉化,礼安,青松,蔚珍,盈徳,平海まで進出して,高句麗の領土とした。

高句麗軍は494年(新羅素地(所持)王16年)に新羅の北辺の薩水院で新羅の将軍実竹と戦ってはね除けると新羅は犬牙城で退いて守ったが高句麗軍は犬牙性を包囲したが百済の東城(トンソン)王(東城王:479~501)が3,000人の軍事を派遣して救援した結果で包囲網を抜け出すことになった。

上で名前が挙がる薩水と犬牙城の位置を国訳三国史記(イビョンドジョ)では散水を槐山郡(クェサングン)青川地方(脂肪),犬牙性を聞慶(ムンギョン)の西の方に非情になっている。 それなら犬牙性は聞慶(ムンギョン)のカウン地域だと見られるのにその位置が正確にどこなのかは分からない。

槐山郡(クェサングン),青川面(チョンチョンミョン)との警戒(境界)を成し遂げる所が大耶山(テヤサン)(大耶山:930.7m)がある。 加恩邑(カウンウプ)と青川面(チョンチョンミョン)は直接連結していて高句麗軍が青天地方(脂肪)で越えてきたといえば大耶山(テヤサン)と高毛嶺ロを選んだと推測することができる。

コモリョンノできたといえば王宮の跡地と話岩をすぎて,家室首(加項)にある天馬山城につくことになる。 しかしもし七星面でカウン方面にきたと見れば官坪ロをよって進攻(真空)することができて,コモリョンノと比較して,はるかに長さ(道が)平坦だ。 小白(ソペク)山脈中で標高が最も低い長さ(道が)クァン平炉で通り(距離)も近い。 高句麗軍は私たちの聞慶(ムンギョン)地域まで侵攻したがラ・私の連合軍によって,撃退されてこれ以上南進をできなくなった。

495年(新羅素地(所持)王17年,百済東城(トンソン)王17年) 8月に高句麗が百済の雉壌城を包囲するので百済の東城(トンソン)王は新羅に使節を送って救援を求める。 これに新羅の昭智王は将軍徳智に命じて,軍事を率いて救援(旧怨)させて,高句麗をはね除けた。 この雉壌城を国訳三国史記(イビョンドジョ)では鳥嶺以南地域で推定している。

しかしこの時に鳥嶺南に果たして百済の性があったのか疑問になる。 なぜならこの時期の三国の国境は新羅が報恩・沃川・永同で小白(ソペク)山脈を警戒(境界)でして,その以南地域の尚州・聞慶・醴泉を連結する小白(ソペク)山脈でみるべきで,百済は清州(チョンジュ)(上党城)で西側,高句麗は槐山・忠州・丹陽・順興・栄州・奉化・青松をつなぐ線で見るならば雉壌城の鳥嶺南説は説得力が弱くなる。 この時期の戦闘ならば,報恩(ポウン)・沃川(オクチョン)・槐山(クェサン)・清州(チョンジュ)の三角地帯のどこであってこそなると見る。

496年(新羅素地(所持)王18年,高句麗文字王5年) 7月に高句麗は新羅の牛山城を攻撃してきたが新羅では将軍実竹が泥河に進んで高句麗軍を破った。 (三国史記新羅王の伝記素地(所持)王18年7月組)ここで話す牛山城でも泥河がどこなのか確かに分からない。
ここに出てくる泥河が錦江の上流と仮定するならばやはり報恩(ポウン)と沃川(オクチョン)地方になって,もし洛東江の上流ならば,永住やのろし地方(脂肪)になる。

特にここで注目しなければならないことは新羅将軍実竹にクァナヨインデ糸死んだ昭智王8年春に将軍で昇進されて,一線(一善:現先祖の墓)の若い男3千人を率いて三年(三年:現報恩(ポウン))・クルサン(屈山:現沃川(オクチョン))の二省を建て直した事実があって,また素地(所持)王16年4月には高句麗軍と散水(薩水:現青天)で戦って敗れて犬牙性(犬牙城:ヒョン・カウン)戦闘では百済の助けで包囲網を抜け出した事実があることを見る時,この牛山城は報恩(ポウン)・沃川(オクチョン)・聞慶(ムンギョン)・常駐のどこかにあったと推定される。

また一つ疑問されるのは512年(新羅紙症(証)王13年,百済武寧王12年) 9月に高句麗は百済の加弗城を襲撃して奪って軍事を移動して円山城を破って略奪と殺傷が非常に多いので百済の武寧王(武寧王:501~544)はすばしこい奇病(騎兵)3千を率いて葦川の北側で戦う時,高句麗人らが王の軍事が少ないことを見て見くびって陣も作らないから王は奇兵を出して,急に打って,大きくはれた。

(三国史記百済王の伝記武寧王12年9月組)ここに出てくる加弗城がどこかは確実でないが一部学者らは加恩で見ていて,高句麗がカウンを奪って原産性(円山城:前で説明した。)イン龍宮まで進撃したと見ているがこの時期にカウンや龍宮が百済の領土であったかはもう一度研究してみる必要がある。


(3)鶏立嶺と新羅の北進540年に新羅には英主真興王が王位に上がって異斯夫を登用して,国土を広げていく。 551年(真興王12年)にはケリムニョンと竹嶺(チュンニョン)を越えて,漢江(ハンガン)流域の10郡の土地を占領して丹陽(タニャン)地方にその事実を記念する記念碑をたてるとこの雨が丹陽赤城碑だ。 真興王はその年3月に直接ナンソン(娘城:現忠州(チュンジュ))に留まって于勒および彼の弟子尼文が音楽を分かるという話を聞いて特別に呼び入れて,真興王が河臨宮に座って奏楽をさせると二人が各々新しい歌を作って演奏した。

これに先立ちカヤグク嘉実王が12絃琴を作って,12ヶ月の律をまねてウルクをさせて,メロディを作るようにしたことなのに行ってこそ行って乱れていることになるやウルクは楽器を持って我が国(新羅)に入ってきたのだ。 その楽器の名前は加耶琴だ。 (三国史記新羅王の伝記真興王12年組)この時に真興王はすでに系リップ峰を越えて,漢江(ハンガン)の上流地域で高句麗勢力を追い出して忠州(チュンジュ)を巡行している。

ウルクがカヤ琴を(受ける)乗った所が弾琴台に今まで伝えられている。 この時期から私たちの聞慶(ムンギョン)地域は高句麗や百済の侵攻から抜け出すことになったと見られる。
557年(真興王18年)には高句麗の国原城だった忠州(チュンジュ)を小京で作ってずっと北進して,閑散(漢山:現ソウル)まで進出して,北漢山(プッカンサン)に巡狩碑をたてて,この事実を表わす。 これより3年前の554年(真興王15年)に百済の聖王が加耶と連合して,関山性(管山城;現沃川(オクチョン)地方)を攻撃した。

関山性君主各行ったウドク(角干于徳)・イチャン探知(伊蹴った耽智)等があって戦って得にならなくなって,新株君主金武力が駐兵を導いて駆け付けた。
戦いが始まるや裨将の三年山郡の苦艱横柄(高干都刀)が稲妻のように攻撃して,百済の聖王を殺すとこれに色々な軍事が勝勢を(受ける)乗って大きく勝って佐平4人,兵卒2万9千人を切って,一頭の話も帰ることができなかった。

百済の聖王は奪われた漢江(ハンガン)上流のミッド フィールド地方(脂肪)を修復して,百済中興の大きい夢をかなえようとして行ってこそきて,連合して,新羅を攻撃したが意図を成し遂げられなくて超自身も戦死する惨敗にあった。(三国史記新羅王の伝記真興王15年組)真興王対に新羅は咸興平野まで進出した。

真興王自身が直接巡行して,黄草嶺に巡狩碑をたてて中部では今のソウルまで進出して,南漢江(ナムハンガン)一帯を掌握して,西からは南陽(ナミャン)湾まで進出して,そちらに党項城を積んで大陸との交易の踏み台を用意した。 真興王はまた加耶を併合して花郎を創始するなど三国統一の基盤を作った。
これと共に新羅の迷惑副腎発展は皆が鶏立嶺路とチュンニョンノを通じて,漢江(ハンガン)に進出して韓半島の中部を掌握することで可能だったと見る。

(4)鶏立嶺と温達鶏立嶺路が新羅はもちろん高句麗・百済など三国においてどれくらい重要な道であったかすれば新羅の都城の慶州を出発して善山・尚州・咸昌・聞慶をすぎるところと軍威・義城を経て河豊船着場を渡って,聞慶(ムンギョン)をすぎて,系リップ峰を越えて書面まもなくまさに国原小京の忠州(チュンジュ)に達することになってこちらから増えた南漢江(ナムハンガン)の水運を利用して,下流地域まで一瀉千里に出て行くことができるところだ。

新羅では私たちの故障聞慶(ムンギョン)地方を橋頭堡でして,漢江(ハンガン)流域に進出が可能だったし,二ケリムニョンを警戒(境界)でして,百済と高句麗の南進を阻止させた。 竹嶺(チュンニョン)方面は高句麗によって,突破されることで栄州・奉化・青松・礼安などの地が高句麗の支配下にあることになったがケリムニョンは一度もあけられなかったという事実を見る時に二ケリムニョンを中心にその周囲を新羅がどれくらい堅く守ったかという事実が証明されている。

590年(新羅真平王12年,高句麗栄養王1年,百済威徳王37年) 10月に高句麗将軍温達が栄養王(まったく陽王:590~618)に求めることを“軍事を出してくれればケリムニョンと竹嶺(チュンニョン)西側の過去の私たちの土地を帰属させてそうでなければ生きて帰ってきません。”とメン書下としながら出場して阿旦城下で新羅軍(郡)と戦って飛んできた矢に合って,戦死した。

賞与が動かないので彼の妻がきて,カンをさわって,言うことを“死んで生きるということが結果が生まれたのでア…美しく帰って下さい”ハニついに賞与が聞こえて葬式を執り行った。 王がこの話しを聞いて悲痛に感じた。 (凍死(同社,動詞)綱目クォン2)の前で見るように高句麗では温達(オンダル)に軍事を率いるようにして新羅に奪われたケリムニョンと竹嶺(チュンニョン)北側の実地を修復しようと進撃して温達(オンダル)は阿旦城下で戦死した。

今までの学説では温達(オンダル)の戦士(戦史)紙が阿嵯城(すなわち峨嵯城ともする)下で死んだと見る見解もあった。 このアチャソンはソウル近郊のウォーカーヒル付近で見たがこれは三国史記列伝(熱戦)オンダル伝に阿且城下で死んだというのに基づいたようだ。
しかし丹陽郡(タニャングン),永春面(ヨンチュンミョン)百桁に位置した温達(オンダル)性が学界の調査で確認された今日温達(オンダル)の戦士(戦史)紙を漢江(ハンガン)北側で見るのは疑問が残る。

丹陽(タニャン)の温達(オンダル)性と関連させてみる時,温達(オンダル)はケリムニョンと竹嶺(チュンニョン)の境界隣接地の丹陽(タニャン)まで進撃してきたことが証明されている。 また温達(オンダル)の妻の父の平原王当時には温達(オンダル)はもちろん他の高句麗軍も丹陽(タニャン)迎春まで進出した事実を記録で発見することはできない。

そして丹陽(タニャン)迎春地方(脂肪)の高句麗支配時の指名を乙阿旦県といったことが信証東国輿地勝覧英チュンヒョン健歯沿革組にあることを見るならば温達(オンダル)の戦士(戦史)紙はケリムニョンと竹嶺(チュンニョン)近所の丹陽(タニャン)の阿旦城下へ見られる。 三国史記列伝(熱戦)にあるオンダル伝を原文のとおり移して,紹介しようと思う。

①三国史記列伝(熱戦)の温達(オンダル)(三国史記列伝の温達)温達は高句麗ピョン・カン王(平岡王:別名平原王という<559~590>)時の人だ。 顔は笑うかもしれなく醜かったが気立てはきれいだった。 家が非常に貧しくて,常にご飯を(祈る)借りて,母親を奉養してすり減ったチョゴリに壊して陥った履き物で市井間を往来すると人々が指定して,右温達(オンダル)(愚温達:バカ温達(オンダル))といった。

ピョン・カン王の幼い娘が鬱気が好きだから王は冗談で“君が常に泣いて,私の耳を騒々しくハニ育った後にも必ず官吏の妻役割はできないこととか,バカ温達(オンダル)に嫁がせてこそ当然だ。”といいながらひたすらそのように言った。 彼女の年齢16才になるや上部の高氏に嫁がせようとすると公州(王女)は申し上げるものの“大王は常におっしゃるように「君は必ず温達(オンダル)の妻になるだろう」でしたが今になって何の理由でお言葉を直しますか。

匹夫も約束不履行の言葉をしないのにまして至尊がアニシオですか。 したがって王子は冗談がないといいました。 今大王の命令は誤られたこととかあえて敬うことができません。”した。
王は怒って“君が私の命令を服従しなければ当然私の娘になれない。 一緒に住んで何をするか,君葦に行け。”とした。

これに公州(王女)は貴重な装飾品数十ヶを手首に蹴って宮中を出て,一人で時々道でひとりに会って,温達(オンダル)の家を尋ねて,まさにその家にたどり着いて,前見ない彼のお母さんを見て前に近く行ってお辞儀をしてその息子の行方を尋ねると老母は答えるものの,“私たちの息子が貧しくてまた習ったのがなくて,貴人と近づける資格になれないのに今あなたのにおいをかいでみると香りが変であなたの手首をつかむとやわらかくなるのが綿と同じだ。

必ず貴人であるのに誰の絡まることを入漁ここにきましたか? 私たちの息子は飢えることをこらえることができなくて山でケヤキ皮をむこうと行って長らく帰ってこないですよ。”した。
公州(王女)は出て行って,山の麓にたどり着いて,温達(オンダル)がケヤキ皮を至高くるのを見て彼と一緒に内部事情をいうと温達(オンダル)は癇癪を起こして“これは幼い女の行動でない。 必ず人ではなくてキツネやおばけであることとか私を迫害するな。”といよいよ見て回らなくてまっすぐ行った。

公州(王女)はホールに戻って,その家柴の門外で寝て翌朝にまた入って母子とともに詳しく話をしたが温達(オンダル)はいぶかしくて,決定をできなくてその母親は“私たちの息子が極めていやしくて,貴人の配偶になれなくて我が家が貧しくて,貴人の買う所になれないですよ。”した。

公州(王女)は答えるものの“過去の人の話にした話穀物も部屋太ることができてした者の腹(船,梨)も裁縫できるといったがどうして必ず富貴だった後に野蛮一緒に住むことができますか。”とこれに持った装飾品を売って,田宅・奴婢・牛馬・器物を買い入れて,暮らしをあまねく整えた。

初めて話を買い入れる時に公州(王女)は温達(オンダル)に“なにとぞ商人の話を買わずに国馬が病気にかかって痩せてしまうことにあったことだけを分けて買ってきなさい。”お願いするので温達(オンダル)は彼の話のままにハニ公州(王女)は着実に飼育して,その言葉が日に太って壮大だった。

高句麗が常に3月3日に浪浪野原に集まって,ハンティングして捕えられたその豚・鹿で空および山川の神に製糸するのでその日になれば王がハンティング出てきて色々な臣下および5部の兵丁がみな従うことになる。 この時温達(オンダル)は自分が育てた馬に乗って遂行するのにその言葉が走ることが常に他の言葉より先んじて捉えたのも多くて,他の人は彼とともにする者がないので王は呼び起こしなさいして,声明を尋ねて驚いて特異に思った。

おりしも後周武帝が軍事を出動して遼東を打つと王は軍事を率いて船山のらであって戦うのに温達(オンダル)が先鋒になってすばしこい激闘で敵軍数十人余りをベニすべての軍事が勝勢を乗って押し寄せて,大きく勝った。 球を論じる時に温達(オンダル)として第一といわない者ないので王は感心して“君は内婿だ。”と礼を尽くして迎えることと同時に位をおろして大兄とするとこれによって,恩寵と映画がより一層偉大で威厳と権力者日に盛んだった。

両元気満々(陽岡王:別名栄養王)が即位するや温達(オンダル)は申し上げることを“新羅が私たちの漢北の土地を裂いて,私たちの郡・”県を作ったので民が悔しそうに感じて,常に祖国を忘れないでいるとウォンコンデ大王は私に愚かで飲んで軍事を渡せば一度歩みに必ず私たちの土地をトェはゲッスムニだ.”ハニ王は許諾した。

温達(オンダル)は出廷する時に誓うものの,“ケリムニョン・竹嶺(チュンニョン)の西側土地を捜し出せない日ならば帰ってこない。”といよいよ旅立って,新羅軍(郡)と阿且城下で戦って流矢に合って,道で死んだ。 彼を商おうとするのに棺が動かないので公州(王女)がきて,カンをさわって“死んで人生が決定されたのでア…帰る建てる。”ハニいよいよカンが聞こえて商った。 大王は聞いて痛恨だった。

以上が三国史記列伝(熱戦)のオンダル伝だ。 ここではしまった性下で死んだといったが他の司書(凍死(同社,動詞)綱目)にはア単性下で死んだと記録されている。 漢文の阿且城と阿旦城は互いに似ていて且と旦は記録の誤字であることもあると見る。

②ケリムニョンと金春秋高句麗はその後にもケリムニョンカジの過去の領土に対する修復意志を捨てないで機会だけくれば出廷しようと試みていたと見られる。 温達(オンダル)が戦死した50年後の642年(新羅善徳女王11年,高句麗英リュ王25年)に百済の武王(武王:600~641)は新羅の唐に通じる要旨の党項城を攻撃して,陥落させて百済将軍尹充は新羅の大耶城を攻撃して,陥落させるとト毒刃イチャン品釈・四肢竹竹・龍石がみな戦死したし,百済は新羅領土40余省を奪取する。

急で差し迫った守勢に追い込まれた新羅は宗室キム春秋(金春秋:後に太宗武烈王)を高句麗に送って,援兵を要請する。(三国史記宣徳王11年組)キム春秋は真智王の孫で,真平王の外孫子でイチャン龍春の息子だ。 意表が英明で立派で世の中を救済(駆除)する意向を持っていた。 彼の娘故他所と(古陀〓娘)が対野党性で戦死したトドク品石の妻で対野党性で品石と同じように死んだ。

キム春秋はその消息を聞いて柱に頼って,一日中目(雪)一度(パチパチする)ちらつかないで人や動物が過ぎ去っても調べなかったのにやがてする言葉が“立派な男がどうして百済をなくせないという話か”とまもなく王に進んで申し上げるものの“神は高句麗に行って軍事を求めて,百済に対する怨恨を返してしまって。”ハニ王が許諾した。

旅立とうとする時にキム・ユシン(金〓信)に(早い)達することを“出てきてあなたは股肱になってうれしいことでも悲しいことを一緒にします。 もし帰ってこられなければあなたはどのように対処しますか?”ハニ維新が言うことを“そうなるならば福(僕:自身を低くする言葉)の馬のひづめが必ず二人の王(両王:高句麗と百済の王)の宮殿を踏みにじることです。”した。

キム春秋がいよいよキム・ユシンと一緒に誓うことを“六旬(六旬:六十である)ならば当然帰ってくることができると考えられます。 この期間が過ぎればまた会うことはできないことです。”した。
キム春秋が旅立って代買県につくと現人豆斯智が青布3匹を与えた。 高句麗の状況に入ると高句麗の王が普段彼の名前を聞いたので大盧開襟(蓋金:淵蓋蘇文のニックネーム)を送って,客死に案内して祭りを繰り返し施した。

ある者が高句麗王に言うことを“新羅使節は普通の人ではありません。 もう来たものはわが国の形勢を見回すためのものですので王は企てて下さい。”した。
王はいよいよ兵衛を厳しくして彼を見て言うことを“馬木ヒョン(麻木〓:チルプチェ)・竹嶺は本来私たちの土地だ。 土地を戻せば軍事を送ってくれることができる。”するので,チュン株価答えることを“シニ,ミョンを敬って,援兵を借りてきたが大王は為替危機を助ける意向はなくて使節を威嚇して,土地を回してくれといわれると神は死があるだけです。”ハニ王が怒って,彼を閉じ込めた。

春秋が青布を高句麗王の寵臣の先に道解に賄賂を送って放免してくれることを要求すると先図解が春秋に言うことを“あなたは亀とウサギの話(亀兎之説)を聞いたのか? 以前に東海(日本海)龍女が胸病に罹ったが議員が‘ウサギの肝を得ることができれば治療されることができる。’でした。 しかし海の中にウサギがなくて龍王が憂えるや亀一匹が‘私が(求める)救ってくることができる。

’といよいよ水に上がって,土器を見て‘海の中で島ハンナがあってきれいなわき水に白い石があって森が茂って,良い実科目があって寒さと暑さがなくて荒っぽい鷹らが侵入できないから君がもし行きさえすれば心配なしに安らかに暮らすはずだ。’とウサギを背負って2~3里入ってウサギを見て回って言うことを‘今龍女が病気になったが必ずウサギ間が薬になるというので労苦を敬遠しないで君を背負って行くところだ。

’するのでウサギが言うことを‘ア…私は神明の子孫で十分に5枚(五臓)を取り出して洗って入れるのに,この頃少し心が煩悩して,肝を取り出して洗って,しばらく岩の下に置いたが君の悪知恵は話を聞いてまさにきたので肝はまだそこにある。 帰って,肝を持ってくれば君は(求める)救うところを得ることです。 私はたとえ簡易なかったとしても暮らせるとどうして両側が互いに適当でないだろうか。

’しよう亀はその話を信じてまもなく戻って,やっと海岸に上がってくるやウサギが脱出して,草の中に入って亀に言うことを‘この愚かな亀,どうして簡易なしで暮らせるか。’ハニ亀はさびしがって話にもならなくて行ってしたのであなたはどう思うのか?“した。

春秋がその意を識別して高句麗王に文を送って申し上げることを“二令(二嶺:ケリムニョンと竹嶺(チュンニョン))は本来大国の土地ですのでシニ帰ってお返しすることを求めます。 私を信じることができないことならばあの明るい年を置いて誓います。”ハニ王が喜んだ。

春秋が高句麗に入ってすでに60日になっても帰ってこないので,維新は王に高句麗を打つことを申し上げて死ぬことを覚悟した病死(兵士)1万人を募集して,言うことを“私は聞いてみたら‘危機を見れば命を捧げて,乱に臨んではからだを忘れなさい’したので,大著ひとりが死ぬので百人を耐えられて千人が死ぬので万人にあえば,十分に天下を横行できるだろう。

もう隣国が極悪非道で,国の宰相が捕まることにあったので意ある要人と御真の人々が腐心する時だ。 ところで恐れることができようか?”とついに行軍して,漢江(ハンガン)を渡った。

その時に高句麗スパイ浮屠徳昌この人をさせて走って行って,王に告げると王はすでに春秋の書信を見たし,またスパイの話も聞きたのでいよいよ春秋を手厚く接待して送りかえすと,春秋が状況を抜け出して送る人に言うことを“国家の領土は使節が思いのままにするところではない。 この間した話は死で逃亡しようという意図でした話だった。”した。

(三国史記新羅王の伝記宣徳王11年組および凍死(同社,動詞)綱目クォン3壬寅11月組)上から見た通り高句麗はケリムニョン奪還の念願を成し遂げようと努力したが中国の新興帝国の隋と唐の投げ出すことでついに意図を成し遂げられなかった。
ケリムニョンノは朝鮮朝太宗14年まで嶺南(ヨンナム)と記号(嗜好)地方(脂肪)を往来する大きい道としてのむかつくだけでなく関隘としての役割もつくしたと見る。

考慮高宗45年(1258)に蒙古の大軍が嶺南(ヨンナム)地方で打って降りてくる時もケリムニョンでモンゴル軍を大破した。 記録が高麗史高宗(コジョン)45年組に見える。 “忠州(チュンジュ)の人々がモンゴル軍を隊員令(領)(大院嶺:空材,ケリムニョンのニックネーム)で大破した。”と記録したことから見て常勝疾走したモンゴルの大軍をこちらで大きく打ってはれたと見なければならない。

上で調べた通りケリムニョンの道としての重要性だけでなく戦略上でもどれくらい重要だったかが如実に証明されている。 新羅・百済・高句麗など三国のケリムニョンノ確保のための戦いが終わる日なしで継続されたことを分かることができる。









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